四方田犬彦
「KT』はともかく荒唐無稽なフィルムだと思う。見始めて数分で、ああ、こりゃ山田風太郎の「魔界転生」を読む感じで見たほうがいいな、と思った。これで歴史的事件の真相がわかるなどと、ゆめゆめ期待してはいけない。だから準備していたこちら側の判断基準を慌ててギアチェンジして、とにかくエンターテインメントとしてどこまで行くのかということだけを見定めることにした。
とにかく最初からメチャクチャなのだ。石原慎太郎の生まれ変わりである佐藤浩市が、牛乳配達をしている韓国女イ・ジョンミと知り合いになり、彼女に迫ろうとする。ジョンミが「これでもわたしを抱ける?」という口調で、服の前をめくってみせると、全身に生々しい火傷の跡がある。民主化闘争に関わってKCIAに連行され、手酷い拷問を受けたのだという説明である。彼女はアルバイトに謎の韓国人に日本語を教えているのだが、それがすぐ後に、実は北朝鮮から来たスパイであると判明する。これが一九七三年の東京という設定である。少しでも韓国現代史を囓ったことがある者なら、こうした設定が韓国人のメンタリティに対する、いかに酷い無知と、当時の状況に対する誤解に基づいていることがわかるだろう。箇条書きにしてみる。
1.KCIAはあんなチャチな、痕跡の残る拷問はしない。彼らは早稲田の革マルなどよりも、はるかに拷問のプロである。まず足の裏
2.KCIAの拷問を受けた韓国人がただちに国外、それも日本に脱出できるとは、まず考えられない。韓国人が自由に海外に渡航できるようになったのは、一九八九年からである。もし一九七三年の時点でジョンミを東京に連れ出すためには、それなりの動機付けをしておかねばならない。
3.知り合いになったばかりの男性に、韓国の女性がただちに乳房を見せることは、絶対にありえない。しかもグロテスクなケロイドがある場合に。
4.それも日本人の男にだ。稚拙なオリエンタリズムが見え透いている。彼女はたぶん一九五〇年代はじめに生まれたハングル世代で、もっとも生理的な反日意識の強い世代のはずだ。とりわけ日本の男にオッパイを見せることはありえない。
5.北朝鮮のスパイがなぜ日本にまで来て、日本語を勉強しなければならないのか?ピョンヤンにだって、いい先生はたくさんいるだろうに。
6.一九七三年の時点で韓国人が日本に来てまず警戒すべきなのは、朝鮮総連をはじめとする北側の人間が接触してくることだった。それを理解するには、小説家の李浩哲の受難を思い出すだけで充分だろう。ジョンミは、恋人が民主化闘争に関わったくらいなのだから、その手のことにけっして無頓着でいられるわけがないはずだ。もし積極的に、確信犯として北のスバイと関わっていたのなら、それを明示しなければならない。
このシーンだけで、これだけの疑問がたちどころに浮かびあがってくるのだ。あきらかに脚本家の勉強不足が目立つ。この点に関しては、韓国で劇場公開されたときの反応を知りたいと思う。こうした認識不足は、二時間一八分のフィルム全体で数えだしていけば、きりがない。だから、こうした韓国への認識の不備とは別のところで、この作品のいいところを発見しなければならない。話題を変えよう。
かつて斎藤龍鳳という映画評論家がいた。昭和の年号とほぼ同じころに生まれ、特攻隊を志願して敗戦に出会い、戦後は共産党の武闘路線に関わった。もはや国家も党も信じるにたりないという地点からモノを書き始め、トップ屋として手腕を発揮した。ドラックに躯を蝕まれ、四十三歳で生涯を閉じた。晩年は新左翼運動に最後の期待と共感を寄せていた。「KT』で原田芳雄演じるトップ屋、神川昭和を見たとき、長い間忘れていたこの斎藤龍鳳のことを思い出した。金大中事件は一九七三年に起きている。龍鳳はその二年前に、すでに死んでいる。だがもし彼が生きていて、隣国の政治家の受難に遭遇したとしたら、こんなふうに振舞ったのではないかと思わせるところが、神川にはある。
荒井晴彦は石原慎太郎の男根的論理に対して、斎藤龍鳳の「なにが粋かよ」の論理をブツけてみたかったのではないか。三島由紀夫が死んだのちに訪れたブラックボックスのような時代において、この二つの行動原理の対立の図式をキチンと提示しておきたかったのだろう。それはわかる。理想はいつまで幻滅させられ続けるのかという問題が、ここには横たわっている。この神川と金大中がホテルの一室で対話をする場面は、なかなかいいと思う。このままの調子で行けば、六〇年代の日活アクションまで行けるぜと思わせるところがある。「夜霧よ今夜もありがとう』で二谷英明が演じていた南アジアの革命家に、この金大中はちょっと似ていなくもない。ただ彼の弱点は、あまりに聖人君子であるために、物語のうえで浅丘ルリ子のような女が絡みようがないことだ。
それにしてもあのホテルでの拉致シーンは、どうしてスローモーションにして、変な音楽を被せてしまったのか。阪本順治は『トカレフ』の出だしみたいに、もっと緊迫した感じでやってほしかったな。それでも拉致したグループに自衛官たちが追いつ佐藤浩市が船に乗ることをやめる場面の、引いたロングティクは、悪くないと思う。猿芝居を眺めている監督の距離感が、はっきりと感じられるからだ。
荒井晴彦が描きたかったのは、七〇年代の停滞状況のなかでの鬱屈と論理的対決であるように思われる。この人は昔からそうだった。いつでも同じだ。旧軍の敗残兵の心情である。
一方、阪本はノスタルジアにはなんら関心をもっていない。とにかく痛快なアクション映画を撮りたかったのだろう。では、製作者である李鳳宇は、何がしたかったのか?
李鳳宇が拘泥したのは、たぶん筒井道隆演じたところの在日韓国人の青年である。彼が公安の尋問のさいに、韓国語がわからなくて感じる屈辱感と寄る辺なさこそ、『KT』というフィルムのなかで、重要な副筋となっているように思われる。わたしは在日韓国人の理髪店がどの程度あるのか知らないが、一見アクションドラマとは関係がなさそうにみえるこの登場人物をここにそれなりに描いておいたことで、佐藤浩市の単調さがいくぶんでも軽減されたように思える。
こうして製作、脚本、監督の三者が三者とも、このフィルムに別のものを求めている。もう少しで空中分解しかけている、その寸前のところで、『KT』はかろうじて纏まっている。その臍に相当しているのがKCIAの工作員金車雲を演じたキム・ガプスの演技である。
わたしは一九七〇年代にソウルに住んでいたとき、あるとき突然に車に乗せられて里門洞にあるKCIAの本部に連れていかれたことがあった。多分こんな体験をした日本人も、そう多くはいないだろうが、あれは本当に怖かったね。彼らはわたしの父親の名前まで、キチンと調べて知っていた。その間の経緯については岩波新書「ソウルの風景」第三章に書いたので、ここでは繰り返さない。わたしが大学で教えた学生のなかからも、得意の日本語を生かしてKCIAに就職した者はいたし、なにしろあの機関を舞台にした「西部警察」のような連続TVドラマが人気を呼んでいた。
そのときの体験を思い出してみると、わたしが知っている組織のメンバーに、『KT』の金車雲のような男がいても、少しも不思議ではないような印象をもった。この人物はよく描きこまれている。最後の船のなかで、エリートの大使館員の光石研のヒューマニズムに対して、全身に増悪を漲らせながら拳銃を発射するところが、とりわけいい。光石もいい。光っている。
キム・ガプスの、全身に疲労感を漂わせているかのような家長の孤独と比べてみたとき、原田芳雄の孤独はいささか分が悪いと思う。どうして神川と金車雲が正面から対決し、議論しあう場面がないのか。しかし回避できないものに向かって対決しようとする者の孤独と、ただひたすら回避だけを考えている者の孤独とでは、最初から勝負はついているのだ。キム・ガプスの存在感によって、この作品はかろうじて統合されているような印象をもった。
わたしが心残りに思うのは、朴正熙である。この男の本当の恐ろしさと孤独は、金車雲をもはるかに越えていて、シェイクスピアの悲劇の域に達している。『KT』は朴正熙の孤独にこそ、どこかでは向かいあってほしかったと思う。もちろん演じるのは谷川でなければならない。だって、顔も、メンタリティも、そっくりじゃないか。雁が死んでしまったのが、残念でならない。戻る