例えば「EUREKA」がある。例えば一連の阪本作品がある。見ることの幸福感を与えてくれる映画。暴力とか時代性とか、はずかしながら括ってみても、そうじゃないんだと気付く。ただ、同じ今を共有し、彼らが生み出す作品を見ることが出来るという事実。作り手として円熟を迎えているふたりが、映画のことを語る時、また違った世界が垣間見える。もし、まだ彼らの映画を見たことがないのなら、対談を入り口として、劇場に足を運んで欲しい。 巻頭“徹底”対談:映画と監督、それぞれのジャスティス時代を見つめ、映画製作する意味青山真治×阪本順治写真撮影首藤幹夫司会・構成=編集部(小出幸子)/オブザーバー=樋口泰人
北野武がポーンと低温さ加減をやってしまった
両監督とも新作があって、それでなくともお忙しいおふたりで、だからようやく対談が成立できて良かったと思っています。キャッチーな意味では“暴力について”とか、この本の副題でもある“リアルの彼方へとか、まあ対談していただくにあたって考えたのですが、それをすっとばしても、おふたりがそれぞれ自分の映画の話をしていただければいいと、今は思っています。最初は真面目に入りまして(笑)、青山さんがおっしゃっている・・・・・・94年に阪本さんが「トカレフ」を撮ったときに、「もし自分がいま撮れるものがあるとしたら、それを「トカレフ」で先にやられてしまった」といったようなニュアンスのことをおっしゃっていたと思うんですが、そのへんのことから話して下さればと思います。 青山 「トカレフ」というか、阪本さんの「どついたるねん」以降ということなんですけれど、あるいは、もしかしたら北野武も含めてということになるかと思うんですけれどね。それまでの日本映画におけるアクションというか、映画の中の暴力というのは、社会正義とか、体制に対するアンチとしての暴力がメインだったと思うんです。そこに大義名分を持ってやっていたと思うんですけど、北野さんと阪本さんが出られて以降は、暴力が社会と関係の切れた部分の個人の内面から発露するものとして描かれはじめたような気がするんですよね。その究極が、僕はあの「トカレフ」だったような気がするんですよ。「トカレフ」自体は社会性が極めて高いものだったんですけれど、その根拠になっている部分は、個人の内面図式的に社会正義で割り切れない本質にまで深まっていたと思うんですね。それが90年代前半に来ちゃったなあという印象があって。自分もやっぱりアクションというか、暴力映画というものをやれるんじゃないかと思っていたんで、「あ、じゃあ僕は、次は何をしたらいいんだろう」って迷わされてしまったということがあったんです。いまのを受けていうと、阪本さんは「トカレフ」が4本目ですよね。
阪本 うーん、そうね、どんどん忘れていくんだなぁ、そのときの気分とかね。
青山 「トカレフ」までっていうのと、それ以降というのはご自分の中ではどうなんですか?
阪本 自分のオリジナルの企画を通して映画を作っているようで、わりとプロデューサーの要望みたいなものもいっぱい含まれているわけですよ。「どついたるねん」は全部ゼロから自分ではあるんだけれども、脚本書いていったりしたレベルで、荒戸(源次郎)さんの見たいボクシング映画みたいなものもあって、それが例えば、相楽晴子のポジションとか、要するに、男を支えるというんじゃなくて、もっと幼稚でいいんじゃないかということですね。泣きながら赤井(英和)を追いかけようとして、踏切の遮断機が閉まって地団太踏んでいるというシーンとか僕が書くと、「そういうのが見たい」ということだったりしたんです。結局そのシーンはカットしましたけど、自分のオリジナルであるようで、けっこうプロデューサーには影響は受けているわけですね。で、「トカレフ」までは荒戸事務所でやって、それ以降、椎井(友紀子)さんという人と別の事務所を作ってやっている。その区切りはあると思うのね。「トカレフ」はそういうプロデューサーが変わったという区切りと、もうひとつ「トカレフ」というのをなんで作ったかというと、それは僕にとっては、確かに北野武が出てきたというのが大きかった。助監督時代とか、自分がついた監督に対して、あれこれ飲み屋で言うわけじゃないですか、撮影終わったら。「もっとさぁ、引きで歩いてくるだけで、あれは保つよな」とか言いながら(笑)。でも結局、自分が監督になったらそうはしないわけなんでね。それをたけしさんはポーンとやっちゃった。飲み屋でうだうだ言ってた「映画ってこういうもんだよな」っていうのを、わりと軽くやられたっていう。それでインスパイアされたことは確かですね。僕なりに「トカレフ」みたいな気分は多分、「どついたるねん」以前にもあったんですよ。それがたまたまデビュー作にならなかったというだけで、「トカレフ」でデビューしてたかもしれないというのは、ウソなく言えることなんだけど。まあ、あれでデビューしてたらそれ以降はなかっただろうけどね(笑)。
その意味は?阪本 わからないけど、なんとなく(笑)。あとは「鉄拳」の僕なりの失敗というのもありましたね。平たく言えば、キツいことやりたいっていう。「どついたるねん」撮り終わった時に、暴力はそこの中に存在しているけれど、終わると敵味方のなさというか、自分ってこんなに暖かかったっけ?って。あのアンバーという色とともにすごくそれがあって。で、針が反対に振れて「鉄拳」という、わりと敵の存在をはっきりさせた暴力をやるという気持ちが。だから「どついたるねん」「鉄拳」「王手」「トカレフ」というのは、僕の中で針が反対、反対と交互に振れて撮っているのね。あと、「トカレフ」は作ろうとした年に流れちゃったんですよ。そのときやっていれば、すごいオーソドックスな娯楽映画にしただろうと思うのね。それが、1年間映画が撮れないという時間の中でああいうふうに変貌していったというか。その1年間の中でたけしさんが出てきたのかなあ。いや、その前に出てきてるんだけれども、重なっていったという。デビューは同じ89年ですね。「ソナチネ」が93年頃。阪本僕のなかでは、たけしさんの影響をはっきり受けつつ、僕だったらこうするよな、という『トカレフ』はやり方ですね。モチベーションをもうちょっとはっきりさせるというかね。乾いた感じとか、低温とか。温度が低いみたいな感じは、たけしさんが出てきて、それを見続けることによって僕なりに換骨奪胎じゃないけれどしたんだと思うんです。
青山さんは、暴力にこだわるならば、時代を照射しながら握るといったニュアンスのことをおっしゃったと思うんですけど、そのへんのことを含めてどうでしょう。青山 いま阪本さんがおっしゃった“低温”というのは、その低温さ加減が、僕なんかの目から見ると非常にクールなんだけれども、クールであると同時に、そのクールさというのは、内面ということであって、外に向かって、外との関係で温度が高まって出るとのじゃないというところなんです。僕もそう考えて、やるならばそうするだろうと思っていたんですよ。でも、「トカレフ」で完成度高くやられちゃったなっていうのがあったから、じゃあどうしようというときに、時代性というか、引っかかっていることを、形式として突き詰める、その突き詰めた図式と低温が合ってみたらどうなるんだろうなというのが出発点だったんでしょうかね。
阪本 今回(『新・仁義なき戦い」)、一緒に仕事をした布袋(寅泰)君とかがよく使うのが、「低温ヤケド」という言い方なんだけれど。でも、それはなかなか続けてはできないんですよね。なんか、ひとつやり終えたなという感じで。もう、作品に対して非常に作業的な見返し方になるわけでね。
棄民と難民の関係 阪本さんの中では、今回の「新・仁義なき戦い」は、「仁義なき戦い」というのとはまた違う、自分の中から出てくる暴力というか、ヤクザの暴力もすでに強制力を持つものではないという感じが。阪本 いわゆる暴力というと、さっきも言った自分の中の生理的な衝動ですよね。それは自分がつくった人物像の中から表現していくんですけれど、“ヤクザっていうところで、そこのところの壁があって、ヤクザを借りてなんかしようということを全く思わなかったし、僕の好むところの暴力というのは、ヤクザを通してはできないというのと、まあ過去の昔話のヤクザを、もしやるんであれば、「夜桜銀次」とかひとりを追いかけてやるんだったら、なんらかの共通項を見つけられると思うんだけれど、いまのヤクザの組織というものに関しては僕の興味が、暴力さえ排除してしまったというかね。だから狙ったところが虚無感しかなかったんですよ。世の中こんなもんでしょ、というね。青山さんの映画にも、主人公じゃないですけど、背景としてのヤクザというか、そういう人物は出てきますよね。青山さんは北九州の門司ですから、わりと近所の兄ちゃんというか、日常的な風景としてそういうこともあったともおっしゃっているけれども、そういうことで、暴力とか描くときにヤクザが出てきたりするんですかね。
青山 それだったら阪本さんのほうが、周りにヤクザ、いっぱいいたんじゃないですか?(笑)
阪本 え、周りにヤクザ?周りのヤクザは・・・。
青山嫌いだったんですか?阪本 いや、周りのヤクザは好きでしたよ。ひとりずつ会えば・・・・・・。いまふっと思ったけど、北九州に言われたないんやけど(笑)。そいつら一人一人の生まれた環境とか分かっていくと、こいつがヤクザに足踏み入れたのもわかるよなみたいなところ、あったりするじゃないですか。ヤクザにいい目あったことないでしょ?新幹線の中とか飛行機とか。
青山 ええ、ロクなことはないですよね(笑)。僕もそうですけどね。ヤクザ組があるけど個人がどうするかという、中の構成員であれ外の人間であれ、たまたま環境的に友達が不幸で、というところからしかスタートしなかったんで、ああなってますけどね。
阪本 昔のヤクザを描くときは、まあストレートな暴力ですよね。で、青山君の作品に出てくるヤクザというのは、病理っていうか、病気を感じますよね。ヤクザを通じて、人間、男って言っていいのかもしれないけれど、究極のこれ以上、下がれない状態の肩書ではあるわけじゃないですか、ヤクザっていうのは。それを通して暴力っていうより、病理をやってんのかなと思うのが青山君なんです。親分がいて子分がいてというヤクザの論理は、ロジックとして守ってはいるけれども、作っている人物像がね。
青山 ロジックに対する反発というか、原則を疑うところからスタートすると、それはやはり病理かなっていう気はしますね(笑)。
阪本 あと共通するものとして、僕の映画にないものとして捨てられた子供たち”っていうのがけっこう出てくるんだよね。見捨てられるっていう。僕の映画の中にはないんですよ。アウトサイドの人間をやってたとしても、そこに“見捨てられる”とか、“捨てられる”というニュアンスは人物像に与えてないんだけれど、青山君のは捨てられた子”っていうのが印象に残るよね。捨てられ方も、例えば「EUREKA」でお母さんが出てくるじゃないですか。トラウマを背負った子供ふたりを残してオカンが出て行くって、普通は考えられないっていうね。『冷たい血」では鈴木一真の両親が、息子が死ぬのが分かっていて海外に行っちゃう。これ、なんかあんのかなって個人的に聞きたかった。青山君って「捨てられた子」なのかなって(笑)。まあ、話はヤクザからズレるけど。
青山 うーん、僕個人は幸せな家庭だったんで、何にもないんですけど(笑)。うち、父親が親なしなんですよね。親はいたんですけれど、本当の親じゃない親に育てられた。その親からも一時期疎外されたっていうか、伯母に当たる人とふたりで思春期しばらく暮らしていたというのがあって。そこをやっているのかなという気はちょっとしますね。自分の親父のことをやっているのかなっていうのは、微妙になんとなく。でも、本気で意識したことってないんですけど(笑)。
阪本 なんか「EUREKA」見てても全部、棄民に見えるんだよね(笑)。
青山 棄民的なものが内部にあったっていうのは、否めないなあ(笑)。
それは89年([Helpless」の舞台背景)と関係あるとか天皇崩御問題?青山 天皇崩御のことからはじまって、こうなっているという部分はもちろんあるんだけど、もともと父のことが事実としてあったから、そこへ行ったのかも。物語の種みたいなところが、ひょっとしたらそこにあるのかなというのはいま初めて気がつきました(笑)。あ、そうだったのか。
阪本 ハハハ。
でも阪本さん、自分にはないって言ったけれど・・・・・・.阪本 ないよ、オレは(笑)。捨てられた子は描いてないもん。
描いてはないけれど、「愚か者」でも子供を親に届けに行くとか.......阪本 あれはまあ、難民ですね。棄民というよりは難民(笑)。
青山 逆に阪本さんの映画って、絶対、親との関係は切らないですよね。最終的に捨てないじゃないですか。
阪本 親との関係・・・・
青山 いや、「新・仁義なき戦い」で、いちばん驚いたのはラストシーンで、あれ最後お母さんのところに行くんですよね。なんだ、やっぱり最後にお母さんとこに行くんだっていうのがね、捨てられたものとして路頭に迷うんじゃないところに、阪本さんは確実に持って行くんだっていう気がして。自分の意志で子供のときに離れたわけですよね。お母さんが「ごはんよ」って言って、それで「帰っておいで」って言われても帰らなかったという。30年ぶりにね。
阪本 だから距離はとっているけど、切れてないってことですよね。いや、あのラストは、まあ、そこまでは本職のヤクザが見にきて「こんなのヤクザじゃねえよ」と思っても、最後、母親のところへ行くのを見て、本職のヤクザがちょっと痛いところ突くなあというのを狙って......。
青山 痛いとこ突いたろか、と。
阪本 そういうことなんだよね(笑)。わりと客のことを考えて付き合っているだけでね、僕の中では問題ではないんだよなあ。でも、自分のことは分からないもんだね。それは人に発見してもらわんとね。いまので言うと、青山さんはわりと連帯とか、もうちょっと兄弟とか、それこそ父性も含めて感じたりするんですけど。でも、阪本さんは母性とかね。あんまり“海”とかいうと下らなくなっちゃうんですけど、例えば藤山直美が海に飛びこんでいったりするのは、母性なるものに回帰するみたいなイメージがある。まあ、二分化してもしょうがない気はしますが(笑)。
阪本 けっこう台詞では父性ですよね。『鉄拳』で大和が父親に捨てられたというか殴られた話とか「王手」置き去りにされたとかね。あ、それも棄民か(笑)。わりと父親のことしゃべったから、阪本ってお父さんいないのって言われたこともあるし。
青山 でも、「王手」もそうだし、「鉄拳」もですけれど、常に帰っていくところがあるなあって感じがあったんですよね。捨てられたとしても最後に、あの「王手」のラストもすごく好きなんですけど、あそこに戻っていく。新世界でしたっけ、通天閣の下の。
阪本 どんなラストだったっけ?
青山 いや、あのファーストシーンの...ちゃんと考えてつくってます?(笑)ファーストシーンと同じく(赤井英和が)後ろ姿で、「よう」って言って入って行く。
阪本 ああ、分かった分かった。僕、ほら、テーマ主義者やないから(笑)。
青山 だから帰っていくところがあるなあって感じなんですよね。父親から捨てられたとしてもね。最初の4本に関しては、大和武士が出ているときは帰って行く場所がなくて、赤井英和が出ているときはある、という分け方。
阪本 それは、使う役者で変わるというのはありますよね。まあ結局、自分で脚本書いて、自分で作るかぎりは自分の根っこに正直にやっているわけで、大した根っこじゃないんだけど、たぶん僕の中ではいちばん切れないであろう記憶というものがあって、それは、大阪だからかもしれないけれど、差別にまつわる辛い記憶みたいなものがあって、それは僕が差別者になった瞬間であったりね。そういう友達の涙もいっぱい見てきたしクラスの中で在日の人がいて被差別の人がいてという、そういうことの記憶が、僕の、暴力へと向かう衝動の根っこになっているというところはあると思う。「鉄拳」なんて、もう無謀なやり方をしているんだけれど、結局、差別者の側に片足入れてやってみようということでやったし。だから、どっかで母親の元へ帰っていくというか、父親の元へ帰って行くというか、娯楽映画という意識の元での僕なりのハッピーエンドだと思うんだよね。ギリギリの結末のつけ方というか
藤山直美が吐き気をもよおしている意味青山 阪本さんの映画で、日本映画のなかでも異例なのは、僕、宗教色があるということなんじゃないかなと思うんですよ。「トカレフ」のいちばん最後は賛美歌ですよね。何なんですか?
阪本 ああ、あれ?あれは賛美歌じゃなくて、梅林(茂)さんの歌っている歌なんだけれど。じゃあ、賛美歌ということにしとこう(笑)。
青山 あれは全然、宗教がらみの歌じゃない?
阪本 うーん、梅林さんのせいですねぇ。確かに音的にはそういう感じはしますね。その前に、佐藤浩市が新約聖書のサワリはしているけれどね。僕の実家は仏壇屋なんだけど(笑)。
青山 その反動なり、影響というのはあるんじゃないですか(笑)。そういうことを青山さんが気が付くというのは、青山さんの中で宗教は全く関係ないというか、意識の外にあるということ?
青山 意識の外というか、逆に意識してるのかなぁ。阪本さんの、差別のことも宗教のことも、わりと根が近いところにあると思うんです。で、僕の場合はどこかで最初からそういうものを飛び越えたところに出てくる個人というものにいけないかなというのが、衝動としてはあるんですよね。自分が北九州から出て東京に行くんだけれども、行ってまた戻ってくると、またそこにやんわりと保護空間があって、その保護空間は気持ちいいけれど、ムシムシするみたいな感じが。そのムシムシ感”を突破するのは何だろうというふうに、大学時代とか帰省するたびに思ってたんですよね。その感覚をやろうとして行き着く先が、同じように、差別と宗教について考えてみることなんですけれど。そこにいる自分を見るような感じじゃなくて、そこから逃げ出そうというか、出る所から主人公を置きたくなるんですよね。
阪本 だから、青山君の考え方は、極めて社会的なんだよね。監督になってから12年を振り返ると、延々と自分探しをしていたなと思うところはあって、青山君とはヤクザが出てきたり、暴力が出てくることは同じでも、クランクイン前にやっぱり社会的な接点をいろいろ考えながらやってるから、そこで境界線ができるのかな。いわば、積極的に取り込む姿勢というか。青山さんの中でも自分探しは考えます?
阪本 その言い方、自分でも嫌いなんだけどね(笑)。
そうですね(笑)。青山 というか、自分を探さないようにするためにはどうすればいいかというね、そういう方法を探しているんじゃないかって。自分だけは見たくないっていうところがあって(笑)。そこは完全に切れているかもしれないですね。例えば、いろんな契機がトンネルとして使われたりするのは、今の話と関連性というのはないですかね。
青山 うーん、トンネルに関しては、単に好きだからやってるというにすぎないというか(笑)。
阪本 似たとこが出てくるよね。僕にとって高い塔が出てくるというのと一緒かな。通天閣とか風車とか。立ちはだかる存在という。
阪本 父性なんだよね、あれ。
青山 そうするとトンネルは母性という。すごいわかりやすい(笑)。
阪本 道みたいなね。なんかホントかなーって感じがするんですけど(笑)。
阪本 でも、僕、風景として塔のあるところを探すんだよね。「BOXERJOE」でもワンカットだけ送電線の鉄塔があるとか。
青山 「トカレフ」は、作っちゃったんでしょう?
阪本 風車はそうですね。本当は巨木だったんだけれどでっかい木を百万円くらいで買ってきて、それを燃やそうとしたんだけど、助監督が、「木にも命がありますから」って。で、「わかりました」と。ナチュラリストなもんで(笑)。まあ、結果は風車でよかったんですけどね。青山さんはやっぱりトンネルを探します?
青山 探すというか、すでにシナリオに書き込んじゃってますからね。
阪本 、書いてあるんだ。僕も一度、「顔」でトンネル使ってる............だからなんだっていうとね(笑)。印みたいなもんなんですかね
青山 犬がほら、おしっこするようなもん(笑)。いや、でも最近、出してないんじゃないかな。「EUREKA」はトンネル出てこなかったっけ?
青山 橋の下は出てきたけど。もろ棄民ですね、あれ(笑)。印というものはないなあ。意識してないな。意識せずに出ちゃうものなんじゃないですか。ところで父性/母性の話に戻すと、「顔」の場合、主人公の藤山直美さんが母親の渡辺美佐子さんの影響下にずうっと居続けるというか、母になれない人が母親を見ながら、ずうっと引っ張って引っ張って、どんどん逃げていくという話に見えます。だから僕、最後の海は母性にポチャンと入るというより、さらに逃げるにはどうしたらいいかっていう感じだと思いまし僕も海を出すときって、もうここから先ないけれど、どうしたらいいんでしょうという行き詰まりを海に感じてやるんですけど、日本人として最後の海にチャンと入る藤山さんって、さらに逃げるという感じになってるような気がする。あと、藤山さんがずっと吐き気を催しているというか吐きそうになるじゃないですか、あれは何の吐き気なのかって。
阪本 ほかの人もいっぱい吐いてるしねぇ。
青山 うん。あれは何でしょう?
阪本 うーん......世の中見てたら、吐きたくならない?(笑)
青山 そういう逃げ道もあるか(笑)。
阪本 いや、そりゃカッコ良く言えばさ、人々の痛みをわりと生理現象で表わそうというのはあると思うんですよね。もう耐えれないっていうのを。でも、それはどっか意味づけであって、「ざまあみろ」って気分が大きいかなあ。
青山 さっきの母性との絡みでいうと、彼女は母親から出てきた子供であり、同時に母親になりうる存在でありながら、男性と体験をするにしても、やはり母性になれない者として存在するというところがあるんじゃないか。だから、母を引きずっているところが出てくるのかなと。“カラのつわり”っていうか、妊娠もしてないのにつわりをするような、母というイメージを模倣するような感じで、そこが存在の引っかかりになってるのかなと思う。彼女の、唯一の女としての在り方、そこに阪本さんの女性映画というものがひとつ根拠を持つという気がしたんですけれど。
阪本 ・・・今度、取材で聞かれたらそう答えよ。(一同笑)。海外の映画祭に行ったときとか。
青山 そう、海外行ったときにどうぞ(笑)。時代と添い寝するか、否か例えば青山さんの場合、次に考える企画の困難さというのは、そんなに意識してないですか?
青山 僕、かつて暇な時間が一杯ありましたからこの時期に、こんなのやあんなのを作りたいって、むちゃくちゃ妄想の世界に突入してたから。そのストックがまだあるんで、それが終わるまでは、なくなるまでは大丈夫ですよ。
阪本 いいね。僕、やりたいものないんだよね。いや、やりたいのがないからプロデューサーの要望とか何かをわりと聞けるんだよ。出来上ったときのイメージみたいなものをね。自分とそぐわないと思ったものでもプロデューサーがそれを見たいのであれば、自分の足らない部分、やりたいことが見つからない部分を、ある意味でプロデューサーに補ってもらうというかね。ストックって、ないんだよね。
青山 そうなんですか?逆に青山さんはストックがあるからこそ時代性を乗っけられるというか、そういうことがあったりするんですかね。
青山 どうなんですかね。その時々で、じゃあこれを乗っければというミックスの案配を決めていくのが作業になる場合はなくはないですけれどね。「顔」は、さっきの“見捨てられた子"のように藤山直美が神戸の地震の跡を歩くとか、今までの阪本さんの映画ではなかった。
阪本 背景となる時代をはっきりさせるということですか......。いつもどこかで時代性をパスしてるんでしょうね。新聞読もうが雑誌読もうがニュース見ようが、パスしてるんでしょうね。それを取り入れることが、まあ変な言い方ですけど、社会派的に持ってっちゃうだろうなと、特にインディーズでやってるとね。例えば、「新・仁義なき戦い」だったから、在日韓国人というのが大阪には普通に住んでますというのでやれたわけで。僕の中の差別者とか被差別者であった自分というものをインディーズのなかで考えていくと、どうしてもカッコつけてしまう自分が見えるんですよ。社会派ぶってしまうというところが。そのへんの兼ね合いが、今回の「新・仁義なき戦い」ではとっぱらえたんですね。東映のエンターテインメントだからやれた。それと、時代性とは違うと思うけれど、「顔」を面白くないと思っている人は、「やっぱり自分探しでしかないね」という批判だったりするんで、それはそれで気づかされるんですよね。だから「EUREKA」を見て、「人ってなんで殺しちゃいけないの?」という言葉が出てきたときに、僕はそこういうところに触れないできたんだと思った。その答えは自分の中で、映画で表わす自信がないというのもあるし、まあ、答えないといけないことではないんだけれど。でも、そのへん僕は時代と寄り添わないようにしてきている。要は、おとぎ話なんだからっていうね。添い寝をするってことは、青山君にとっての主題とは関係ないかもしれないけれど、自然にやってるなという気がする。
青山 いや、自然じゃないかもしれないですけれど。むしろ、その阪本さんが添い寝しないという選択をした感じというのを、僕は見たなというのがあるんですよ、自分が映画を作る前にね。そのときに、添い寝して、勝つか負けるか分からないけれど、添い寝してどうだ、というのを敢えてやってみようというのが、僕の最初のモチベーションとして出て来たんですね。
阪本 それが成功しているのが「EUREKA」であってね。だからすごいスレスレのものをたくさん感じましたよ、「EUREKA」には。批判ではなくて、うまくかい潜っているなと。
青山 先輩の皆さん、そのへん、わりと取り込んですっと流してというような感じでなさっているような気がするんですよ。それで、なんかそうでない在り方にもっていきたいなと常々思っていて。
阪本 でも、それはやっぱり技術の充実だと思いますよ。田村(正毅)さんのカメラでありね。僕は、青山君の作品を全部見てないけれども、やっぱり画面が落ち着いてきたというのがある。それは、多分、視点が落ち着いてきたということだし、自分がファインダーを覗いてなかったとしても、それはすごく感じますよ。「シェイディーグローヴ」を見ても、あの頃から非常に画面が落ち着いている。最初、「EUREKA」を見ていて、人物像として病理というものをニュアンスとして感じた時に、映画の中で、じゃあそれを癒す話なのか、癒さない話なのかとなった時、“癒す”という言葉、大嫌いなんだけど(笑)、役所さんは癒す方なのか癒される方なのかとか、わりとそういう見方をしちゃったのね。で、監督はどっちの立場でこれをやっているんだというのがあってね。それがもしクサく出てたら、僕は嫌いな映画だったかもしれないのね。要するに、「ああ、自分は人を癒せると思ってるんだ、コノヤロー」という。そうじゃなかったから。
青山 まあ、“癒し”とかという言葉を使われても、宣伝文句だからべつにいいかって思うんですけど、癒したり、癒されたり出来るわけないじゃん、ということしか最初からないんですよ。
阪本 そうなんだよね。あと、僕が作り手だから分かるのか、青山君の映画ってファーストカットが背中から入るというのがあるんですよ。正面から入ると、その視点は気にならないんだけど、背中から入るとそれを見ているカメラであったり、作り手の視線をすごく感じるわけ。それは意図でしょう。どういう意図なのということを聞きたいんじゃなくて、そこに意図があるという、映画のファーストカットにね。背中から入ったり、そのメイン・キャラクターの顔が写るまでやっぱり時間を保つこととかも、結局、背中から撮るという意図とわりと似てるんですよね。
青山 さっき、阪本さんがお客さんがどう見るかということをちらっと話してらしたけど、そこでの選択なんですね。つまり、お客さんに顔をボーンと見せることで、この人が主役ですよ、この人を見ていってくださいっていうふうにして映画を始めるか。僕はその逆に、後ろ姿から始めて、この人についていって下さい、何か起こりますよという、その起こる現象、つまり物語を・・・。
阪本 そう。要するにナビゲーター的なんですね、背中から入っていくということは。後ろについていくというね。
青山 そうなんです。最初からそっちにもっていったんですね。それで最後にその人が見たものを見せるという形で。最初はナビゲーターとして入って、映画のいちばん最後で、その人が何かを見ていて、その見ているものに返すというやり方ですね。背中って映像的なんですけどね、もともとは。
青山 ええ。プラスアルファ、何か起こるよという感じを見せるもんですよね。
阪本 結局、引き算していくことが映像的だとしたら、それは何かを隠すということがあるんでね。だから三池(崇史)君の映画を見ていても、ファーストカットじゃないけど、途中で背中を手持ちでそのまま追っていくというのが結構あるんですね。多分それは、今時の流行りでもなんでもなくて、昔からあると思うんだけれども。ただ、青山君がファーストカットから背中で入るというのは、3作ぐらいあったかもしれないね。
青山 いや、実は全部そうなんです。意図的にそうしている。
阪本 こういう発言すると、僕もファーストカット、背中ってできなくなるんだよね(笑)。映画は思想と無関係ではいられないなんていうか、背景なりを読まされるという・・・・・青山さんに強く感じるんですけれども、映画を見る側が裏ストーリというか、思いを読んでしまうというような、そういうところを青山さんの映画を見ていて感じたりするんです。そこに批評を持っていきたくなるような。
青山 でもね、僕の映画のその部分は、多分、まとも日本映画批評でやることじゃないというふうに思うんです。そんなこと言ったら、批評家は敏感に反応するかもしれないけど、僕、どっか自分の中に教師の血が流れていて、それは親が両方とも教師だったからという意味ですけど、啓蒙的な部分があると思うんです。だから、そういう背景みたいなところの裏を読んでいくようなことって、中学生レベルに向けられているところがあってね、中学生、高校生ぐらいがこれを見て、そのことを考えろ、という気分をどっかに真剣に持ってるんですよ。だからそれを批評家の人に読まれても、そうじゃなくて、ほかに見るところないのかよって......(笑)。全部が全部、ひとつのテーマとして向けているつもりはないですよね。
阪本 お客さんに対して?
青山 お客さん。本当はもっとぜんぜん読み切れない漠然としたものをやっているんだってことですけど。
阪本 僕は結局、お客といっても顔が見えないから、たったひとりのために撮ったりもしてるしね。それは全体じゃなくても、あるシークエンスとかをね。僕の好きな女はここを喜んでくれるかなとか、けっこう下世話なところもたくさんありますよ。朝、撮影に行く前に女と喧嘩したら、その気分で撮ってるしね。おまえに分かってたまるかいって(笑)。そんなもんが、時々奇跡を生むんだけど。役者さんの話をすると、シナリオが先にあったとして、誰それの役者にあてて書きたいというのは阪本さんには、やはりありますか。青山さんはそういうところはどうなんだろう......。
青山 僕は、斉藤(陽一郎)と光石(研)さんに関しては、最初からこのふたりがこういうことを言うという、ほぼ常に、そういうやり方はありますね。
阪本 僕は役者に寄っ掛かりますよ。
青山 イン前とか、飲みに行ったりしてきっちり話をするんですか?
阪本 する人もいれば、その人の情報だけで勝手に判断する時もあるし。「新・仁義~」は、豊川(悦司)のネクラな部分を、そのまま役柄にしてもらうというのがありましたね。佐藤浩市の場合は、拗ねた部分をそのまま借りようとか、岸部(一徳)さんの、実は怖い部分をそのまま出そうとか。なんとなく創作活動をさぼってるようだけど、そうなってしまうんだな。
青山 阪本さんの役者さんは、地じゃないんだけど、地の部分というよりは、役者さん自身の考える芝居というか、やりたい芝居というものがわりと豊に、自由に出ている感じが強いですね。演出によって、そこで自分と、役者さんがやりたいものの引っ張られ方が..................。引っ張られているようにしておいて、俺が引っ張るようにするという。それでもいいよという。
阪本 そうしたいんだったらそうすれば、みたいな。
青山 でも、時にはそれは違うという部分はあるでしょう。
阪本 それはもう大喧嘩しますよ。大喧嘩したりするけど、現場ではないね。役所(広司)さんを演出する時は?
青山 シナリオ書いて、役所さんに読んでもらって、それを演じてもらうというは、ほぼ何にもないんです、僕らの間で話し合うこととかは。むしろ、「あの時、沢井はこのことを知ってたんですかね」という、例えば内容の具体的なことについて、役所さんが尋ねるというか、語るというか。そうすると、僕は、「うーん、どうなんでしょうね」っていうような感じなんですよ。で、やってもらうと、ちゃんとやってくれるんですよね、こっちの思い通りに。だから「あ、それは違う」ってことは、ほんとに2度、3度しかないという感じです。それも、「ちょっとそれは言い方が強すぎる」とかそのぐらいのことで、ほとんどこっちから変更を提案したことはないですね。いままで幸か不幸か、どうもそういう感じだったですね。あんまり撮影前に俳優陣とディスカッションをしたことはない。ひとつのアートとしてというか、思想としての映画ではなく、そういう監督さんも出ていると思うんです。そういうことに関しては青山さんも阪本さんも違うわけじゃないですか。
青山 ずいぶん前に、誰だか忘れましたけれど、映画の中に思想みたいなものとか、政治性みたいなものが入ってくる映画は嫌いだ。または、監督人のものが入っていくような映画はイヤだ。僕はお客さんを笑わせて、感動させてなんぼの映画が作りたい、というふうに言っている人がいて。
阪本 ふーん。
青山 それこそが政治性で、それこそが思想だろうというふうに思ったんですけれど。今、商業映画がもつ思想のいちばん大きな部分だろうと、「私の映画には思想はありません」っていくら言っても無駄だと思う。
阪本 昔、大島(渚)さんが言ってたよね。内容的には思想はいらない。作り方に思想がいると。、とそう言っていて思想的なことやってるんだけど、でも、作り方の思想そのものが内容に響くことであってね、作るかぎり思想はあると、僕もそう思うんですよ。
青山 映画って「これはこうだ」ということしか言えないと思うんですよ。何を言うにしても、これはこうなっているのだ、こういう状態なのだという、その有り
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