ダークネスにまみれた果てのイノセンス 河原晶子
そして「ファイト・クラブ」は、エドワード・ノートン主演である。ノートンが、ナレーターである。語られる・見られる対象ではなく(?)、語る側・見る側。タイラー=ブラピに導かれつつ、観客を導く、コミュニケーター。
ブラピは「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(97)ではダライ・ラマ少年とチベットの人々に導かれ自然との調和�≠�知る謙虚な人間へと成長し、「ジョー・ブラックをよろしく」ではアンソニー・ホプキンあの世へとエスコートしたが、「ファイト・クラブ」ではノートンを挑発し、啓発し、そこ"へとナヴィゲートする。"BrutallyHonest/過酷なまでに正直”(ズバリ、「セブン・イヤーズ?」で来日した際ブラピがもらした「自らの人生モットー」がコレ)な、生の聖域。ダークネスにまみれた果ての、イノセンス。現代のヤンガー・ジェネレーションが“クール”とジャッジする映画の多くが“ダークネス"を愛撫し、そこにイノセンス"を見ようとする。そして「求めるものは、ここに在り」と「セブン」-「セブン」で目覚め「セブン・イヤーズ?」で踏み出したブラピ=タイラーが、“ファイト・クラブ"を体現する。「ファイト・クラブ」は、殴る映画ではなく、殴られる映画。反道徳的な描写、反社会的なテーマ、悲惨なラスト、ととる向きもあるようだが。倫理に反しっぱなしなのは現代社会の方であり、ファイト・クラブ”は自己探求的、「ファイトクラブ」のラストほど明るいエンディングも珍しい、ってものだ。
という意味で「ファイト・クラブ」は、愚鈍な「カリフォルニア」とは正反対、「セブン」とはブラピの位置逆、無責任な「2モンキーズ」よりずっと聡明。社会のワナ、鎖を断ち切り、拘束衣を脱ぎ捨て、自己解放の達成に向けて日常の全てを捧げる、という点において「セブン・イヤーズ・イン・チベット」と共通するが、修行の方法はさらに過激なにせ、非暴力主義ならぬ��被暴力主義”なのだから。「ファイト・クラブ」は、意識革命を唱えながら結局はテロ行為でしか社会改革を成しえない自己矛盾を突きつつ、真の暴力は“ファイト・クラブ"という聖域以外のあらゆる場所に蔓延しきっている現実も適確に提示する。壮絶感に逃げることなく、諧謔にみちたシャープさで。
アルマゲドンをやり過ごし、ニューミレニアムを迎えても、あらゆ物事を消費し尽くした人類に、残されたテーマは“絶望”のみ。という気分に酔っている我々に「殴られてみませんか!!」と、ブラビが微笑みかけ、「あいつは俺だった」と、ノートンが応える。
ファイト・クラブ。肉体の極限まで素手で殴り合う男たち。はるかジョン・フォード映画の時代から受け継がれてきた男たちの生き方の美学である。闘う男と男。そんなふたりの間を結ぶのは、憎悪とか怒りというよりも、むしろ友情の深い絆である。友情?ホモセクシュアリティへの暗示?いずれにしても、そうした精神と肉体の在り方は、残念だけれど女たちには理解したくとも理解できないものである。
映画「ファイト・クラブ」は明らかにそんな男たちの生き方の美学に踏み込んだ映画である。しかも、ジョン・フォード時代のそれは、今この世紀末を迎えて限りない絶望へと変容してしまっている。主演者のブラッド・ピットは「デイヴィッド・フィンチャーはキューブリックが中断してしまったことを引き継ぐ監督だ」(プレスより)と言っているが、彼がここで想い描いているのは「時計じかけのオレンジ」らしい。でも、ブラッド・ピットの言葉を借りるなら、デイヴィッド・フィンチャーはキューブリックが遺作「アイズワイドシャット」で言い残した主題を「ファイト・クラブ」で引き継いでいるとは言えないだろうか。今夏に公開された「アイズワイドシャット」を観て以来、私の中にはずっとあいまいな想いが尾を引いて結論を出せずにいたのだけれど、「ファイト・クラブ」はまさにそうした想いを一気に取り除いてくれた作品のような気がする。主題は、世紀末と新たなる新世紀との危険な断層に生きる男たちの喪失感(とりわけ性を通しての)、である。
洒落たコンドミニアムに住むヤング・エグゼクティブのジャック(エドワード・ノートン、物語は彼一人称のナレーターにして進むは、人生を無為に生きる孤独な男で、時折教会で開かれるさまざまな病の救済の会”に顔を出している。彼はある日、機内で正体不明のアナーキーな男タイラー(ブラッド・ピット)と出逢う。帰宅すると、彼の部屋はガス爆発で破壊されていて、彼はタイラーの廃屋のような部屋に転がり込み、タイラーのファイト・クラブ"に巻き込まれてゆく・・・・。
肉体の暴力と苦痛によって、精神の浄化を図ろうとするタイラー。彼は何者なのか?ふたりの男が素手で極限まで殴り合うという行為には、どこかセクシュアルなものが潜んでいる。男がもうひとりの男を殴ることは、そのまま自分自身を痛めつけることでもある。殴り合うふたりの男は、明らかに強い友情、あるいは愛によって結ばれるひとりの男とその分身になるのである。エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」!映画はタイラーがジャックの口腔に銃を突っ込むシーンから始まり、そのシーンはやがて映画のクライマックスであるラスト・シーンにつながってゆくが、この場面に突然、ルイ・マルが監督しアラン・ドロンが主演したオムニバス映画「世にも怪奇な物語」の一篇〈ウィリアム・ウィルソン〉がよみがえる。
「ファイト・クラブ」がその構造的骨子で想い出させるのは、そのポーの一篇だが、前述したキューブリックの他にもうひとり、この映画との強い絆を感じさせるのが、デイヴィッド・クローネンバーグの、とりわけ「クラッシュ」と「裸のランチ」である。青白い悪夢のような映像の中に、20世紀末の人間の性の終末観を漂わせた「クラッシュ」。あの映画のジェームズ・スペイダーの資質は、エドワード・ノートンととてもよく似ている。「ファイト・クラブ」の原作者は、オレゴン州に住む運送会社の整備調査員だったチャック・ポラニックで、これは彼の処女作だが、原作の冷ややかで即物的で簡潔な文体が想い出させるのは、「裸のランチ」のウィリアム・バロウズである。タイラーが彼自身とジャック、そしてファイト・クラブの男たちの手の甲に刻みつけるキスマークの火傷痕(苛性ソーダで焼いた)など、まるで「裸の「ランチ」にでも出てきそうなエピソードではないか。クローネンバーグやバロウズが取り憑かれているあの”内臓感覚�≠ェ、この映画には明らかに受け継がれているのである。
デイヴィッド・フィンチャーはこの作品を��去勢と狂気に関する考察�≠ニ呼ぶ。ジャックは教会の支援の会”で性転換して胸の膨らんだ男ボブ(かつての肉体派ロック・スタア、ミート・ローフ・アディが演じている)に出逢う。この映画で男たちはすべて男性優位主義=マチスモへの絶望に取り憑かれているのである。マチスモとホモセクシュアリティは表裏一体の象徴だけれと、この映画ではホモセクシュアリティはファイトクラブの美し金髪の若者エンジエル・フェイス(ジヤレット・レト)の存在のみに暗示的になされている。
ジャックとタイラー。ふたりを結ぶ重要なキャラクターは、しかそのエンジェル・フェイスではなくて麻薬中毒者の女マーラ(ヘレナ・ボナム・カーター)である。マーラはジャックとではなく、タイラーとだけセックスの関係を結ぶ。そしてジャックとマーラが一緒の時、タイラーは絶対姿を現わすことはない。ジャックとタイラーと、そしてマーラは、この汚濁の世界の中に奇妙で聖なる三位一体を結ぶのである。ヴィレッジ・ヴォイス誌のヒラリー・ジョンソンはチャック・ポーラニックの原作を、種としての男性の社会的・経済的衰退について言及した作品と呼び、さらにこう書いている。「男性の力と攻撃性は近代社会を生み出すためには有効だったが現代の平穏な暮らしの中では障害以外の何ものでもなく、日常生活には女の本能と習性の方が適している」(プレスより)。いかにもアメリカのフェミニズム理論から生じた解釈と言えそうだが、この作品をジェンダーというキイ・ワードによって探ろうとする時、彼女の発言にはやはり興味深いものがある。
映画のラスト・シーンが、まさにそのようなことを暗示させるからだ。もちろん、そこでこの映画の主導権を握るのは、ジャックでもタイラーでもなく、マーラである。マーラの愛によってジャックは救済されるのか?ただ、このラスト・シーンはじつはふたつの解釈を暗示しているような気がする。大都会の夜景に美しい閃光を放って崩壊してゆく摩天楼のビル群を、まるで地球の最期を記憶にとどめようとでもするかのように、しっかりと手を結びあって見つめるジャックとマーラ。でも、ジャックは本当に生きているのだろうか?ポーに従うなら、タイラーを殺せばジャックもまた死ななくてはならなかったのではないか?原作は終章でジャックの死を語っている。でも、ジャックが生きていようと死んでいようと、彼のうつろな魂はマーラによって救済されたのだと思いたい。ふと「アイズワイドシャット」のラスト・シーンが浮かぶ。魂の抜け殻のようになったトム・クルーズに向かって、ニコール・キッドマン言ったあの言葉!キューブリックもまた男性的なるものへの絶望と女性という強い本能の対比をあのラストシーンで示唆したかったのかもしれない。
映画「ファイト・クラブ」はまさしく男の滅びの美学の映画だ。おそらく、男たちの方がより深く、より傷ついて、この映画を理解するのだろう。だとしても、女たちにとってだって、そうした男性的なる精神と肉体に想いをめぐらすという意味で、この映画はとても刺激的なのである。戻る