貞永方久は、サディスティックなまでに彼の映画の主人公たちを、破滅へ破滅へと追いやっていく。この救いようのないあと味の悪さ、陰うつさによって彼の三本の映画は奇妙な現実感を伴い印象に残っている。テレビ・ドキュメンタリー出身でその時代において現実の自分はどうあるべきか"という時代との"かかわり"を常に意識している、と言う貞永にとって、混濁とした現代の世相は格好の素材なのだろう。
貞永方久は満州・大連で、大農場を経営している家に生まれた。そして14歳の時、終戦を迎える。農場は没収され、一夜のうちに無一文同様になった貞永一家は本土へ引き揚げた。子供心にも時代の趨勢の変化によって翻弄される人間の弱さを知る。引き揚げ後は中学に復学どころではなく、まず生活の糧を得るために仕事を捜した。要領よくタバコの闇商売をやってみたり、香具師となり日本全国の祭りを追いかけたりした。このように思春期を、戦後という混乱の真っ只中に身を委ねた貞永は、当然のように、この時代の体験によって精神的思想が確立されていく。それは、実際に自分で見ることができたもの、肌で直接触れたものでないと一切信用しない、という既成の価値感に対しての不信感であり、また社会の片隅で、黙々と生きつづける人々にこそ真実がある、という認識である。
やがて、引き揚げてから4年後、別府に居を構え復学。別府鶴見ヶ丘高校を経て、九州大学法学部へ入学した。高校の時から足を突っ込んでいた芝居に本格的にのめり込んだのは大学へ入ってからで、仲間たちと"福岡五大学演劇連盟"設立、演出・役者として活躍。西南大学の一期下に米倉斉加年がいた。31年卒業。猛烈な就職難。ジャーナリスト希望の彼は、朝日、毎日を受けるが失敗。合格したのは、芝居をつづけようとして民芸、当時「君の名は」が大ヒットしたばかりで隆盛の一途を辿っていた松竹、また勉強でもつづけてみようかと色気を出した東大。そして"好きなことをやって金をくれる松竹京都の助監督となる。同期には森崎東、山根成之がいた。五所平之助などについた後、篠田正浩の「暗殺」でチーフとなり、カット割りを全部自分でやってみる。
ところで、貞永はこの「暗殺」を撮る二年前に、テレビ・ドキュメンタリー・シリーズ「日本の秘境」で監督としてデビューしている。このシリーズは、日本の各地に散在している未開発地域を尋ねて、その地に住んでいる人間、そして自然と歴史を探ることによって、そこに凝縮されている、現代日本の陰の部分の様相を表出させる、という趣旨の番組である。その初めての監督作品がドキュメンタリーだった、というのは彼にとって貴重な経験となった。ドキュメンタリーは前もって与えられた“現実”という素材の選択如何によって、作り手の個性・思想がストレートに浮び上がってくる性質を要しているからだ。それ故に、その同時代に生きる者としてメッセージを作品に放り込める。この現実描写の困難さを演出家として通り抜けたということは、劇映画という虚構世界を構築する際の大切な布石となった。
43年に「復讐の歌が聞える」で山根成之と共同演出した後、本格的デビュー作は、46年の「黒の斜面」。以来、同年「嫉妬」、「影の爪」と撮る。
飛行機事故という偶発性によって、妙に保っていた、夫妻情婦というバランスがくずされた時の悲劇を描いた「黒の斜面」、夫との心中で生き残った女への嫉妬と憎悪に燃える妻を描いた「嫉妬」、自分が起こした交通事故の遺族に家庭を破壊される妻を描いた「影の爪」。"愛とサスペンス"と銘うった松竹の看板路線上にあるこの三本の女性映画で、貞永は情念を前面に押し出すことによって、大船調メロドラマからの離脱を計っている。緩慢とつづく日常生活の陰に潜む不条理の罠に嵌ることによってむき出しにされる女の業。そして、ほとばしる女同志の憎悪。これら情念の噴出が画面を暗く、重く、陰うつにしてしまう。この正体不明の喰うつさこそが、女性映画を情念劇として捉える貞永の女性感なのだろう。
斬新な殺人美学が話題となったテレビ・ドラマ「必殺仕掛人」の後を継いだ「必殺仕置人」の第一回目は貞永方久が撮った。彼は"仕掛人"の"世のため人のため"の大義名分による殺人には「エーカッコするな!」との反発があった。そこで貞永"仕置人"には、代理殺人とはいえ、あくまでも、金と権力に対する私怨を根底に置き、巨大な悪に対抗するためには、自らが巨大にならなければならないことを実践させたのだった。「負け犬の死体の上に怪物どもの桜が咲く・・・・・・僕は負け犬には決してなりたくない」と彼は言う。彼の映画の次回作は皮肉にも「必殺仕掛人」だ。どこまで権力という名の怪物に喰い込むことができるか。<原田雅昭〉戻る