1931年9月22日、旧満州金州生まれ。大連、新京(現中国東北部・長春)で育つ。敗戦の翌年1946年秋、日本に引揚げ、1949年春、中学3年に復学。1956年、九州大学法学部を卒業し、松竹(京都撮影所・演出部)に入社。主に時代考証を担当し、大曽根辰保五所平之助・篠田正浩に師事。同期に森崎東。1960年からテレビの構成・脚本・演出を手がける。1965年京都撮影所閉鎖により松竹大船へ移る。1964年「負けるが勝ち」(テレビドラマ)でデビュー。1971年「黒の斜面」(劇場用映画)で本格的に映画監督に昇進した。
 1973年「必殺仕置人」(テレビドラマ中村主水初登場作品)を手がけ、その後、必殺シリーズの基礎を築き、映画化にあたっても、1984年「必殺!」(第一作)、1996年「必殺!主水死す」(第六作)を監督。1993年「鬼平犯科帳」(テレビドラマ)も手がける。
 代表作に、1974年「必殺・春雪仕掛針」、1974年「流れの譜」、1983年「海嶺」、1997年「良寛」(第9回東京国際映画祭・最優秀芸術貢献賞受賞)などの劇場用映画の他、テレビ作品は、1970年「坊っちゃん」1982年「風の息」、1994年「闇の狩人」などがある。
 2011年7月14日死去、79歳だった。





若い頃があった

宮崎晃(脚本家・監督)




 仲倉重郎さんから、貞永方久さんが亡くなったことを知らされた。意外だった。79歳だというからそれ程おどろくことではないが、今年の年賀状に元気でプール通いをしているとあったから、意外の感がしたのである。
 そう言えば彼とは随分会っていない。偶然パーティーなどで会うとか、電話を掛けて来ることもあったが、大抵は酒を飲んでだが、それも近年はなくなった。最後に顔を見たのは何時だろう。声を聞いたのは......
 貞永さんは松竹監督の五、六年先輩である。
 一九六五年、京都撮影所が閉鎖されることになり、京都に所属していた助監督たちは大船で仕事をすることになった。貞永さんもその内の一人である。
 一九七〇年の夏だと思う。それまであまり口もきいたことのない貞永さんから電話があった。彼はその時はもう映画を一本、他にテレビ映画の「ジョン万次郎」も撮っていた。これはその当時としては真面目な題材にとり組んだテレビ映画だと評判になっていた。
 「日本テレビで漱石の『坊っちゃん』(六回連続)をやることになった。第一話の脚本が気に入らない。その後を書いてくれ。実は明後日には四国のロケに行く」
 わが家のせまい部屋に押しかけて来た貞永さんとプロデューサーに頼みこまれて、この無茶な仕事を引きうけたが、疑問が一つあった。
 「貞永さん、何でぼくに?」
 「君ならこんな悪条件でも、そんなにひどいものは書かないと思うからね、ぼくは今まで君の書いた物は読んでいるし、観ているから」
 ぼくは頭をさげた。心からうれしかった。
 幸い『坊っちゃん』は暗記できるくらい読んでいた。だから第二話以降の脚本を短期間に書き上げた。
 こんな悪条件で撮られた『坊っちゃん』ではあったが好評だった。四国では大変な高視聴率だったらしい。
 この時から貞永さんとは友人としてつき合うようになった。
 しかし、『必殺仕掛人春雪仕掛針』の助監督としてついたぼくは時代劇などやったことがないので、まったくの役立たずで、貞永さんに叱られた、いや教えられたと言った方が正しいであろう。
 『流れの譜第一部第二部』(74年)の脚本もぼくが書いたが、これもはじめからではない。やはり彼は第一部の脚本が気に入らないので自分が直そうと思ったらしいが、『流れの譜』は第一部・第二部にわたる大作で、その準備に追われ時間が出ない。そこで、ぼくに直して欲しいということになった。ぼくは、完全に書き換えていいならと引受けた。
 貞永さんとの仕事はだから満足の行くものはない。その後飲みながら二人はそのことを残念がった。そして老いてしまった。
 貞永さんの御冥福をお祈りします。
 ぼくもすぐそちらに行きますから。



されど映画

酒井信行(監督)




 昭和36年頃をピークに40年代に入ると、日本映画界も斜陽の影が射し始め、松竹でも製作本数が減少し始めた。監督達も仕事の数が減り、その活躍の場をテレビ作品に移す人が多くいた。貞永監督もテレビ作品にその主戦場を移し、京都撮影所にも度々来られた。そんな中でのお付き合いの思い出を幾つか書き留めておきたい。
 初めてのお付き合いはテレビ東京の12時間ドラマ『大忠臣蔵』だった。この枠に初めて松竹が参加した作品で、松本幸四郎さんを始め多くの歌舞伎俳優が出演し、松竹ならではの大作であった。監督の担当された第五部は、内蔵助の東下りから討入りに向かう道中までが描かれた。江戸への道中で変名を使っていた内蔵助の許に本人が出くわすシーンでは、片岡孝夫さんが本物に扮し、内蔵助の部屋の前まで駕籠のまま乗りつけるという大胆な演出で、緊張感をうまく出された。
 ある作品で、カメラマンの我が侭に言い成りの(私にはそう見えた)監督に、次作には付かないと宣言した。後日、監督とプロデューサーに懇願されたが、私は意地を通した。
 私が監督したある作品のゲストに、米倉斉加年さんに出て貰ったことがある。クランクインして2、3日した頃、米倉さんがこう言われた。「昨日電話で貞永さんと話して(二人は九州の学生時代からの知り合いとのこと)今、酒井組に出ていると言ったら、酒井ちゃんには世話になったから、しっかりやってと念を押されました」不義理をしたチンピラ助手のことを気に掛けて下さった。
 毎年もらう年賀状にも、いつもガンバレの文字が有った。
 監督は旧満州の生まれだ。どこか大人の風格が有った。
 最後に映画『必殺!』でのこと。ある女優が川に入る撮影で、マネージャーが急に聞いていないと言い出した。勿論始めから台本にも書かれており、ただのごり押しであった。静まり返る現場に、監督の怒声が響き渡った。「あなたにとっては、たかが映画かもしれないが、私にとっては、されど映画なんですよ」
 スタッフ一同、心中快哉を叫んだのは言うまでもない。

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