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斎藤忠直
フランシス・コッポラの「地獄の黙示緑」...............。これはどうみても、すばらしい映画である。すさまじいばかりの��戦争オペラ”である。たぶん、多くの人々にとって、生涯忘れることのできない作品の一つになるのではないだろうか。
ともかく、そこには、テーマ、単的にいって、戦争と兵士の人間性の崩壊、さらに、東洋の深い原始の戦場でのたうちまわる西洋文明(アメリカ)を、ジョセフ・コンラッドの「闇の奥」に結びつけたコッポラの高度の文学性、芸術性etcもさることながら、確かに六〇年代末の<ベトナム〉がある。
事実に即した、リアルな<ベトナム戦争〉が、文字通り、火花を散らして弾けている。
それも、中心をなしているのは、アメリカ政府首脳たちが、最もフタをしておきたかった恥部。専門家筋は仕方ないとして、一般にはできるだけ知らせたくなかった、��汚い戦争"の戦場の狂気といわれる部分だ。
それが、次から次へと主要なシークエンスとなって連なっている。
そして、その狂気の行動を見せるキャラクターたちは、大胆にも、すべて、今なお実在のアメリカ陸軍がほこる各精鋭部隊の、それぞれの部隊章を、ソノモノズバリにつけた戦闘服姿。これはたまらない。
国防省以下、陸海空のアメリカ三軍が、この作品の製作に終始全面的に非協力。むべなるかなである。
ラストにいたって、カーツの神殿=がクローズアップされると、その正面のあらゆる所に飾られた生首が不気味に光るが、攻撃後、殺したのちにベトナム人のその首をかき切ってもてあそんだ、アメリカ軍兵士たちも、現実にかなりいた。麻薬関係については、もはや、いまさらいうまでもあるまい。
いずれにしても、十年前、いや五年前でもいい、一般公開がまだベトナムで実際に戦闘がおこなわれている最中であったら、世界中におよぼしたであろうその社会的影響力、衝撃力は、おそらく、空前絶後、はかりしれないものがあったにちがいない。
むろん、今でも遅過ぎるということはないが......。
水野敏明
この映画のオープニングは、既にこの映画の性格を語っている。
フィックスで捉えられたジャングルのショットにフェード・インするプロペラ音。これは勿論ヘリコプターのプロペラ音なのだが、まるで秘境の空を飛び交う不吉な怪鳥の羽ばたきにも聞こえる。この映画の中でヘリコプターは一つのシンボルであり、このオープニングと呼応するラスト・ショットにも現われるのを見落としてはならない。(ロバート・デュバル扮するキルゴア大佐のヘリには、そのものズバリ、「DeathFromAbove(空より来たる死に神)」と書かれてある。)
やがて、ヘリによって落とされたナパーム弾で炎上するジャングル。しかしこの時、現実音はない。クローズアップされた、ウィラード大尉の眼がオーヴァー・ラップする。これは表現のスタイルとして終始一貫しており、現実音は、ウィラードの知覚が外へ向かって開かれた時のみ、前面に現われる。たとえば、河巡視艇が川面を進む間も、会話の声だけで、エンジン音が全く聞こえなかったり、というふうに。そして、また、眼のクローズアップは、彼のこの作品における観察者としての役割を暗示しているのである。
ここで不思議なのは、カーツを殺そうと決意して起きあがるウィラードの姿ーー後で実際に現われるイメージと同一――が一瞬オーヴァー・ラップするのだが、これは、カーツ殺しがウィラードの潜在的願望として現われたということなのだろうか。これも無理のない推理ではあるだろう。なぜなら、この映画全体がウィラードの見る「時代」という名の悪夢として捉えられるからである。そしてこれは、たった一人の英雄の不在によって充たされた、極めて観念的な文明論なのである。
この映画をリアリズムのメスによって裁断してゆくと、ジャングルの中を引きずり回された挙句、一人残された様な錯覚に陥ってしまうことになる。つまり、ウィラード大尉の地獄巡りは、始めから、抽象的世界への旅として用意されているのだ。
「地獄の黙示録」を見た人は、必ずと言ってよいほど、その比較の対象として「帰郷」、「ディア・ハンター」をあげるのが常であるが、「地獄の黙示録」はそれらの二作品とは全く異質の作品であり、同一平面で語れるものではない。にもかかわらず、とりわけ好敵手として見られがちなのは、「ディア・ハンター」である。
確かに「ディア・ハンター」はベトナム戦争を軸とした見事な叙事詩であった。しかし、「地獄の黙示録」は、叙事詩的ではあっても、叙事詩ではない。事詩という形式は力学的法則の支配する世界であり、因果律を持った歴史=スト―リーに通底していなければならないが、ここには最早、因果律を持ったストーリーはない。
さらに決定的な相違として「ディア・ハンター」には、被害者意識が濃厚な代わりに、加害者意識が抜け落ちていることをあげねばならない。これはこの作品の最も責められるべきところであり、背後に居並ぶ数多くの戦争映画と同じく、戦場を二元論的対立の場として描いたのでは、「俺イイヒト、アレ悪い奴」となるのは必然で、僕などは、例の"ロシアン・ルーレット"の場面で、マイケル(ロバート・デ・ニーロ)が形勢逆転を謀り、ベトナム兵を皆殺しにした途端、アメリカ人の観客が一斉に拍手喝采するに至って慄然としたものだ。依然たる東洋人蔑視の意識には目をつむりながら、一方的に「反省」したのでは、「懺悔の値打ちもない」と言わざるを得ない。
「ディア・ハンター」が東洋人蔑視の意識を作品の外側に持っているのに対し、「地獄の黙示録」は、それを意識的に内側に据え、「アメリカの犯罪」を赤裸に描いている。それは例えば、水上スキーを楽しむランス(サム・ボトムズ)が川岸で洗濯しているベトナム人達を蹴散らすところであり(この時、彼が「サヨナラッ!」と日本語でベトナム人に向かって叫ぶのが少々気になるのだが)、「チャーリー(ベトコンに与えられたコード・ネーム)がサーフィンなどするものか!」と言う、キルゴア大佐の態度に明らかである。
わけても、キルゴア大佐のシークエンスは、USO(米軍慰問団)のプレイ・メイト・ショーと並んで、コッポラのアメリカ文化批判が強烈に込められている。(ロバート・デュバルがここでは気味の悪いほど生き生きとしているのだが、これまでの彼の演技の中でも特筆のものではないかと思う)
アメリカという国は、中間色というもののない国である。投げ出された存在の白か黒かの在り方が存在理由として問われる。端的に言えば「力こそ全て」といったところがある。そして、力が正義として罷り通るアメリカでは、アメリカ人の精神的背景は「荒野」であり、フロンティアの神話は、八十年代を迎えんとする現代でも、脈々と受けつがれているのだ。
キルゴア大佐は、そうした神話の形象化であり、南北戦争の如き突撃ラッパと、騎兵隊気取りの彼が「西部劇ごっこ」を楽しんでいるのも、決して特異な狂気ではないのだ。彼の好んで使う戦闘のテーマ曲は、既に語り草となった、ワグナーの”ワルキューレの騎行�≠ナあるが、暴力のエクスタシーとでも言うべきこのシンフォニーは、恐ろしいまでに機銃掃射の音にマッチしており、フェリーニの「81/2」でも使われていたことなど、つい忘れさせるに充分な迫力を持っている。キルゴアはこの曲にのって揚々とベトナム人たちを、その頭上から駆り立てる。
キルゴア「どうだい?」
ランス「はい、とてもエキサイティングです!」
キルゴア「いや、俺はここでサーフィンができるかどうか聞いてるんだ」
傍らで、その光景にただただ呆気にとられているのはウィラードで、戦場の中にいながら、状況に対しては常に斜に構えた、観察者としての彼の姿勢は、このシークエンスより顕在化する。
この童顔を持った少年の様な観察者は、セルジオ・レオーネの三部作におけクリント・イーストウッドの様に、あるいは「用心棒」の桑畑三十郎の様に、冷ややかな眼差しを持ったアウト・サイダーなのだ。
さながら地獄の遊園地の如く、無数の電球によってデコレートされたドゥ・ラン橋ブリッジ。ヒステリックに機関銃を乱射する黒人兵士。傍らのテープががなりたてるハード・ロックが、さらに狂騒をかきたてる。
驚いたことには、誰がここで指令を下しているのか、誰も知らないのだ。指揮官不在の戦場――これはまた何と時代を象徴していることか。
しかし、コッポラが作品全体を通して我々に語るのは、単に文字通りの指導者、あるいは英雄の不在というだけではなく、獰猛な現実の中では、ヒューマニズムや、モラルといったものがいかに脆弱なものであり、そういったものが一切制脱した世界の中で、裸同然に投げ出され人間の生きることの困難さ、ということである。
「私は見ていた・・蝸牛が、剃刀の刃の上をはって行く」(カーツ大佐)。我々はまさにこの蝸牛のようであり、善と悪、正気と狂気の危険極まり無い「選択」の地平をはっている、頼りない存在であるとコッポラは言うのだ。
このドゥ・ラン橋以降、映画は加速度的に幻想の奥地へとつき進むのだが、それと比例して膨張してゆくカーツの幻影が、黒雲の様にウィラードにのしかかってくる。その謎のイメージは、彼に最後に送られてくる、逆光によってつぶれたカーツの写真にとどめをさす。
そのカーツの支配力と哲学が、果たして神のものか悪魔のものかわからぬところに、時代の苦悩が暗示されているとも言えるだろう。
カーツ大佐は、
「俺を殺す資格はあっても裁く資格はない」
とウィラードに言う。
肉体的暴力は誰にでも可能であるが、魂の聖域までを冒すことはできない、とでも言っているように聞こえるが、「国家の戦争」に背を向けた、そのカーツ自身、見せしめのために、血腥い殺戮を繰り返しており、その意味では悪魔的と言える。
そしてカーツ自身もそれを自認していて、だからこそ「お前のような男が来るのを待っていた」とウィラードに言い、殺される覚悟というよりは、殺されるを望んでいるかの様なようすさえ見せるのだ。
このように時代の罪を一身に背負っているという意味においては、カーツは七十年代のキリストとも言える。そしてこのあたりから、この映画の寓話としての本性が見え始めてくる。
カーツが東洋的哲学に身を固め、T・S・エリオットの詩を朗唱しようと、それ自体はさして重要ではない。もとより、東洋的哲学に「救い」を求めるのが唯一の道なのかどうか、僕には全く疑問であるが、それより何より、コッポラはこのカーツという男を決して「われらがスーパーマン」とは描いておらず、ここで英雄待望論を唱えているわけでもない。むしろ英雄待望論などは貪婪に踏み越えて、コッポラの鼻息は荒い。
ここではベトナム戦争も、カーツ大佐も只の現在にすぎない。コッポラがここで我々に示すのは、実は父性超克のドラマであり、新しき時代へ向ける険しい眼差しなのである。
では、ここで行なわれる父性超克とは何か、それはウィラードによって為される、カーツ殺しのことである。
カーツ大佐とウィラードは、その手を血で汚すべき「血の儀式」に臨み、共に同様のメークアップをその顔に施す。そして常に二人が対峙する時、ウィラードがカーツを見上げ、カーツがそれを見おろす、といった関係になる。これらのことから、この二人が寓意としての父子であることは、はっきりしている。
さらには、最後にウィラードがその手を引いて立ち去るランスも、二人と同様のメークアップをしていることから見て、カーツ→ウィラード→ランス、といった虚構の親子関係が成立することになる。
ウィラードがカーツを斬殺するシーンでは、同時に斬首される牛のイメージが繰り返しカットバックされる。単にイメージの比較としてだけ見ると古くさいモンタージュであるが(それ故に、このカット・バックは多くの批難を浴びるであろう)、ここでは、両者のイメージがないまぜになってボルテージを上げてゆき、ついには、父性超克の儀式へと昇華される。そしてその瞬間から、ウィラードは「見る側」から「見られる側」に変わるのだ。新しき「王」の誕生を知り、敬虔に跪く無数の人々。その前に毅然と立つウィラードは、しかし、王威の象徴たる剣を捨てて、王権を拒絶するのである。
それは、カーツ=時代という名の病いの継承を担することであり、携えたカーツのノートこそは、新しき時代を模索する為の「黙示録」であろう。
D・H・ロレンスの言うように「老境から輝かしい青春時代へと立ち戻るのがアメリカの本当の神話である」とするなら、そんな神話のオプティミズムは、最早ここでは否定されている。なぜなら、終幕のウィラードとランスの「父子」の旅立ちには、何の確信も歓喜もないからである。
コッポラが我々に最後に提示したのは、全くの疑問符であり、巨大な石像とダブってゆくウィラードの瞳は、彼らのポート=時代の行方を見すえているが故に深く不可知の色をしているのである。
そして、カーツの語る「恐怖」とは、まさに「選択」における恐怖であり、それは次の時代へと手向けられた言葉なのだ。
「去り行く一切は比喩に過ぎない」とすれば、「ベトナム戦争」は、オープニングと、このラスト・シーンのウィラードの瞳によって括られた、コッポラの壮大な比喩なのである。(4835WhiteakerEugeneOregon97405U.S.A.)
石川文洋
あの豊富な物量と、一時期においては六十万近くの大軍のアメリカ兵を送っても勝つことのできなかったベトナム戦争とは、いったいアメリカにとって何であったのか。
「地獄の黙示録」はそういった疑問に対して、ベトナム戦争に介入したアメリカ軍は狂気であったという視点で答えている点が大変面白かった。これまで正義の味方の米兵が、パールハーバーを闇うちにした日本軍を、またヨーロッパを侵略したドイツ軍をどんどんやっつける映画を我々は見せつけられてきた。この映画ではベトナムの解放部落を攻撃する場が迫力のある戦争場としてひとつの見せ場になっているが、アメリカ兵たちがどんなに格好よくベトコン"をやっつけても、それを世界の誰れも支持していなかったことを製作者のコッポラ監督は認識している。
この攻撃場面では、ヘリコプターに乗った第一騎兵師団の米兵たちが空からべトナム人の部落をロケットや機関銃で襲撃するが、決してオーバーな表現ではない。むしろ、現地で従軍した目で見ればひかえ目な位である。アメリカのベトナムに対しての行為はもっとひどいものであった。あの小さなベトナムでアメリカ軍によって使用された火薬は七七〇万トン、広島型原爆の三八五発分ともいわれている。沖縄の基地をとびたったB52爆撃機から人間の倍もあるような三千ポンド爆弾が北ベトナムやカンボジア国境にどんどん落とされたが、その爆弾一個で映画に出てくるような部落は吹き飛んでしまうだろう。
私もこの映画にも出てくる第一騎兵師団には何度も従軍した。映画と同じ頃の一九七七年、ビインディン省でのヘリコプター作戦に従軍したが、ちょうど映画と同じような作戦で、あの当時の悲惨なベトナムの部落の人々を思い出した。そういったなかで、あのキルゴア中佐のような人間もいたし、大きな基地ではボブ・ホープやアン・マーグレットといったた。俳優も来て盛大なショーも演じられていた。
この後も、もっともっとあの気狂いのような戦争を表現する映画の出てくることを期待している。(朝日新聞社カメラマン)
阿久悠
戦争を見た。
戦争映画を見たという客観性は、二時間三十分の上映中に一度も生まれなかった。
ぼくらは、フランシス・F・コッポラという男の誘いで、地獄巡りをさせられた。
地獄の恐怖は、暗黒の恐怖ではなく、快活で明朗で喜びに満ちている故の、大人のディズニーランドの恐怖である。
後半、マーロン・ブランドのカーツ大佐が登場してからの”狂気の王国”にはむしろ地獄がない。苦悩する人間の狂気は地獄とはいえない。一見地獄の様相を呈しているが、「地獄だ。地獄だ」と絶叫する人を持つということは人の世界がある。
地獄はむしろ前半。
ロバート・デュバルの空軍騎兵隊キルゴア中佐が、サーフィンに適した場所を確保するために、大量のナパーム弾をジャングルに撃ち込み焼き払うシーンである。
場内に、ワグナーの「ワルキューレ騎行」が高らかに鳴り響き、妙に明るい気分のジャングルの俯瞰図がひろがり、空軍騎兵隊と称するヘリコプターの爆音が腹の底をゆする時、ぼくは、ほんの幼児だった頃の潜在的といっていい程のかすかな記憶、青空に突然現れたB29の機影と海鳴りのような爆音を思い出したのだ。
それは数瞬のことで、むしろ意識の断絶といえるくらいのものであるが、戦争映画ではなく戦争を見たという恐怖と昂揚はそこに根ざしている。
空軍騎兵隊が証明して見せた、快活で明朗で喜びに満ちている故の恐怖。戦争という最大の地獄が、実は、このキルゴア中佐が見せる恍惚の表情によって成立しているのではないかと思わせる恐怖。
ぼくには、その瞬時の恍惚こそ地獄に見えるのだ。戦争に、美意識と、魅惑と、恍惚が存在する限り、人は戦いつづけるに違いないと思えるからだ。(作詞家)
青山南
コッポラが下敷にした「闇の奥』には随所にクライマックスがあって、どこのどれに比重をおくかで読後の印象はがらりと変わるといわれており、じっさい、変わる。このことはそのまま、「地獄の黙示録』にも当てはまるようだ。マーロン・ブランドにするか、ロバート・デュバルにするか、はたまたマーチン・シーンにするか。
デュバルの無責任痛快爆撃アクションに心ときめかした二時間のあと、ぼくは、ブランドの登場と同時に、だんだんダルな気分になった。これは、多分、そのあたりから、〈殺戮の美学〉といいかえてもいい<芸術性〉が突如として姿をみせたからだろう、とおもっている。たしかに、河を深くのぼるにつれて〈殺しの芸術品〉が色濃くなってくるさまは、ヴェトナム戦争が深まるにつれて、殺しを<芸術>とでもおもわなければやってられなかったにちがいない一部の知的米兵らの存在を想像させて、暗示的だ。なるほど、ブランドは知的でもある。長いこと殺しをやると、どうしてもそれを〈芸術〉にしたい知的欲求は分らないでない。
だが、殺しは、<芸術〉であるよりは、無責任でエンタテイメントに近いほうがはるかに健康的だ。それに、ヴェトナム戦争での多くの米兵らの殺しへの心意気は、サンパン舟を不意に撃ちまくるサム・ボトムズのような、無責任で一瞬の<恐怖〉に支えられていた。ブランドが仰々しくつぶやく〈恐怖〉、なにやら芸術臭がぷんぷんとする観念のごとき<恐怖>ではありえまい、とおもう。
デュバルの馬鹿馬鹿しさは芸術とは無縁で、健康そのものだった。そこが魅力だが、よくよく考えると、そのエンタテイメント的殺しこそが、観ているほうには本当の<恐怖〉なのである。芸術よりはエンタテイメントのほうが、じつは怖い。だから、クライマックスは、僕にとっては、ロバート・デュバルである。翻訳家
河原晶子
男の肉体がこれほど苦悩と、そして官能に彩られた映画を観たのは、あの「ラストタンゴ・イン・パリ」を別にすればおそらくはじめてだったのではないだろうか。サイゴンの安ホテルの一室、薄暗がりの中からおぼろげにみえてくるウィラード=マーチン・シーンと、川の奥地の寺院の闇の中でけもののようにうごめくカーツ大佐=マーロン・ブランドが、ウィラードのカーツ暗殺という行為によってひとつの肉体と化するラストのあの一瞬、この映画はベトナム戦争という時間をのりこえて超現実の世界へと突き進んでしまう。ちょうどスタンリー・キュブリックの映画「2001年宇宙の旅」....におけるボーマンの最後の旅のように・・・
狂気の人間だけが"真実"をみているという主題は、これまでにもムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドウノフ」やシェークスピアの「リア王」の"フール"役によって示されてきたことだけれど、ベトナム戦争を通して"人間の地獄"をみてしまったカーツの狂気を、けっしてヒットラーやあの人民寺院のジョーンズ牧師に例えてはならないと思う。もしも他に例えられるとしたら、それはニーチが描いた"ツァラトゥストラ"以外にはないのではないだろうか。"ツァラトゥストラ"が私のゆきすぎた思いいれだというなら、「ラストタンゴ・イン・パリ」のあのポールに例えてみてもいいと思う。地獄"をみてしまった人間にとって、残された手段は"ただ死"のみなのだ。こうしてカーツはウィラードの短剣を待ち、ポールはパリ娘ジャンヌの銃弾を待った・・・・・。
傑作とは、思想を越えて官能へと達する作品をこそいうのかもしれない。映画「地獄の黙示録」は、この上ないセンシュアルなイメージに満ち満ちた映画だ。マーチン・シーン、デニス・ホッパー、フレデリック・フォーレスト、そしてフランシス・コッポラ、そして最後にマーロン・ブランド、この狂気の地獄をみてしまった男たちに対して、いったい私たち女は何をしてあげられるというのだろう!もう一度くり返すけれど、これほど悲しくこれほど官能的な男たちを観たのは、この映画がはじめてだったと思う。(音楽評論家)
佐藤忠男
昨年のモスクワ映画祭で、この作品が特別招待作品になっていた。そのことが上映の数日前に公表されると、ひじょうに多くのソビエトの映画ファンがこの映画の切符をほしがった。上映は会場の手違いがあって深夜になり、長時間外で待たされたが、誰も不平を言わずに待った。
真夜中に上映が終ったとき、珍らしいことに、拍手はごくまばらにしか起らなかった。人々は失望したのではない。くたびれて生理的にまいっていたせいでもない。明らかに、この映画の主題と表現にうちのめされていたのである。
会場の客の半分は外国人、半分はソビエト人であったが、そこに社会体制の違い、イデオロギーの違いはなく、皆が共通に、人類の終末という感覚を受け、黙々としてその思いをかみしめていたのである。拍手どころではない、という切迫した情念が会場の全体をつつみ込んでいたのである。
たとえばヘリコプターの編隊が海岸の村落におそいかかるシークエンス。そこには、人間を虫けらのように殺すことの残酷さが描かれているというより、人間を虫けらのように殺せたらどんなに痛快だろうという残酷な気持が描き出されていると思う。それはアメリカ映画の伝統のある一面の集大成でもあるから迫力があるのだが、同時に、それがついに到達した華麗なる破局を示している。アメリカ映画が追求してやまなかった”男らしさの神話"が、いまここで、悶え死にしようとしているのである。
いや、それは単なる見せかけで、この情念はついに世界の終りに至るまで止みはしないだろう。こう思わされることによって、拍手も出ないほど打ちのめされるのである。もちろん、それはソビエト人間にとっても他人事ではなかったのである。(映画評論家)
川本三郎
壮大なる失敗作という印象が強い。前半のロバート・デュバルで代表されるヤンキーらしい乾いた狂気と、後半のマーロン・ブランドが出てきてからの湿った狂気がどうしてもつながらない。
ベトナム戦争のメタフォーとしてのヘリコプターを惜しげもなく投入した前半のスペースオペラのような戦闘シーンの壮絶さに比べジャングルのなかの帝国はあまりに矮少だ。
といってこの映画をアジア人を差別している"という理由で批判するのは間違っている。
そもそもベトナム戦争がアジア人に対する差別で始っているのだから、その戦争を描こうとしたらきれいごとではすまないのは当り前だし、戦争の一方の当事者にとって��客観的真実"の立場などありえないのだから。
アメリカにとってベトナム戦争ははじめての敗け戦さだったと同時に、はじめての「アジアとの出会い」、異質な文明との闘いであったことはいうまでもない。この映画の失敗は残酷性と神秘性が同居するアジアという異質な"文化のジャングル"をあまりに図式的にとらえすぎたところにあるのではないか。
ラストのマーチン・シーンによるマーロン・ブランド殺害は、文化人類学のおなじみのテーマ、王殺しと王の再生の図式そのままだしブランドの机の上にフレイザーの「金枝篇」が置いてあるというのもできすぎでかえって鼻白む。ブランドが「地獄の恐怖」を語る時にエリオットの出来合いの言葉を引用するのもどうか。
コッポラはフレイザーもエリオットもコンラッドも無視して、ベトナムの泥沼のなかに這いつくばったヤンキーにしてはじめて語れる"自分たちの言葉"でこベトナムの狂気を語るべきではなかったか。その点で前半がすぐれているのは「ディスパッチス」というヤンキーの言葉でベトナムを語った名著の作者マイケル・ハーの功績が大きいためだろう。結局、ブランドを見に行ってロバート・デュバルに圧倒されて帰ってきた、というのが第一の感想である。
マーチン・シーンは河を上るのではなく逆に河を下っていって最後にロバート・デュバルに出会ったほうがよかったのではないか。(映画評論家)
高橋章子
私は、言葉の多い人間だ。コイツの、一体どこがどう"サイコ!"だったのかを伝えようと、必死になって言葉を探す。
映画つうじゃなくっても、何カ所もラストシーンが含まれていることや、莫大なフィルムが使われたことはパンフレット片手に説明はできるのだけれど、いく言葉を探しても、一番言いたい肝心なコーフンをどうにもうまくに喋れないもんだから、私はイライラして黙ってしまう。
社会集団の中でのみ有効な規律、その集団の中で自己を管理すること。どれだけ自分の皮膚感覚に忠実に、バケモノ(社会)集団の中で自分を生きるか―今の私には、そのことが、けっこうな関心ごとだ。
で、また、逆にそのことが、ぜんたい何になるのかと、無意味の間につきまとわれて不安がる。大海に放り出された泳げない子羊のように、おびえた目をして不安がる。
「アポカリプス」にちりばめられた、心臓を激しくノックする音やサイケデリックな色彩や構図や、これは確かにベトナム戦争を扱った映画だ。
けれど、私には遠くベトナム戦争の映画"であって、そうではないらしい。
2時間と30分、私の穴ぼこだらけのチーズみたいな現体験を、ザッザッと侵食して、私に言葉をなくさせる。
だから私は、イライラして、そして脳を執拗に刺激されたままの状態で、黙りこくってしまうのだ。(「ビックリハウス」編集長)
長谷川和彦
馬鹿な評価ではあるが、前半120点、後半30点というのが「地獄の黙示録」を見ての率直な印象だ。空軍騎兵隊を率いるロバート・デュバルがサーフィンをさせるためにベトコン村を急襲するジャングル掃討作戦のシークエンスは、まさに戦争そのものをフィルムにおさめた初めての映画といっていい。すばらしい迫力だ。ファントムジェットが飛び交い、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をボリューム一杯に挙げての殺戮シーンは、人間が本能的に持っている戦争をすることの快楽を徹底的にあばき、 ベトナム戦争に対するジャーナリスティックな視点とはまったく違う戦争そのものを醒めた眼でとらえ、秀抜だ 。
しかし、コッポラが本当に分かっていたのはこのジャングル掃討シーンまでで、マーチン・シーンがマーロン・ブランド扮するカーツ大佐に接近するに従って作家の深い混迷を象徴するかのように、ナイトシーンが多くなっていく。まるでキリストのように、そして阿片窟の廃人のように、カーツは描写 される。いかなる時でも・闇の奥・に蠢き白日のもとに現われることはない。カーツを白日のもとに晒し、その正体を見極めようとする作家本来の視点がそこにはないのだ。いくら闇をうまく撮っても闇は闇にすぎないのであって、その視点が欠落している限り、王国そのものの存在は浮かび上がってこない。おそらく、カーツとはいったい何者なのかという疑問がコッポラには最後の最後まで解けなかったのだ。
コンラッドの「闇の奥」をベースにしたことは非常に興味深いのだが、文明人が未開地に入って王国を築くという19世紀的設定をそのまま現代に移しかえることが土台無理だったのだ。19世紀のアフリカ人たちは決してベトナム戦争を戦ったりはしなかったのだ、という事実をコッポラは忘れてしまっている。別 に彼はアジア人を蔑視しているのではあるまい。単に理解しえていないだけの話だ。王国の人々が誰一人個人としては描かれず、群れとしてしか表現されていないことがそれを物語っている。牛の首を斬り落とすショットをカット・バックさせながらのカーツ殺害のシーンに至っては、今どきの映研青年でもやらないような古くさい手法でコッポラともあろう者が何をしとるのか、と信じられない思いがした。厳しくいえばそれは代替表現以外の何ものでもなく、作家としての正当な表現の放棄に他ならない。最終的に分からないものは分からないと正直に表現することが誠意ある作家の姿勢だと思う。意味ありげな作意は映画の力を半減させるし、悪しき文芸大作風なナレーション過多はコッポラの哲学的混迷の不正直なところだ。
「地獄の黙示録」はコッポラの壮大なる失敗作だが、しかしその失敗ぶりは一見に値する。
立川直樹
「地獄の黙示録」の二枚組オリジナル・サウンドトラックをモチーフとして、コッポラがいかに優れた音楽感覚の持主であるかということは本誌十二月下旬号に書いた通りだが、過去多くの映画が製作されてきた中でこの映画ほど、音楽が単に世間で使われている音楽という言葉以上の意味を持っていた例はないのではあるまいか。
例えば、映画を観たすべての人間にとって忘れ得ぬ体験となるであろうオーブニングシーンにヘリコプターの爆音と交錯して流れるドアーズの「ジ・エンド」の代役をこなせる曲はまずあるまい。また、これも多くの人たちによって語られるであろう、ワグナーの「ワルキューレ」とともに始まるヘリコプターの攻撃など、「地獄の黙示録」では音楽が従来の映画音楽の概念とは全く違ったところに位置している。
勿論、過去にそうした例が全くなかったというわけではない。キューブリックの「2001年宇宙の旅」での「ツァラトゥストラはかく語りき」、それにロバート・アルトマンの「ギャンブラー」のオープニングシーンを鮮かに色彩っていたレナード・コーエンの歌・・・。音楽の使い方のうまさでは定評のあるルイ・マルの作品にもいくつかの印象に残るものがある。
だが、若い時分には音楽で身を立てるために修業を積み、チューバに非常な熟達をみせ、ニューヨーク軍事アカデミーから音楽の奨学金を獲得したという経歴の持主であるコッポラが、元NBCテレビのフルート奏者であり、作曲家、指揮者でもあった父親のカーミン・コッポラとものにした音楽、父殺しの叫びをモリソンがあげる「ジ・エンド」をはじめとして、選択した既成曲は、ただ強い印象を残すなどというのではなく、「地獄の黙示録」を一軒の家と考えるなら、梁のような役目を果たしているのである。美しく細工されたドアでもなければ、ましてや垣根などでは断じてないのだ。
"これで終りだ、美しき友よ/これで終りだ、たったひとりの友よ/終りだ、君を手離すのはつらいが/どうせ俺については来ないだろう/冗談や罪のない嘘も終りだ/俺たちが死のうとした夜も終った/これで終りだ"(今野雄二・訳)という「ジ・エンド」の歌詞がどんな意味を映画に持たせているかを説明する必要はあるまい。コッポラ父子によって書かれたミュージック・コンクレート的要素をも感じさせるオリジナル・スコアも映画の中で強力な役割を果たしている。
全く凄い男が凄い映画を作ったものだ。(音楽評論家)
マルセル・マルタン
映像の世界に職を持つものに止めをさすような表現力である。とりわけ私は、ヘリコプターの役割に圧倒された。
冒頭、小さなシルエットになって這うように画面をゆっくり移動するヘリコプターが、それだけで観客を果てしない緊張の中にひきずりこむ。ヘリコプターはやがてロケット弾の雨をジャングルに降らせ、反転飛行し、観客を空中に放り出し、ほんろうする。
ナパーム弾を超低空から投下するジェット攻撃機の頭上に連れ出し、逃げまどう村民の頭上を襲う。
いうまでもなくヘリコプターはベトナムのアメリカ軍によって、対ジャングル主力兵器の王座を一躍与えられた恐怖兵器である。ヘリコプターはその低速性と接近能力によって恐れられたのだが、コッポラ監督の鬼才は、兵器としての性能を一〇〇パーセント駆使することによって、この映画のテーマである「恐怖」の表現に成功した。コッポラは、彼の哲学の表現に、最もふさわしい芸術上のかたちを発見したと私は信じている。彼のスタイルは、リアリズムではまったくない。彼は、我々に、これがいかにも真実であるかのごとく思わせるようには描かない。我々の胸をうつようにも仕向けていない。ドキュメンタリーでは更にない。これは、我我の想像を絶した、気狂いじみた巨大な悪夢、そのものである。(仏・映画評論家)
山川千秋
この映画は、知的にも芸術的にも成功した壮大な野心作である。
ジョセフ・コンラッドの小説、旅の奥義を極める「闇の奥」に触発されたもので、ウィラードがナム川を遡る過程において、彼の旅の動機が明らかにされてゆく。彼の殺す相手、カーツ大佐は、二重スパイ四人を命令なしに殺した。一方、彼を糾弾する軍本部は、正式作戦により、村々でベトコンと疑われる四万人を殺しているのである。カーツは優秀な軍人である故に、どんなことをしても戦争に勝ちたかった。そのために殺人者になったのだが、そこまでは彼の精神は明晰なのである。しかし殺人者となったその時から、彼はもはや軍人ではなく、彼の魂は病むのである。
この映画は、非常に手厳しくヴェトナム戦争を批判し、告発し、そこに愛国的救いをまったく認めていない。この点において「ディア・ハンター」とは立場を異にする。また、ここに登場する人間すべてが、正常ではなく、狂っている点でも、まったく今までにない新しい映画だと思う。この映画は、絶対権力による人間の堕落を反映させた、一つの寓話でもある。カーツは、部下も含む原地人に対して、神のような存在となる。この関係は、ある時代のドイツ人とヒットラーの間にもみられたものだ。
気になる点がないではない。例えば、ベトナム山岳民族はたしかに米特殊部隊が利用したが、カーツ大佐のような白人を「神」として崇める程「未開」ではないということだ。アジアはアフリカではない。「カーツの城」は、白人・キリスト教圏の終末的世界像の縮図であり、あきらかに、ジョセフ・コンラッド好みの「十九世紀的植民地はぐれ者メンタリティ」の延長線上にある。だから最後の四〇分間は、欧米では受け入れられても、日本では理解されないのが自然だと私には思える。
だからといってこの映画の説得力はやはり巨大である。ひょっとして、アメリカにとってのベトナムは、「イラン」にまでつながっているのではないか、と思いかけた人は、その時すでにコッポラの術中に陥っているのである。ベトナムの狂気に観客を強制参加させることによってベトナム以後を語る。これがコッポラのメッセージなのだから。(ニュースキャスター)