堤夏彦


8月15日(水)午後4時45分

ニューヨークの西4丁目にあるジーグフェルド劇場の前には2つの長い行列が出来ていた。1つは6時の回を待つ限定席券所持者の列。もう1つは明日16日以降の券を買う人の列である。6時、9時の当日券は既にソールドアウト。“ニュージャージーから来たのに...などとつぶやきながら不満を不満そうに2つの列の中間に立ってあきらめないでいる人、走り回るテレビ・ニューズのキャメラマン、フォトグラファーのフラッシュ騒然たる雰囲気である。東京から飛んで来るジャーナリストや配給会社の友人、知人の券を買うために、私は後者の列の中にいる。折からオフィスのひけどきで、2つの列はどんどん長くなってゆく......やがて前の回が終わり、案の定、打ちのめされたような顔つきの人たちがあふれ出て来た。その群れの中にもテレビ・ニューズの記者たちが殺到していった!
 以上は初日の劇場前風景だが、初日の直前になって初めて爆発的な話題になったようである。昨年末の「ディア・ハンター」の前例にならった限定席券前売という、この国では一般化していない公開システムなので、前人気を判断するのは大変に困難だったろうと思われる。本来が定員というより定席以上は入場券を売らず、立見で映画は見せないのがこの国の映画ビジネスの慣習である。消防法によって定められた規則であると同時に、均一の料金ならすべて着席してスクリーンに向かえる条件も平等でなければならないからである。
 当然、このシステムは、人気作品に売り切れを頻発させる。日本ではその時逃がした客は戻って来ないと信じられている。同額を払いながら、観客側にも立見を不服としない不思議な寛容さがある。だから”満員”はあっても“売り切れ”はないわけである。上映時間2時間30分の「地獄の黙示録」あたりから日本でも作品によってはこのシステムを取るようにしてほしいと思う。映画はやらずぶったくりの商売で見せるものではなく、何かに追いかけられながらワイワイ、ガサガサと見るものでもないことを、改めてジーグフェルド劇場で痛感した。

超話題作に対する一般観客の率直な反応は?

ヴェトナムで戦った私には、「ディア・ハンター」は作られたこわさでしかなかった。しかし、「地獄の黙示録」はヴェトナムそのものの再現だと思う。当時の恐怖が同じ次元で描かれているといえるのだ!
 こう語ったのは、30代半ば、小柄な体を純白のポロシャツとGパンに包み、大きなサングラスの下に表情が見えない男性。8月17日(金曜)夜のCBSテレビ・ニューズがレポートしたリアクション。

アパアポ・・・・・・どう発音するのかしらねぇ。と、ひとりごととも周囲への質問ともつかないコトをいっていたのは、私の前の前売窓口の行列の中にいた白人の老婦人。アポのポにアクセントがつく「アポカリプス」という読み方も意味も知らない人たちが意外に多かったのは発見であり、私も詳しくは知らないが、この国の人たちは宗教的教養として知っていてもよいはずなのにと、これは少なからぬ驚きであった。しかし〈ニューヨーク・ポスト紙(8月15日付)>が批評、紹介の頭に入れた「今年最大の話題作」の表現が示す通り、公開直前に最大の話題作になり得たのは、600万ドル(約1億円)と5900万ドルともいわれる巨費を投じたテレビの集中CFとメージャーの新聞、雑誌をすべてピックアップした見開き、または1ページによる連続広告が効を奏したものと思われる。「その完成公開が、かつてこれほどに渇望された映画があったろうかーー」というコメントやコピーが問題作のイメージを作り上げ、いやが上にも高めていったに違いない。
 新聞や雑誌が新作の批評、紹介をするように、こちらではテレビのニューズが専任の評論家を置いた映画のコーナー”ニューズとして報道するが、今回は特別に劇場取材も行われる異例となった。話題作の話題作たる所以でもある。

待っていただけの価値はあった!アメリカン・ジャーナルの視点

コッポラはヴェトナムにくりひろげられた地獄の恐怖とジレンマを、フィルムによって我々に体験させる」と書いたのはニューヨーク・ポスト紙〉のアーチャー・ウィンステ記者「監督として、製作者として今が最盛期のコッポラはここに真価を発揮したが、この作品が興行的に失敗すれば、優れた内容の作品を作りながらも、製作に投じた3000万ドル(約1億円)のために破産させられることになる。(中略)私は彼の幸運を祈るだけである。彼を失えばアメリカ映画は明らかに貧弱になるに違いないからだ」ともいっている。勿論、悲観的にではなく・・・。
 これだけのテーマを持った作家ならいろいろと論じられるのもまた当然である。デイリー・ニューズ紙〉のキャロル女史は3つ星半集しつし、"コッポラの製作意図は、何百万と言うアメリカ人に対し、それぞれの落ち着いたリングルームの中にあって、残念にも十分には知り得ていなかったヴェトナムの恐怖と狂気を告げることであった。そして完成したこの作品は、戦争の愚かさ、残酷さ、人間性のモラルを奪ってゆく罪悪を、結局は地獄を呼ぶだけの戦争だということを、史上に類のない力強さで描き切っている”といいながらも30分間ほどのラスト・シークェンス、カーツ大佐(マーロン・ブランド)とウィラード大尉(マーティン・シーン)が対決する王国の描写は必ずしも成功していないと意外にも点が辛い。
 このラスト・シークェンスというのは、脚本の下敷きになったジョゼフ・コンラッドの小説「闇の奥」が表面に浮かび上がって来るところで、この映画のキーポイントになる部分である。
 一緒に並んで見た私の友人M嬢の英語教授であるコロムビア大学のジョージ・ホワイトサイド氏の言葉を借りよう。少し前までシティ・カレッジで英文学を講義していた。いわば本職のテリトリーであり、映画ファンでもあるから、私は信頼に値すると思っている。クルツ(晩年のカーツ)をコンゴの奥からカンボジアの奥へ移してヴェトナムを語ろうというアイデアがまず優秀だよ。芝居を見せるという役ではないので演技派で鳴るマーロン・ブランドには気の毒だが、仏像を思わせるあの姿だけで十分だと思う。ラスト・シークェンスまで来る全体の5分の4に当たる部分でウィラードと4人の部下に戦争下の”旅”をさせつくして、いま1つのテーマも語られているから、最後にドラマが白熱しなくてもいいんだ。それをやったらハリウッド映画のルーティンになってしまう"
 それでも現実に"セシル・B・デミル映画のセットみたいだ"(キャスリーン・キャロル女史<デイリー・ニューズ紙〉)と意地の悪い酷評をする向きがあるほどだ。
 更にM嬢と私を感動させたホワイトサイド教授の論を続けよう。”キミたちのトージョー(東条英機)が犯したと同じ罪を我々の国も犯したんだとこの映画はいっていると思うよ"
 M嬢と私にとってはアメリカ人、それもインテリの口からダイレクトに聞く初めてのヴエトナムへの声であった。
 

R指定(成人向き)作品だから、若い10代の姿は目につかないが、客層は男女の差も平均が取れ、年齢にも幅がある。私の隣席にいた大学生とおぼしき青年2人のリアクションが印象的であった。例のサーフィンをするためのナパーム弾攻撃の大スペクタクル・シーンに、両手のこぶしを握りしめて胸の前に立てながら、小刻みに体をふるわせているのである。サーフィン用にいい波を作るのだ�≠ネどというセリフには本来ならゲタゲタと笑い出す彼等のはずだが、恐怖とも憤りともつかぬ顔をしてふるえているのだ。どんなに暴力的なシーンであるか、わかって貰えるだろうか?*


 アメリカ人は何事によらず、正直にリアクトしてみせる国民である。だから、この作品にも拍手をした人がいた。いたけれども、湧き上がるような大きさ、強さに今回はならないて終わる。ということは、打ちのめされてしまう人、悲しくなる人、怒りを覚える人と、さまざまにリアクションは違っても、エンターテインメント映画を見た後の幸福感だけは生まれようのない作品だということである。
 好き嫌いは自由だが、従来の、それも旧ハリウッド映画と同じ次元で見ることは勿論、例えば3つ星半などという採点つきの批評もさけなければならない種類の作品である。既に紙数が尽きてしまって紹介できないのが残念だが、ヴィンセント・キャンビー氏による<ニューヨーク・タイムズ紙〉の批評が、冷静視点を据えていて、私は好きだ。ストーリーを追いながら、コッポラの意図とテーマを解説し、単なる視覚的な印象を超えたその奥を理解しようとする優れたものだからである。ーーコッポラが人間の心の奥を覗こうとしているように。
 昔のハリウッドの超大作「クレオパトラ」にも似て、この映画は難航を極めて金を食ってしまった。その製作費の大きさ、3年を越える製作期間の長さは、そのままコッポラ監督が人生を賭けようとしたテーマの大きさ、その映像化の困難さを物語っているといえるそれが国民映画とさえ呼べるスケールをも備えさせたのだと思う。
 人が集まる所では必ず話題になっているという、今いちばんホットな作品である。

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