黒井和男


壮大な愚挙かハリウッド最高か


 「地獄の黙示録」ほど公開後アメリカで賛否両論がうずまいた作品も珍らしい。
 これはヨーロッパ諸国での反応と、まったく違うのだが、それは人間の狂気ということを作品のテーマとしていることと、ベトナムを舞台としていることのためである。アメリカはベトナムの当事者であり、その点、日本人の私達は客観的にいえば第三者なのである。つまり、当事者であるかないかが、作品そのものの評価に微妙な影響を与えていることは否ない事実だろう。
 「地獄の黙示録」は作家の視点を、ベトナム戦争そのものを否定するところに置いているが、アメリカという国そのものは、過去をすべて否定することはしない。むしろ、肯定した上で前向きに善処するというのが一般的なあり方なのである。それ故、否定する側にまわってしまったこの作品は、そうした国民感情からすると面白くないのかもしれない。
 実際、ベタホメの記事から、まったくクソミソにやっつけた「地獄の黙示録」に関した記事を目にすると、さすがアメリカのジャーナリズムはすごいことを書くものだと改めて感心してしまうのだ。
 映画が話題作としてある種のブーム現象を起すには、絶対的に賛否両論が出なくてはならない。波紋がそれだけ大きく広がっていくことになるからだ。過去を例にとってみても、「エクソシスト」「タワーリングインフェルノ」「ジョーズ」「スター・ウォーズ」といずれも賛否両論が起って、映画の話題性に拍車をかけたものだ。
 日本でも、それは同じで、最近のビッグ・ヒット作品の「八甲田山」「宇宙戦艦ヤマト」、それに「人間の証明」「野性の証明」といった作品は、賛否両論がうずまいて、ブームとして成り立っていたのだ。
 「地獄の黙示録」は名作として、映画史に残ることはないだろう、と思う。作品の内容的な価値に対しては、筆者自身もうひとつふっきれていないものがあるからだ。しかし、コッポラの執念が実った話題作ということでは、映画史に残っていく作品であることに間違いがない。それだけ話題作としてのすごさを持っている作品なのである。
 それにしても悪口というか、この作品に投げつけられた悪評だけを拾い出してみても、ここまでくると悪口も宣伝のうちということがはっきりといえる。
 ベスト・ワンを選ぶと同時にワーストワンを選ぶ試みが行なわれているケースがあるが、ワーストワンになるには多くの人に見られていなければならない、という現実がある。まったく無視されて見られてもいない作品は選ぶにも選びようがないからだ。そういった意味ではワースト・ワンは、絶対的な話題作でもあるといえるのだ。
 「地獄の黙示録」は、もちろん悪評ばかりでなく好評もかなり多いのだが、壮大な「タイム」の"ハリウッド初まって以来の愚挙�≠ニいう言葉を筆頭に、コッポラは戦争以上の浪費をした"という具合のものまで、否定はそれこそ信じられないくらい激しいものであった。
 片方でハリウッド最高とほめられ、片方で最大の愚挙といわれる。このけなし方もいかにも大作らしくスケールが大きいのだが、そうするとおかしなもので、これだけスケール大きくけなされると、いっぺん見てみようか、という気になってくるものだ。
 それだけ話題性は強く、ひとことでいえばすごいということになる。どうせけなされるなら、ここまでいわれた方が気分はさっぱりするだろう。
 封切前には、コッポラはいま崖っぷちに立っている。彼は鳥のように翔ぶか、石ころのように落ちるかのどちらかだ、といわれたが、封切後には一応一八〇〇万ドル(約四〇億円)の個人借財は返せるメドが立ち、結局、コッポラは鳥になったのだが、個人でこれだけのことをしたのだから、日本人の私達からみると、壮挙であることに間違いのないことである。

作品の格とコッポラの執念


 さて、その「地獄の黙示録」は東京・有楽座の先行ロードショーを皮切りに、ついに三月に全国一斉公開の運びとなった。
 すでに多くの人達がアメリカでこの作品を見ているので評論レポートの文章を一度や二度は読まれた方も多いことと思う。
 日本人の見方も賛否両論だが、概して賛の方が多く、否の方が少ないのは、先ほども書いたように、我々がアメリカ人と違ってベトナムの当事者でないことと、コッポラの執念に押しまくられた、ということがあるからだろう。
 しかし、客観的にみて「地獄の黙示縁」が大傑作であるかどうかは甚だ難しい問題だ。壮大なケナし方は好き嫌いの問題だと思うが、もろ手を上げてすべて賛をとなえるものであるかは疑問なのである。
 それはそれとして、日本でも試写がスタートして興行が始まると、かなり賛否両論が起こるだろうことは想像に難くない。
 日本でもまたそれだけ話題作ということである。
 現在の日本の映画観客の主体は話題に加わることにおいて成り立っている部分が多い。つまり参加する必然性がそこにあれば、映画は興行性を持つということになる。
 宣伝も時間と金をつぎ込んで話題性が盛り上っていくものだが、コッポラがバカ金をかけて製作したことと製作についやした時間は、細く長くパブリシティとして積み上げられてきている。みる側の見たい意欲はこうしたことの積み重ねなのである。早い話、話題を作り上げる宣伝はシツッコさなのだ。このシツッコさを金でやるか知恵でやるかなのだが、コッポラは知らず知らずのうちに長いこと時間をかけて、それに成功しているといえるだろう。
 この作品は、今後いかにみる側に見た意欲を大きく広げていくかにかかっている。
 カンヌ映画祭のグランプリもモスクワ映画祭での話題もまだまだ一般的なところまでの広がりはないが、何となくすごい作品らしいというイメージは成り立っており、今後はいかにけたたましくするかにかかっているといっても過言ではあるまい。
 興行的な見地でいえば「地獄の黙示緑」という題名はかなりハードで固い。とっつき難い感じが強いのだ。これは大きなデメリットである。原題の「アポカリプス・ナウ」にしても日常語ではなく、アメリカ人達は略して「アポ」という。
 また、この映画からベトナム戦争という背景は消そうとしても消えるものではなく、単純ないい方をすればまぎれもなく戦争映画である。その戦争映画というジャンルをもうひとつ飛び越えることが、この作品の興行をより大きくすることにつながっていくのだ。とっつき難さ、戦争映画、ベトナム、映画が単純にそう大きくならないデメリットはこの「地獄の黙示録」には多い。
 しかし、このデメリットはいいかえると、メリットでもあるのだ。作品の格、コッポラの執念といったもので、デメリットを吹き飛ばした時、勢いが倍加する可能性も強い。
 「地獄の黙示録」は必然的に絶対的な男性映画である。男性の好む条件があまりにもそろいすぎている。いいかえると、女性が好む要素が少ないということにもなる。
 この「地獄の黙示録」が八〇年代初頭に位置し、八〇年代の大人の映画を象徴するとしたら、少くとも四〇〇万人以上の人々が劇場へ足を運ぶ必要があるのだ。いかにして女性を吸引するかにもかかってくるわけである。
 「雨の中の女」「フィニアンの虹」「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPARTII」「カンバセーション・・・盗聴・・・」と動いてきたF・F・コッポラは、いずれにしても、壮大な成功か失敗を「地獄の黙示録」で日本の観客にみせつけるだろう。
 偉大なといわれるフィルム・メーカーのコッポラは次にいったい何をしようとしているのだろうか。「地獄の黙示録」を見終ってしまった現在、僕はふと、そんなことを考えている。

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