佐藤忠男


 「影武者」には、いくつか、粋を飲むほどに素晴らしい場面がある。例えば高天神上攻防戦のシークエンスである。騎馬軍団の戦闘シーンを、ただけんらんと、あるいは激烈に描くというだけなら、これまでに、もっと可憐な合戦映画もあったし、迫力のある西部劇もあった。しかし、こんなに簡潔に、主として敵味方いくつかの舞台の出没のタイミングの鮮やかさによって戦局全体の刻々の変化の様相を巧みに暗示した戦闘場面と言うのは、私はまだ見たことがない。普通なら人馬入り乱れてもみ合いへし合いするところをクライマックスにするものなのに、黒澤明は、そういう演出はすでに7人の侍で誰にもまねることができない限度まで試みているからもういいのだ、とばかり、悠々と省略して、敵味方の虚々実々の用兵の妙に関心を集中させる。しかもそれは夜間シーンであって、濃いブルーの闇の中に騎馬軍団の蹴立て砂塵の美しさという見事なフォトジェニーはあるが、見た目の派手さを第一義とした場面ではない。見た目の派手さをわざと抑え、息をつめて見つめさせることによって、そこにうかびあがってくるのは、何度も何度も、うねるように出撃を繰り返す軍団の行動の間(マ)であり、リズムであり、そのうねりの抑揚感である。つまり空間的・視覚的な面白さ以上に、時間的な面白さであり、映像が音楽的な効果をかもし出すことの昂奮である。もちろんこの時間的なうねりの感覚は、たんに騎馬軍団の動きによってのみつくり出されるのではない。絶えず流動してやまない騎馬軍団の背後に、どんなに敵に接近されて危険が迫っても決して動かない武田信玄(の武者)の本音があるという、動と静の見事なコントラストからこそ生れてくるものである。動きは、ただ動きっぱなしでは、変化がないという点で止まっているのと同じである。動きは、せき止められては動き、動いてはせき止められることによって、リズムになり、うねりになる。それは黒澤明がすでに処女作の「姿三四郎」のアクション場面で鮮かに示していた映画的奮のかもし出し方の原理であって、「羅生門」や、「七人の侍」や、「蜘蛛巣城」で、さらにいっそうの洗練を重ねてきたものであった。その洗練のきわみに、また新たに、この高天神城攻防の名場面が加わったわけである。
 動と静の対比という原理は、さいごの長篠の合戦にも一貫している。武田勝頼の指揮する武田の騎馬軍団が、織田=徳川連合軍が鉄砲隊を布陣して待ちかまえている柵に向って繰り返し全力疾走で突撃を敢行する動的なシーンがいくつも続き、そのたびごとに、激しい銃声が聞え、また攻撃の失敗に驚いているらしい武田勝頼のぶざまな身ぶりが見える。こういう、激しい動きや、やや滑稽な動きを何度もくり返し見せたあとで、画面は一転して、柵の前に一面に静かに横たわっている武田勢の人馬の死体になる。血まみれになって静かに横たわっているその人馬の中に、何人か、必死に立ち上ろうともがいている者があり、立ち上ろうとしては倒れる馬がある。そのゆっくりした動きが、全体の沈黙をいっそうきわだたせる。
 この長篠の合戦の場面は、ファンは当然、武田騎馬軍団が小銃で撃たれて潰滅してゆく瞬間のもの凄い描写を期待するところである。西部劇で見なれているように、撃たれた人馬が転倒したり、侍が馬からのけぞり落ちたりという、サーカスもどきの幻惑的なアクションが見られるものだと思っている。しかし、黒澤明が見せたかったのはそういうことではなかった。勇気凛々たる武田勢が、つぎの瞬間には死骸の山になっているという、変化の大きさをきわだたせることによって戦争の無残さ、残酷さ、無常感を浮彫りにすることであったにちがいない。
 しかし、この場合の動と静の対比は必ずしも成功したとは言えない。それはたぶん、武田勢の勇気凛々たる攻撃というのが、本当に力にあふれたダイナミックなものには見えなかったからであろう。彼らはこれから、全く無駄な勇気をふるおうとしており、突撃する前にすでに敗北しているという印象が濃厚だからである。それは、われわれが史実としてこの合戦における武田勢の敗北を事前に知っているからだけではない。じつのところこの映画では、われわれはそれまで、武田勢の強さというものを、セリフでは聞いているが、眼でははっきり確かめているわけではない。信玄の存在だけで敵の戦意が挫かれるということを高天神城攻防戦の経過で知っていれば、いっそう、その信玄なきあと、武田勢は張り子の虎にすぎないと思って見ている。だから、動と静の対比といっても、動のほうがあまり盛り上らなかったのである。それより、愚かな指揮者の命令の下で無駄な攻撃を繰り返す武田の将兵の愚かさに、ただ憐れみの苦笑をしてしまうのである。
 苦笑する、と書いて、じつは私はハッとする。私が彼らの愚かさを苦笑するのはおかしい、という気持がするからである。この愚かな将兵は、太平洋戦争当時私自身に他ならないからである。この映画は、あるいは、巨大な刺喜劇なのかもしれない、という気がしてくる。最高の権威者がじつは操り人形のような影でしかないのに、その"影の偉大さを信じて、影の周辺から発する命令のままに、なんのためらいもなく死んでゆく虚ろな勇士たち。これは天皇制の下における大日本帝国の運命そのもののようであるし、いまにして思えば、かつての日本だけがそうなのではなく、偉大な国家を自称する国々とその国民には、大なり小なりそういう傾向が認められる。今ますますそうである。
 ただ、そういう諷刺としてこの映画が十分成功しているかどうかという点になると、いくつか疑問も生じる。
 第一の疑問は、主人公の影武者がなぜ、命を賭けてまで信玄に殉ずる気持になったのか、よく分らないことである。信玄の人間的な偉大さに心服したのか。その思想に共鳴したのか。それほど偉大には見えないし、共鳴すべき思想も述べられてはいない。これは信玄を演じた仲代達矢が稚拙だったということではない。ほんのちょっとしか出場がないのだから、偉大さを実感させるということは殆ど不可能である。
 影武者がもし、嘘でもいいから権力者のふりをすることの愉しさのために影武者をやるというのなら単純に理解できるが、そうではなく、故き信玄への忠誠心から懸命に努めるという設定になっているので、さいごまで、それが不思議として残って、物語に感情移入することが阻まれるのである。もしこの映画が、彼の忠誠心の謎を解明し得ていたなら、解明はできないまでも相当に深く掘り下げ得ていたら、ためらうことなく、真に偉大な作品と呼ぶことができただろう。影武者は、信玄の遺体が諏訪湖に葬むられる情景を目撃しているうちに、信玄に殉ずる気持になったようである。「姿三四郎」で、池に一晩つかっていた主人公が、夜明けのもやの中で蓮の花が咲く一瞬を目撃したとき、生きることの意義を悟ったあの名場面を思い出す。しかし、花が咲く瞬間を見て生きたいと思うことは自然だが、ひとりの独裁者の葬式を見てその人に殉じようという気持になるということは、彼の家来でないかぎり、それほど自然なことではない。彼の忠誠心はいったいどこから生れたのだろう?
 第二の疑問は、これは些細なことかもしれないが、信玄の側室たちが、馬から落ちた影武者の肩に川中島合戦のときの刀傷がないと言ってすぐ大声でニセ者だと騒ぐことである。側室たちというのは、教養もなく城の中核を守っているという自覚も足りない女たちにすぎないのかもしれないが、もし彼女たちに、武田家の一員としての自覚が少しでもあれば、ニセ者と気づいた瞬間、これには何か理由があると思いそうなものであり、叫びをためらいそうなものである。武田信玄という武将が、日常接している側室たちにそういう自覚を与えられなかったのに、なぜ一度会っただけの泥棒を心服させられたのであろう?
 この映画の美術は素晴らしい。建築、室内装飾、衣裳や鎧、それらはどれをといって見てもうっとりと何時間でも眺めていたいような気持になる。この壮麗な武装された世界の中心が空虚でおどおどした"影"にすぎないということは、たしかに現代の世界のどの大国にも共通する外見と構造を連想させられて見事なのだが、ではいったい、"影"は何によって"影"になり得るのかという一点の追求が、もうひとつ、あいまいであったと思う。もちろん、それは一本の映画で解明されるような簡単な問題ではないのだ、と言われればそれまでであるが。(映画評論家)



川本三郎


 「風林火山」の「山」とは「動かぬこと山のごとし」であり、武田信玄が「おやかた様」と呼ばれていたのも「じっと動かぬ大将だった」ゆえというためでもあるまいが、この「影武者」を見ていていちばん気になったのは、この映画がまったく「動かない」ということだ。
 合戦のさなか、いよいよ敵方と相対するというクライマックスで、根津甚八が「動くな!」と一声発して、合戦を、つまりはアクション・シーンを阻害したから、この映画は「動かない」というだけではなく、いちばん不満だったのは、この映画が、映画、つまりモーション・ピクチュア(動く絵)の魅力を喪失して、終始、「動かない」絵づくりをしていたという一点だ。
 なるほど、画面は美しくはある。信玄の遺体を水葬する湖水のシーンとか、海のむこうに虹がかかるシーンとか、馬が夕陽を浴びて走っていくシーンとか、美しいシーンはいくつもあげることが出来るが、その美しさはあくまで「絵」の美しさであって「映像」の美しさではない。
 武田信玄ばかりではなく、黒澤明はまったく「動かない」のだ。
 よろいかぶとに身を固めた武将たち、美しい服で着飾った女たち、そして馬。それらが画面のなかにただ置かれている。たしかに武将たちのよろいかぶと姿は凝っている。場面ごとに彼らの衣裳が変っているという凝りようである。しかし、彼らの衣裳が美しければ美しいほど彼らは「動かない」。
 「映像」を見ているというより「絵」を見ている感じである。「映画」というより、これは絵巻物の世界である。
 最後の長篠の戦いなど、どうしてあんな作り方をしたのかわからない。「風」軍が攻撃する。馬が走る。鉄砲が火を吹く。当然、馬からころげおちる兵隊、倒れる馬のシーンがあるかと思っていると、ここがスキップされる。「林」軍の攻撃の際も同様である。
 観客は、ただ、鉄砲がいっせいに火を吹くシーンと、次に、腰を浮かしている武田軍の大将を見るだけである。黒澤明に影響を受けたというハリウッドの監督たちのアクション映画を見続けてきた目には、この省略が手抜き"に見える。無論、単に、馬からころげ落ちるシーンを撮る予算がなかったからではなく、黒澤明はハリウッド的アクション・シーン"を撮ろうとしたのだろうが(記者 会見でたしかコッポラはこの映画をファンタスティック・アクション"と呼んでいたが、それはこのラスト・シーンを好意的に理解してのことだろう)、私にはそれが成功したとは思えなかった。戦がアクションではなく合戦絵巻の世界へと固定してしまう。画面が完全に静止してしまう。黒澤明は、あえて「動かぬ絵」づくりをしようとしたのかと勘ぐりたくなるほどだ。
 小さなシーンだがこんなところも気になった。たとえば信長が居城の馬場で馬を走らせる。カメラは固定されていて馬に乗って走る信長の全体をとらえようとしない。信長の性格のはげしさが乗馬のはげしさと対応しあう筈なのに、かわり画面に再三挿入されるのは、城の天守閣のスチルなのである。馬が走る流動感は、観光絵葉書みたいなお城の「絵」で遮断される。映画はまったく「動かない」。黒澤明は信玄同様「動かない」のだ。
 風景の魅力のなさはどうだろう。
 おそらく、この映画を撮るためには時代劇にふさわしい風景を入念にロケ・ハンして選んだのだろう。電柱一本見えない原野、余分な人家・人影ひとつ見えない河原。現在の日本でそうした時代劇にふさわしい風景を入念に選ぼうとしたら、それは、北海道の原野であり、富士裾野である。つまり、そこはまったく生活の匂いのしない風景、いってしまえば観光絵葉書的風景になってしまう。
 信玄が死ぬシーンなど、観光絵葉書的風景の際たるもので、美しいという以上に、あまりに人工的でスタティックだ。風景自体が美しすぎて人工的だという以前に、いかにも入念にロケハンされた(=人の手が加えられた)過保護な風景であることが人工的なのだ。
 それは湖のほとりにある勝頼の居城の風景についてもいえるし、冒頭の野田城についてもいえる。
 この過保護な風景は、いってみれば、邪魔なものをすべて取っ払った、人間の生活の匂いのしない書き割り的風景である。「七人の侍」が、村とか町とか、人間がたむろする雑然とした雑居状態のなかで窮屈にアクションが展開され、それゆえに逆に、その窮屈さをアクションがひとつひとつ打ち破っていく腕力を感じさせたのと対称的に(いや、そもそも「影武者」「七人の侍」と比較するのも差がありすぎるのだが)、この「影武者」は、邪魔な夾雑物を強権発動によっていっさいとっぱらった人工的な広々とした空間でアクションが展開されるために、逆に、見ていて窮屈になる。広大な原野が画面に見えるたびに息苦しくなる。それは、風景が、風景自体が、そしてその選ばれ方が、二重に人工的だからである。
 原野が広大であればあるほど、馬が多ければ多いほど見ていて息苦しくなってくる。黒澤明はこの逆説の落とし穴にはまりこんでしまった。(工藤栄一の「十三人の刺客」や「大殺陣」がすぐれた時代劇たりえたのは、あのアクションが、刀を振りまわせばすぐに壁や柱にぶつかる、逃げようと思えばすぐに泥土やドブ河に足をとられる、という窮屈な空間で展開されたからだ)。自由に映画を作ろうとすればするほどその表現は不自由に息苦しくなる。黒澤明は不自由の楽しさを知らなすぎたのかもしれない。(不自由に作られた鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」の自由な美しさと、それは対称的である)。
 壮大なスペクタクルを作りたいという気持はよくわかるし、私もまたそれを見たい。しかし「壮大なスペクタクル」とはなにもカネをかけ人馬を調達して物量作戦で映画作りをやることではあるまい。不自由ななかから、その不自由さを逆手にとって不可視の自由という幻想領域に入り込むことこそ自由というべきだろう。(いまにして思えばペキンパーの「ワイルドバンチ」にしたところで、あの窮屈な町のなかでの人馬入りまじった修羅場やスローモーションで橋が落ちるシーンは、不自由から自由への回路の映像表現だったのだ)。
 俳優についていえば、山崎努をのぞいてはまったく魅力がない。シロウト俳優のお粗末さはいうまでもなく根津甚八、萩原健一、と若手は総崩れ。桃井かおりなんてなぜ出てきたのか理解に苦しむ。
 "影武者"とはしょせん、"ヒーロー"を盛りあげるもうひとりのヒーローでしかない。いま、雑兵の時代に、なぜ、信玄や信長や家康なのか。その主人公設定のアナクロニズムにも私などついていけない。
 影武者が信玄水葬の場の神々しさにうたれて自己犠牲に目ざめる――などという展開は、まさに"天皇崇拝のアナクロニズムではないか。裏切られても裏切られても"影武者"が"天皇崇拝"を捨てず、ラスト、何を流れていく「風林火山」の錦の御旗を追いかけるところなどしっかりしろよ!雑兵だろお前は"と悲しくなってしまった。映画評論家)



小林久三

私は、黒澤明監督の作品をみるたびに、ヘビー級のボクサーを連想する。
 日本には、ヘビー級のボクサーはいない。いるにしても数は、極端に少ない。しかも、そのストレートは強烈無比だ。したがって、対戦相手はいない。国内では、試合が組めない。自動的に国内のチャンピオンに擬せられ、対戦相手のいないまま、国内に市場がないまま牌肉の嘆をかこつことになる。無類のハードパンチを持ちながら、老境をむかえていく孤独なチャンピオンの悲劇ーーそう形容したとしても、この巨匠に礼を失した比喩にはならないだろう。
 さて、「影武者」である。
 「影武者」の製作過程、鳴り物入りの宣伝、試写会での仰々しい事大主義。そういったものに、私はへきえきとしたが、作品自体には、圧倒的な重量感があった。
 重苦しいのではない。胸にずしーんと響いてくるような種類の、がっしりとした手応えを含んだ重さである。ワンショット、ワンカット、ワンシーンの処理に、ああ映画は、ここまで念入りに、丹念に、緻密に、つくらなければならないのかと、おもわず溜息をついた瞬間が、三時間近い映画のなかに、何度かあった。古典的な映画づくりとしては、ほぼ完璧だといえる。こういった映像体験は、そうめったにあるわけではない。
 確かにそうなのだが、私は、脚本を読んだときに感じた疑問は、映画を見終ったあとも、消えなかった。一口にいえば、主人公の影武者の彫りの浅さ、陰翳の乏しさ、性格的な振幅の狭さだろう。
 この影武者は、前身が盗賊という設定である。映画の主要人物のなかで、唯一の民衆である。戦国大名が天下取りを狙って狂奔するなか、その戦乱によってもっとも被害を受ける民衆の視点をもちうる、ただひとりの人物だった。その人物が、信玄にひとめ会っただけで、この戦国武将の威光に打たれて、影武者を演じるという設定は、いかにも説得力がない。ストーリーの面白さ、深さにも欠ける。
 黒澤監督の狙いは、あくまで守りに徹して、悲劇的な最後を迎える武田一族の滅びの美学にあったようである。かつ「生きる」や「七人の侍」などで、あくまで民衆の側の視点で描いた黒澤監督が、支配者の”守り"の側から描くようになったのは、「天国と地獄」からだが、私はそこに、この類い稀な巨匠の悲劇をみるのだが......。(作家)



荻昌弘


 見終った瞬間のほうに、むしろ不足感があった。この作品が影武者ドラマとしては脚本も、演技の演出面でも、充分主人公の心理劇を創りえていないこと、隆大介のような新収穫はあった一方で、あまりにも非力なのが大役で残されていること、影法師のタネが割れ失脚となる劇的なポイントが明らかに軽すぎることそれらは、この作の完成度を低めたのではないか。そんな、いわば定石の不満も、私は拭えなかった。
 しかし、日が経つにつれ、私の内部からは、そのような判りきった不足への心残りが消えてゆく。映像の濃度、それ以上にひとりの男の執念の重味、それがここに日本映画として実現し結実してしまったことへの驚きのほうが、深くつみ重なってくる。やはりこれは大変な映画を黒澤は自らの力と外からの期待とで創りあげてしまったのであり、われわれは大変なものを見てしまったのだ、という想念だけが今は強い。作品は客観的な完成度で測られるのではなく、執念の実現の純度強度でしか量れないのだという畏怖を、私はもっと自分に徹底させないといけない。
 黒澤が戦前の助監督時代(あるいは、もっと以前)から、心底に「ウィリアム・テル」序曲、「軽騎兵」序曲を鳴らしつづけて生きたことは、明らかで、これはまさに、それらがついに"絵で鳴った"作品である。馬が、風が、旗が、波が、霧が、そして大地と甲冑の摩擦が、巨大なエネルギーを映像に与え、しかも映像がまた巨大な力動をそれらに授けることで、ここには、男のイメージの本義においてのCavalierがまさに映像で走っている。私だったらこの映画を「影武者」と呼ばない。「武者」としかいわない。むしろ、武者影、だ。
 若い頃からの面談で、私は黒澤氏が日本の武家文化に驚くべき関心と造詣を注ぎこんできた人であることを知っていた。この作品くらい、氏がそれを素直に自身快楽で映像に溶けこませ得た例は稀れだった。勿論、全装置や全衣裳、扮装を含め、私は徳川の雑兵が火縄銃の使いでを主君に披露するシーンとか、志村喬が太刀を預かられるといったディテイルの所作と表現に、作品のいちばんの達成のひとつを見た気も、した。その点でもこれは氏に、甚だ得心のゆく達意の創作ではなかったのか。
 この一篇が最終的に商業主義の希望するブッキングを獲得するのか。世界はどう評価するのか。私には推測を越えるし、それは本質の問題と思えない。むしろこの映画が(かりに)逆境に立ったら、私はますます、黒澤とはこれなのであり、これ以外の何でもないのであり、そしてこれは映画芸術なのであることを言いつのろうとおもう。(映画評論家)



石森章太郎


 この映画は��複雑な映画である。ストーリーが、ではない。観た者に"複雑な想いを喚起する作品だ、ということである。特に、ボクのような黒澤映画の大ファンには............。
 (あんな映画を作りたい)「七人の侍」を観た時、ボクはそう思った。「野良犬」「酔いどれ天使」「生きる」・・・・・・素晴しい。「生きものの記録」「蜘蛛巣城」「どん底」「隠し砦の三悪人」「悪い奴ほどよく眠る」身体が震えた。「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」ワクワクし、幸福になった。「姿三四郎」「虎の尾を踏む男達」「羅生門」これはもう“天才”の仕事以外のなにものでもない。「赤ひげ」には、泣いた。だから「暴走列車」や「トラ・トラ・トラ!」の"発"は、歯噛みする程残念だった。
 だから――「影武者」を待った。
 黒澤映画のゾクゾクするような魅力は、芸術にまで高められた映像のダイナミズムにある。ギラギラ黒光りしているような、油っこい重厚さにある。少しの無駄もない、切れ味鋭いカッティングの精妙さにある。動く写真、映画の本質これ程知っている監督は、世界に二人といない。ボクは現在でもそう思っている。が――
 「影武者」には、それが失くなっている。
 夢の場面は、「酔いどれ天使」のそれに(あの凄味に)遠く及ばない。騎馬武者の合戦場面も又、「蜘蛛巣城」や「七人の侍」のような迫力はない。強者共が夢の跡は冗長、とさえ感じられる。
 「姿三四郎」のあの、「椿三十郎」のあの、一コマの無駄さえ無かった、編集名人の面影は「影武者」では見えないのである。影武者の正体がバレるシークエンスでも、「天国と地獄」で見せた、「赤ひげ」で見せた、たたみこみ念を押すような、説得力のある演出をやっていない・・・。
 でも、これは多分、わざとなのだろう。計算で、なのだろう。「どですかでん」から「デルス・ウザーラ」と、黒澤映画は明らかに変質してきている。時は過ぎて行くのだ。こんなふうに、過去の作品と比較すること自体が、間違っていることなのだろう。
 「影武者」は黒澤監督の少年時代の夢、武者絵や講談本のイメージを映画化"した作品ーーという鑑賞の仕方をするべきなのだろう。そう思って観れば、これはこれでとても面白い。
 そしてこの映画「影武者」が、興行的に失敗したら、その為で黒澤映画がもう観られないようなことがあったとしたら、やはりとても哀しい。日本映画の未来は、絶望的ーーボクはそう思っている。(漫画家)



扇田昭彦


 仕かけはたしかに大きく、技術的にも高度だが、その仕かけと技術を支え、満たすはずの中味はうつろなままに終わった失敗作、というのが、黒澤明監督の五年ぶりの大作「影武者」を見た私の率直な印象である。「酔いどれ天使」「白痴」「七人の侍」「どん底」「蜘蛛巣城」など、かつての黒澤明作品の壮大な活力にあふれた映画づくりに大きな刺激を受けてきた私にとって、こういうことばをつらねるのは苦痛なことだが、「影武者」の三時間、私がかなり退屈してしまったことだけは隠しようがない。
 おそらく、まず脚本(黒澤明、井手雅人)の段階で大きな問題があったのではないかと思う。物語がダイナミックに展開する魅力的な筋道を、シナリオ自体が途中で断ち切ってしまったところがあるからだ。
 武田信玄の死後も、無頼の盗賊出身の影武者が信玄を演じつづけ、敵軍ばかり味方の大多数をも欺きつづける――という発想そのものは、実におもしろく、魅力的だ。私たちはだれもが、日常生活でさまざまな役柄を演じつづける演技者であると考えれば(演技が意識的か無意識的かは問わず)、戦国の激動期に、強大な権勢を握る武人の信玄に、一介の下層の盗人がなりおおせるという奇抜な設定は、最も劇的でスリリングな生き方=演じ方として、私たちを刺激するにちがいないからだ。
 だから、仲代達矢が信玄との二役で演じる影武者が、信玄の死後、その卓抜な演技力によって、実物の信玄以上に信玄らしくなり、たんなる影の次元を超えて実体の領域に入りこみはじめるときの画面のおもしろさは、また格別なものだ。コピーがオリジナルと入りまじり、コピーとオリジナルの関係が逆転してしまういかがわしくもスリリングな事態へと、ドラマは近づいていく。この映画において、この影の成長と実体への離陸以上に私たちの興味をそそる劇的要素はない。
 にもかかわらず、この劇的な虚構が十分にふくらむ以前に、脚本は不意にその流れを断ち切ってしまう。影武者はやがてあっけなく味方に正体を見破られてお払い箱になり、あとはただ長篠の戦いを目撃するカメラ・アイの役割をになうだけの人間になってしまう。おそらく「本物」の巨匠である黒澤明監督にとって、「偽物」が「本物」と混交し逆転するようないかがわしい事態は興味を引かなかったにちがいない。
 だが、この映画全体が、影武者の「演技者」としての成長、あるいはその過剰成長を中心として展開してきた以上、影武者が舞台をおりてたんなる目撃者になった時点で、劇の流れは停止し、私たちの興味は集中の場を失って、拡散する。彼が目撃する長篠の戦いの無残さが、その大がかりなスペクタクル仕立てにもかかわらず、私たちにほとんど何の感銘も残さないのは、そのためである。影武者がなぜ信玄を演じつづけるのか、という動機づけも、この映画では不十分だ。影武者が生前、一度だけ会ったことのある信玄の人格に心打たれて、というのが、この画面が私たちに告げる理由だが、これでは他の人間になり変わる演技の持続というものが演技者にもたらす愉悦と耽溺は浮きあがらない。影武者がそれほどまでに信玄を迫真的に演じられるようになった背後には、信玄への敬意と思慕と同時に、いやおそらくはそれ以上に演技そのものへの「俳優」の自己成長にはかたくなに立ち入ろうとしないのだ。
 この映画のさまざまな道具立ては、まぎれもなく黒澤映画の世界だ。風はつねに烈風となって人間と家々に襲いかかり、水面はいつも荒々しく波立ち騒いで、私たちに世界の本質的な劇的壮大さを告げ知らせる。いわば、いつも極大のバックグラウンド・ミュージックが鳴りひびいている。
 だが、この大がかりな道具立ては、今なぜか私たちをハッとさせる映像の驚きに転換しない。中心をなす影武者の「演技」の物語が中途半端のまま終わったことからもうかがえるように、この大がかりな仕かけの伽藍には、それを十分に満たしてはまばゆく激しく放電するドラマの大気が不足気味なのだ。
 たしかにこの作品にあふれるほどにある戦闘のシーン、ことに大地を駆けぬける人馬のダイナミックな動きをとらえたシーンには、いくつか息をのむほどに美しい瞬間がある。不安な闇夜のなかで繰りひろげられる高天神城攻略の場面も、その描写は濃密である。
 だが、高い技術を駆使したこうしたスペクタクル・シーンも、それを満たすべき劇のうねりが不足では物足りないものになる。長時間、むやみに人馬ばかりが走り回っているような印象が生まれるのも、そのためだろう。
 主演の仲代達矢は好感のもてる力演だ。しかし、影武者役の演技には、表の信玄役の演技とははっきり異質なズレ、つまり喜劇的な形象があるべきなのだが、仲代のいささか生真面目すぎる演技からは、この鮮明な二面性は浮かびあがらない。
 要するに、この大作「影武者」には、肝心の「影」への考察とその形象がないのである。おそらくそれは黒澤明が、「影」という境界攪乱型の存在を描くには、あまりにも堂々たる「表」側の芸術家になってしまったためではないか。この壮大な伽藍には、創造的な「影」の神はついに棲みつくことがなかったのだ。(評論家)



品田雄吉


 合戦シーンを筆頭に、野外場面が素晴らしい。しかも、それは見せもの的な意味で、スケールが大きいとか、雄壮だとかといった以上に、ほんとうに美しいのだ。「影武者」は、黒澤明監督の美学がなによりもはっきり打ちだされた作品だと思う。
 構図の厳格な美しさについては、いうまでもない。だが、この映画の真の魅力は、静止した構図の美しさであるよりも、キャメラが動き、人物が動くときの構図がもつ動感の美しさにある。黒澤明作品は、もともとダイナミックな魅力を基本にもっており、凝視的なショットと動感にあふれるショットの連続のなかに力づよさを生み出してきたと思うが、「影武者」では、彼のダイナミックな力が、美に集約され、昇華されている。「影武者」は、黒澤明監督のもっとも美しい作品だ。
 時代劇でありながら、歌舞伎のような人工的な様式の枠にしばられてはいないし、また近代心理劇的な葛藤に深く入ることもしていない。それでいて、信玄の死の場面などは、見事にドラマティックな時間をつくり出している。また、合戦シーンは、絵巻物ふうのきらびやかさよりも、はるかに即物的で、といってドキュメンタリー的でもない。明らかに、それはダイナミックであり、かつ劇的であり、そしてそれはだれのものでもない黒澤明個有の大きなイメージの世界なのだ。それは、自然さをそなえながら、見事な美意識のもとに統一されている。
 ぼくはかつて「世にも怪奇な物語」のなかのフェデリコ・フェリーニ監督の小品を見たとき、そのひとつひとつのショットに見られる芸術的な天分のゆたかさと分厚さに驚いた。そして、こういう作家こそがマエストロと呼ばれるのにふさわしい存在なのだと思った。どんな小さな作品でも、大きい作家は、その大きさをはっきりと感じさせる。
 「影武者」は、小品ではない。スケールの大きな作品だ。しかも、そのスケールの大きさの背後に、作家の大きさがはっきりと感じられる作品なのだ。黒澤明もまた、まさにマエストロなの(映画評論家)だと思う。



手塚治虫


 「影武者」を観てすぐ思い浮かべたのは、エイゼンシュテインの「イワン雷帝」だった。あのスラヴ臭に満ちた長大作は、スケールの大きさ、スペクタクル・タッチから、歌舞伎、能楽的な演技まで、これにそっくりなのだ。「イワン雷帝」は「戦艦ポチョムキン」の影にかくれがち古典的大作だが、ロシヤの歴史を知らないわれわれが観ても充分面白いし、エイゼンシュテインが功成り名を遂げた晩年の作品だという点も共通している。一言にしていえば、威風堂々とした"シャシン"なのだ。
 ぼくが「影武者」にとくに関心をもったのは、黒澤監督の��国際的視野である。海外の映画人のみならず映画ファンから何回となくきかされる「われわれが日本人の西欧的作品として評価できるのは、三島、安部の文学と、黒澤映画だけである」ということばは、この「影武者」のあらゆる技術から、充分思い知らされた。いや、むしろこの映画は外国向けメッセージとして意識してつくられた、といっても過言ではなかろう。黒澤監督は「デルス・ウザーラ」を海外で監督したあと、その感覚をますます強め、ことに最初から海外版製作を前提にことさらインターナショナリズムを強調したのではなかろうか。外国人に充分納得のいく作品は、ややもすると日本人の嗜好にはずれた部分がでてくることがある。むしろ、その点が日本映画の海外輸出の足かせになっているのだが、残念なことに、この黒澤監督の記念碑的大作は、日本の観客にはやや豪華絢爛過ぎた。これは欧米にくらべて日本の映画人口がまだまだまずしいことを思えば、致し方ないといえばそれまでだが。
 体操競技の審判風に採点させてもらえれば998。0.02の失点は、馬が死にかけてのたうちまわるのが少し長いのと、スタッフ文字がどうも手ぬきのようで・・・・・・国際的大作なら、もう一工夫して見せて下さいよ。(漫画家)



藤子不二雄


 待望久しかった黒澤明監督の新作「影武者」を観た。近頃これほど期待した映画は「地獄の黙示録」ぐらいである。
 「地獄の黙示録」はあんまり事前に自分でイメージをふくらましすぎたために、肩すかしをくった気持になった。オープニングから例のヘリコプターの攻撃シーンまで映画のボルテージは最高にあがるが、その後は次第に尻つぼみになって最後は、袋小路に入ってしまう。
 まるで漏斗の中を通ってきたような感じで、ぼくは混乱と欲求不満を抱きつつ劇場をでたのだ。
 だから「影武者」はなるべく白紙の状態で観ようと思っていた。だが、三十年にわたる黒澤映画に対する想い入れは、おさえようとしても過剰なまでに昂まってしまう。ぼくはその昂まりと実際の映画との間にギャップがでることを恐れた。映画は、影武者になる盗人がはじめて武田信玄に会い、その偉容にうたれる、という場面からはじまる。
 まるで能舞台のような武田屋形、対面の間でのこのオープニングシーンはきわめて舞台劇的だ。カメラは一定の距離をもちつつ決して寄らず、観客が特定の人物に感情移入するのを厳しく拒絶しているようだ。
 そして、信玄の影武者となった盗人の奇妙で哀れな運命と武田一族の滅亡の過程がきわめてスタティックなスタイルで描かれる。
 画面は黒澤監督の潔癖なまでの美意識で統一され、圧倒的に美しい。
 日本映画で今だかって戦国の甲冑武者がかくも華麗に、そして凄惨に描かれたことはないだろう。
 風林火山の旗を落日にひるがえし、それぞれ脊に立てた旗差物を寒風に鳴らしながら、勝目のない長篠の戦いへ粛々と武田軍団が進軍する名場面を観ただけでも、ぼくは満足した。最後の決戦で、戦闘シーンが間接描写になっているのも、気にならなかった。戦闘シーンの克明な描写がないだけに、一転して生きるものとてない死の戦場がゆるやかに静かにうつしだされた時、一際パセティックな感情にうたれた。
 「影武者」を観てぼくはつくづく黒澤監督は日本映画最後の巨匠だということを再認識した。そして日本人はこの巨匠を大事にしなければいけないな、とも思った。
 だが、それと同時に「七人の侍」をはじめとする一連の黒澤時代劇のあの豪快なロマンチシズムや躍動する生命感は消えて、鬼哭啾々たる悲愴感が全編をおおっているのが、何故か哀しかった。
 黒澤監督も確実に晩年に入ったのだろうか。
 人間五十年
 化転の内をくらぶれば
 夢幻のごとくなり(漫画家)



横尾忠則


 ワールド・プレミア・ショーで「影武者」を観た。有楽座の前の通りであふれた報道人のカメラが入場者を一斉に待ち受け、ガシャガシャとシャッターを切る。外だけだと思ったら中にも同じ数ぐらいのカメラが音を立てていた。これじスターでなくとも緊張してしまう。一階のロビーはこんなわけでごったがえしていたので二階に上った。いしだあゆみと視線があい、ぼくは近寄っていった。彼女に夫君の萩原健一を紹介された。彼の表情は青ざめ、どこか緊張しているように思えた。おそらく入場の時、猛烈なカメラの放列にあったせいだろう。
 緊張していたのは彼だけではない、席に着いた「影武者」の出演者の大部分が皆同じように極度に緊張しているのがわかった。
 そして映画を観てまた驚いた。出てくる役者全員が物凄く緊張して演技しているではないか。この緊張はこちらまで伝わってきて、とても劇映画を観ているという感じではなく、まるでドキュメントを観ているようなのだ。役者がとちらないだろうかという心配が先きにきてしまうほどはらはらするのだ。勿論とちった部分はNGになっているはずだが、それでも役者の一挙手一動にスリルを感じた。
 時には自分でありながら自分でなくなっているような魂の抜けた肉体がひとり歩きしているような個所を何度か発見したが、その度にぼくはこの先き一体彼等はどうなっていくんだろうという心配や不安の方が強く、画面から目が離せず、こんな調子で最後まで引っぱられてしまったというわけだ。
 この映画ほど役者ひとりひとりの演技や、監督の演出が気になった映画はなかった。だからぼくは普通の映画のように物語に没頭するというようなことは残念ながら出来なかった。だからまるで監督と一緒に、あるいは役者と一緒にこの映画を創っているスタッフの一員のような気がしてならなかった。
 というのも黒澤監督の美学やイメージを盗んでやろうという魂胆が最初からあり過ぎたために普通の見方ができなかったのかも知れない。だから満足した部分と不満の部分があって自分でいらいらしている。あそこをああすればよかった、またあの部分はもう一度撮り直したい、とまるで自分が監督になったような気になっているのだ。(グラフィックデザイナー)



村上春樹


 黒澤明という人は、内省や思索とは無縁のある種の本能的な価値観あるいはモラリティーを有した作家であり、それを映画という形式に見事に合致させてきた作家であると思う。黒澤映画がこれまで海外で高い評価を受けつづけてきた理由もこのあたりの楽天性にあるのだろうし、現存する日本映画最後の神話ということもできるだろう。
 もちろん海外で評価されることが全てではないにせよ、評価されないよりはずっといいわけだし、こうした神話の持つダイナミズムは映画の大きな魅力のひとつであろうと思っている。黒澤映画はもう古い、と一言で片付けたとして、現役の誰がそれにかわることができるだろう?誰が一本のオリジナルシナリオをもとに数十億の金を集めることができるだろう?
 僕が「影武者」を観る前に考えていたのはざっとこういうことで、だから相当に好意的な観客であったはずだ。高い評価を受け、興行的にも成功し、黒澤神話いまだ健在ということになればいいと思っていた。
 さてそれでこの「影武者」の評価ということになるのだけれど、これが辛い。とくに今年になって「地獄の黙示録」「ツィゴイネルワイゼン」という二本の極めてヴォルテージの高い、エキサイティングな作品を観てしまった後では、この作品を評価したところでいったいどうなるものか、というなかば捨てばちな気分にさえなる。
 人物描写が類型的であるとか、演出が古くさいとか、まあ悪く書こうと思えば幾らでも悪く書けるんだけれど、そんなと書いても仕方ないし、書きたくない、書くべきじゃないと思う。それにもう一言いわせていただくなら、僕としては同じくらい類型的で同じくらい古くさい映画が、現代風なコロモをパラパラとふりかけてあるというだけで立派に通用している今日の状況の方がよほど不愉快なのだ。
 少なくとも「影武者」は正直な映画であるし、不快感を抱かせる映画ではない。感動がないにせよ、学ぶところがないにせよ、そういう映画があってもいいではないか?(作家)



渡辺祥子


 大きくて美しく、その端正な美しさに心を奪われてしまった。あかね色に染まる夕焼けの空。澄みきった湖。重々しく暖かい日本家屋。疾走する馬――と、挙げればきりもなく美しいシーンが目の前に浮かんでくる。なんと心なごむ、豊かな美しさを持った映画なのだろう。この豊かな美しさがあれば、私は何もいらない。
 これまでに見た黒澤作品の中で一番好きな「七人の侍」は、人間がいきいきと生きて、生きている人間の体臭と鮮烈な映像とが一体となって、私を官能的な陶酔の世界へと引きずり込んでいった。
 この引きずってゆくような強引さ、そして引きずられることの快感を「影武者」は持たないけれど、それは、この作品の中の人間たちの体臭が淡くなっているからなのだろう。というより、正確に言うと、この作品では個々の人間を描くことよりも、監督のエネルギーが、自らの豊饒なイメージを映像に移しかえることに注がれているから、それだけでエネルギーを使い果し、人間たちの描写を、いきいきと感じさせるほど追いつめていけなかった、ということである。
 そこに「影武者」という作品の哀しさがある。弱さがあり、むなしさがある。もっと言ってしまえば、どんなに優れた監督にも脇から支える力が必要なのに、いまの日本映画界には、その力を彼に与えるだけの余裕がなかったということである。それもまた哀しいことだ。
 けれど、描かれる人間の体臭が淡くなったからといって、黒澤映画に共通する(と言えるほど沢山見ているわけでもないのだが)人間に対する愛着が消えてしまったわけではない。影の悲劇をテーマにすること自体、彼が人間を愛をしんでいることの証しなのだから。(映画評論家)



淀川長治


 まだかって見得なかった見事なる時代劇であった。ジョン・フォードの映画の(馬のひづめ)とエイゼンシュティンの(軍隊進軍)の様式美をここにはからずも見た。
 人物はキャメラの遠くに押しやられた。人物には無表情に近い演出を用いている。主役は(いくさ)であった。どちらがどちらの軍ぜいかは私には問題ではなかった。ただまさに(いくさ)であった。これあるゆえに(影武者)を必要とする。(影武者)は敵をあざむく道具であって人間の必要はない。その非情が(いくさ)の軍馬の轟音の中にあった。もしも影武者に演出の黒澤の彼自身のキャメラを接近すれば勝新太郎のぎらぎらとした芝居が必要となったであろう。しかし当初からそれは計算外なのだ。それゆえのミスフィットが配役変更をきたしたか。
 衣笠貞之助の「川中島合戦」(一九四一)稲垣浩の「風林火山」(一九六九)の華麗なる合戦映画。この二作は私の忘れ得ぬ名作である。そして私は伊藤大輔、稲垣浩、衣笠貞之助、伊丹万作、山中貞雄たちに依って時代劇を楽しむ目を養わせてきた。
 ところが黒澤の「影武者」はこれらとはちがった大胆さを吐き出した。「羅生門」はアメリカ映画の推理劇手法。「七人の侍」はジョン・フォード。「蜘蛛巣城」はドイツ映画。黒澤はジョン・フォードを愛したがその手法にはいろいろと外国種が見え、しかも「羅生門」に根ざした能の形式が「影武者」にはさらに本格化した。いうならば衣笠貞之助をはじめとするこれまでのほとんどの見事なる時代劇は歌舞伎の廻り舞台の楽しさを香らせた。それが「影武者」となると能になった。歌舞伎は寺の念仏踊りから生れた庶民のもの。能は神社奉納の舞いから生れた貴族のもの。その互いの良さを愛するも、かってこれほどまでの、能の(静)を身につけた時代劇はない。影武者が御用ずみの果て城外に放り出され草原に立って、ただひとり人間として愛された幼い竹丸をしのび、そのうち信玄が乗り移ったかのごとく敵前に立ちはだかり敵弾に死ぬ。その瞬間、信玄として死んだことか。その死体が川に流れ、敗軍武田の軍旗が反対の方向に流れゆく、このラストは美しい。黒澤の描く(男)の哀れはいつも美しい。ここにもそれがある。しかし演出は遠く離してこの男を見つめた手法をとった。主役は(いくさ)。壮麗。その様式美。三時間はこうふんのうちに終る。美術であった。軍馬の死をかさねて見せたのはこの敗戦に泣けとい黒澤演出。(映画評論家)

戻る inserted by FC2 system