荒井晴彦 渡辺武信


トカレフは妖刀村正ならず?

渡辺 阪本順治のアクションって聞けば期待しますよね。で、見て困ってるわけ。今...荒井さんは割に好意的に見てるらしいんで、それが聞きたいんだけど......。ま、先に僕が言うと、『トカレフ」という題名で、冒頭、トカレフの銃把握りの部分の星形がクローズ・アップされる。その意味ありげな撮り方を素直に観ると、こういう話になるんじゃないかって予感が湧くけど、ちっともそうならないんだな。特殊な拳銃の名前がタイトルだから、拳銃が魔力を放つ「妖刀村正」みたいな話になる感じがしたのに、全くはぐらかされたのが、乗れなかった原因の一つ。それはまあ本質的なことじゃなく、期待と違った展開でも、映画が面白ければタイトルバックはどうでもいいんだけど、これまでは『王手』も『どついたるねん』も、こういうはぐらかされ方はなかったから......。
 はぐらかしが戦略ならいいんだけど、普通の観客に「これは何なんだ」と考えさせる、というか戸惑わせる展開は、やはり技術の問題というより、基本戦略の失敗かな、ということが第一印象ですね。

荒井 『トカレフ』というタイトルだからといって拳銃の話でなくてもいいと思うんですけど、タイトルバックもトカレフだと拳銃の話だと思ってしまうということですね。

渡辺 題名だけが空しくおどろおどろしい......。

荒井 拳銃を拾うところが導入部だしね。
 ところで「トカレフ」と聞いて拳銃の名前だと分かる人は一般的に多いんですかね。

渡辺 さぁ、僕は知っていましたけれども。拳銃マニアじゃなくてもミステリーファンならそれぐらいは知ってるでしょう。

荒井 ソビエトの軍用拳銃で、中国がそれをコピーして、それには赤い星が入っている・・・で、日本に出廻っているのは中国製。

渡辺 そういうディテールはプレスを見て初めて知りましたけど、アクション映画が好きな人なら「トカレフ」と聞けば拳銃の名前と思うくらいの知識はあるんじゃないんですか。

荒井 でも、普通のお客さんは分からないですよ。『リボルバー』という映画があったけれど、あれも拳銃の種類だと知らない人もいたでしょうね。

渡辺 『リボルバー』という映画にも不満はあるけれども、あれは少なくとも羊頭狗肉じゃなかった。つまり「リボルバー」というのは回転式拳銃の一般名称なんだけれども「トカレフ」というのはブランドネームだから、「トカレフ」と聞くと特殊な拳銃、つまり「妖刀村正」の類かと思うんですよ。この映画は別にトカレフじゃなくて、警察の南部式拳銃でもいいじゃないかという気がするのね。大藪春彦の「凶銃ルガー」という小説があるでしょ。あの連想で僕は「凶銃トカレフ」だろうと思ったんですよ。
 その視点からすると、監督もプロデューサーも何をやろうとしたのか理解できない。荒井さんは分かってるようだから、それを聞きたいと思うんだけど。「事件」によって生き出した男たち

荒井 僕は阪本がドンパチをやっているって聞いていたから、アクションだと思って見ていたんだけれども、そうじゃなかったと。それで、そうじゃないんだと思って観ていて何が出てくるかというと、「思い」ですよね。
 僕が解釈したのは、佐藤浩市と大和武士が「事件」によって生き出したというか、それまでは、人生何もなかったという二人がいて、佐藤浩市が動いて仕掛けたことによって大和武士が立ち上がる。でも、そもそもは佐藤浩市は目的というか動機を持っていて、それが誘拐に繋がる。ただ、その動機がよく見えないという恨みがありますよね。

渡辺 今、荒井さんは言葉の芸で面白そうにしちゃってるけど、その「動きだす」こと、つまり話をスタートさせる動因が欠けてるんじゃないですか。佐藤がどうして子供の誘拐を思いついたのか、ということが全く描かれていない。何もない人間だから何かをしたい、と思っている人間が何かをしたということだとしたら、それは別に具体的に描かなくてもいい。ただ最低限、観客を納得させるような暗示さえあればそこで物語が起動するんです。しかし、この映画ではそれが起動していない。だから分からないんです。

荒井 そこには順序の問題があって、例えば佐藤浩市が輪転機の前にいつもいるということが普通の文法で言うとド頭にあるんじゃないかと思うんですよ。

渡辺 なるほど。事件は何時も一番早く見ているけど、自分では事件にかかわれないという・・・・・・。

荒井 それが僕の解釈なんですけど......。

渡辺 でもそうだったら、単なる順序というより、基本文法の間違いじゃないですか。

荒井 そうなんですけども。輪転機が回っていて刷られているものの中に自分を見たいという・・・そしてそれを一番先に自分が読むんだという......。

渡辺 それはとっても面白い話だね(笑)。そうした方がよかったというか......。女の話か、拳銃の話か

荒井 それと佐藤浩市の大和の女房に対する思いね。

渡辺 つまり佐藤はあの女房が好きなわけね。

荒井 僕の解釈ではね。

渡辺 それも観ていて分からなかったんですよ。そうかも知れないな、とは思ったけれども、それは苦労してそう読んであげるわけで、普通に分かるようには描かれていない。佐藤と女房が偶然出会ったり、なんか遠くから見ている、見られてる、みたいなことはあっだけど......。

荒井 目線、目線でやっていますね。
 だから、佐藤の目的はあの家庭を壊したいというよ女房だというほうが分かりやすいですよね。

渡辺 そうですね。けれどもあの奥さんが終わりの方で幸せそうにお祭りに行くところは面白かったんだけれども、何故、そうなっているということが前に描かれていれば・・・・・奥さんの性格も含めて・・・・・・。

荒井 僕だったらそっちを重点的に行きますけどね。

渡辺 つまり、子供が殺されても他の男と幸せになれる女の怖さみたいなものについて、前に振ってあればね。つまりこれも具体的ではなく、後でなるほどと思う伏線があればね。

荒井 そこでまた孕んじゃって、また子供を生んで、ひょっとしてまた誘拐されるかもしれないという強迫観念は持たないだろうかとか考えると、(あの設定は)難しいですね。

渡辺 荒井さんのそういう女中心の見方というのはとっても面白いんだけどさ、それじゃアクション映画にならないし。アクション映画を作りたかったのか、女の話を作りたかったのか、腰が決まっていなかったんじゃないかな。

荒井 (阪本にしては)いつになくというか女は語らないけれども目線であったり、浴衣姿の足首のショットがあったり、変に女に丁寧だなというように思ったんですよ。
 ただ、犯人とできちゃうという凄さを狙っていなかったというか・・凄いことを自然の流れのようにやっていますよね。

渡辺 できちゃったという結果しかない。プロセスとして、別にセックスがなくてもいいんだけれども、心理的にこういうことで犯人とできちゃうということを見せる手はあるわけでしょ。つまり、女房が大和と仲が悪くなったわけじゃないけど虚しいというか、別の男に引かれるという気持ちを見せる手は。悪い意味で説明的にならない範囲での、丁寧な描写の定石というものがあるはずだよね。
 この映画だけじゃなく、荒井さんといろんな映画の話をしていて、よく「他のことはとにかく」って感じで意見が一致することは、「観客に無駄なことを考えさせる映画はよくない」ってことなんだけど、面白い事を考えさせてくれるのはいいんだけど、何故そうなったのかということが分からないと、神経が無駄にそっちに逸れて映画に乗れない。そういうことはきちんと説明しなきゃいけないと思うんです。

荒井 結果、説明し過ぎだなというのは落とせばいいんで。けれども、それは最初から書いていないとね。それと(シナリオの文を指さして)この場面は映画では大和武士は女房が佐藤浩市との間にできた子供を抱えているのを見た後、佐藤を追って行きますけれども、シナリオだと追う前に女房とのやりとりがあるんですよ。このセリフは映画にはなかったんですけれども、ここに象徴的に阪本がやろうとしたことがあるんですよ。女房も子供ももう関係ないんだ、あいつなんだという......。あの共犯の男が子供を誘拐して身代金を取りに現れるのは一種の見せ場ですよね。あそこは面白いけど、それが後に生きていないよね。

荒井 部分部分でそうなっているんだけど使い捨てしている。
 例えば単独犯にして佐藤浩市が子供を肩車して現れるシーンを見せるんだったら大和武士の怒りというのは若干伝わるかもしれないですね。
 子供を殺すシーンと女房とできるシーンの二つが欠落しているから犯人像が見えないんですよ。映画を頭の中で映しているか

渡辺 この前、荒井さんと話した時、阪本順治はそんじょそこらの学生映画から出てきたんじゃない、と言ってて、全くその通りなんだけれども、今度の映画だけ見せられたら、「そんじょそこら」風に思いますよつまり独善的な思い込みが激しくて、自分が観る立場でどう感じるかの、自分の中に映画を映して見ていないというのが学生映画の出身の欠点なんだけれども、今度の映画では阪本順治もそうなってしまったのかなという感じ...つまりこの映画は監督が自分の頭の中で映していないと思うんですよ。
 単につまらない映画ということじゃなくて、逆に言うと面白くなりそうな映画を面白くしていない・・・結構いい企画なのになんでちゃんとやらないのという...

荒井 そう言われると、全くその通りですね。

渡辺 なんでこれだけ出来る人が、肝心の部分を欠落させてでも、ああいうことがやりたかったのか分からない。

荒井 この脚本を見るとアクション映画の書き方になっていますよね。下書きを読むとカット割りに近い書き方をしているんです。僕はこうは書けない。

渡辺 荒井さんの脚本は読んだことあるけれど、もっとどうでも撮れるような書き方をしていますね。

荒井 撮るのは監督の問題であると思っているし、ライターが書くことはそういうことじゃないと思うんですよ。やっぱり人間だと思うんでね・・・・・・。

渡辺 この映画の本は、絵のない絵コンテみたいな非常に具体的な書き方ですね。

荒井 多分、書いているときに絵が浮かぶんですよ。だから、絵を書いているんです。登場人物の心を書いてないんです。
 例えば佐藤浩市が爪に入ったインクを歯ブラシで洗うというシーンがありますけど、佐藤が女房を抱こうするシーンを入れて、抱こうとする前に歯ブラシで爪を磨こうとして、女房がいいのよ、そんなことしなくてもと言う・・・俺ならそういうシーン書くなと阪本に言ったら、「らしいですね」と笑ってましたけど。それで心を書いたことになるとは思わないけれど、おいしいディテールを使いまわさない手はないと思う。

渡辺 観客側の僕は、荒井さんほど具体的なアイディアは思いつくわけじゃないから、傲慢な言い方になるかもしれないけれども、でも僕だったらこうはしない、こうはしないと思って見ていましたからね。前に振りがなかったとか、突然こんなことやられても困るとか。だから一生懸命乗ろうと思っても全然乗れないんですよ。

ボクシングのルールと映画のルール

荒井 大和が見てしまうのは、赤ん坊がいいのか、腹が大きいのがいいのか、俺だったら腹が大きい方が何か感じるな、と言ったんだけども、腹が大きいのは詰め物でしか撮れないからいやだと。

渡辺 だから、もし犯人だと思っていてもあえて庇うというシーンがあれば・・・・・

荒井 そうなんです。それがドラマなんですけど(笑)。

渡辺 でも、この台詞があったにせよ、佐藤浩市が他人の女房に惚れているとか、あの家庭を壊したいという欲望みたいなものが分からない。その時、分からなくても後から「そうだったか」と思えればいいんだけれども、そう思わせるシーンがないんですよ、目線だけじゃ、それは無理・・・・・・。面白くなりそうな部分の省略

荒井 ビデオで子供の幼稚園の運動会を見ているシーあれも何かそういう感じでしたね。佐藤浩市が子供に目を付けてるのかなという。説明不足というか・・・佐藤はいるだけだから。・・・でも、あれは女房を見に来たんでしょうね。

渡辺 僕もあのシーンは面白くなるな、と思ったんですけど、もっと傍証がないとね。つまり、アントニオーニのあの写真を拡大する映画・・

荒井 『欲望』

渡辺 ああいう風にね。あるいはジーン・ハックマンが盗聴して段々音が分かってくるような・・・・・・

荒井 『カンバセーション盗聴』

渡辺 つまり、ビデオの画面を拡大すると犯人が分かるとか、もっとあちこちに映っているのを総合すると、とか、そういう段階は見せ場になるはずだよね。なんでもないホーム・ビデオが見方を変えると犯人を指すというスリルがあれば、そこで血がひとつできたんだけれども、それをしていないから、ビデオは単に話を進めるためのモーターにしか過ぎないわけで、あれだけじゃ観客は感情的に佐藤が犯人だとは納得しないですよ。あれは大和武士だけが勝手に、ということは監督だけが勝手に納得している。

荒井 女房が「あの人が犯人じゃないわよ」と一貫して言い切るのは何故だろうと。最後まで女房はそう思い込んでいたんですかね。犯人と分かって、やってたら凄いですけどね。

渡辺 それも分からないでしょ。
 それと大和武士が路上で交通調査を装って歩行者をカウンターで数えていて、偶然、共犯のカップルを見つけるというシーン。あそこだって見せ場なのに、も面白いことで見つけて欲しいと思う。ただ道に座り続けていたら、執念が実って偶然見つかった、というのは、どう考えてもねぇ......。
 しかもそれだけであのカップルは消えちゃう。大和拷問されて、たまたま自分たちの経営するスナックの客だった佐藤浩市に誘われたと白状はするけれども、佐藤とその二人はどういう間柄だったんだろう。佐藤が単なる客だったということは有り得ない。だったらそこだって面白くできる・・・・・・。そういう面白い話になる部分を省略しているんですよ。隠すべきことと、説明すべきこと

荒井 あそこはどうですか。誘拐の直前、バスが走っているシーンでの信号の撮り方。なんか起きるぞ、起きるぞというあの撮り方は上手いと思ったんですけれども。

渡辺 そうは思ったけれど、あそこで子供にピストルを突きつける男は共犯のほうでしょ。あの男が突然出てくるんです。しかもその男が子供を誘拐して、車逃走して中でオートバイに乗り換えて逃げる。そこに警察が来て子供が誘拐されたという話をしていると、肩を撃たれた佐藤浩市が現れる。その時、佐藤がオートバイを盗まれたんだということも、すぐには見えない。ま、刑事の台詞はあったけど、ちゃんと分かるのは、後で佐藤浩市の自分の肩を撃ち抜いた回想シーンが出てからです。これもね、共犯の男がオートバイに乗り換えるのを見せて、そこで佐藤が犯人だということが分かったほうがいいんです。意外性を狙っているかもしれないけれど、楽しい意外性ではまったくない。佐藤はなんか怪しい、観客が納得し切るほどじゃなく、中途半端に怪しいという描写がずっと前から続いて、観客は無駄に考えてるんだから、早くすっきりしたほうがいいんじゃないか。

荒井 隠さなくてもいいことを隠して、説明しなくちやいけないことを説明していないんです。

渡辺 それはほとんど全否定ですね(笑)。

荒井 だから、女房が佐藤浩市が犯人じゃないと言う根拠はその辺に置こうとしているのは分かりますよね。ひっかけというのとは、ちょっと違って。

渡辺 観客が犯人という確信を持てない間は、映画の中の女房も一緒にそう思っていると思え、というのは、どうですかねぇ、それが監督の意図ですか。

荒井 そうだと思います。

渡辺 観客にも一緒に考えさせるというのも、場合によりけりですよ。

荒井 だからその取捨選択がね・・・アクションでもないんだ、サスペンスでもないんだということで言ったらまた語り方が違っていたかもしれないという気がするんですけれども。そこが曖昧だから前半部がちょっと疲れるんですよ。若い男女二人なのか、佐藤浩市なのか女房なのか大和武士なのか、この映画は誰で観ていけばいいんだという・・等分でカットバックしてるしね。ヒーローの条件

渡辺 大和武士の場合も、佐藤に撃たれても似顔絵で違う顔を書くというのは分かるんです。子供を殺されたから自分で佐藤を殺ろうと思っているのは分かる。だけど分かるのと納得するのとは違うんで、納得させるには、その前に警察に対する不信感というものをもっとちゃんと描いておかないと。
 それに、もう一つ、普通の観客というのはヒーローに「強み」があって欲しいと思うんです。007みたいな無敵の力じゃないですよ。ただね、喉を撃たれて声は出ないけれど拳銃が上手いとか、足が早いとか、あれはバスの運転手だったんだから運転技術が意外なところで生きるとか・・・・・・。日常的な価値観ではごく普通の男が逆境を生き抜いていく時の隠し玉みたいなもの、それが「強み」で、それが欲しい。この映画の主人公は、ただ普通の男が怒っているだけで、子供を殺されて親が怒るのは当たり前だし、執念だけじゃあんな続かないよって思うと、白ける面もある。
 僅かな勝ち目があるという描き方ではないから、普通の男が喉をデロデロさせて戦うのは可哀そうなだけで、映画のヒーローになりえない男なんです。
 ヒーローになるには、百分の一でもヒーローになる可能性を観客に期待させるだけの特殊能力というか、そういうものがなきゃいけないと思うな。技術とか精神力とか。普通の男が怒って人を殺すんだったら山田洋次にも出来るんで、正義の怒りだけの映画はあんまり観たくない。ある非常に不幸な人がただ頑張っている。頑張りとか執念だけで犯人を見つけるというのは全然映画じゃないんじゃないか。執念だけだったら「衝動殺人・息子よ』の裏返しになっちゃう。
 どこか隠された、しかし予感させる可能性があって、それをバネにして執念プラスアルファーで犯人を捜して欲しいんです。例えば大和がバスの運転手じゃなくたまたま広告業界のエリート・サラリーマンで電通みたいな会社の機構を使って犯人を捜すとか、これはアメリカのミステリーにあった手だけど。大和武士の役はそれがないから、あんなことやって犯人探しても見つかりっこないよ、と思っていると見つかっちゃうというのが腹立たしいね。工夫がないんだもの。

荒井 渡辺さんが言っているような工夫を捨てるならば、きっぱり捨てる作り方があると思うんですよね。
 それに誰が子供を手にかけたのかという問題がある。あのカップルが殺ったっていうならばあんな仲が良くなっちゃって子供を殺せるんだろうかとか。それがあっけなく子供がゴミ袋から出てきて・・・・・。
 そういう奴を愛しちゃう女というのも理解不能じゃないですし。そういうことも含めてそれが画に出ていたら、よし大和武士行け!と。これは怒るぞと。
 本に対してディスカッションがなかったんじゃないかな。監督が脚本を書くとありがちだと思うんですよ。撮る人が書いたんだから、とプロデューサーも誰も口出ししない。それがライターのシナリオだとよってたかって、ですからね。
 こういう話は何人かいた方がいいと思いますね。一人がストーリーライン、一人は心理というか人間、一人は手、アリバイとか犯人探しの手という具合で。

渡辺 フランスにはダイアローグ・ライターがクレジットされていますね。
 阪本さん自身はこの本のことはどう思っているわけ?出来がいいとか悪いとか・・・・・・。

荒井 ちょっと本人には分からないんじゃないですか、それは。ただ僕が阪本らしいんじゃないのかと言ったら荒井さんに褒められるのは心配だと言ってました。

渡辺 けれども感情的に走らないで、きちんと筋道立てて、「良くないよ」と言ってやることも大事かなと思って今日の話をしたんだけれど、一方で阪本さんと荒戸さんに恨まれるのはやだなと思って、荒井さんの弁護と一緒にすれば、少しは薄まるかと(笑)。
 僕の言いたいのは結局、段取りを必要とする話は段取りをちゃんとやって欲しいということです。段取りだけが映画じゃないんだけれど、それは必要条件であって、そういう必要条件の段取りを踏まえることによってはじめて十分条件の方で映画の快楽が出てくる。必要条件の部分が欠けていると普通の観客は映画に乗れないですよ。今まで阪本さんはそれができる人だと思っていたのに。むしろ今まで段取りが多すぎたくらいにちゃんと丁寧にやってきた人が、なぜ突然ああなったのか疑問ですね。僕は阪本順治という監督が好きだし、『王手」はちょっと不満だったんだけれどもそれ以前の二作は好きだったから、余計にそう思う。
 『王手』が好きじゃないというのは、僕が将棋が分からないからで、映画そのものとは関係ない理由なんですけど、でも例えば『王将』とかの先例からすれば将棋というものをもっと上手に描くやり方もあるだろうし、と思うと不満なんです。ボクシング映画二本は、ちゃんと映画の文法を心得た監督が出てきたなという期待感があったのに、今度はそこが欠けていて・・・・・。

荒井 阪本順治に、僕が不満だったのは、エンターテインメントの語り口でいい感じにきてるのに、最後に決まらない。何かぬけない感じになるところだったんで、いつかホンのせいだと思って、もうそろそろプロに頼めよと言ったことがあるんですけど、そうしたら、まとめるのがやんなっちゃうんですよ、撮っているうちにと言うんです。で、ああ、ちゃんとまとまるところをわざと壊しているのかと。で、まとめきってないように見えるんだなと思ったんです。

渡辺 そうか、阪本って人はオーソドックスな文法にこだわる人かと思ってたけど、外れたい人なのね、まとめるのがやんなるってのは。それで分かる気がするんだけど、今までの映画がまとまっていたのは、映画っていうゲームの前に、素材にもゲームがあったわけですよ、ボクシングとか将棋とか。それでこう枠があるとまとめ易いし、そこは上手にやったみたいだけど、素材のゲームから離れて、この復讐譚みたいなルールのないゲームを描こうとすると、自分でルールを作るのはあんまり上手じゃないんですよ、きっと。だから「思い」だけがあるというわけね。

荒井 それが今度の映画じゃないんですか。

渡辺 そうですね。例えば、西部劇だったら西部劇の伝統があって、伝統があればルールもある。そこでそのルールに逆らうことも含めてルーティンも、ルーティン破りの自由も成り立つでしょう。日活アクションではルールがあるから、そのルールを破ることができるんだけれども、彼はボクシングと将棋の勝負をやってきて、今度はルールのない勝負のプロデューサーになろうと思ったんだけれども、それを仕切る力がなかったという風にも見える。レッテルへの反抗か?

荒井 『どついたるねん』で出てきて、久々の活劇と久々のホープじゃないかと言う風に評論家達が持ち上げて・・・だけど本人の意識はちょっと違ったんじゃないかと。

渡辺 彼自身はそういう評価が嫌だったわけね。

荒井 なんか『どついたるねん』が)本線じゃなかったんじゃないかという気もね...僕もそうじゃないんじゃないかって、いまどきそんな美味しい若手が出てくるなんてって・・・・・。

渡辺 そういうことを言えば『どついたるねん』も『鉄拳』もそうですね。つまり作品自身が画期的だというよりも「ちゃんとできる」新人が出てきたなという印象で、だから今後に期待したいな、と思っていたんですけれども。レッテルを貼られることが作家として嫌だったからわざと期待に背いた、という作戦があるんならばそれはそれでいいけれども。俺はアクション映画作家ではない、あるいは『鉄拳』『どついたるねん』の作家ではない、ということを見せたかったのならば

荒井 見せたかったのか、出ちゃったのかでしょうね。『どついたるねん』から今まで抑圧してきた部分がね。『どついたるねん』というのはボクシングにおける挫折と復活の話ですよね。『鉄拳』と『王手』もそう言えますよね。この大枠があったからエンターテインメントの語り口になったと思うんですよ。そういう大枠がないと地というか生理が出てくるんじゃないですかね。

渡辺 ということは、逆に言うと、やっぱり自分は「どついたるねん」の作家じゃないということを示したかったんですね。

荒井 「どついたるねん』の絶賛というのか、それ以後、順調に来ていますよね。山根さんたちが支持しているし......。

渡辺 荒戸さんの後押しもあるだろうし。

荒井 だから、製作サイドと評論家の協同の戦略・戦術の庇護のもとにずっときたともいえる。

渡辺 荒戸さんが庇護しているんだとしたら、荒戸さんが何故もっと面倒をみなかったのかねぇ...。荒戸さんという人は、そんなに映画が分からない人だとは思えないんだけれども。

荒井 でも、荒戸自身、「娯楽」派というより「芸術」派ですからね。鈴木(清順)さん、神様みたいなところとか、メジャーがやることをどうして俺がやんなきゃいけないんだというとこがありますから。

渡辺 基本的にこの映画は、阪本順治というレッテルがなかったら、つまんない映画ですね。

荒井 阪本順治という一作家を理解する材料としては面白い。ただ、無名の新人デビューの作品として観たら・・・。

渡辺 そういうふうに同情するのだったら、『どついたるねん』も『鉄拳』も『王手』も嫌いじゃないけれども、大したことないよ、レッテルで理解されるほどの作家なのか、ということは言いたいね。これが舛田利雄とか蔵原惟繕とかだったら駄作を撮っても、もうちょっと同情的に観れるけどね。

荒井 そこは渡辺さんとの世代の差ですね。その人たちの駄作が同時代だったというと言い過ぎかもしれないけど、何の期待も持てない。
 そこへ、昔よくあって、いまじゃ当たらないと思っていたボクシングものでデビューした阪本は初々しかった。その後、過保護だったのかなあ。

渡辺 それはスタジオの時代の新人の出方とは違いますよ。東宝、松竹、日活でしごかれてしごかれて、影中も嫌なこと言われてきて、やっと一本とった人の初々しさとは違いますよ。

荒井 僕もスタジオ出身じゃないし、シンパシーの間題かもしれないです。阪本順治とは一度仕事がしてみたいと思ってるんですけどね。

渡辺 これは半分冗談なんだけれども、一番悪いのは荒戸さんという気がするね。一応、プロデューサーとして仕切っているんだから。阪本さんを甘やかしたの荒戸さんだ。

荒井 これで犯人が見つかったということで(笑)それが結論ですね。

阪本順治 荒井晴彦 

肯定も否定も明快な批評が出てこない

荒井 『トカレフ』について書かれた批評は、欠陥を指摘して、「だけれども、力強い」とか「阪本らしい」と肯定していくパターンが多い。「だからダメだ」っていうのは一つもない。で、その欠陥なんだけど、「拳銃がそうそう転がっているだろうか」というのと、「あんなことで犯人が見つかるだろうか」、「警察に捕まるのにどうしてピストルを持っているのか」っていうこの三つが、素人でもわかる欠陥だと言われているんだけど・・・・・・それはどうなの、阪本は?

阪本 え?なんか強引だなあ。

荒井 阪本自身は欠陥だと思ってるのかどうか。

阪本 いや、僕は思ってない。僕が一番ね、説明をしていないのは、動機、モチベーションっていうことなんです。

荒井 佐藤浩市の?

阪本 物事の始まりのね。僕は自分でホンを書くでしょ。で、基本的に動機って必ず押さえなきゃいけないと思ってずっと書いていたんですよ。そうすると、つまりモチベーションをしっかりすると、そのモチベーションを自ら語るか、誰かがフォローするかという世界になってーー刑事とかね。そうするとなんとなく、人間観察の映画になるんですよ。俺は観察したくないっていうのがあって。例えM君、宮崎勤の話で言うと、基本的に大人の女に相手にされなかったっていうのが一番多かったでしょ。そいういう専門家の分析聞くたびに、いつも「ほんとにそうなのか?」と思ってたんですよ。お父さんとソープランド行ってたという噂もあるから、大人の女相手っていうか、お金で解決していた部分も普通にあるわけで。そういうことを考えてて、まずモチベーションっていうのを忘れようといわゆる精神分析のできないキャラクターを作ろうと思ったんです。

荒井 言葉を換えると「解説はよそう」ってことね、作家自身も、作った作中人物の解説はよそうということだよね。

阪本 そうですよね。だから、自分の中に浩市なら浩市のキャラクターのまとめ方があったのかどうかというと、じつは文章にできるようなものはなくて、その都度その都度自分に置き換えてわりと自分のキャラクターに似てるからその前のシーンはこう撮ったから次のシーンは流れとしてこうなる、動機がはっきりしていればこうなるというとこをあえて外していったわけです。だから捕まったときに拳銃があろうが、僕の中では0Kだし。
 で、「あんなことで犯人が見つかるだろうか」っていうのも実はもう説明しているんですよ。後半、大和(武士)が復活した後にいわゆる「捜し回る」っていう行為があるじゃないですか。その「捜し回る」って行為がカウンター押すだけになってますよね、徘徊する、みたいな。基本的に、捜し回って誰彼となく尋ね歩くっていうのが、僕はあんまり好きじゃなかった。逆に、復讐するんだという意志が萎えていったり、動揺したり、「自分はやっぱ復讐なんかできないんじゃないか」と思ったりするようなことをやりたかったんです。復讐の鬼となってスーパーマンとなって突き進むみたいなことは避けたわけですよ。だから大和がある種、萎縮しているときに、ふと、ふとですよね、前振りはしているつもりではいるんだけど、押しボタンっていう。寺脇調査者を装って一所懸命捜していたって解釈してる人が結構いたんで驚いたけど、あれは要するにそういう職業に就いて、食べてもいかなきゃいかんし、見つかるかもしれんし見つかんないかもしれない。そういう仕事をしていれば出会う確率は高いわけだよね。

阪本 まっ、雑踏の中にいるっていう。

荒井 いや、だからさ、そこにもっともらしさが欲しいわけでしょ。苦労して苦労して見つけたという。

阪本 知らない人から、一杯お手紙もらったんですよ。六回観たという人とか一杯いて、基本的に批判はないんです。読むと、すごい解釈で自分で盛り上がっているわけね。例えば僕が現場で気がつかなかった部分ってあるわけですよ。最初に誘拐された場面で、幼稚園バスが止まって大和が「タカシ!」って叫ぶところ、橋の上なんですけど、下が川で、あの川は印旛沼の放水路でラストシーンにつながっているんですねって書いてあるわけですよ。そんなこと俺分かんない(笑)。逆に、なんで評論家の人にそういうふうな書き手が一人でもいないのかと、いろいろ読んでて思ったりしたんですけど。あとはだから、俺はあんまりここで喋ると結果、この『映芸』出たときに俺が損するんじゃないかって、俺がまた孤立して嫌われるのがイヤなんだけど。

座談会を終えて

荒井 氏が指摘した『トカレフ」の新しさは非常に面白かった。氏はこの対談の中で、『トカレフ」をして解釈は排除して長い三面記事に戻したような映画だと表現している。成程、これは卓見だ。しかし、この新しさの意味は一体なんなのだろう。私にはよくわからない。分かったのは、この映画が分かりにくいのは当然だということである。なぜなら「トカレフ』というまぎれもないフィクションが「現実」に近くあろうとしているからである。「現実」は混沌としてとらえがたく、理解しがたいものである。だから人はストーリーを作った。ストーリーによって人は無秩序な現実に秩序を与え、理解しようとするのである。ストーリーとは世界観のモデルだ。が、トカレフはストーリーを孕みながらもあくまで解釈から自由であろうする。「現実」であろうとする。ストーリーのくせに。まるで聞き分けのない子供みたいだなあ、と私は思う。と同時に、一方でそれがこの映画の新しさ=魅力となっていることも了解しているのである。といっても対談を終えた今になってからの話ではあるが。
 が、元に戻って、その新しさの意味は何なのだろう。『トカレフ」が新しいということは分かった。が、新しければそれでよいというものではない。例えば、私の記憶には倒立像だけでできた商業映画はない。それを作れば新しいかもしれないが、面白い映画には到底ならないだろう。この新しさにたいした意義はないからだ。だから誰も作らない。『トカレフ」の新しさはこのような浅薄なものではなく、もっと大胆で革命的なものだ。が、しかし、私にはその意味を言語化できないのである。それを語り、問うことが私達観客や批評家にまだ残されている。映画監督が全ての答えを知っているわけではないのだ。(榎本)

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