松岡錠司
破滅にとりつかれた者は復讐を完遂できる。復讐を遂げた者に残された道とは死を受け入れることだ。彼には死だけが待ち受けている。自分に相応しい家庭を築き人生を送ろうとし男が子供を殺され妻を奪われる。そして自分も犯人によって銃弾を撃ち込まれ死の淵をさまよう。彼の身の内にふつふつと湧き上がる今まで感じたことのない激しい怒りと慟哭。何もかも破滅した男には歯止めがきかない。行き着く所まで疾走するだけだ。彼は意志によって銃を手に取るのであり、暴力衝動によって突き動かされるのであり、憎悪の加速を発見するのであり、破滅することを選ばされ、選んだのだ。
想像を絶する運命の展開に当惑し、絶望に打ち拉がれる主人公を冷やかに見つめる男がいる。主人公を奈落の底に突き落とす犯人だ。その男は偶然によって拳銃を見つける。疎外孤立の中で生きていた彼は拳銃を手にすることでよこしまな妄想の具現を実行する。男は凶行に及び、主人公の妻を手に入れ、彼女子供を作り、ささやかな幸福を噛み締める。いや、幸福を噛み締めるふりをする。彼は人生を演じることに夢中になれない男だ。だか主人公を冷徹に見つめる以上に自分自身を他者のように見つめ続けるしかない。時折浮かべる薄笑いはそのせいだろうか。不可解な自分を持て余した末に、他者との抜き差しならない関係を求めていったその男は主人公の復讐を悲しげに待つのだ。『トカレフ』の観客は、人が憎悪と暴力にわななきながらも、それを受け入れてしまい破滅のエネルギーを生むことを再認識しつつ、理不尽な運命のなれの果てを見届けることになる。『トカレフ』は、記憶に残る場面の描写、否応無しに目に焼き付く描写の喚起力が映画に必要なんだと改めて確認させる作品だ。そして、人と人の視線のやりとりが磁場をもたら逃れようのない局面を築く、その様を堪能できる作品だ。息子を誘拐された直後の主人公と、拳銃で腕を撃ち抜き被害者を装う犯人との視線のやりとりがその幕開けと言える。それとも、バイクのエンジンをかける凶行前の犯人を主人公の妻が見つめるくだりだろうか。ともあれ印象的な瞬間の創出に釘付けになっていく。息子の葬儀に現れた犯人を訝し気に見る主人公の、犯人と妻に送る視線。犯人の視線として映し出される憔悴した妻の表情。住宅のゴミ捨て場での犯人と妻との対峙の緊迫感。追いかけてきた主人公が犯人と妻赤ん坊を見てしまう驚愕の瞬間。そして、その直後の主人公と犯人の視線の交差。つまり、人物が他者に視線を送る時、凶々しい官能性が際立ち、事態が地滑りを起こして突き進むことを予感させるのだ。
しかし、仰々しい力業の魅力に満ちた『トカレフ」は同時に見る者を戸惑わせもするだろう。原因はサスペンスという枠組の中で作劇上企てざるを得ない「偶然」の扱い方にある。例えば、犯人は小銭を拾おうとして銃を手にし、主人公は病院のトイレで銃を見つけ、生き延びた後は共犯者を路上でつきとめ、共犯者は警察の包囲網をかいくぐって身代金を強奪する......。これらはすべて「偶然」によって事象が成立している。しかも、段取りを踏んで巧妙に見せていく「偶然」が、まさしく出会い頭の「偶然」として物語に放り込まれている。その為、無造作なまでの「偶然」の展開によって観客は戸惑い宙吊りとなる。
最も特徴的なのは、物語を組み立てる為の描写、必要最小限の描写の意図的な省略、あるいは欠落だ。主人公の妻が息子を失ってからの行動の経緯がその例だろう。彼女は恐らく犯人とは知らずにその男と田舎で暮らし始めるのだろうが、それにしても主人公が行方をくらました後にどんな想いで犯人と一緒になったのかが描写されていない。犯人が主人公の妻を自分のものにしたいと考えているのはわかるし、妻が犯人と知らずにその男を好意的に思っている部分があるのもわかる。それなら息子も夫もいなくなった妻が、男が差出す救いの手を掴む描写があってもおかしくない。もし描写されていれば、ねじ曲がっていく三者の関係性が後戻りのきかない瀬戸際に向かうという流れをより明確に示すのではないか。例えば妻が鏡に向かって服を着る場面。最終ショットにおいて彼女が誰かに引き寄せられてフレームアウトするようにも見える。ここで、実は犯人が寝室にいたことを暗示していると解釈できなくもない。だが事態は奇妙な曖昧さを残したまま進む。その結果、主人公と犯人の関係に妻が加わるようなそぶりを感じた観客は勝手な想いを巡らすだろう。......男は自分が犯人だと主人公の妻に告げるのだろうか、と。自分を救った男こそ完膚なきまでに家庭を蹂躙した張本人だと知ったら、妻はどんな行動に出るのだろうか、と。犯人は彼女に愛を求め続ける為に嘘をつき通すのだろうか、と。だから彼女が不吉な予感を感じながら祭ばやしの中に消えていく描写に帰結した時、主人公と犯人の戦いに向かう物語の中で、妻の存在のあり方に一考の余地があったのではないかと思った。
自分の死を覚悟したが故に相手を亡き者にすることだけを求める男二人の戦いの場面で犯人は言葉を発する。寡黙を続け謎めいて不吉だったその男は最後に何を告げようと言うのだ。ひょっとしたら主人公に対して言うべき言葉が見つからないのが本当じゃないかとも思うし、いびつな男のまま死ぬのなら主人公を挑発する明快な言葉に変えてもよかったと思う。物語が破綻する境界線で禁欲的に語り、裏付けを見せていく物言いを拒んできた末に「トカレフ』は言葉を口にしようとした。断末魔に発する言葉など必要がない圧倒的な質量を持ちながら......。
独創的な語り口は有無を言わさぬ力を発揮するが、ケチをつけたらすべて御破算になる危険と背中合わせなのだ。『トカレフ』はぎりぎりの綱渡りをしている。阪本監督は、注意深く作劇の構造を検討し、何を明示し何を暗示するかを選び、そして唯一の『トカレフ』を目指したんだと思う。自分の想いを乱暴に押し付ける作業と観客の当惑や幻想を予測する作業の中で、彼は、構造上の不手際を抱えた、しかし官能的な映画の魅力を勝ち得た作品を生み出したのだ。
映画をいかにこしらえていくかを考える者にとってトカレフは刺激的で示唆に富んでいるし、物語の組み立てと語り口が緊密にその映画の個性と関わっていることを知らしめている。
佐藤肇
いまのところ、日本映画の新人監督のほとんどは異業種からの横すべりだから、映画を撮るテクニックがわからない。いきおい、ろくにドラマも仕掛けられない対象を眺める”だけの無意味な長まわしでお茶にごすことになる。けれど外国映画では『双旗鎮刀客』『ボブ・ロバーツ」「ダンシング・ヒーロー』などの輝ける処女作群でもわかるように、そんな不勉強な映画監督志願者はひとりもいない。映画とは数々のショット群で現実を再構築してみせる躍動的な創造世界だと認識したうえで出発していることが、絶対的な強みなのだ。だから当然、『エル・マリアッチ』でも、映画が映画であるエッセンスがふんだんに盛り込まれ、それが観る者を挑発する。もし日本映画にこんな素敵な作品が現れたら、それだけでも、ひさしくつづく危機的状況から脱出できる足がかりになるはずなのに、日本映画の新人監督たちの作品には、ドラマチックな世界を展開させてでも観客を圧倒しようとするパワーがとぼしい。
としたら、ここしばらくは、端倪すべからざる新人の出現は絶望的なのだろうか?
と、思いに沈んでいたとき、阪本順治の「トカレフTOKAPEB」は封切られた。ところが、どうしたわけかこの監督の名を聞いただけで胸は高鳴り、『どついたるねん』『鉄拳』『王手」と作品系列をたどっていた。かえりみれば、どの作品をとっても骨太なのがたのもしく、気力をみなぎらす快作ばかりだった。時として豪放すぎて破綻することはあっても、それをうわまわるパワフルな腕力が、思いがけない成果をあげてきた。すでに四作目なら新人ではなく中堅というべきだが、ひさびさに作品が発表されたら、やはり期待するにたる輝かしき星”にはちがいない。
予想どおりだ。相変わらず表現は豪放であり、そこらの軟弱な新人監督が真似のできない大胆さにあふれていた。けれど、それにもまして、数えきれないほど疑問に満ちていたのは、どういうわけなのか?
子供を誘拐された父親が、やる気のない警察捜査に見切りをつけ、襲われながらも拳銃を手に入れ復讐する。と書いただけでも、どこかで観たような題材だ。それでも、車の免許をもらうプロセスのごたごただけの『免許がない!』や、我がまま女が気まぐれな旅でひろった恋を淡彩に見つめる『大阪の章二クン』がものたりない観客なら、この映画は、それとは対極に位置するたのもしい企画にちがいない。と、まずはいいと声援したくても、観ているうちにおかしな気持ちにさせられる。スリルやサスペンスを楽しもうとしても、それとはちがう方向みたいだし、それならと登場人物に感情移入しようとしても、なぜか画面から弾き返されてしまう。それならどうすればいいのかと戸惑ううちにも、つぎつぎに疑問の連鎖反応が湧きおこり、それが途方もなくふくらみはじめるからだ。
だいいち誘拐はあっても、犯人が”どうして"子供誘拐するのか、最後まで動機がわからない。後半になって、子供を誘拐された若い母親(あや子)が��なぜか"犯人と同棲して子供までつくるなら、この女性ほしさなのかと納得しようとしても、こんどは若い母親がどうして”子供を殺した憎き犯人と同棲するようになったのか、観客の誰もが知りたがる大切な気持ちの推移は、見事なほど省略されている。むしろ、そんな重要なことに目をつぶり、口にピストルをねじ込まれて撃たれてもすぐ生き返るといった強引きわまる段どりで、ドラマは犯人と父親との”男同士の対決”のほうになだれ込んでいく。
強引といえば、渋谷の雑踏での身代金受け渡しシーンの運びも荒っぽい。共犯者(これも、わかったようでわからん存在だ)は誘拐した子供を肩車にのせ、白昼堂々と覆面したまま幼稚園の園長と接触して、カバンをひったくり逃走する。子供がピストル(しかも本物)を「バンバン」とふりまわすから、微笑ましい親子の姿のようにみえて、雑踏の誰もが怪しまない。フカ読みすれば、安全すぎて危機管理がぬかりがちな日本なら、あまりにも堂々とした本物のピストルはオモチャと勝手にきめられそうで、たしかに、そんな設定も成立するかもしれない。けれど、その興味あるシーンですら、信じられない手ぬかりをひきかえに成立している。雑踏にまぎれて張り込む刑事たちが、共犯者を発見しても叫ぶだけで追おうともしない。テレビの刑事ものでも、こんな描き方では通用しない。そのあと、父親の追及をかわそうと犯人は風車に火を放ち、パトカーを呼んで警察に逃れようとする。なのに、父親が駆けつければ、ピストルを乱射する。あれっと、瞬間ひっかかる。逃れようと警察を呼んだ男が、どうして凶器をもっているのか?燃えあがる風車をあしらったアクションがキマッテイルだけに、ここでも、どうして素敵なシーンは、破綻という重大な犠牲のうえに成りたっているのかと不思議でたまらない。
あまりにも八方やぶれたから好奇心にかられ、家に帰るのももどかしく雑誌『シナリオ』をひらいた。すると、シナリオと対談を読むうちに複雑な気持ちにさせられた。出来そこなうのも覚悟のうえで、ということは断固たる監督の意思によって、そんな舌たらずな表現になっていることがわかったからだ。
いちばんの発見は、誘拐の動機と、母親の犯人への心の傾斜について、画面ではなにひとつわからないのに、シナリオを読んで「ああ、そうなのか」ぐらいの新事実にぶち当たったことだ。幼稚園に子供を送るとき、犯人がオートバイをキックするうるさいだけの行為は、シナリオの書きでは「あや子の気を引く」ためだし、夕方、子供を呼ぶ母親の声を聞いて歩く後ろ姿では、不意に犯人の一人称となって「あや子の声に吸い寄せられている。見たい。見たい」と、狂おしい思墓ともとれる思いのたけがこめられている。いっぽう母親のほうでも「垣間見せた倦怠感、その距離」とか「微かなため息」とかの下書きで、さかんに夫婦間の危機の存在を暗示しようとする。けれど、それを現実にうつしだす歩道橋をいく親子三人の後ろ姿のロング・ショットでは、母親が数歩おくれても修復不可能な愛情の「距離」とは感じられず、かえって逆に、よくある親子の楽しげな風景になってしまう。
それでも、シナリオで判明したことを総合してみれば、あや子を見染めた犯人が、一緒になりたくて子供を誘拐して殺害、夫の間に倦怠を感じていた心の隙につけこんで同棲に成功したことになるのだが、それでいいのだろうか?たとえ、そうだとしても全面的に納得しがたいが、もっと驚かされたのは、そんな舌たらずな表現になってしまったのを、対談で「セリフや説明を削ぐというのは、僕のやりたかった事の一つの方法」だから、あえて、そんなやり方を全面的に選択したんだと確信をもって発言していることだ。
たしかに、なんでもかんでもセリフで「説明」されてはたまらない。といって、誘拐する犯人の動機と若い母親が犯人に傾斜していく心の動きを無視して、ここまで強気で押し通すことができるのだろうか?むしろ、そんな不可解な二つの心理が結ぶドラマを「説明」じゃなくつくりあげ、いまある大胆な手法で描き切ってくれたら、この映画は異色な犯罪映画となったにちがいない。そのためには、まずなによりも、ろくに絵にもならない「ある予感」なんかを連発する自作のシナリオをやぶりすて、まともに描けば「説明」になるなんて怖れをいだかずに突き進んでいくべきである。そうしないから、思い入れで選択された「セリフを削ぐ」という確信犯的行為も、ただ観客に不親切なだけの無謀な企てになりさがってしまう。だったら、やるべきことははっきりしている。まずは出発点として、どうして犯人は、あの子供を選んで誘拐したのかを、はっきりと描くべきなのである。
だからといって、どんな映画でも、かならず犯人の犯行にいたる動機を描かなければならないということはない。たとえば、ベルギーの新人三人組が共作した異色の犯罪映画「ありふれた事件」では、不敵に殺人論を展開しながら悪の限りを尽くす凶悪犯がどうして人を殺しつづけるのか、その動機なんか、いっさい描こうとされていない。むしろ、無動機殺人であるからこそ、こともなげにくり返される残虐行為に人間存在の深淵を垣間見せられるようで、だから、この種の犯人は、かつてコリン・ウィルソンが「純粋殺人者」と名づけたほど、世界犯罪史でも不滅の研究材料なのだ。ところが、それとくらべて「シンドラーのリスト」のような映画では、事情がちがってくる。ホロコーストの実態に迫っていく切っ先は鋭くとも、シンドラーがどうして"ユダヤ人を助けるのか動機づけがあいまいだから落ち着かない気持ちにさせられる。最初は金儲けのために安上がりにユダヤ人を雇っていたのに、どの瞬間から、私財をもなげうち助ける気になったのか?一説によれば、そこだけ赤いコートの少女の死を目撃したときともいわれるが、それが明確に描かれているとも思えない。だからラストで、生きのびたユダヤ人たちに囲まれ「もっと救えたのに」と涙をながす場面では、その気持ちにひたって感動するというよどうしていまさら、そんな見えすいた演説をするのかと戸惑ってしまう。
もっとも、そんな風に感じてしまったのは、同じころに観た『ラストソング」(杉田成道監督)のせいかもしれない。冒頭から安田成美のナレーションで始まるその饒舌ぶりと、観客に親切な画面づくりは、たしかにある安定感は与えてくれる。だが、その一方で、映画を見ること見せることの緊張感(どうして、入場料を払ってまで緊張させられる必要があるのだ、という意見には、この際、耳を貸さない)や、描かれている世界がフィルムでなければならない必然性は、はるかに希薄だったと思うのだ。観客席での楽しまれ方はともかく、日頃、日本の古い映画を、アレコレ調べている人間としては、寡黙な「トカレフ』の方に、わが映画史の正系につながる、作家としての力を予感したと言っておこう。かつての巨匠たちは、その多くが、無声映画経験者であった。『トカレフ」のある部分に(画面だけが勝負という意味で)、そこに連なるような、うずくような緊張が、たしかにあったのである。
いきなりこんな例をもちだすのは、『トカレフ」のあや子が犯人と結ばれていく動機づけにしても、きっちりたどっていけば、女心の恐ろしさをえぐりだしかねない重要な表現対象だからだ。子供を殺された母親がそんなバカなことをときめてかかるのは、早まった考えだ。美容師バラバラ殺人事件”でも、それがもし江田文子"の単独行為だとしたら、殺意と凶行にいたる女心には奥深い謎が秘められている。女ひとりで死体をバラバラにするのは絶対に不可能だと断定できないように、愛する子供を殺されたのに、犯人と結ばれる女は絶対にいないとは断言できない。ただし、そんな不可解な行為にいたる女心の謎に迫っていく気なら、祭りに流れるパトカーのサイレンの「ある予感」で立ちすくむ母親の「下駄が迷っている」ぐらいの表現では、なんの解決にもならない。あるいは、新しい子供をあやす犯人と母親を描いても、それを目撃した父親の激情を「混乱・動揺・理解・嫉妬・怒り・殺意」とシナリオに一行ずつ連ねても、文字どおり表情にすべて盛り込めるわけもなく、血相をかえて田んぼを走っていく父親の姿にしかならない。とすれば、『トカレフ」は、過剰にシナリオに指定された登場人物の気持ちを、なにひとつ画面に実現できなかった失敗作なのだろうか?けれど、そうとは断定しきれない魅力が、この映画には確かにある。それなら、どう評価すべきなのか?「説明」になると恐れたものを敢然と描いていけば、こまごました日常生活を超えた人間存在の神秘にまでも到達したかもしれないのに、惜しげもなく切り捨ててしまった。けれど、それを捨てずに乗り越える気さえあれば、あるいは意義のある試行錯誤といえるのかもしれない。と書いて、『鉄拳』のときもおなじだったなと考えこむ。ボクシングの研鑽に励んでも決闘に勝つだけで、いつの間にか、チャンピオンの志は忘れてしまっていた。あの重大な肩すかしにも懲りず、またも期待してしまう。そんな“ひいきのひき倒し”を、こんにちまたやろうとしているのだろうか?
と、苦しい評価に迷うとき、これも有能な相米慎二の「夏の庭TheFriends』を観るチャンスにめぐまれ、そうだ、日本映画でなにかが"起こりはじめているんだと確信した。ここでも『お引越し』にひきつづき、野心的な才能が貴重なものを見つめ、ひたむきそれへの追究を試みていたからだ。
佐伯知紀
このザックリとした、太々しい感銘はなんだろう?まるで大きな鉈で、一気に遮蔽物薙ぎ倒したような感じなのだ。昂然と顔をあげた挑戦的な視線が、スクリーンの背後か観客席にむかって投げつけられている。ふと、そんな気配を感じたのだ。なるほど奇妙な味わいの映画だった。鈍く輝くトカレフの銃身、屈み込んだ男の姿勢、黒いビニール袋、轟々たる輪転機の唸り、冷え冷えとした団地のたたずまい、女の白い足裏、祭礼の遠い響き、などなど細部のイメージは豊かである。たしかに何かを観たのだという充足感と、その一方で、それをことばにすることができないというか、禁じられたかのような、もどかしさ。いわば主役の大和武士的状態(なにしろ、喉を撃ち抜かれて声がでないのだ!)にしばし、陥っていたことを、この際、正直に言っておこう。それは、ある意味で、理不尽な充実感でもあった。
さて、ここで「理不尽」と、ひとまず書きつけておくには、もちろんわけがある。この作品で佐藤浩市が演じている、松村計なる人物は、常識的な見方では、かなり不可解な存在だと思うからである。映画がほぼ結末に近づいたころ、彼が団地に越してきた人妻、西海あや子(西山由海)を狙い、その子供を誘拐して殺し、夫である西海道夫(大和武士)の殺害を企み、彼女に自分の子供を産ませた男であることが明らかになる。だが、そこに至るまでの描写の中には、松村がその種の危険な人物であることが、描かれていたとは言いがたいのである。それどころか、画面に登場しているかぎりは、気弱な勤め人といった風情であり、佐藤浩市のキャラクターが発散している雰囲気はともかく、誘拐事件に巻き込まれ肩を撃ち抜かれた被害者として、西海夫妻の前にあらわれてくる人物なのである。つまり、誘拐殺人に加担している(だろう)犯罪者の部分は画面の外におかれ、伏せられているのである。
だから、子供を殺されて錯乱状態に陥っている西海が、運動会のビデオに映っている松村の姿を認めて彼を犯人だと確信していく展開にしても、どこか半信半疑といった態の警察の反応の方がもっともらしく見えてしまうのである。たしかに、刑事から質問された後、松村が銃で自分の肩を撃つイメージショットが挿入されてはいた。だが、因果関係が漠然としているこの段階では(動機や実行犯との関係が不明なのだ)、意味がいわゆる宙づり状態にされてしまい、ただ謎めいた印象を与えるだけなのである。これは、松村が西海を襲う場面も同じである。その前の場面で殺された子供の姿を画面の上で一瞬見せているために、その後の事態の推移もどこか西海の幻想めいた印象を与えてしまい、その区別がはっきりしないまま、物語が進行していくと言った方が、観客席の実感に近いだろう。
この松村にくらべれば、まだしも、あや子の方が説明されているだろう。大衆レストランのレジで、夫と子供を振り返った時に見せるあや子の表情を「倦怠」と解説し、オートバイをキックし続ける松村への注視を、彼女の心の揺らぎとみることは可能だろう。だが、その後の二人に関する描写の量を考えれば、松村の子供を産んで一緒に田舎で暮らしているという最後の設定は、飛躍と言えば飛躍かもしれない。
とはいえ、この充実はなんだろう。挑むような描写の強さはなぜだろう。このことを、便宜的にだが、「画面内」と「画面外」というコンセプトで考えてみたい。まず明らかなことは、この阪本順治監督の『トカレフ」にあっては、ドラマを起動させていく大きなファクターが、「画面外」に退けられ、伏せられていることである。それは松村の動機であり(あや子に対する妄執かもしれない)、誘拐の実行犯と松村あや子と松村の関係である。もちろん動機の有無を問題にしているのではない。それに関する描写なり、説明がほとんどなされていないという意味である。
普通の演出であるなら、巧拙はともかく、これらの因果関係を構成する要素を、多少なりとも「画面内」つまりスクリーンの上に撒いておき、物語の円滑な進行(すなわち、観客への親切)を図っておくはずである。この作品でも、それらは後から納得させられたり、最小限のセリフで語られたりするわけだが、事が進行していく現在形の過程では、ほとんど明らかにされてはいないのである。説明的な描写は意図的に排除されており、その徹底は一種挑戦的な次元にまで達していると言えるだろう。まさに力業である。そして妙な言い方かもしれないが、この「画面外」への伏せ方が強いぶん、「画面内」の接写の密度が濃くなっているのである。つまり、今、眼の前で展開していることがらが、さまざまなニュアンスをもって浮かび上がり、人物たちの表情やほんの少しの仕種、視線、カメラの動きなどが、多義的な意味合いを持って観るものに迫ってくるのである。「画面外」的な意味を求める観客にとって、「画面内」は暗示の塊となっているわけである。(なお、この「画面内ー画面外」の考え方は、その昔、直接的には筆者が溝口健二・依田義賢を論じた際に使ったモノであ る。「内外」を葛藤させ、振幅の大きい劇を、いかに視覚的かつ組織的に組み立てていくか、溝口映画から摂取できることは、まだまだ多い)。
そして、実は、このことこそが、阪本監督の狙っていたことではないかと思えてならないのである。映画監督が作品をつくる。何かに深く突き動かされて、その何かを探るようにして作品をつくっていく。その何かとは、もちろん様々だろう。だが、想像するに、阪本監督を動かしていたサムシングの一つは、今日の(劇場)映画の見られ方に対する痛苦の想いではなかっただろうか。この作品は、簡単にいえば、観客に向かって、おまえら、この映画についてこれるか!と胸をそらしているような映画なのだ。映画館というリングで、減量に減量を重ねた映画が、観客という名の仮想敵めがけて、猛然とラッシュをかけている。性的な映画の見方にゆさぶりをかける、観客的映画などと勿体をつけるよりも、『どついたるねん』の阪本監督に対しては、たぶん、こんな比喩の方が似つかわしいだろう。戻る