プロデューサー 鈴木敏夫

「『火垂るの墓』の話をするのは、実は、しんどいんです。内容の重さもさることながら、公開にこぎつけるまでが、綱渡りの連続で、今思い出しても苦しくなるんです。
 一九八六年の夏に『ラピュタ』が公開された後で、さて次に何を作るかとなったときに、まず僕が眼をつけたのが、宮崎駿が長年温めていた『となりのトトロ』でした。 ところが、いざ企画を進めてみると、肝心の徳間書店がどうも乗り気じゃない。要は『ナウシカ『『ラピュタ』のような、冒険活劇ファンタジーであれば、ある程度、数字が見込めるが、お化けの話では、商売にならない、というワケです。
 それで僕は「一本立てが無理なら、二本立てならどうか」と考えました。もう一本は高畑勲さんに作ってもらえばいい、というか、高畑作品を作る絶好の機会だと捉えたんです―― そうと決まれば、善は急げとばかり、さっそく、当時、私の上司だった尾形英夫と二人で高畑さんを囲んで、相談したんです。
 尾形さんは、昭和8年生まれで戦争の経験が非常に色濃く染みついていた人なんですが、その彼が高畑さんにこう言ったんですね。 「戦争は確かに大変だった。でも特に敗戦直後、大人たちが意気消沈する一方で、子供たちだけは元気だった。そういう映画を作ってもらえませんかね」
 高畑さんという人は、そういう時になかなかすぐには反応しない人なんですけど、この時ばかりは目の色を変えて、それは面白いかもしれないと食いついてきた。 そのあと、高畑さんと僕とで、何か原作になるものはないかと探すことになり、高畑さんが見つけてきたのが、『日本を走った少年たち』という東京の戦災孤児を扱った本でした。 すぐに映画化の検討をしたのですが、結論としては、映画にするのは難しいとなった。いわば『火垂るの墓』の前に、幻の原作本があったわけですが、この本の帯に推薦文を寄せていたのが野坂昭如さんだったんです。
 実は僕自身、野坂さんの『火垂るの墓』は大好きな作品でした。というのも僕が十八歳で上京したのが一九六七年で、『火垂るの墓』がオール讀物に掲載されたのが、まさにこの年の秋、 ぼくは、将来、映画に関わるような仕事が出来たら、という夢を漠然と持っていて、いつか『火垂るの墓』を映画にしたいと夢想していたんです。
 そんなこともあって、高畑さんに打診してみたら、「内容は知っているが読んでいない」ということだったのをさっそく読んでくれて、読み終わるや否や「面白いから、やろう」と、二つ返事でオーケーしてくれました。 当初の「戦後、子供たちが元気だった話」という構想とは正反対の話だったので、わたしとしても、なかなか言い出しづらいものがありました
 いずれにしろ、企画として高畑さんが「OK」を出してくれたということで、ぼくは、徳間書店の当時の副社長だった山下辰巳さんのところに行って、「この二本立てならどうでしょうか」と談判するわけです。 ところが山下さんには「バカ野郎!おばけだけかと思ったら、そこに墓までくっつけるのかっ!」と怒られました(笑) 二本立て案は、暗礁に乗り上げてしまったのですが、そこで救いの手を差し伸べてくれることになったのが、新潮社でした。偶然は重なるものですね。 幸運というか。同じころ、同僚だった亀山修を介して新潮社で出版部長をされていた初見國興さんを紹介されて,その初見さんからこんな相談を持ち掛けられたんです。 「うちの社長がアニメとか漫画をやりたがっている。僕としては、やめさせたいのだが、知恵を貸してくれませんか。」 『火垂るの墓』の文庫の版元は、新潮社ですから、僕にすれば、これは、まさに渡りに船。徳間書店が『トトロ』を、新潮社が『火垂るの墓』を作って、二本同時公開に持っていける――となると、 初見さんには申し訳ないが、逆にアニメをやるように説得することになりました。 初見さんも最初は難色を示しましたが、何とか協力体制を作ってくれました。
 そうなると今度は徳間書店の側です。別々の出版社が一つの事業に取り組みというほぼ初めての事例でしたから、一計を案じました。 要は老舗の新潮社の側から、徳間書店の方に「よろしく」とお願いする形を作れば、事はスムーズに運ぶのではないか、と考え、佐藤亮一社長から徳間社長に、電話を一本入れてもらいました。この電話一本で、企画は動き始めました。
 こうして映画を作る枠組みはできたんですが、実際に作品を作る段になると、これは今思い出しても本当に「しんどい」局面の連続でした。最初に問題となったのは、シナリオでした。

『自己憐憫は描きたくない』

 
 高畑さんに言わせると、映画は二種類あると。主人公への感情移入型とそうじゃない映画。宮崎駿の映画が前者。『ナウシカ』を初め、近作『風立ちぬ』に至るまで、宮さんの作品は終始一貫、観客は、 主人公の一挙手一投足に手に汗を握り、一喜一憂する。一方、高畑さんの作品作りは後者。登場人物のすべてに距離を置く、高畑さんが当時、例として出してくれたのが『男はつらいよ』の渥美清扮するフーテンの寅さん。 観客は、決して、寅さんになりきって映画を楽しまない。寅さんと言うヘンな人を客観的に見つめて楽しむ。いわば、知的エンターテイメントだと。なるほどと感心しつつ、じゃあ、『火垂るの墓』は、どうやって作るのか  
 というのも、原作は明らかに、野坂昭義さんの妹への贖罪意識が強く、そのままやれば、清太への感情移入映画になってしまう。「自己憐憫は描きたくない。」高畑さんの呟いたセリフをぼくは、いまだに強烈に覚えているんです。 高畑さんの描いたシナリオは、一件、原作通りでしたが、内容は、清太の語った妹節子の話になっていたんです。  
 野坂さんといえば、最初に原作を使用する許可をいただくために、ご自宅に伺った時のことが強く印象に残っています。新潮社の初見さんに連れて行ってもらったんですが お邪魔して、ご本人が起きてらっしゃるまで、しばらく待っていた覚えがあります。で、いざ起きてこられたら、いきなりビールを飲まれるわけです。それも尋常じゃない量、とにかくすごい飲みっぷりでしたね。  
 その後、野坂さんには、映画『火垂るの墓』に、「アニメ恐るべし」という一文をお寄せいただいたり、神戸にロケハンした際には、自ら案内役を買っていただいたりもしました。  
 シナリオの次に大きな問題となったのは、「映画の長さ」です。当時としても既に珍しくなっていた「二本立て」ですから、当然、時間的な制約がある。高畑さんと宮崎さんには、当初、「六十分でお願いします」と伝えてありました。  
 ところが数か月もすると、「『火垂る』はとても六十分ではおさまらない」ということが分かってくる。一方で宮崎さんは、どこかからその話を聞きつけて、「『火垂る』は八十八分だって?だったら、俺も八十分でつくる」と言い出す。 結局、宮さんは、『トトロ』を延ばすために、メイちゃんという新しいキャラクターをつくり、主人公を姉妹にすることを考えつくんです。  
 このように、宮さんは高畑さんのやっていることが気になって気になってしょうがない(笑)。このあたり、宮崎駿の高畑勲に対する感情というのは、愛想半ばするところがあるんです。 お兄ちゃんと弟の関係というか。  
 とにかく『トトロ』を作る傍らで、『火垂る』の制作進行もなぜかきっちり把握して、家に帰っても、『火垂る』の話ばっかりしている。 しまいには、奥さんに、「毎晩毎晩『火垂る』の話ばっかりして、いったい会社で何やってんの?」と怒鳴られたというエピソードもあります。  
 当時の僕の本職はあくまで徳間書店アニメージュ編集長で、ジブリの方は、いわば裏方でしたが、製作が佳境に入ってくると、朝から夜の十二時ごろまで、吉祥寺にあるジブリに張り付くことになり、 新橋の編集部に戻るのは、午前一時過ぎ。そこからまた朝まで雑誌を作るわけですから、編集部にみんなには迷惑を掛けましたね。  
 例えば、昼間ジブリにいると編集部から、誰かが相談に来る。「この人に取材したいがどうか」とか。そうすると、ぼくは「駄目だ。この忙しい時にできるわけないだろ!」というんですよ。 ところが、深夜編集部に戻ってくると、「あの件、何で取材してないんだ?」と逆のこと言い出す。「だって、編集長が昼間に駄目だとおっしゃったじゃないですか」と言われても、本当に憶えていない。 「そういえば、俺、そういったなあ」と思いだすのは、翌日、ジブリの現場に行ってから(笑)。完全に二重人格になってましたね。  
 僕が『火垂る』にかかりきりになっていると、ある日、編集部に戻る深夜一時頃を見計らって、宮さんから電話が来たんです。 「今から打ち合わせをしたい」って。それで、そのまま吉祥寺にとんぼ返りして、宮さんと「打ち合わせ」をするわけですが、大した話があるわけじゃない。 クレジットをどうするかとか、そんな程度の電話で済む話ばかり。それが三日三晩続いた。『火垂るの墓』にかかりきりで、『トトロ』の方へ顔を出せなくなっていた。 僕も猛反省して、スタジオから帰るときに必ず『トトロ』の方にも顔を出すことにしたんです。

『公開を延ばしてください』

『火垂る』の製作が遅れに遅れる中で、ついにはプロデューサーの原徹さんと高畑さんの間で話も出来ないほど険悪になり、このままでは決裂という状況に至ってしまいます。  
 要は高畑さんが原さんのいうことを、全然聞かないわけです。例えば高畑さんがいないときに、よかれと思って、原さんが指示してセル画に色を塗らせたことがあったんですが、これを高畑さんが全部ひっくり返してしまう。  
 すると宮さんがまた、野次馬というか、情に厚いというか、お節介というか、「鈴木さん、これは三人でちゃんと話し合ったほうがいいよ」と言うんです。 確かにそうかな、というので、原さんと高畑さんとぼくとで、吉祥寺の第一ホテルに部屋を撮って、とにかく話し合おうということになった。 それで、部屋に入って、いざ話そうとすると、突然、部屋の電話が鳴るんですね。出てみると、宮さんからで、「どう?」って言うんですよ(笑)  「どうって、まだ喋ってもいませんよ」と言って電話を切って、話し合いを始めたんですが、 結論から言うと、やはり決裂してしまった。  
 話し合いの詳細ははっきりと覚えてはいませんが、原さんは、九州のご出身で、言って見れば日本的な義理人情を大事にする人なんですが、高畑さんというのは、自分の作品の完成度を高めることがいちばん大事で、 近代的な合理主義に貫かれている人ですから、背景にはその辺りのスタンスの違いもありました。   
 そのうち新潮社でも「新潮社の初めての映画が間に合わないとなれば、これはスキャンダルだ」と言う声が広がり始めます。 それで当時、新潮社の社員だった新田敞さんから「僕もシバレンさんとか清張さんとか、色んな作家と付き合ってきたけど、あんな人は見たことない。何かいい知恵がないか」と相談を受けまして、 ぼくは「かくなるうえは、この映画の最高責任者である佐藤亮一さんから、高畑さんにガツンと言ってもらうしかないんじゃないですか?」といったんです。 すると新田さんに「佐藤がどういったら、もっとも有効ですか?」と訊かれたので、とっさの思い付きでこう言いました。「質を落とさないで間に合わせてほしい」。 新田さんがその台詞をノートに書きつけていらっしゃったのが印象に残っています。  
 それで、とにかくその時点まで出来ているフィルムを新潮社に運び、社長に観せに行くことになりました。 その当日の朝、ぼくが高畑さんと話していると、原さんが現れて九州弁でこう言うんです。「わしと高畑は今はダメじゃ、申し訳なかけど、鈴木さん、あんたがワシの名代として行ってくれんか。」  
 ここまでされたら、僕も知らん顔は出来ませんから、原さんの代わりに高畑さんに同行することになりました。新潮社に向かう電車の中で、高畑さんがどうしようとブツブツ言うので、 「高畑さん、ひとつだけ。多分、佐藤社長はこういうことをおっしゃるはずです。どう答えるかはお任せします」とだけ伝えました。  
 いざ新潮社に着いて、まず佐藤社長とぼくと高畑さんと三人で、その時点で出来ている映像を観ました。完成度としては七、八割だったですかねえ、音も入ってない状態です。 そのあと、話し合いになったところで、佐藤社長が「高畑さん、質を落とさないで間に合わせてください」と例のセリフをいうわけです。すると高畑さんは、こう答えたんです 「公開を延ばしてください」  
 これには佐藤社長も絶句しました。僕にとっても、まったく想定外の返答でした。  
 とにかく高畑さんは「公開を延ばしてください」としか言わない。これに対して、佐藤社長は 「私個人の問題ではない。会社としてやっている事なんで、みんなとも相談しないといけないが、むずかしいと思う」とおっしゃった。  
 まあ、早い話が、決裂です。僕個人は、このやり取りを観ながら、実は一種の野次馬になっているんですね。当事者意識はもちろんあるんですが、高畑さんが何を言うか、それに佐藤社長がどう応じるのか、 こういう見物は、目撃者としてちゃんと見ておかなくちゃ、という気持ちでした。

『火垂るの墓クーデター計画』

 
 なぜここまで遅くなるのか。僕が見る限り、高畑さんという人は、どこかで、映画がちゃんとできるなら、自分は死んだってかまわないと思っている。だから怖いものはない。 公開に「間に合う、間に合わない」についてはどう考えているのか、僕にはわかりませんねえ。 『火垂る』の現場で、最初のころ、ぼくが驚いたのは、B29が神戸の街に空襲にやってくる場面がありますよね。 すると高畑さんは、当時、B29がどちらの方向からやってくるのかを調べたうえで、清太の家の玄関と庭の方角を考慮して、清太が見上げる顔の向きを決める。 焼夷弾がどう爆発するかについても、どこで手に入れたんだか、焼夷弾のレプリカを一個、現場に持ち込んでいた記憶があります。 とにかく何を描くにしても、自分で納得するまで徹底的に調べ上げる。そりゃ、遅くなるよなという話なんですけどね(笑) 『火垂るの墓』でもう一つ鮮明に覚えているシーンがあります。  
 間に合うか、間に合わないかという本当の最後の土壇場のとき、またも新橋の編集部に宮さんから電話があったんです。例のよって深夜一時過ぎです。 「鈴木さん、いい案を考えたから、来てよ」。  
 何事かと思いましたが、とにかく吉祥寺に向かって、着いたのが午前2時。そこから宮さんが変なスナックみたいな店に僕を連れて行って、暗がりの中で、おもむろに一枚の紙を出したんですね。 そこには「『火垂るの墓』クーデター計画」と書いてる(笑) ご丁寧にも「こうやれば『火垂るの墓』は完成する」とリードまでついている。具体的には、出来上がった原画をこういう風にしていけばいい、とか、色塗りをこうやればいいとか、技術的なアイデアが詳細に書いてありました。 いかにも、宮さんらしいおせっかいですが、宮さんがまた声を潜めて、「この計画をぼくがやるわけにはいかない。これを実行に移せるのは鈴木さんしかいないんだから、やれ」って言うんですけど、僕だってできるわけない(笑)。  そんなことを真夜中から朝まで、延々やっている。僕、今でもこの時の紙は大事に持っているんです。  
 最後の最後、このままでは、いよいよ間に合わないことが決定的になった時点で、最後の説得を試しみようと、ぼくは高畑さんの自宅のある大泉学園の駅から、「今から行きます」と電話を入れます。 すると奥さんに「駅前の喫茶店で待ってて下さい、と言ってます」と言われて、喫茶店に入ったのが昼の十二時。そこで延々待ってたんですが、何の連絡もない。 結局、高畑さんがその喫茶店に現れたのは、夜の八時でした。嫌なことがあると、来ないんですよ(笑) それで開口一番、高畑さんが言ったのは「ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』のエピソードを知っていますか?」  
 僕は知らなかったんで、黙って高畑さんのいうことを聞いていたら、要は『やぶにらみの暴君』というフランス映画も、二年で出来るはずが、三年経っても半分しかできなくて、 プロデューサーがさらに二年延ばしても完成しなかった、と。それで頭にきた プロデューサーが途中のフィルムを引き上げて、強引に公開しようとしたら、監督のポール・グリモーが裁判所に訴えた。するとフランスの裁判所は、プロデューサーの立場も分かるが、グリモーの気持ちも理解できるというので、 映画の冒頭で未完成のまま公開するに至った経緯を全部説明しなさいという判決を下したそうです。  
 それで、高畑さんは「同じことを『火垂るの墓』でやってもらえませんか」というワケですが、ぼくはその場で、「出来ません」ときっぱり断りました。高畑さんは意外にあっさりと「わかりました」と引き下がりました。  
 最終的に高畑さんが「鈴木さん、これで納得してもらえないだろうか」と提案してきたのが、二つのシーンを色を塗らないシロのままで公開するという案でした。 僕も「わかりました。それでいきましょう」と応じて、関係者に伝えました。  
 それまであまりにいろんな事件があったので、みんな公開できるだけでも、ほっとしていましたね。  
 最初の試写のときの事はよく覚えてます。通常、試写はお昼ごろに行われるのですが、『火垂るの墓』の場合、朝の八時ごろだったんです。 配給会社に引き渡す直前のギリギリまで、徹夜で作業していましたから、そんな入れの時間になった。 それで新潮社の方々も一緒に、その試写を観たわけですが、映画が終わっても、誰も何も喋らない。普通だったら、「良かった」とか何とか言うものなんですが、重苦しかったですね。

『火垂るの墓がジブリにもたらしたもの』

 
 結局、一九八八年四月に公開された時点では、二か所の色塗りが間に合わず、シロのままになりました。関係者の一人として、もちろん忸怩たるものがありましたが、 表向きには、これが未完成品であるということは一切、言いませんでした。「ちゃんと言うべきだ」という人もいましたが、説明すればするほど話がややこしくなるから、「こういう時は黙ってりゃいいんだ」と腹をくくってました。  
 問題の場面が、清太が野菜泥棒をする一種壮絶なシーンだったため、実際に見た人の中には、演出と受け取られた方も多く、未完成品だとは気づかれませんでした。 『火垂るの墓』は映画が公開された後も、作り続けられて、最終的に完成したのは、五月の半ば頃ですかねえ、公開から約一か月後でした。  
 結局、『火垂るの墓』は、多くの映画賞を獲得し、特に海外での評価が非常に高く、フランスでは、約二十年間、連日上映されるという快挙を成し遂げました。 これはやはり、高畑さんの映画に近代合理主義的なセンスが息づいていることの証左なんでしょう。 実は『火垂るの墓』の打ち上げを吉祥寺の『いせや』という店でした時も、僕が司会の方からご指名を受けて、十八歳の時に初めて原作を呼んで云々…という話をしたんです。 するとそのあとに挨拶に立った高畑さんが、「鈴木さんのセンチメンタルな期待には応えられなかった」とわざわざ言うわけです(笑)。 めでたい席なのに、そういうことにこだわる。作り手というのは、どっかでそういうところがあるんですね。  
 ところで、あれだけ『火垂るの墓』が気になっていた宮崎駿がこの映画をどう受け止めたかと言うと、そこは複雑なものがあるわけです。 やっぱり素直に褒めたくないんです。だから、「日本の軍隊というのは、もう少しちゃんとしたところだ。軍人の息子がああいう目に会うのはリアリティがない」と、妙なポイントからブツブツ言う。 でも、のちに、「代表作は、やっぱり『火垂るの墓』だろう」とちゃんと認めてます。  
 今振り返ると、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』をやったことは、ジブリにとって本当に大きな礎となったと思います。 『ナウシカ』『ラピュタ』に続けて、血沸き肉躍る冒険活劇を散々つづけて、この路線に自らを限定していたら、どんどんジリ貧になっていたはずです。 『トトロ』と『火垂る」である種の文芸作品をアニメーションで作ることにチャレンジし、しかもそれが広く受け入れられたことで、ジブリの幅が広がったことは間違いないと思います。」


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