芝山幹郎


 ≪ここのトミーあそこのトミー
 トミーよきみの魂はどんな様子だ?
 ああしかし戦さの太鼓が打ち鳴らされた瞬間
 魂は「英雄たちの細い赤い線」(シンレッドライン)と化してしまう≫


 いまから百年ばかり前、ラディヤード・キプリングはこんな詩を残した。詩の一節はのちにジェームズ・ジョーンズの小説の題名となり、いままたテレンス・マリックの映画の題としてよみがえった。『シン・レッド・ライン』は、五十五歳を迎えたマリックが、「天国の日々』以来、およそ二十年ぶりに発表する作品だ。マリックはどうしているのだろう?という声をわれわれはしばしば耳にしてきた。耳にしただけではない。われわれ自身も、折にふれてこの疑問を発してきた。七四年の『バッドランズ』と七八年の『天国の日々』。鮮烈な印象を与える二本の作品を発表したあと、ひたすら沈黙を守る――なにもかもが露出されてしまう二十世紀末という時代にあって、ひとり彼のみは神話のをつむいでいるかに思えた。
 とはいうものの、マリックは映画界と縁を切ってしまったわけではなかった。パリで哲学を教えるかたわら、いくつかの脚本にたずさわっているという話は、私の耳にもとどいていた。ラリー・マクマートリーの「デザート・ローズ」やD・M・トマスの『ホワイト・ホテル」、さらにはモリエールの「タルテュフ」など、マリックが関わった、もしくは関わるのではないかと噂された文学作品はそれなりの数にのぼる。
 だが、マリックが選んだのは「シン・レッド・ライン』だった。なぜか。なぜ彼は、第二次世界大戦におけるガダルカナルの戦闘に眼を向けたのか。いや、この問いかけは不正解だろう。なぜマリックは、「戦争映画」を撮ろうとしたのか一切の固有名詞を省いてこうたずねたほうが、この作品の核が見えてくるような気がする。
 スピルバーグの「プライベート・ライアン』とは異なり、『シン・レッド・ライン」は戦闘場面で映画をスタートさせない。最初に映し出されるのは、泥沼に滑り込んでいく一頭のワニだ。ワニは眠たげな眼をして、黄緑色の葉におおわれた水中に没していく。ついでキャメラがとらえるのは、節くれだった大樹の根もとに真上から射し込む光だ。生い繁った枝葉を抜けてくるためか、光は幾筋にも分かれて降りそそぐ。そこに画面の外から《聖なる自然のなかの戦争とはなにか〉というモノローグがかぶさる。モノローグのあとには、砂浜でたわむれ、水にもぐるメラネシアの子供たちと、カヌーを漕ぐ若いアメリカ兵の姿が交互に映し出される。
 しかし、この静けさはどこか不安定な影を伴っている。米兵の表情。臨終の床についていた母親を回想するモノローグ。熱帯の楽園に見えてどこか荒廃の色をうかがわせる島の様子。もし仮に「シン・レッド・ライン」が戦争映画であるという先入観がなかったとしても、われわれはそこにただよう不穏な空気を察知するはずだ。そして、灰色の墓標を思わせる一隻の哨戒。
 若い兵士は哨戒艇に連れもどされる。ウィット二等兵(ジム・カヴィーゼル)というその兵士は、AWOL(無許可離隊)の常習犯らしい。艇で待っていたのは、ショーン・ペンが扮するウェルシュ曹長だ。ウェルシュはウィットを叱責するが、その口調は頭ごなしではない。ふたりのあいだには、むしろ親しげな気配さえ流れている。彼らが属しているのは、陸軍のC中隊だ。中隊長をつとめるのはスタロス(イライアス・コーティアス)という大尉だが、戦闘現場で実際に指揮をとっているのはウェルシュらしい。一方、ケンタッキー出身のウィットは入隊して六年目だ。理想主義者の彼は、C中隊を家族同然に思う反面、どこか戦争に没入しきれない。「この戦争では世界はひとつしかない」とたしなめるウェルシュに対しても、ウィットは「おれは別の世界を見ました。あれは幻?」と切り返さざるをえない。そんな彼に、ウェルシュは担架兵の職務を命じる。危険な仕事だが、懲罰房に入るよりはマシだろうというわけだ。
 ここまでが「シン・レッドライン」の導入部といってよいだろう。ただし、当然のことながらマリックの語りはけっして説話的ではない。それどころか彼は、一見不連続とも思えるイメージをきわどく連鎖させて、映画の流れを織り上げていく作家だ。この導入部にしたところで、なぜウィットが無断で隊を離れて島にひそんでいたか、なぜウェルシュがウィットに対してこういう口をきくのか、といった心理的説明はほとんど加えられない。となればわれわれは、マリックのさしだす光や音に従って彼の世界に足を踏み入れるほかない。マリックはそこで、ボイスオーバーという名の杖をさしのべる。ただし、この枕が役に立つかどうかも定かではない。もしかするとこの杖は、歩行を助けるどころか、意外な躓きの石となるかもしれないからだ。それでもわれわれは、否応なく神経を研ぎ澄ます。ときおり挿入される草の葉や昆虫のショットに眼を凝らせ水しぶきや兵士のためいきに耳をそばだてる。これはふしぎな磁力だ。マリックはプロットに凝る作家ではない。場合によっては、ストーリーのなめらかな展開さえ犠牲にすることを厭わない。いいかえれば、彼の語り口にはつねにぎごちなさがつきまとう。だが、彼は剛胆で繊細な作家だ。俳優を巧みに使い、音響と風景を微妙に交錯させ、深い眼でとらえられた映像を立ち上がらせて、マリックは「映画の王国」へ迫ろうとする。一行でも十分に成り立つ詩を百行千行と連ね、海を埋め立てるように王国を築こうとするのだ。よしんばそこに築かれるものが、結果として「純白の城」に終わろうとも、彼が映画の限界をさらに遠くへ押しやろうとしていることは疑いを容れない。その特性がもっとも顕著に表われるのは、(幸か不幸か)戦闘シーンにほかならない。C中隊は、ガダルカナル島に飛行場を建設した日本軍の攻略を命じられる。総指揮にあたるのは、叩き上げの野心家トール中佐(二ック・ノルティ)だ。トールは、C中隊を率いるスタロス大尉に強引とも思える指令をくだす。C中隊には、ウェルシュやウィットをはじめ、ケック軍曹(ウディ・ハレルソン)、マクローン軍曹(ジョン・サヴェージ)、ベル二等兵(ベン・チャップリン)、ファイフ伍長(エイドリアン・ブロディ)といった兵士たちが属している。二〇一高地に拠点をおく日本軍は、そこへ至る途中の峰々にトーチカを築き、兵士を配置して米軍を迎え撃とうとする。マリックは、ここでもいきなり戦闘シーンの描写に入らない。上陸用舟艇が猛スピードで疾駆するシークエンス。C中隊が島の内部へ分け入っていくシークエンス。前進移動と後退移動を組み合わせ、神に語りかけるウィットの独白をときおりはさみながら、マリックはC中隊と観客を丘陵地帯の裾野にみちびく。スタロスとウェルシュは、兵を率いて丘を登る。トールは突撃を命じつつ、裾野の拠点から迫撃砲で掩護する。兵士は幾手にも分かれて斜面を進む。日本軍は、丘の上のトーチカからそれを狙い撃ちする。この場面の迫力は、息を呑むすさまじさだ。パンフォーカスのロングショットを用いて、撮影監督ジョン・トールのキャメラは画面の手前と奥を同時に見せる。横移動をつづけていたキャメラが固定されると、手前では表情のはっきりした兵士の血が飛び散り、奥では顔の見えない兵士が仰向けに倒れ、もっと奥では砲弾が炸裂する。その一方で、吹き渡る風は草をそよがせ、雲の切れ目からは光がさっと射し込む。光は、兵士たちの背中に降りそそぐ。「恩寵」という言葉を連想させるその輝きは、マリック作品のみに可能なものといってよいのではないか。にもかかわらず、私は「シン・レッドライン」を完璧な傑作と呼ぶことができない。これまでの口ぶりからも察していただけると思うが、この映画には露骨な欠陥がいくつか見受けられるからだ。わけても気にかかったのはボイスオーバーの使い方だ。ことわるまでもないだろうが、『バッドランズ」や「天国の日々」の彼は、画面の外から少女の声を送りつづけていた。が、『シン・レッド・ライン』の彼は、複数の兵士の声状況に応じて送り込む。すると、どうなるか。前者の場合は、ふしぎな「距離感」が生まれる。もともとマリック映画の登場人物は、自分たちがおかれている状況に対して、どこかへだてられた感覚をいだいていることが多い。いいかえれば、彼らは自分自身を一個の部外者のように感じている。無意識の領域が広い「少女の声」はこの効果を高める。自分の身になにが起こっているのか、自分はどんな場所におかれているのか。それを把握していない「当人」の声は、眼の前にある映像をどこか遠く離れた場所へ押し流す力をもつ。それにひきかえ、後者のボイスオーバーはこの距離感をあまりもたらさない。理由のひとつは、兵士たちの自意識だ。みずからの行為を痛切に自覚している彼らは、神に向かって、あるいは自分自身に向かって、いわゆる哲学的な問いをくりかえす。ある兵士は≪私は、私をあなたに託します≫と語りかけ、別の兵士は<この巨大な悪はどこから来るのか>とつぶやく。だが、これらの常套句は、結果として眼の前に広がる映像の説明に奉仕してしまうのだ。これはマリックの誤算ではなかったか。おそらく彼は、激烈な戦闘シーンさえも「背景」として位置づけ、戦争という「自然に対する罪」を全体的にとらえようとしたにちがいない。そのためには、太平洋戦争を描くのではなく、「戦争」を描く必要があった。悪の磁力や恐怖の暴力、さらには宿命の権力をきびしく追いつめる必要があった。そして彼には、このプロセスを鮮烈に描き出す才能がそなわっていた。にもかかわらず「シン・レッド・ライン』の「戦争」は、「根源」をもとめながら、深い場所へ降りずに高い場所へ昇ってしまったような気がしてならない。私はいま《凡庸をひたすら避けつづけることは、もうひとつの凡庸にほかならない》という皮肉な格言を思い出している。ただし、この「凡庸」がまったく異なる次元に属するものであることはつけくわえるまでもないだろう。


鶴田浩司


 テレンス・マリック監督の20年ぶりの新作「シン・レッド・ライン」は、突然企画され、製作されたわけではない。ましてや、「プライベート・ライアン」と競作されたのでもない。しかし不運なことに、双方とも第二次世界大戦を背景とした映画で、同年度に公開されたために、何かにつけて比較されることになった。単純に戦争映画として、この二作品を見比べたら、十中八九の人たちは、「プライベート・ライアン」の方が面白いと言うであろう。それは、否定できない事実である。それどころか、「シン・レッド・ライン」を駄作と思う人が、過半数を超えるかも知れない。だが、極端な言い方をすれば、「シン・レッド・ライン」は戦争映画ではない。確かに戦争映画ではあるが、戦争をテーマに描いている作品ではないのだ。だから、「プライベート・ライアン」に限らず、既製の戦争映画と比較するなどナンセンス。そして、戦争映画という分類でくくらずに見れば、いかに「シン・レッド・ライン」が素晴らしい作品であるか、理解できるであろう。
 スティーヴン・スピルバーグ監督作品には、常に娯楽性があり、「フック」(91)では海賊の世界、「ジュラシック・パーク」(98)では恐竜の世界を、まるでテーマパークのアトラクションのように、私たち観客におもしろおかしく見せてくれる。テーマパークのアトラクションは、老若男女、誰が参加しても楽しめるように、テーマもストーリーも分かり易くなっている。同じように、スピルバーグの演出はいつも実に明快である。それは、「シンドラーのリスト」(93)のような作品であっても変わることなく、ホロコーストの恐怖でさえ、興味深く見せてしまう。「プライベート・ライアン」も、戦争の悲惨さを擬似体験するアトラクションのようなものなのだ。
 一方、テレンス・マリック監督は、日本未公開のデビュー作「バッドランズ」(74)も、二作目の「天国の日々」(78)も、犯罪と逃走を描いた作品であるにもかかわらず、犯罪そのものをテーマとして描いてはおらず、戦争映画であるにもかかわらず、戦争を描いていない「シン・レッド・ライン」と共通している。当然観客としては、見たままの画面や、聞いたとおりの台詞だけでは、マリック監督の言わんとしていることは理解できない。
 監督と観客を、野球のピッチャーとキャッチャーに例えれば、ストレートの速球を投げてくるスピルバーグのボールは、ミットを正面に構えていれば受け止めることができる。しかし、マリックは七色の変化球を投げ分けてくるピッチャーなので、次に投げるボールがカーブするのか沈むのか、低速球なのか速球なのか、ピッチャーから送られてくるサインを見逃すと、捕球できない。観客は、ただ漠然とストーリーを追っているだけでなく、マリックが画面の端々に織り込んだサインを、読み取っていかなければならないのだ。「プライベート・ライアン」を見るに際しては、ディズニー・アニメを見る気楽さでも理解できるが、「シン・レッド・ライン」を理解するためには、ベルイマンの作品を見る時と同じような覚悟が必要なのである。
 このようなことを書くと、スピルバーグ作品を否定し、蔑んでいるかのように誤解されそうなので、蛇足ながら付け加えさせていただくが、私は映画の基本は娯楽であると思っている。だから、スピルバーグのように誰でも楽しめる作品を撮れる監督は、偉大だと認めているし、「激突!」(71)や「ジョーズ」(75)は大好きである。「プライベート・ライアン」も、非常に高く評価している。また、スピルバーグ作品も詳細に分析すれば、単な娯楽作品にとどまらず、表面的には見えな奥深いメッセージを読み取ることができる。だが、マリックの作品は、表面的に見ただけでの理解は困難である。では、マリックの送るサインとは何であろうか?そのキー・ワードの一つに、自然がある。

一人一人が見つけなければならないマリックのサイン

「バッドランズ」は、題名の通りバッドランズと呼ばれるサウスダコタ州からネブラスカ州にかけての荒れ地を舞台に、若い男女カップル、キットとホリーによる殺人と逃避行を描いている。これは38年1月に実際に起きたチャールズ・スタークェザーの事件を題材としたもので、後にオリヴァー・ストーンが「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(94)として映画化した事件と同一である。この作品でマリックは、殺人のシーンは淡々と描き、逃げる二人の行く先々に広がる、アメリカ西部の大自然の描写に心血をそそいでいた。「天国の日々」は、大恐慌の時代に、恋人のアヴィと妹のリンダを連れて放浪するビルを主人公に、彼らが農場で雇われ、そこの農園主をビルが殺害し逃亡するが、結局は射殺されるまでの過程を描いている。この作品でもマリックは、テキサスの雄大で美しい風景を見せることを主軸に、地中から芽を出す植物やイナゴの大群の襲来など、執拗なまでに自然の凄さを描いていた。「シン・レッド・ライン」も、ガダルカナル島に住むメラネシア系原住民の生活や、そこに生息する大小さまざまな動物たちの生態が、ふんだんに描かれている。アメリカ兵と日本兵が死闘を繰り広げている間も、小鳥のヒナは親鳥が餌を持って帰るのを待ち侘び、ワニは獲物を求めて泳いでいる。日本兵が潜んでいる丘に生い茂った草が風になびき、青空には白い雲が流れる。これは、悠久の時を経て来た大自然の中では、人間も、その人間の起こした戦争などという行為も、ちっぽけなものでしかないというメッセージとして、サインを送っていると考えることもできる。しかし、「シン・レッド・ライン」で描いているのは、そんな単純なことだけではない。
 とにかく、これからご覧になる読者の皆さんには、戦争映画という先入観を捨てて劇場に足を運ばれ、一人一人がそれぞれの感性で、マリックのサインを見つけて欲しいと思う。
 しかし、「シン・レッド・ライン」の兵隊たちにはまとまりがない。なにか現実的な対立があってそうなったのではない。はじめから、戦場の兵士の大前提として、彼らはお互いに孤立している。
 その意味でジム・カヴィーゼル演じる兵隊がはじめAWOL(戦線離脱者)として登場するのは象徴的だ。彼は隊に戻ってからも好んで仲間から離れ、ひとりになる。その表情はときに荒野を歩くキリストのように見える。確かに、友情はあることはある。中隊長は部下想いである。倒れた仲間を助けようと危険を承知で敵の銃弾のなかを飛び出していく兵隊もいる。戦死した戦友の亡骸を手厚く葬る場面もある。
 にもかかわらず、そうした友情がハリウッド映画的に感動的に謳い上げられることはない。むしろ兵隊たちは、誰もが内にこもっている。他人に必要以上には近づかない。
 繰り返されるヴォイス・オーバーがその距離感をよく語っている。兵隊たちはみんなばらばらに独白を繰り返す。相互にコミュニケーションはない。断片としてのモノローグ、呟きがコラージュのように重ね合わされていく。
 ある兵隊は死んでいく母親のことを思い出す。かつてゴーギャンが夢見たような南海の楽園で暮すネイティブの穏やかな姿を思い浮かべる。また、ある兵隊は、故郷に残してき美しい妻のことを繰り返し思い出す。「プライベート・ライアン」では、兵隊たちは最後の戦闘の前に故郷の思い出を語り合うことによって友愛を深めたが、この映画では、兵隊たちは最後までヴォイス・オーバーによって、ばらばらに独白を繰り返すだけだ。この距離感は、決して戦場の兵隊に特有なものではない。テレンス・マリックにとっては、生きることそのものが、他との距離感のなかで孤立を深めていくことなのだ。その孤立が極限までに達したときに、あの、草原にふっと射し込んで来た光を見ることが出来る。その光は、神などと呼んだとたんに消えてしまう細い、細い線のような極限の光である。

戦闘のあとの静けさ


 確かにこの映画にも壮絶な戦闘シーンはある。しかし、テレンス・マリックは戦闘そのものを描きたいわけではない。そもそも日本兵との死闘のさなかに、ふっと音をすべて消してしまい、そこにアルヴォ・ペルトやチャールズ・アイヴスの宗教色の強い鎮魂の音楽を流す。離脱、距離の感覚はここにもあらわれている。「プライベート・ライアン」の冒頭のオマハ・ビーチでの戦闘シーンでスピルバーグも音を一瞬、消した。しかし、それはむしろ、銃弾のすさまじさを強調するための技法だった。それに対し、テレンス・マリックが音を消すのは、瞬時とはいえ、そこから離れて光のほうに行きたいからである。
 テレンス・マリックは戦闘の激しさを描きたいのではない。むしろ戦闘のあとの静けさ、虚脱感、祈りに似た思いを描こうとしている。日本兵との激しい戦いに生き残った米兵は、突然、涙ぐむ。泣いて戦友と抱き合う。日本兵の死体から歯を剥ぎ取っていた兵隊は戦闘のあとの降りしきる雨のあと、突然、その歯を放り出して、号泣する。
 それは敗けた日本兵も同じである。誰もが虚脱状態におちいり、むきだしになった内面を震わせている。もう勝者も敗者もない。米兵も日本兵も、誰もがばらばらになり、孤立し、ひとりひとりが闇のなかで孤児のように震えている。ただ細い、細い光が射してくるのを待ち続けるしかない。
 その点では、日本兵も米兵も同等である。日本兵がやせこけてみじめに描かれているからといってそこに差別意識を見るのはあまりに皮相だ。テレンス・マリックは、敵とか味方を描きたいわけではない。戦場の兵士の誰をも等しく襲う根元的な孤立感と、その先にもしかしたら射し込んでくるかもしれない光を待ち続ける祈念こそを描きたいのだ。
 戦闘のあと、土に埋もれた日本兵の死顔をイコンのようにとらえた場面の厳粛さには胸が締めつけられる。友情、勇気、愛国心、あるいは反戦、戦場の兵士の苦難・・・・・・そうした戦争映画に特有なメッセージからこれほど離脱した戦争映画というものはこれまでなかったのではないか。
 かつてヴェルナー・ヘルツォークが「緑のアリが夢見るところ」の冒頭に使った、フォーレのあまりに美し過ぎる「レクイエム」から始まるこの映画は、現代のどこにもいない神に向かってなおあえて祈るという、絶望的な祈りの映画といえるだろう。


新藤純子


 映画を見終わったとき、ふしぎに心が満たされるのを感じた。それは感動とかカタルシスといった威勢のよい体験ではなく、もっと静かなもの、ある意味で、「癒し」に近いものであった。
 おおかたの戦争映画とちがって、この映画にはバトルゲームの興奮もなければ、反戦や大義をふりかざすようなところもない。残酷なシーンを露骨に見せたりもしていない。ただ、戦争(というよりも戦闘)の現実がどういうものか、殺すか殺されるかといった状況がどんなものかということを、静かな悲しみをこめて描いている。「癒し」に近い、と書いたが、ほんとうは「癒し」という言葉を使いたくないのだ。あんなふうに人の命が失われていく残酷さを前にして「癒された」などと言うのは間違っている。しかし、神も仏もいないような悲惨な戦場で、だが、そこにはたしかに神がいたという「救い」のようなものがあった。
 テレンス・マリックの神とは何だろう。太平洋戦争の重要な拠点であったという理由で米軍と日本軍の激戦が行われたガダルカナル島は、マラリヤの発生率世界一ということで、戦争中以外はほとんど文明が入ってきていないような場所だ。実際のロケ地はおもにオーストラリアだったというが、草原やジャングル、海といった自然のひとつひとつが、まるで神が宿っているかのように神々しく映し出されている。
 万物に神は宿る。風になびく草の葉にも、天に向かってそびえる木々の梢にも神が存在している。すべての自然に神が宿っているという原始のアニミズムの思想を、マリックは映像で表現しているようだ。
 メラネシアの子供たちが泳ぐ海。木々の梢からふりそそぐ光の帯。人の背丈くらいの草の葉に兵士がそっと触れると、まるで蟻が羽根をたたむように葉がすっと合わさるふしぎな瞬間。主人公たちの所属する米軍のC中隊の兵士たちが一列になって草むらを歩いていると、向こうから小柄なメラネシア人が歩いてきて、まるで兵隊などそこにいないかのように悠然とそばを通り過ぎていくときのふしぎな神々しさ。戦闘が始まったとき、兵士の足元から驚いて飛び上がる蛇。戦闘のあとの血のような夕焼け。そして、故郷の芝生の上でぶらんこを揺らしていたベル二等兵の妻が、ガダルカナルの青空の中へと溶けていく。
 神の宿る自然を美しく映像化する一方で、映画はまた、C中隊の兵士たちの心の内面をモノローグや心象風景でつづっていく。現実を知りつくしたウェルシュ曹長と、無断で隊を離れ、メラネシアの子供たちと遊んでいたところを連れ戻されるウィット二等兵の対比が印象的だ。俳優としてのキャリアの長いショーン・ペンが顔に人生の年輪と憂いをただよわせて演じる古参兵に対し、この映画でようやく主役の座をつかんだジム・カヴィーゼルの二等兵は無垢な表情を浮かべている。同じく新人のペン・チャップリン演じるベル二等兵は故郷に残した妻を心の支えにしている。ベテラン俳優と新人がそのまま古参兵と無垢な若者になるのが効果的だ。
 戦闘が始まると、もはやそこには殺すか殺されるかの現実しかない。殺さなければ殺される――これが戦闘というものだ。戦闘が始まっても相手は見えない。敵の陣地からは容赦なく銃弾が浴びせられ、肉体を切り裂く。誤って手榴弾のピンを抜いてしまい、尻を吹き飛ばされて死んでいく兵士(ウディ・ハレルソン)がいる。瀕死の重傷を負った仲間に、せめて痛みだけでも和らげてやろうと必死で1モルヒネを運ぶ兵士がいる。また、米兵も容赦なく敵の塹壕に手榴弾を投げ込む。その間、残酷な部分そのものを絵にしていないにもかかわらず、映画は人の死や肉体の痛みを観客が感じるように想像力に訴えてくるのである。

最後に残るのは人間の営みを超えた自然


 この映画の日本兵は人物としてはほとんど描かれていないに等しいが、彼らの発する数少ない日本語の台詞は驚くほどクリアーに響いてきた。映画のなかほどで捕虜が言う「貴様もいずれ死ぬんだ」という言葉。そして、クライマックスでウィットが敵に取り囲まれたときに、隊長らしき兵士が叫ぶ「降伏しろ、おれはおまえを殺したくないんだ」。米兵に日本語がわかるはずがない、にもかかわらず、まるでテレパシーのようにこの言葉は彼らの心に届いたにちがいないそう確信させる響きである。殺さなければ殺される、そういう残酷な世界にあって、「おれはおまえを殺したくない」と言っている男がいる。そう言った男と、そう言われた男が、その直後にどうなるのか―映画はまたしても観客の想像力に訴えかける。だが、それはあまりにも悲痛な結末だ。
 C中隊の兵士たちはモノローグの中で神に呼びかける。「あなた」という形で神に語りかける。それはキリスト教の神なのか、ユダヤ教の神なのか。捕虜になった日本兵が手を合わせて神仏に祈っているシーンがあった。ウィットにとって、神はもしかしたらメラネシア人の平和な楽園かもしれない。ベル二等兵にとっては、故郷に残した最愛の妻こそが心の女神だろう。心の中の神の存在が、残酷戦場にあって、正気と狂気をへだてる細い赤い線(シン・レッド・ライン)をかろうじ保っているのだ。しかし、現実は容赦なく彼らの心の神をも奪っていく。
 最後に残るのは、人間の営みを超えた自然である。マリックの二十年前の作品「天国の日々」では、イナゴの襲来とともに起こる三人の男女の悲劇のあとでも、神は静かにそこにあった。この神は善悪の裁きも下さないし、神の意志を示すこともない。だが、世界がどんなに残酷でも、透明な神はただ黙って静かにそこにある―これがマリックの哲学ではないか。万物に宿る透明な神は、たしかに、「シン・レッド・ライン」の自然光でとらえられた映像の中にもあった。


坂本三郎


 物語の流れとは直接関係はないのだが、忘れ難い小さな場面がある。
 草原のなかを進んでいった二人の米兵が、どこからともなく飛んできた日本軍の銃弾に撃たれてあっけなく倒れる。後方に残っていた兵隊がそれを呆然と見る。
 そのあとカメラはふっとその惨劇の現場を離れ、すぐ近くの草原を映し出す。微風に草が揺れている。そのとき、雲が動いたらしくそれまでかげっていた草原一面に、日の光が静かにさしこんでくる。
 思わずエピファニー(神の顕現)と呼びたいような胸に迫る一瞬である。その草原の美しさは「バッドランズ」の荒野や「天国の日々」の地平線にまで広がる麦畑を思わせる。
 戦闘の極限状態のなかでふっとカメラを引いてしまう。いや、現実の戦闘から一瞬だけ視線を、現実の向こう側へと向ける。そこから離れる。生死のやりとりの場から、そのあとの世界へと視線を向ける。この離脱感、超越感が、「シン・レッド・ライン」全体の雰囲気を決定している。「プライベート・ライアン」を作ったスピルバーグなら、カメラを撃たれた兵隊のほうへ、血まみれの現場のほうへとどんどん近づけていくだろう。「プラトーン」を作ったオリヴァー・ストーンもまた同じように、戦闘のなかへ、銃弾の嵐のなかへまっしぐらに進もうとするだろう。「プラトーン」や「プライベート・ライアン」の兵隊たちには、お互いにいがみ合いながらも、まだ小隊としてのまとまりがあった。友情とその裏返しの憎悪によって結束があった。だから、兵隊がひとりひとりに離脱、孤立することはなかった。カメラが彼らから離れてしまうことはなかった。
 しかし、テレンス・マリックはある瞬間にふっとそこから離れる。目を向こうへやる。スピルバーグやオリヴァー・ストーンが地上的なのに対し、テレンス・マリックは天上的といえばいいだろうか。
 まだ少年のような兵隊が撃たれる。内臓をやられたらしくもう手の施しようがない。少年は泣く。その瞬間、またしてもカメラはそこから静かに離れ、末期の目のように空を、木を、木洩れ日をとらえる。少年の魂が空にのぼっていくような錯覚にとらわれる。
 あるいはーー、草原のなかを日本兵の待ち構えているトーチカに向かって兵隊が匍匐前進していく。いつ、どこから銃弾が飛んでくるのかわからない。その緊張のなかで不意に兵隊は、目の前の草に目を向ける。おじぎ草のような草にふと我を忘れる。ここでもカメラは、一瞬だけ、そこから離れ、別の世界へ上昇する。「西部戦線異状なし」におけるあのあまりに有名な蝶々の場面とは少し違う。テレンス・マリックはそういう異常のなかの日常を描きたいのではない。兵隊たちには、極限状態にいながら、いや、いるからこそ、心がそこから離れて真白な、空白な状態になるという無の瞬間がある。テレンス・マリックは終始、それにこだわっている。
 オリヴァー・ストーンやスピルバーグのように戦場の兵士ひとりひとりの痛苦を描きたいのではない。戦闘の極限状況や、そのなかでの兵士たちの友情を描きたいのでもない。テレンス・マリックは、死と向き合っている兵隊たちひとりひとりの心が、ここから向こうへ連れていかれる瞬間を追い求め続けたいのだ。それはきわめて内省的、精神的な試みである。その点で「シン・レッド・ライン」は、日本の戦争文学の最良の作品である大岡昇平の『野火』『俘虜記』に近い。

ひとりひとりに離脱、孤立する兵士たち


 兵隊たちは誰が誰だかよくわからない。ショーン・ペン、ニック・ノルティ、ウディ・ハレルソンら有名スターの顔はなんとか見分けられるが、他の俳優たちは二回見たうえでもなお判然としない。ヘルメットをかぶっているし、おまけに戦闘で泥だらけの顔をしている。誰が誰なのか、区別がつかない。
 しかし、この映画の場合、それが欠点にはならない。テレンス・マリックは明らかに意図的にその混乱を作り出している。戦場では仲間の兵隊たちの区別がつかなくなるというリアリズムゆえではない。ひとは誰もが等しくひとりきりで死に直面しなければならないという当り前の事実ゆえだ。「バッドランズ」はシシー・スペイセクの少女のナレーションで物語が語られた。「天国の日々」はリンダ・マンツの少女のナレーションで語られた。少女たちの声に包まれることで、悲劇の物語は、どこか童話のような懐かしさ、優しさにひたされた。「シン・レッド・ライン」もまたナレーション、というより、ヴォイス・オーバーが多用されているが、しかし、その効果は「バッドランズ」「天国の日々」とはまったく違う。ひとつの声が、外側から物語全体を見渡して語っているのではない。
 声は、さまざまな兵隊たちの声である。一人のナレーターの声ではない。彼らには、自分たちの運命を、シシー・スペイセクやリンダ・マンツのように外側から統一的にとらえられる幸福な視点はない。戦場のさなかにいて、自分がいまどこにいるのか、これから先どうなるのかもわかっていない。だから、それは物語全体を語るナレーションではない。
 それは個々の兵隊たちの呟きであり、不安であり、そして祈りの声である。全体というよりあくまでも断片である。彼らは、全体のなかで調和的な位置にいるわけではない。あくまでも断片として浮遊している。だからこそ、ある瞬間に、ふっとそこから離脱していく。戦闘のさなかに、草原に射し込んでくるエピファニーのような日の光を見る。死の寸前に、木洩れ日を見る。断片として孤立しているからこそ、現実から離脱していき、光を見る。風を感じる。

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