荒っぽさの魅力と青年の冒険心

「イージー・ライダー」に次いで「ファイブ・イージー・ビーセス」と、新作「さすらいのカウボーイ」(ビータア・フォンダ監督)を発表したBBCプロダクションとは、現在のコロムビア映画会社長の実弟の主宰するプロダクションだそうである。
 このプロダクションがどのような理想を持って進発したかは、右の三作品を見るだけでもおよその想像はつく。が、すくなくともこの映画に関する限りはビータア・フォンダのプロデュースだから、その「若い時代」の感と理想が燃えあがっているのが看取される。
 このプロダクションの目的は、ハリウッド映画にない「真実のアメリカ」の姿を安い製作費でさぐるところにあるらしいが、P・フォンダの監督し主演した「さすらいのカウボーイ(七一年)も西部のマタタビ者の粉飾のない、赤裸々な姿―それだけに一面からいうと哀れでも惨めでもあり、地味な姿を描いている。
 決して「荒野の決闘」その他でおなじみの、凡百の西部劇の英雄たちの悲壮感はないのである。
 あれにくらべると、まるで半素人の作ったようなデニス・ホッパア監督の「イージー・ライダー」は荒っぽさが目立つ。比較されると分が悪いようだが、しかし実は作品としての魅力は別で、「イージーライダー」の方が強烈である。
 企画としての積極的な意志力がここにはあり、いわばベトナム戦以後のアメリカの若い世代の生き方の一つの典型があり、その生き方が少々自楽的で、乱暴で、反法律的で(麻薬の密輸と販売)あることはみとめられるが、むしろそこに若い世代の反抗があり、秘められた情熱があると思われる。
 もし彼ら二人の気ままな旅のライダーの言説に反社会的な、または反時代的な悲憤慷慨(ひふんとうがい)調でもあれば私は興味を失ったろう。が、彼らは黙々として、ただ静かに自分たちの「夢」のプランを実行する。むしろそこに愛すべき人間性をみとめる。
 外見からいうと、二人ともおとなしそうな青年で、別に粗暴な行為もないが、メキシコで大量の麻薬を手に入れ、それを売った利益で、新型の特別製のオートバイを二台買って旅に出る。
 人生感情としてはこの方に、「さすらいの「カウボーイ」の三人組のそれよりはむしろ積極的なものがありはしないか。
 それがよしんば浅薄で、いささか子供じみ「夢」の実行であるとの批判は出るにしても、とにかく「独特な旅」を実現してみせるところがおもしろい。「イージー・ライダー」が出た六九年頃は、まだヒッピイ族が珍しかった時代ではあるが二人はオートバイに乗せてやったジーサスという男の案内で、ヒッピイ村の世話にもなる。が、そこでも二人は結局、受け入れられないのだ。
 脱社会の放浪児であり、ロスアンゼルスから南へ走り、ラスベガスを経てニュウ・オルリーンズの謝肉祭見物から郡部の田舎に出て射殺されるまで。
 この気ままな旅を終ったら、どうして生どうして食って行くつもりなのか、という風な疑問は湧くが、彼らにはそれほどの長期的人生プランはない。ただ目前の「冒険」生きる情熱だけであり、こういう青年を生み出した現代アメリカには、独特の病的ムードも感じられる。


ニュウ・ロックのかもすムードと衣装デザインの特異さ


 この映画が最初に公開されたとき、私は東京丸の内の中型映画館で、満員の若い男女と一緒に、その雰(ふん)囲気の中でわざと鑑賞した。
 だいたい二十歳代のみなりもラフな解放的男女観客層が大部分を占めていたが、支配人の話をきいてみても、館の前にえんえんと行列を作る連中の熱気はたいへんなものだったらしい。
 正確な数字は忘れたが、すくなくともその館のレコードを記録する入りで、百日以上は映したと記憶する。
 私はその頃、慶応大学の学生新聞から求められて、「イージーライダー」の批判を書いたが、正直いって技術的にはベタな作品であると思った。あいまいで不鮮明な表現もあたとえば発端の出だしも拙い。メキシコで麻薬を買い、アメリカに帰ってそれを売る前後もおよそ拙く、映画はすべり出しからして直ちに観客を食いつかせるだけの表現力を創造せねばならぬが、デニス・ホッパアの演出はまるで素人染みている。何をやっているのかわからないくらいであった。その技術的疑問は後半のニュウ・オルリーンズで娼婦二人をともない墓地のような廃墟のような場所で、二人の青年が情事にふけるあたりのフラッシ・バックの目まぐるしさにもあり(オール・ロケイションの撮影者はラズロ・コヴァックス)いったい何を演出者が意図したのか、それらの太陽光の直射その他の断片構成からはわからなかった。
 右はほんの一例だが、そのほかにも娼婦の館(やかた)のような家の中に、宗教画のようなものがならんでいたり、戸まどいすることは多い。
 だが、それにもかかわらず、最も強い感触をおぼえたのは、二人の青年が広漠(こうばく)たる南部の大自然を展望しながら、ハイウェイをふしぎなオートバイで突進する多くの描写だ。異様なのはいでたちで、ことにキャプテン・アメリカ(P・フォンダ)の服装はアメリカ国旗をデザインしたヘルメットをかぶり、車の油を入れる部分にもアメリカ国族のデザインがある。なにしろ仰々(ぎょうぎょう)しく、異様でもある。
 オートバイには無知な私もあの特別製らしい大型車と、そのイーグル・ハンドルといういやに羽根をのばしたような形のハンドルも私の眼を射た。
 私は「カッコいい」という現代語は大きらいで使わないが、この二人の青年の異様さの人目を引く姿ばかりは、(イーグル・ハンドルと共に)全く現代流のカッコよさというほかはない。これは日本の若者たちの間から模倣者が必ず出るだろうと直した。あのオートバイやイーグル・ハンドルはたちまち日本のメイカアによって作られた。
 私はとにかくあのイーグル・ハンドルをつかんで走る姿を見て、思わず笑ったことを白する。どうして滑稽であったのか。その分析はとにかくとして、私の中でとにかく笑った。現代の小さなドン・キホーテがいると思ったのかも知れないが、もっと複雑な笑いをおぼえた。
 中世のドン・キホーテも実は悲しげな表情をしていたが(名歌手シャリアビンのふんし主人公、G・W・パブスト監督作品、一九三三年)とのアメリカの現代的ドン・キホーテも哀調をおびた表情で、別に愉快そうでもなく、意気揚々たる表情でもない。ことにホッパアのふんした青年ビリイはそうで、どこかぢぢむさい趣きすらある。そこに私はむしろ好感をおぼえた。
 私は初見の時、この作品のニュウ・ロック調のかずかずの現代音楽が、ハイウェイ疾走場面になると、とたんに奏でられるのを聞き、これも「イージーライダー」の特質だと思った。映画に集る若い連中の亢奮を肌(ハダ)に直感したが、この作品の魅力の重要な部分ではあるまいか。(その半面、オートバイ場面でない時は音楽もなくなるが、セリフが至って多いのも特質。比較的多いのはラスベガス警察の留置場で二人がれいの酔いどれ弁護士ジャック・ニコルスンと語る場面だ)
 私はこの稿執筆のため、もう一度試写室で再見したが、二度目は最初より一層の作品の音楽的魅力に気付いた。この映画が現代の青年男女の心を奪うとすれば、このニュウ・ロック調のかずかずの現代音楽の並べ方、それと画面の結びつき、そこに重心があると思う。現代日本では影像主義こそ映画の価値だとする評論家が多いが、実はこの作品の影像的方面は決して豊かでなく、新鮮でもないのは皮肉だ。
 製作のP・フォンダはボブ・ディランや「ザ・バンド」の音楽家たちの協力を得て、すでにレコードとして市販されているロック音楽の中から、サイクリング・シーンに合う作曲や歌を選ばしめたらしいが、こういうやり方で成功したことは珍しい。「ザ・バンド」や「ステッペンウルフ」「ジミイ・ヘンドリックス」等の演奏するロック音楽がこの「イージー・ライダー」の作品的感情を代表する。それは現代に対する反抗の叫びの感情である。
 最後の「イージー・ライダーのバラード」のみが、この作のために特に作られた曲であるが、特にロジャア・マギンの歌う「イッツ・オールライト・マ」と終曲のひびきは強烈である。

随筆的紀行文の構成と特異な悲劇表現

「イージー・ライダー」はほとんど筋のない、物語的構成もない作品であり、劇的ないしは小説的構成でもない。
 近年は在来の劇的葛藤(かっとう)、つまり人間世界の劇的もつれの、起承転結(きしょうてんけつ)という構成形式を嫌悪し、それに反抗する映画作風が台頭した。
 その代表的なものはイタリアのミケランジエロ・アントニオーニの「情事」や「太陽はひとりぼっち」であり、あるいはフランスのアラン・レネの「去年マリエンバート」である。マウロ・ボロニーニ(伊)の「わが青春のフロレンス」などは、やや通俗になるがやはり、小説的映画である。
 レネやアントニオーニとポロニーニの間にはかなりの違いがあるが、たとえば演劇的要素の強い「冬のライオン」などにくらべると、これらはすべて小説的映画と私は呼ぶ。
 この小説的映画の中にも種々のタイプがあるが、(現代小説そのものの形式が今日は多様化し分岐している)その説明は他日にゆずるとして、ここでは「イージー・ライダー」形式方面を考えたい。これはむしろ小説的映画の中にも入りにくいのだ。むしろ一種の紀行文的な随筆的形式の映画と私はかりに呼びたいほどで、淡々と水の流れのように流れて行く。
 そこに新鮮味もあるかわり、在来の映画(たとえば代表的なものは「風と共に去りぬ」)の構成力に親んだ観客層にはあきたりない不満も残るであろう。
 だが、その紀行文的な随筆形式のこの映画(一時間三十五分の小品)の中でも、最後にはわずかながら衝突がおこり、一種の悲劇的結末となっている。それは南部の田舎のささやかな小料理店にはじまり、ここで二青年は弁護士と共に食事をしようとするが、村人たちは悪口を露骨に投げかけ、食事もできない。ヒッピイ風の二青年の異様な風に悪感情を抱き、その場で保安官と共に保守的な村人たちは彼らを郡境から外に出すまいと相談する。
 その夜三人は野宿の場を村人たちに襲われ、青年二人はかろうじてのがれ、ニュウ・オリンズの謝肉祭見物に出かけ、前述のようにたちに会う。
 そのあとで二人が群境を出ようとオートバイを駆るハイウェイで、銃を持った村人二人の車が追い越しざま、まず先にビリイをねらって射殺するのだ。オートバイもろともまるでネコか犬の殺されるように吹き飛ぶ。次にキャプテン・アメリカも同じく吹き飛んでしまう。
 実はこの映画の最も優れた部分はここにあり、その描写は冷酷なくらいに突き放して描いているからこそ、最後の悲劇が光るのである。真実を求めて旅に出た放浪児二人の牧歌的なのん気なサイクリングも、突然吹き飛ばされ、観客に強烈なショックを与えて終るのだ。
 この終末があるからこそ、「自由の国アメリカでも南部の田舎には作るべき偏見と暴力があるという現実を見る人々の心臓に突き刺さるように描くことに成功している。(イージー・ライダーの脱社会 真実の姿を求めて 津村秀夫)

戻る inserted by FC2 system