なんということだろう! 貞永方久映画監督
けぶるように降っていた雨も、出棺のときには、あがった。
九品仏での告別式。見送って、われわれ三人は、濡れた道を、隣の自由が丘まで、黙々と歩いた。そして、お座敷のある店にあがり、酒をたのんだ。
一九九三年五月二日の昼下がり。
森川英太朗(『武士道無残』を監督後、創造社・電通)、森崎東(『女は度胸』『生きてるうちが花なのよ、死んだらそれまでよ党宣言」などの監督)、そしてぼく(黒の斜面」「ザ・必殺」などの監督)。 「ちょっと早いな」「早すぎる、早すぎるよ!」「つらいな」「うん、つらい」
つねにゆく道とはかねてききしかど
きのふけふとはおもわざりしを
まったく、ほんとうに、ひとごとではない、にがく、つらい、酒だった。
さきに、山根優一郎、渡辺祐介、山根成之ーーいい男ほど早く逝く。「貞やん」と呼んでくれる男が、またひとり、いなくなってしまった。 杉崎重美(しげよし)は、森崎、ぼくと同期である。「しげみ」と読みまちがえると、おだやかに微笑って、「それはちがうよ」というように黙って、ぼくを見つめた。その顔、若いときの彼の顔が忘れられない。
寡黙で、やさしい男だった。つらいこと、くるしいことを、ひとり、じぶんの胸におさめて、事をはこんでくれる、いい男だった。一九五六年(S31)松竹京都入社。大就職難のころで、三千人に近い応募者の中からたった八人の合格。演出部の入社試験だったが、杉崎は、試験用紙に、プロデューサー志望と書いたそうで、企画部に入った。『下町の太陽』『五瓣の椿』『影の車』『砂の器』『疑惑』『異人たちとの夏』『善人の条件』などの製作歴が示すように、主流を歩き続け、松竹映像・取締役、映画製作部長にまで至った。病気のことも、松竹を辞めたことも、ぼくは訃報をきくまで、知らなかった。なんということだろう。 「人生は、新しい自分と出会うための旅、そしてまた自分をわかってくれる人に出会うための旅だ」という。『球形の荒野』(75)『童貞』(75)が、彼と一緒にした主な仕事だが、その他のぼくのどの作品にも、杉崎の姿がその後ろに見えるような気がする。自分のことをわかってくれるだろうと思って作るのと、自分をわかってくれている人がいると信じて作るのとは、大きな、大きな違いがある。杉崎は、ぼくをわかってくれている人であった。それなのに、ほんとにまあ、なんということだろう、ぼくは訃報に接するまで何も知らなかったのだ。 「何も知らない方がいいんだ、貞やん、監督は、黙って力をつけておけばいい」ずいぶん、むかし、言われたことを思い出す。会社の人事や、派閥に、一切かかわってはいけない、という忠告だった。忠告に従うまでもなく、ぼくは、大陸生まれで、ボケーッとした人間だから、そんなことには、まったく無関心だったが―。そういえば、あまりに知らなすぎて、彼にあきれはてられた顔をされたことがある。"知っていて、知らない顔をし、かかわらないことだぜ、貞やん”と言いたかったのだろう。
プロデューサーは苛酷な仕事である。
作品に関わるあらゆる情報を、きっちりと把握し、わがままなスタッフ、キャストの、不平不満をおさえ、逆に鼓舞し、情熱的にまとめあげなければならないからだ。
すべてを知っていて、それをわが胸におさめ、ひとつひとつ事を成しとげていくことが、どんなに大変なことかーー。
やさしい杉崎は、つらいこと、いやなこと、くるしいこと一切を、その胸におさめすぎたのではないだろうかーー
そんな気がしてならない。
思えば、ぼくもずいぶんと、わがままな監督だった。
最後に彼と会ったのは、三年ほど前、中目黒駅のそばの喫茶店である。『泣きぼくろ』という映画で、スタッフ編成を終え、ロケハンもした後だったが、彼から製作中止の通告を受けた。
そのときの、彼の、つらそうな顔ーーこれもまた忘れられない。
そして今年、五月一日の訃報。
ほんとうに、なんということだろう。
風が吹く
海が光る
雲が逝く
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