藤田真男
forum押井守(おしい・まもる) 昭和26年8月8日、東京生まれ。東京学芸大美術教育学科卒。在学中、自費で16ミリ映画を製作。卒業後、映画会社に入ろうにもどこも採用していなかったのでラジオの深夜放送のディレクターに。一年足らずで辞めてアルバイト。国分寺駅前に竜の子プロ(アニメーション製作)があったので、入れて下さいといったら入れてくれた。そこで「一発貫太くん」「ヤッターマン」「ゼンダマン」を演出。2年後、スタジオぴえろへ移り「ニルスのふしぎな旅」(TVと未公開の劇場用長編アニメーション)を演出。現在は「うる星やつら」のチーフ・ディレクターとしてTVシリーズ全体をチェックし、同時に何本かの脚本・演出も担当。他に「うる星やつら」劇場用長編2本とSFアニメ「ダロス」(オリジナルのビデオソフト)も演出している。
学生時代から現在まで、押井さんの行動範囲は中央線の国分寺近辺からほとんど出ていない。元来、そういうタイプの人なのだろう。アニメーションの仕事は計算がすべてなので、机から離れることがない。実写の監督が半ば行き当たりばったりのハードボイルドの探偵だとすれば、アニメーションの監督は現場へ行かずベッドの上で真相を追ってゆく探偵に似ている。 ーー学芸大に入ったのは?
「授業料が安かったから。月1000円でした。しかも奨学金、業料免除という製度があって、安いから居ついちゃう。��学大乞食"という言葉があった。僕は出るのに6年かかりました(笑)」 ――じゃ、絵は?
「全然描かなかった。アニメーションの絵コンテ描くのに苦労しました(笑)。学生時代は映画作ったり見たりばかりで、教室にいるより映画館にいるほうがはるかに長かったですね。一応、映研やってたんですけど、ほとんど有名無実のサークルなんで、個人で作ってました。16ミリのカメラは自動車工場で2ヵ月アルバイトして買ったんですけど、カメラを買ったらフィルム買うお金もなくて、またアルバイトして」 ーーちなみにその映画のタイトルは?
「いや、覚えてるけど思い出したくもない(笑)。一応、劇映画で、3本作って未完成が1本。卒業制作で作ったのはクリス・マルケルの『ラ・ジュテ」のスタイルで、スチル・ショットだけの映画。方法が分かんなくていろいろ試してみて今思うと我ながら画期的だったという気がしないでもないんだけどまず普通に写真を撮ってね、リスフィルム(密着用の透明印画紙)に焼きつけて、それをスリガラスと透明なガラスの間にはさんで裏から照明を当てて撮影する。光がにじみこんだような感じがほしかった。あとから、そういうテクニックがアニメーションにあることを知ったんですけどね。ええ、当時の貧乏学生にとっては相当な出費でしたね。音楽だけでナレーションもなし。人に見せたら何が何だか分からん、(笑)」 ーー映画をたくさん見始めたのは?
「本格的には大学に入ってからですね。多い時で年間1000本ぐらい。ぴあもなくて新聞とか見て、スケッチブックにスケジュール表作って。あまり遠征はしないんですけど国分寺にくる映画はほとんど見たし、自主上映も盛んだったし、無差別に見てた。
幼稚園の頃は大森に住んでて映画館が8軒あった。プログラム・ピクチャーの黄金時代で、オヤジがすごく映画好きで、ほとんど毎日、家族の誰かにつれてかれて、子供の頃に見た映画の数は分からないですね。生まれて初めて見た映画も覚えてますね。『宇宙水爆戦」というSFで、幼稚園に入る前の年。
今は映画見るヒマなんてなくてそれが最大の悩みですねえ。せっせとビデオでは見てますけど、やっぱり映画館へ足を運ばないと映画見たという気にならない。つまんないですね。見たくても見逃した痛恨の映画が何本かありまして、去年でいえば「隣の女」ですね。電車が遅れてあきらめたんです、途中から見るのは嫌いだから」 ーー何回もくり返し見た映画は?
「やっぱり「ラ・ジュテ」なんてのは、16ミリのレンタル・フィルムを借りてきて見ましたからね。作家的な興味というのは、クリス・マルケルに関してはあまりないですね。ただ「ラ・ジュテ』に関しては、何か啓示的な体験があったと思うから」 『うる星やつら2」を見るとP・K・ディックのSF小説「ユービック」なども連想させられるが、「ラ・ジュテ」と聞いて納得。 ーーそれじゃ、好きな作家は?
「学生時代はポーランド映画が好きで、やっぱりワイダかな。最後に見たワイダの作品は自主上映でやった『白樺の林」という、ワイダの初めてのカラーで、これは感動しましたね」 ーーTVの「うる星やつら」の映画作りの話で「ダイヤモンド」を再現したシーンはビデオを参考にして?
「いや、全然見ないで、全部記憶です。そういうこと、わりと記憶してるんです」 ーー映画の『うる星やつら2』も初めは映画作りの話にしたかったとか?
「ええ、去年の夏にやるはずで、伊藤(和典)君と相談して初稿まで書いてもらったんですけど、原作者のほうからクレームがついて結局、実現しなかったんです。『アメリカの夜』みたいなのをやってみたかったんですけどね、大仕掛けに......」
押井さんの机の前に、何か叫んでいるメガネのセルが貼ってある。メガネは、映画とメカにうるさい一見コメディ・リリーフ的なキャラクター。タダで本物の戦争が見られるといって喜んだり、焼跡のような廃墟で「ゴジラ」を見て楽しむといった場違いともいえる発想はこのメガネのものである。突然、ムツカシイことを口走ったりもする。「うる星やつら」の中で一番フツウなのか、それとも一番いいかげんなのかよく分からない、実に味わい深い名脇役である。 ーーメガネには押井さん自身、親近感ありますか?
「そうですね。僕が高校生や大学生だった頃の気分ーー例えば映画を作るというような、ひとつのことをめぐってカンカンガクガクやるような気分を、忘れられないところがあるんですよね。アニメーションというのも結局、実写と同じなんですね。自分の一番よく知ってる世界が一番よく描けるという意味でいえば」
「風の谷のナウシカガイドブック」でも押井さんが語っていることなので重複はさけるが、これは70年代初めに学生だった世代の気分ともいえる。僕と押井さんは同世代なのでよく分かるのだが、この気分を他の世代に伝えることは不可能に思えて、饒舌と断念の間で宙に迷う。 ――こないだ、押井さんと同じ年の監督で池田敏春という...ご存知ですか?
「ええ、知ってます」 ーーその池田さんに会って、やっと僕と同世代の監督が出てきたなと思ったんですよね。池田さんがいうには「人魚伝説」を若い女の子たちが見れば笑うだろうと思ったけど、笑う奴がマチガイで、俺が正しいんだ”という気分で作ってると
「やっぱり自分の世代的な確信みたいなのがあるわけで、それは何といわれようと変えられないと思うんですよね。メガネというキャラクターでもね、ギャグメーカーと思われてるかもしれないけど、あれは僕はわりと本気なんですよね。
こういうことがいいか悪いか分かんないけど、世代的な確信を核にしてしかモノを作れないということがひとつ。それと今の若い人たちはどうなんだろう、ということも考えないわけにはいかないですね、僕らの仕事では。言葉が通じるのか通じないのか、いつも考えるんですけと、僕はそういうとこではわりと楽観的というか、本質的には変わんないんだという気が、多少あるんですよね。「うる星』でも最初、高校生というのはこんなんじゃないといわれたんですけど、本当の高校生の生活と言うのはどうしようもなくて、いい加減で笑、そのいい加減さが出れば、それは今も変わんないんじゃないかなと」 ーー実写をやってみたいとは?
「チャンスがあればやってみたいとは思うけど...僕の後輩がこないだ、にっかつの監督になったんですよ、金子修介というの話聞くと大変みたいね。僕らの仕事って1年中机に向かってるでしょ。だから時々、外へ出て発散したいというのはある。お祭り騒ぎでワーッとやっちゃうというのは、アニメーションの場合あり得ないですからね。計算が絶対になりますから、気分でやって、たまたまよくなっちゃうことはない。でも映画の魅力って本当はそういうとこにあると思うんですよね。たまたま傑作になっちゃうとか。『第三の男』なんて、もしかしたらあの監督は何も考えてなかったんじゃないかって(笑)。
あと、『第三の男』でも『灰とダイヤモンド』でも、あの終戦直後の街を作りようがないですよね。それはめぐり合わせでしかない。映画というのは時代の子というか現実の子というかアニメーションもそうなんだなと最近思うようになってきましたね。必ずしも作られただけの世界じゃない。よくアニメならではの”とかいわれるでしょ。それは、かなり違うんじゃないかと思うんですね。「うる星』のあたる(主人公)たちが映画を作るという話が、なぜ没になったかというと、アニメじゃなくてもできるっていうんですよ(笑)。アニメらしさがどこにもないと。僕はそう思わないけど、分かってもらえなかったですね。
僕の場合、たまたまアニメーションが一番フィットしていると思うし、他に知らないけど、実写も同じだと思うんですよね。だから今はできるだけアニメーションに踏みとどまって、1本でも多く作りたい。アルドリッチの生き方が、僕のひとつの理想なんですよね。アルドリッチの昔のでは『飛べフェニックス』、後期では『北国の帝王』が一番好きです。40代は40代、50代は50代、60代は60代と、その時に見合った映画があり得るはずなんで、僕もできるだけ長生きしたいですね(笑)」戻る