前半の「筑紫哲也インタビュー」では観客の側から映画館を語ってもらった。連合赤軍をモチーフとした新作を準備中の長谷川和彦監督に今度は映画の現場にいる人として意見を求めたい。作り手にとって映画館という場は何なのか。場を考えることで映画そのものへの影響はあるのか。ゴジが語る映画館論。

構成/萩原玲

-劇場、映画館が儀式的な場であるということに関して、お話を伺いたいのですが

長谷川 うん、ボクらが子供の頃の映画、映画というんだろうなァ、その場自体がもう胸のワクワクするお祭りのようなもんだったね。それこそ映画館はなくても、むしろを敷いて、棹を立ててその間に布きれを張っつけて、裏の空き地で15円で。で、布きれなんだから、両方で見れるわけなんだよな。左右もちろん逆になるんだけど(笑)そういうので三益愛子の母子ものみたいなのやっていたけど、そういうのってのは、ちょうどお祭りの縁日に出かけていくような、年に何回かのお祭りの場所に小遣い持って走って行くような気分が、やっぱりあったよね。今の子供たちや、若い人にとって映画館っていうのは、果たしてそういう場所であるかどうかっていうのは、半分くらい、半分くらいしかそうじゃなくなってるのかもね。映画がいわゆる斜陽と言われだして、最低の観客動員数に落ち込んだ昭和40年代初頭ぐらいに、おいらのような映画見て育った子供たちが大人になりかけて、映画が既に祭りの場所じゃないということを感じだしてたからねえ。で、今の、俺の息子のように中3くらいのやつっていうのは、また新たな祭りの場所として映画館を見てるね。ただ、ボクらが子供の頃に思ってたようなワクワクなのかどうかはわからないけど。確かにビデオを買ったり貸りたりすれば、家で見れるもんに映画ってなっちゃったわけだから。でもどこかで、同じものを家のテレビのモニターで見るか、映画館の大スクリーンで見るかっていうと、大スクリーンで見たいものっていうのはあるんだろうな、やっぱり。
 これからの場としての映画館を考えるなら、映画館自体と、ソフトである映画の中身の2つに分ける方がいいね。まず映画館は、あくまで祭りにふさわしい場に変貌していかないと。そういう意味じゃ、ひとつには非常に設備が映画的に優れているということがあるだろうし、もうひとつは、そこへ行けば家のテレビでは見れないユニークな臭いなり、空気なりがあるという、これを両立させるのは大変難しいと思うけど。だから非常に大きくて立派な劇場と、客席数はそんなに多くないけど非常に個性的な劇場とが、たいてい生き残っていくんじゃないかな。その中間のものっていうのは、あんまり場として磁力というかエネルギーをもてなくなっていくと思うよ。今、地方の中都市のいままでわりと普通の封切り館だったみたいな映画館が、やはり苦しいんじゃないかな。どうせ1500円払って見るなら、あそこのドルビーシステムのいいところで見たい、とかね。そういうことはこれからの若い人はどんどん言うようになるから。ボクらのようにドルビーって何だ、っていうふうな世代じゃもうないわけだからね。
 ソフトとしての映画の中身という意味で言うと、もう長い間言われてきたことだけども、やっぱりテレビで見れないものが見れる場所じゃなきゃ駄目なんだろうね。とりあえず一番テレビで見れないものとして成立するジャンルというのが、ポルノなんだろうけどね。ハードコアというものが、ほとんど解禁に近い状態にあるんだろうし、ボクもあのウラビデオという世界はよく知らんけれども、その中ではもう、いわゆる本番とかそういうことも、ごく普通のものになってるようだし。どんどん規制がはずれていくってのはいいことなんだけど、でも、そういう傾向のあるポルノなんかは、自分の部屋で一人で見て楽しむというものなんだろうな。大劇場で、シャンデリアが輝いている中で、見て楽しめるポルノっていうのは、意外と少ないかもしれないしね。
 そういうふうに考えると、ポルノというのは個的な所有物とか、個的な楽しみとして発展していくもので、だから、性表現の支えであった時代というのかな、セックスというものを拠りどころにして過激な表現をしていくっていう時代は、もう終りつつあるんだろうね。そうするとテレビで見れない過激なものって何だということになると、それがなかなか見つからない時代なんだろうな。
 ひとつあげられるのは、スペクタルがあるってこと。スペクタル映画というものは、やっぱり大きな画面で見るようにつくられてるわけで、『アラビアのロレンス』や『2001年宇宙の旅)』をテレビのモニターで見るよりはでかいスクリーンで見るほうがいいに決まってるしね。これは倍ぐらい印象が違うだろうし。

すると、作品のスケールに関係してきますね。

長谷川 問題はスケールを持てる素材があるかってことなんだと思うよ。今は同時代的なテーマが素材になりにくい時代だから。まあ、ベトナム戦争もやりつくされたし、それでどうもスペースファンタジーに行くんだろうね。でも、これからは時代劇のわりと大型の時代劇の時代っていうのが、来るように思うけどね。

―それは日本の?

長谷川 うーん、日本でも要するに黒沢時代劇しかないように言われていたし、実際にそうだったわけだけども、時代劇というものがインターナショナルになって商売になってゆくと思うな。それは黒沢(明)さんの功績であるけれども、日本映画に期待される大きさっていうものは、判りやすく言えば、時代劇=侍ドラマだからかな。侍ドラマに影響を受けたハリウッドの監督たちの作るものっていうのは、既にいくつかあるわけでね。あの辺は明らかに日本の武士道みたいなものを、表現のきっかけになってるんだろうから。
 だから、本格的な時代劇を一発くらいやってみたいと思うけれども、テーマというとオーバーだけど、器は時代劇でもそこに同時代に生きている人間たちの気分というものを取り込めるかっていうことが、大変だと思うな。黒沢さんの最近の時代劇で『影武者』とか『乱』を見て、必ずしもみんなが手ばなしで喜べないのは、うーん、やっぱり死にゆく英雄の、まあ、黒沢さんが自分をそう思ってられるからそうなんだろうけど、死にゆく英雄の遺言みたいなものだから、今から生きるゾという人のドラマではないんだな。今から死ぬゾっというか、死にたいと思ってる人の表現だから、ドラマの持っている力でも、レクイエム、鎮魂歌に近い力しか持てないように思うよ。特に黒沢さんの初期の元気のいい頃の映画に比べればね。いくら予算が少なくても『酔いどれ天使」とか「野良犬」なんかのほうが、あの時代に生きてる人が描いたっていう実感があるよね。で、そういうもの今、やっぱり本当に作りづらいんだろうな。時代がそうだと言われれば、それまでなんだけど、ひとつには大人の観客というか、子供だけじゃない観客をもう1回、映画のお客さんにしていかないと駄目だと思うね。そのためには、映画の最終回が早過ぎる、日本はね。そのことは筑紫哲也さんもおっしゃっています。東京でこうだってことは、地方に行ったもう、映画ってのはよっぽどの話題性を持ったものか、子供しか見ないものっていうふうになっちゃってるからね。

大人の観客が増えることによって、長谷川さんが企画している連合赤軍の映画のような、辛口の大人向けの映画はもっと伸びてゆけると。

長谷川 うん。可能性はでてくるね。同じ素材をテレビでやるのと映画でやるのでは随分違うと思うし。ある部分じゃテレビの事件ものってのは、映画より過激なネタを取りあげたりするようになってHるけど、どっかやっぱりまとめ方が、お茶の間向けだと思うよ。お茶の間から嫌われないものっていうふうにね。で、本来、映画っていうのはもっと悪い場所でいいんだよ。悪いっていうとおかしいけど、今、なんか映画館ってはんばな場所になり過ぎているんじゃないかな。昔さ、ヤクザ映画に若者が徹夜で、健さんやってくれって気分は、時代が時代だったせいもあるけれど、どこかでやっぱり非合法なものだったよ。

今だにヤクザ映画というのは、テレビではあんまり放映しないよね。

長谷川 うん。とにかく普通に働いている人間は映画見れない。まず仕事が終って、メシでも食ったらもう7時まわってるっつうんだな。だから何でもいいから、もう1回はかけないかなと思うね。それは今でもレイトショーして、オールナイトなしでも9時、10時の回、やってある映画館もあるけれど。でも、一般化してないから、みんなの生活習慣にはならないんだな。ゆっくり家に帰って、メシ食って、今日はちょっと映画見に出かけるという習慣が、欧米にはまちがいなくあるけれども、日本はなんでやんないのかね。必ずしも最終回を9時10時にしたって、そのまま人数は増えないだろうけどね。増えないだろうけど、(レイトショーをやってることで、映画館にお客さんが徐々には戻ってくると思うね。
 年にそれこそ200本も映画見てた人でも24、25すぎると見なくなるんだな。やっぱり映画っていうのは夢だから、情緒不安定な時のためにあるんだな、たいてい。あんまり真自面に生きてるサラリーマンが夢持っちゃいけないんだろうね。で、そういう意味じゃ映画はある種の麻薬性を持っているもんに違いないわけだから、それが夜の時間に麻薬がないっていうのはうまくないよね。シネマスクウェア東急なんかもレイトショーやってるけど、そうしてある程度の期間、続けている劇場はその劇場の個有の客っていうのはつかんできてはいるんじゃないかな。ああいう地味な映画しかやってないところでも。今の興業配給は大資本系列だから、いち支配人もみんなサラリーマンなわけで、何のこうのやったって俺の給料が上るわけでもなしということがあるんだろうけど、それは絶対にやってかないと、どんどん日本の映画っていうのは奇型児のような、そのまあ、別にガキが見る映画が悪いわけじゃないけれども、ガキしか見れない映画っていうのも困ったもんだから、それはまあ変わってかないとね。でも、東京でもこうなんだもんな。

それは先程、おっしゃったような祭りというのはどこかヤバいということに通じるのでしょうか。

長谷川 そうそう。祭りってのは、オレらの子供の頃は50円玉とか1コ握って、大人たちがウロウロしてる中を見上げながらウロウロする場所で、そこで垣間見る、出店だったり、いろんな見せ物が、やっぱり嬉しかったわけで。今なんかお上品な場所になりすぎてるんじゃないかね。それは別に風紀を悪くしろっていう意味じゃなくて、映画館の中でかかる映画が、なんかわりと毒のない、そのままテレビでかかっても困らないような、カッコ付きの上品さで作られすぎちゃってるんじゃないかな。でも、悲しいけども、当たるものがそういうもんなんだな。このところのヒットで言えば「南極物語』だけども、『南極物語』はそのままテレビで放映しても、誰も過激だと思われないもので、でも、そういうものってのは既にちょっとおかしいんじゃないかね。映画として作られたからには。それは犯罪者を素朴にしたりということではないと思うよ。映画が本質的に持っている、テレビをボクらが見るボルテージより高いボルテージで見ないと楽しめないものが、やっぱりもう少しないと、作品的な広がりとか深まりってのは、やっぱりないんじゃないかな。これは非常に難しいには違いないけど。
 しかし、高い目で見りゃ、映画ってのは今の形では100年後にはないな、きっと。ビデオがどんどん改良されて、フィルムがビデオテープに置き変わっていくと、フィルムで撮る映画というのはとても贅沢なものになっていくと思うよ。単価は非常に高いもん。それこそ、20世紀の後半から21世紀の初頭にかけてあった映画”という表現媒体というふうに、何世紀か後には言われるようになっていくと思うよ。それは必ずしも駄目なことじゃなくて、映像、それはボクらが子供の時よりは今のあなたがたくらいのほうが、映像を自分のものにしているね。それは8ミリ作る作らないということだけじゃなくて、もっと卑近なものとして映像が散積してるから。だからこそますます映画を作っていくのなら、やっぱりビデオのモニターでは意味が半減してしまう素材であったり、映像そのものの力がある、その両方を表現していけるものにしていかないと、誰もお金払ってわざわざ見に行かないよね。
 先進国の映画、まあ、日本はそれでも世界で何番目かの映画大国だと思うけど、こんなに世界と比べて子供向けの映画しか作ってない国は、珍らしいんじゃないかね。おいら子供の頃は、大人の映画見てたわけだから。それで十分、その齢なりに楽しんだりしてたわけだからな。今はその逆になり過ぎてると思うね。子供映画を大人が見て、"オー、意外と面白いところもある”とでも思わないと、楽しみようがないみたいなね。だから『お葬式』なんて、久しぶりに大人も楽しめる要素を持ってたね。そういう意味じゃ、なにかキリリとしたものがあったと思う。

今年は結構若手の監督たちが35mm映画を作りましたが、例えば手塚真さん、今関あきよしさん、黒沢清さんとか。そういった将来の日本映画を支えてゆく人達に何か御意見がありますか。

長谷川 彼らは3人とも8ミリを作ってでてきた人だから、彼らをひとまとめには喋れないくらい、それぞれに個性的だと思うけど、うーん、彼らはどういうんだろうな、映画という媒体だけにはこだわってないね。映像と音があればいろいろな形の表現をしたいし、できると思ってるし、彼ら自身もそうやって映画監督になってきてるわけだから。今関君なんかは、そのままプロとして今の需要と供給の中で機能していくだろうし、黒沢は、これは特殊だよ。特殊に徹底してることがいいことなんだろうけど。彼がそんなにわかりやすい、オブラート映画を作れるとは思えないし、ま、それが彼のとりえだと思うけれども。うーん、手塚君は、これはもう、才能と知識もあるんだから、おそらく外へ出てくようになるんじゃないかな。日本映画の規模で、彼に『星くず』くらいの大きさでやらせると、どうしてもマイナー自主映画的なものになっちゃうみたいだね。オレはまだ見てないんだけど、なんか話だけ聞くと、あれは金とって見せる映画じゃないという言い方をする人間もいるから。要するに、趣味映画というか、自分の仲間を集めて何人かに見せりゃいい映画だっていうんだけど、趣味性が徹底してこうまでコマーシャリズムにのった時に、ルーカスとかスピルバーグがでてきたわけだから。彼なんかは、映画が持ってるブラックってものを一番わかってるほうだと思うから、そういう意味ではキャパ(シティ)は広いね、若い人のほうが。その、守備範囲みたいなものは。今関君なんかはわりと手軽にプロになっていくだろうし、それこそ大林(宣彦)さんがそうであるように、彼自身も大林さんが目標だから。
 今出た人たちって、やっぱり早稲のほうだよ。オクテ、ワセで言えば。20才ぐらいでもう、ボクが監督ですっていう自意識を持って作品作ってるわけだから。それが8ミリであったとしても、ボクなんか20才の頃なんて、映画っていつ作れるのかなって、ぼんやり思ってたくらいだからね。助監督を6、7年やっても、自分が監督をやるってことにあんまり実感が持てなかったくらいだから、オクテのほう。ワセはいくらでも出てくると思うよ。これくらい映像が私有化、いい意味で私有化される時代にはね。ただ、オクテのわりと鈍いのが、映画の現場なんで横たわったり、弁当運びしながら、映画を表現していくっていうやつが、非常に出づらくはあるね。相米(慎二)や根岸(吉太郎)、池田(敏春)あたりまではうちで助監督を長い時間やってるし、そのことは決してマイナスにはなってないと思うけど、今若い人が映画に入ってきて、何年か土方やってもいいから、食えなくてもいいからがんばろうっていうのは、うーん、それより8ミリ作って監督になっちゃったほうが早いっていうのはあるんじゃないかな。芸とひらめきの人がとりあえず若手として出やすいわけだから、それは決して悪いことではないけれど、本格派が、本格派と言えば聞こえはいいが、わりととろいのが、ほんとの一念で作るっていうのも、あったほうがいいからね。だいたい撮影所っていうのは、その機能を代用していたわけだな。働きながら映画を覚えるってことをやってたんだけど、それがもうほとんど崩壊しちゃったから。そりゃ、4才の新人が出てもね、それはやっぱりちょっと、とうがたち過ぎてると思うしな。だけど、今だにそういうことって、それこそ松竹の撮影所から、ポコッと出たりしてるし、そういう人は確かに、熟練した新人ではあるけれども......。

戻る inserted by FC2 system