まず隆さんが「影武者』(一九八〇年)出演者一般公募のオーディションを受けられた経緯から教えていただけますか。隆 あれは朝日新聞だったと思うんですけど、黒澤先生がファインダーを覗いている写真が載った出演者募集の広告を見ましてね。その頃、僕は仲代達矢さんが主宰されている無名塾に入って三年目くらいのときで、仲代さんに相談したらぜひ受けてみろと。それで履歴書や映画に対する思い出みたいなものを書いて送ったら、一次の書類審査で受かったんですね。それで東宝撮影所の二階だったか三階だったか役員室で面接を受けたんです。黒澤先生は真ん中に座ってらっしゃいまして、その横にキャメラの宮川一夫さんはじめ錚々たる方々が並んでらっしゃいました。相当な数の応募でしたから、面接される方も大変だったでしょうね。でも、僕もそれまでよくオーディションを受けに行ってましたけど、むしろいつも「落ちに行く」みたいな感じでしたから(笑)、まさか受かろうとは思いもよらなかったですね。本人が一番びっくりですよ(笑)。
初めて黒澤作品に出られる俳優さん全員が、衣裳などのテストのときのこだわりに驚いたっておっしゃいますね。
面接も一回じゃなくて、何度も何度も行われたんですよ。ちょうどその頃、無名塾の稽古場が東宝撮影所から自転車で十五分くらいのところにあったので、どうしてそう何回も呼ばれるのかなあなんて思いながら、稽古場から撮影所まで自転車を走らせるみたいなことが何度もありました。いろんな役の台詞も読まされましたが、僕は信長の台詞を読んだ記憶はないですね。武田の侍大将とか、そういうのは多かったですけど。それで六回目か七回目かの面接が終わって、また稽古場に戻っていったんですけど、そのとき撮影所では先生が助監督さんに「何であの大きいのを返したんだ!」っておっしゃっていたそうで(笑)。で、僕が稽古場に戻ってきたら、塾の後輩からもう一回撮影所に来るようにとの電話があったと。それでまた十五分自転車を走らせて撮影所のホン(脚本)読みをしていた部屋まで行きましたら、いきなり先生が近づいてこられて「君に信長をやってもらうことにしたから」って。びっくり、というよりも顔が真っ青になりましたね。でもまた稽古場に戻って仲代さんに報告したらすごく喜んでくださって、お酒抜きでしたけど「みんなで乾杯だ!」って。
その翌日から、無名塾の稽古はひとまずお休みして、早速、馬の稽古ですよ。そして先生からは「とにかく撮影所に毎日来て、カツラをのっけて本番の衣裳を着て、撮影所の中を歩き回っていろ」と。信長の撮影まで二ヶ月くらいありましたから、今振り返るとその間がとても大事だったような気がしますね。何しろそれまでカツラもつけたことがなければ、着物もまともに着たことがなかったですし、芝居だけでも大変なのに、馬に乗ったり能を舞ったりしなければいけなかったので、その稽古もありましたし。もちろん、先生の下でリハーサルを何度もやりました。これは画期的なことだと思うんですけど、リハーサルのためにセットを一つ建てて、フィルムまで回してるんですよ。先生は歴史上の人物で一番好きなのが信長だったそうで、信長に対する想いが非常に強かったんですね。だから厳しいこともたくさん言われましたけど、でも今、そんなふうにデビューさせてもらうなんてことは、ほとんどあり得ないと思うんですよ。そういった意味でも、僕はとてもラッキーだったと思います。隆 特に新人の頃ですと、いつもその扮装をしているうちに、自然と役に馴染んでいくんですね。また、その中でおかしい部分があったら時間をかけて修正していきますし。信長はマンチュラという鉄のチョッキの鎧を着ていましたね。それを作られた職人さんが四国にいらっしゃったんですけど、先生は「これじゃ駄目だ!」って五、六回は送ったり戻したりを繰り返されていましたね。あと、信長の登場シーンで、弓を射るときに革の当て布をつけているんですけど、その微妙な感じですとか、トンボの一つとっても、すごくこだわられるんですよ。そういった、まさに映るものに対する感覚はものすごいものをお持ちでしたね。あのマントも、自分で言うのも何ですけど、かっこよかったですよね(笑)。髪型は、僕は前は地毛でカツラをその上からかぶせるタイプでしたけど、たとえばそのカツラのクリ一つ変えるだけで、その役の性格まで変わるんですね。『椿三十郎』(一九六二年)で仲代さんがおやりになった室戸半兵衛もすごい月代(さかやき)をしていましたけど、そこで彼の性格が非常に強く出るじゃないですか。『用心棒』(一九六一年)の卯之介のスカーフにしてもそうですよね。当時は新人でしたから、とてもそこまで意識できませんでしたけど、今振り返ると、本当に黒澤監督のそういった美感覚には脱帽しますね。いろんな監督さんがいらっしゃいますけど、あそこまで衣裳などにこだわる方はいらっしゃいません。
いざ撮影に入っての黒澤演出を受けての感慨とでもいいますか、そういったものはいかがでしたか。隆 NHKで「影武者」のメイキング番組があったんですけど、そこでは先生が怒鳴っているところばかりを編集して映していたんですね。あれで日本中の人々に怖いイメージを植えつけてしまったんじゃないかな。決して怒ってばかりではありませんよ。そもそも、何度も事前にリハーサルやっているわけですし、普通にちゃんとやっていれば怒られたりすることはないですし、怒られるときはこっちが悪いんです。信長がワインを飲むところがありますよね。あそこでは何度もNGを出しちゃって、画面の奥でいつも雑兵が走っているでしょう。NGのたびに雑兵役の方も走らされるわけですから、その方に申し訳ないなあと思いながらやっていましたね。でも、僕は撮影そのものもオフのときも、すごく楽しかったですよ。
黒澤監督の織田信長観はどのようなものだったのでしょうか。
地方ロケとか行きましても、毎日夜は通例の宴会でしょう。先生は食にもこだわってらっしゃいましたから、おかげで僕も相当美味いものをいっぱいいただくことができました(笑)。あれは楽しい時間でした。「影武者」でいえば、先生と一緒にいる時間が僕は長かったんです。昼間でも、撮影のない日でも馬の稽古を先生は見にいらっしゃいますし、姫路城のロケが終わった後も、先生が僕の部屋までお酒を持って遊びに来てくださいまして、そこで信長の話を面白おかしく聞かせてくださるわけです。僕がまだ新人で右も左も分からないような状態でしたから、緊張をほぐそうとしてくださっていたんだというのが、今にして分かりますね。隆 半ば本気、半ば笑い話でよく現場でおっしゃっていたのが「もし信長が本能寺で明智光秀にやられずに天下をとっていたら、僕が撮りたいような映画を撮れたのになあ」って。要するに、日本が今こういう体制になってしまっているということを、いろんな角度から踏んでそういうことをおっしゃっていたんだと思うんです。それで徳川家康役の油井昌由樹さんに「君が悪いんだ!」と(笑)。ちょうど撮影中にロッキード事件で田中角栄元首相が断罪されたりしていた頃ですけど、夜、食事しながら「隆君、戦闘機一機で僕の映画が二本も作れるんだよ」なんて、よくおっしゃってました(笑)。本当に先生の胸の内では国に対して憤懣やる方ない想いがあったに違いないと思います。先進諸国の中でこれだけ映画や演劇に対して援助しない国って日本だけでしょう。
隆さんが「影武者」にご出演されたときは、確か二十二か二十三歳のときですが、実際の、あの頃の信長の年齢に比べると相当若いんですよね。しかし、その若々しさがあの作品には合っていたように思えます。
これはみんなともよく話すんですけど、黒澤映画を一番評価していない国は日本なんですよね。アメリカになんか行ったら神様みたいな扱いを受けますから。フランシス・フォード・コッポラさんが日本に来たとき、成城の先生のご自宅を見て「これがクロサワの家なのか!?」とびっくりされていたそうなんですよ。もちろん、今の日本のレベルからすれば、すごく立派なお住まいなんですよ。でも、彼らの感覚としては、きっとビバリーヒルズの大豪邸みたいなものを想像していたんでしょうね。一つ面白い話があって、日本の三〇代前半のプロデューサーが「アメリカでは映画の仕事をしているっていうと尊敬されるけど、日本ではお金がないのねって同情される」って(笑)。もうゲラゲラ笑ったことがありましたけど、でも本当にそういう状況は何とかしないといけないですよね。
信長の話に戻りますと、あれだけいい意味で日本人離れしている歴史上の人物って、そうそういないじゃないですか。いろんなエピソードもありますが、例えば宣教師から地球は丸いんだと言われて、感覚的にそれを理解したんだそうですね。当時の経済の改革とか、長篠の戦いでも鉄砲隊を何段にも備えるという発想とか、やはりすごく頭のいい人でもあったんでしょうね。人間心理にも長けていたみたいですし、もう画期的な人間だったと思います。というか、天才でしょう。今はもうないですけど、信長が建てた安土城にしても、これは黒澤先生いわく「普通、お城っていうのは入口を大きく派手に作るけど、安土城は入口はそんなにスケールは大きくなくて、でも中に入って奥に進むにしたがって、すごくなっていくんだよ」と。これもすごい発想ですよね。そう考えていくと、先生が信長を大好きだというのが、何となく理解できるような気がします。隆 何しろデビューですから。何が何だか分からないままやっていた部分も結構多かったですからね(笑)。もう「影武者」も「乱」(一九八五年)も、出来上がった直後はまともに観られなかったですよ。客観的に観られるようになったのは、つい最近なんです。今では、その二作品に関して映画仲間たちとしゃべっていたら、そのまま朝になっちゃうくらいですよ。
『乱』の豪放な三郎役も、隆さんならではの個性が見事に活かされていましたね。隆 『乱』はオーディションではなく、「影武者」からそのまま引き継いで使っていただきました。そのとき先生から一番言われたのが「三郎というのは自然児だからね」と。ちょうど僕は芝居を覚えたての頃といいますか、「影武者』以降、既に何本か他の映画にも出演させていただくようになっていましたからね。でも、そこで先生は「芝居するな」とおっしゃったんです。ただ、そこにいればいいんだってね。でも、それって実はすごく難しいんですよ。
「僕は本番は早いんだ」っていつもおっしゃられていたそうですが。
実は『乱』の僕は、そう出番は多くないんですよ。主なところは最初の十分近く、僕が三本の矢を折るに至るシーンと、あとは最後ですよね。その冒頭シーンも横浜の黒澤スタジオにみなさん集まって本番体勢のリハーサルを何度もやりました。だから、撮影当日も朝の九時に熊本県の大観峰というところに出発して、一回だけリハーサルして、十一時前には終了していましたね。一発OKでした。隆 本当にそうです。でも、そこに至るまでが長いんです(笑)。今の映画でもテレビでもビデオ作品でも、全部が全部そうはいかないとは思うんですけど、本来、人間がものを作るペースというものがあると思うんですよ。もちろん今の映画界からすると、黒澤組はいい意味で特殊だったのかもしれませんけど、一度黒澤組を体験してしまいますと、例えば映らない反対の壁に何も装飾がなされていなかったりすると「あれ?」って思ったりしちゃうんですよね。特に新人の頃は、まだそう場数も踏んでいませんでしたから。でも、もの作りの基本精神といいますか、そういうものは忘れてはいけないと思いますね。『乱』のときも、ロケの天気待ちのとき、それはすごく長い時間だったんですけど、先生がある俳優さんの兜を「ちょっと貸して」と言って、雑草を抜いてそのハイタテの部分を磨かれているんですよ。そういったもの作りの真心とでもいいますか、そういうものを目の当たりにしますと、こちらも嬉しくなるし、身も引き締まりますよね。つまり、映る映らないの問題じゃないんですよ。僕は黒澤組で身をもってそういったことを体験していますし、それがしみついている部分もありますから、今の現実として、そんな時間がないのは仕方ないにしても、映らないからといってぞんざいに扱うとか、そういうのは悲しいものがありますね。でも、だからこそ自分は黒澤組の誇りを常に胸に抱きながらやっていかなければいけないと、それはいつも思っていることですし、ではそういった厳しい状況の中で自分はどうベストをつくせばいいか、それは絶えず考えながらやってますね。
隆さんにとって黒澤映画に出演されたことは、いわば心の財産とでも表現していいみたいですね。隆 まさにそうですね。そういう精神的な部分って、自分で作ろうと思っても作れないような気もするんですよ。だって、出たいと思っても出られない人の方が圧倒的に多かったわけですからね。これはもうどれだけ僕が幸運だったかということにもなりますね。三の城が炎上するシーンの撮影の前だったか、僕も先生に思わず「もったいないですね」って言っちゃったんですよ。そうしたら「そんなことないよ。だって、燃やすために作ったんだから」って。かっこいいですよねえ(笑)。でも、そういった名言を吐けるのも黒澤先生ならではといいますか、普通の人が言っても似合わないですよ。そうしたスケールの大きさにもいつも感服していました。
「影武者』『乱』と、隆さんにとって師匠でもある仲代達矢さんと共演されたということに関してはいかかでしょう。隆 『影武者』のときは、ご存知のように途中で主役交代劇があって、仲代さんがお出になられたわけですが、自分としては結果的ではありますけどデビュー作で師匠と一緒に、しかも黒澤映画で共演できたということは金字塔でもありますね。『乱』では仲代さんとの絡みのシーンもありましたし、その意味でもこの二作品というのは、やはり僕の中では誇りですよ。映画というものは永遠に残るわけですから。
少し仕事を離れたプライベートなところでの、隆さんの黒澤映画体験などもお聞かせ願えますか。隆 そもそも僕は映画青年で、黒澤映画は憧れの的だったんです。ちょうど日本映画は駄目だなんて言われ始めていたころですよね。今はなきテアトル東京に『七人の侍』(一九五四年)を観にいったら、千人は軽く入れるあの大劇場が満杯になってるんですよ。それだけでも当時十七、十八だった青年にはすごいことでしたね。『デルス・ウザーラ』(一九七五年)も公開初日に観に行きましたよ。
黒澤監督亡き後、その遺志をみなさんが継いで作られた「雨あがる」(二〇〇〇年)には、隆さんもご出演されています。
この間も、翌朝撮影なのに深夜BSで『天国と地獄』(一九六三年)をやっていましてね。もう何度も観ているのに、ついつい気になっちゃってテレビをつけて、そのうち引き込まれて止められなくなっちゃって、結局最後まで観ちゃうんですよ。それで翌朝現場に行くと、僕と同じように夜更かしして観ていた人が何人もいるんですね。「結局最後まで観ちゃってさあ」なんて眠そうな目をこすりながらね(笑)。役者の僕ですら影響を受けている部分はいっぱいありますから、ましてや監督さんたちにとってはものすごい存在であることは間違いないですよね。石井聰亙監督が何かの作品のアクション編集のとき「黒澤さんとは違うようにつなごうと思ってやるんだけど、気がつくと影響受けちゃってるんだよなあ」って、それは本人が言ってましたよ。彼はサム・ペキンパーが好きですけど、ペキンパーも黒澤映画を信奉していましたからね。スティーヴン・スピルバーグも撮影の前には必ず『七人の侍』を観るそうじゃないですか。今の映像作家で黒澤先生の影響を受けていない人はいないといっても過言ではないと思います。ものすごい方でした。あのエネルギーはすごいですよ!「影武者」の頃が七十歳前後ですよね。『乱』のときも七○代半ばだったわけですし、でも、とてもそうは思えないほどのパワーでしたし、そんな先生の創作活動の場に、ああいう大きな役で二作品も間近で参加させていただいたという重みを、俳優としてのキャリアを重ねていくごとに感じます。何度も言いますが、本当に自分は幸運でした。同世代の役者さんからもスタッフからもうらやましがられますよ。みんな一度でいいから関わってみたかったって。そう考えると、もう僕の誇りですね。死ぬまでその思いは変わらないでしょう。
晩年の黒澤映画に関しては、いろいろおっしゃる方もいらっしゃいますが、あの頃先生が「やっと自然に物事を撮れるようになってきたよ」っておっしゃっていたんです。そのとき、僕には先生ピカソのようにも思われましたね。過去の表現方法に囚われることなく、黒澤明という人間そのものの独自の世界観を最後まで追い求めた、本当に稀有な映画作家だったと思います。隆 黒澤組の助監督だった小泉堯史さんの初監督作品でもありましたけど、まさに黒澤組の現場を彷彿とさせるものがありましたね。あれもカツラや衣裳をつけてのリハーサルを相当にやりましたから、本番もすごく早かったですよ。黒澤組のスタッフの方々の基本姿勢は、全く変わっていませんでした。それがすごく嬉しかったし、だからこそ自分も頑張ろう・・・。「雨あがる」は、改めてそう思わせてくれる仕事でしたね。
(二〇〇二年十一月十三日、横浜パンパシフィックホテルにて取材)戻る