増淵健
だれも信じてくれないのだが、十年ほど前の私は、曲がりなりにも、オーナー・ドライバーであった。
ちっぽけなクルマだったけれど、得意満面コロがしちゃ、自分が完全に支配できる空間をもったことにコーフンし、鉄の器の中で天下無敵の勇者に変身できる快感に酔ったものである。
それにしても、おどろいたネ、温厚篤実を絵に描いたようなこの私がハンドルをにぎったとたん、「バッキャロ!どこに目ん玉つけて、運転してやがんでえ」などと、並行車を罵倒した。
ひとりクルマにかぎらず、乗り物には、運転者と一体化し、彼に第二の人格を与えるマカ不思議な力がある。
また、そうなることが、初心者にとって必須の条件であると、教習所で教えられる。
実技第一課、車幅感覚・・・。
なにをどうやって教えられたか、ハッキリ覚えていないが、シャフクカンカクという言葉がひどく耳新しかった。
そして、思った。
クルマの巾、長さ、高さを、自分自身の巾長さ、高さと感ずる・・・・・・なんと神秘的ではないか?
以上、長々しい前説は、『断絶」の主人公たちにとって、クルマとはなんなのか、深甚な興味をおぼえたからに外ならぬ。ふたたび愚考す。クルマを人格化した車幅感覚映画"を否定するクルマ社会へのメッセージ映画”こそ、これではないか?
車幅感覚映画"と書いたが、例えば『バニシング・ポイント』
バリー・ニューマンのダッジ・チャレンジャーが、クルマでなく、ニューマン自身とし知覚される、あの心内のメカニズムを、私は映画における車幅感覚と規定する。
そして、これは、『グランプリ』のように、臨場感という視点でしか、クルマをとらえなかったそれまでの自動車映画のアンチテーゼである。
かつて、私たちが感じた臨場感は、自分自身を画面のクルマの便乗者と知覚することによってうまれた。そうした受身の発想に対して、『バニシング・ポイント』は、私たちを運転席におく能動的発想により、映画自身を変革した。
クルマに乗って、私たちがスピードを感じるのは、客席にいる場合であり、運転席では"走る"という行為の実感しかない。
車幅感覚映画”は、モータリゼーションがうんだ必然であると同時に、クルマという強慢な無機物体に対して、人間が主体性を主張し得るようになった喜ぶべき確証である。
ジャン・オーレルが、『スタンダールの恋」愛論」で、二台のクルマの人さながらのラブ・シーンをみせたのは、一九六五年・・・車幅感覚という言葉を、あの映画をみながら、私、思い出したのでありマス。
交通マヒのパリ市街。ミシェル・ピッコリ医師が、クルマの中で、フーテン愛人ジョアナシムカスを張り倒す。と、好奇心を満面に、すり寄ってくるエルザ・マルティネリのスポーツカー。一目で、エルザが気に入ったピッコリ医師、ジョアンナをほうり出し、後を追う。二台のクルマは、ブローニュので、いどみかかり、拒み、もつれ合う...本当に、そうみえたのだから、仕方ない。はじめてみる“彼ら”のラブ・シーンに、唖然とし、感歎し......。
閑話休題。ジェームス・テイラーのドライバー(役名)"にとって、ウォーレン・オーツG・T・O(役名)"にとって、クルマとは、ふたたび、無機物体であるようにみえる。
その気になれば、いくらでも、かっこいい疾走シーンが撮れるものを、モンテ・ヘルマン監督、断々として、車幅感覚的描写を拒否する。ドウナッテンノ?
そこで、思う。これは、クルマと一体化しすぎた男たちの悲劇ではないのか?交通機関としての有用性、スピードへの憧れ、ステータスシンボル等々、すべてを知ってしまえば、こうなるしかないという......。
ストリート・レーサーのドライバー"にとって、一九五五年型シボレーは、一天地六のサイの目であり、流れ者の"G・T・O"にとって、七〇年型ポンティアックは"ホーム・スイート・ホーム"である。
ともに、車幅感覚なんてなまやさしい認識のしかたじゃなく、特に、後者は、運転席でヒッチハイカーと話す時しか、生活人としての意識をもてないようにみえる。
クルマという名の過保護状況下で、彼にできる自己主張は、��社会"をひっぱりこむことだけなのだ。
だから、ドライバー"との大陸横断レースの最中ですら、ヒッチハイカーを拾わずにはいられない。
彼とて、ジョナス&クラインがいう「大人の玩具」としてのクルマをもった時代があったにちがいない。
が、それを通りすぎた今、生活そのものであるクルマは、コンプレックス以外のなにものでもない。
「カリフォルニアで買った」といい、「ベガスでバクチのカタにとった」といい、あげくのはて、「大陸横断レースでまきあげた」とホラを吹くG・T・O”......
「支配の夢想を実現する手段」としてのクルマに、いつのまにか乗っとられてしまった男の悲しみは、そうした口から出まかせ”で補償するしか、術がないのかも知れぬ。
だから、真の意味での断絶"は、彼とクルマの間に存在する。
クルマ社会への絶望感あふれる提言として七年前、オーレルの先見にひざの出した私には、ヘルマンの意図がありありとわかる。自惚れではないつもりだ。戻る