河野基比古


 自動車は現代のエロスである。そこにはイコンとしてのセックスの根源がある。クルマに対する男の愛は、愛の起点であり、終点であるといっていい。
 この作品がその人間とクルマとのかかわりあいのすべてを描ききったといえないまでも、かなりの表現をすませているといえるだろう。登場人物に個有名詞はない。「運転手」「整備士」「女」そして、もうひとり、ポンティアックGTOマーク・フォー・ラムエアの運転手であるウォーレン・オーツの「G・T・O・」という呼称が、お伽話の「おばあさん」や「狼」や「女の子」とおなじで、このものがたり自体が個有名詞のないある寓話であることを暗示しているようだ。だから、上下二車線の黒い道という没個性的タイトルも生きているのだ。およそ断絶"などというコミュニケーションを問題とする次元にはない映画ではないか。
 男とクルマが密接に関係していると人間の女はどうしたらいいか。その図式化もなかなかおもしろい。55年型シボレーを完膚なきまでにチューンナップした運転手と整備士のチームにとって、女の子はジャッキかレンチといった工具のひとつに過ぎない。工具だからやはり大切だし、使用するときもある。GTOにとってはヒッチハイカーをのせることが、自分とクルマの連帯感を再確認する手段になっているが、女を誘惑することもその一環といっていいだろう。彼にとってはクルマを実感してくれる話し相手(というより聞き手)こそ唯一の必需品なのである。
 女にとっては、どこかにあるはずの確実な幸福にたどりつくことが最重要で、クルマは男を総体的にみる場合敵なのだが、そのことは漠然としかわかっていない。だから彼女にとってクルマの運転など出来もしないし、おぼえたくもない。当然そうあるべきだ。
 運転手は彼女に運転を習わせようとする。つまりハードウェアの彼女にソフトウェアの女を融合させたかった。この辺彼の迷いと誤ちがはじまる。彼は運転手としてしてはならないこと、人間の女を愛することをはじめようとしたのである。
 自然のなりゆきで、その誤ちはすぐに修正され、三人の男はそれぞれ本来の生き方をつづけていく。それだけの話だが、イギリス出身の監督モンテ・ヘルマンは固い文体で淡々と描ききる。それにしても、西海岸から東海岸へ、または東から西へ、大陸横断のハイウェイからぞくぞくと映画が生れてくる。それは不毛の夢を育む悲しいハイウェイである。(米*マイケル・S・ラーフリン・プロ作品*CIC配給封切日十月二八日紹介九三号)

戻る inserted by FC2 system