「父と別れて」


 ぼくのふるさとは、名古屋から名鉄犬山線に乗り替えて二十分、江南市布袋伝馬町にある。
 白壁の大きな酒蔵が四ツある「村瀬酒造」、それが祖父の代から続く、ぼくの生家だ。
 父は軍人だった。終戦後、陸軍大佐の官職を最後にして、いまでこそ、故郷で国文学の大学教授をしているけれど、基地を転々として、その居が定まらず、ぼくらは、母と共に祖父の家に育てられた。
 二十歳にして町長になり、以来二十間、県会議員にも選ばれていたという、いわば市の名士の一人に数えられた祖父は、家庭での教育も厳しく、封建的だった。ぼくは、近所のガキ大将で暴れまわり、四歳の時、幼稚園に入れられると、先生の手に追えなくて、十三日間で放園させられ、母は一日おきに、隣り近所にぼくのいたづらの詫びに出かける始末。
 困りはてた祖父は、自分の目がとゞかない外出時には、ぼくを連行することを考えついた。それが、子供には少しも趣味のない、コットウ屋巡り、結婚式、葬式、株主総会であれ、温情をはさまない。
 或る日、「いやだ!」とダダをこねて云いはつたら、ぼくの首筋をつかんで腕力づくで連れて行くのだ。
 母も姑と嫁の関係でずいぶんと苦労していたようだ。母はよく泣いていた。そしては末っ子のぼくを引つぱつて、十キロ先の実家に帰って行く。(ぼくには、いまは結婚している三ツ年上の幸姉さんと、水野建設に勤めている二ッ年上の錦市兄さんがあるが、当時の兄、姉の記憶は空白である)それが度かさなると、幼いぼくは、家の異状な雰囲気で、いち早く「母がまた比舎に帰るな」とわかり、云われぬ前から、一人でタンスから外出着を出して義替え、玄関の母の外出用の履物を揃えて、戸口で母の来るのを待っていたものだ。そしては、途ゝ泣く母につれられてぼくもポロゝと涙を流していた。
 母の里は、田と畑だけがどこまでも続く田舎だ。夏のはじめには螢がとびかい、小川の水は美しく澄んで、魚釣を楽しんだ。
 しかし、当時三島の基地にいた父はそんな母を見るにみかねて呼びよせた。ぼくも母について名古屋を後にした。
 以来、小学校に帰るまでの二年間、父と共に、千葉の鋸子、四ツ街道、富士山麓、三島の山奥と転々とした。
 初めて父を知つたぼくは、父に甘えた。父も可愛がってくれた。錦市兄さんが病気になり、看病のため母が名古屋に帰って行った時も、駅まで送って泣き叫ぶぼくを、父は背中に背負って富士山の見える松林へ隠れんぼをしに連れて行ってくれたりした。

「ませた小学生」


 小学校に入る時、ぼくは再びと母と共に祖父の家に帰って行った。父と一緒にいては、転校ばかりしなくてはならないし、それは教育上いけないからだ。
 ぼくは、姉や兄のいる布袋小学校に入学したが、姉や兄とは、どうもしつくりいかなかった。長い間、別れていたし、ぼくとしては、はじめて兄姉と対面したような気持だったからだ。そのうえ、祖父母のもとでききわけのいい子供として育てられた、おとなしい姉と兄とはしょせん暴ばれん坊で、負けずぎらいで、感受性の強いぼくは、気が合わないのだ。初めこそ、祖父の監視をおそれて、女中や番頭と一緒に鬼ごつこや、まり遊びをしていたが、やがて近所の長屋の屋根の上で、まるでイタチのように友達と隠れん坊をするヤンチャぶりを発揮しだした。
 おかげで、母はふたたび近所の苦情をおさめに歩き廻らねばならなくなった。いま思い出せば、穴に入りたいような思いだが、喧嘩と竹馬は誰にも負けぬ自信があったし、兄がいじめられて泣いて帰ってくると、ぼくがしかえしに出かけて行くほどだったから、母も手に負えなかったにちがいない。
 あだ名が「ヤンケー」(やんちゃの�_造(ぼくの名)の略)だったことからも想像にかたくない。
 
 そのうえ、ぼくには別名「ナンパ師」のあだ名もついていた。ませていたぼくは、小学校の頃から、きれいな女の子が大好きで登校に自宅まで迎えに行き、下校の時は一軒一軒送って行く。
 なぜって好きな女性が四人いたからだ。しかし、この「ナンパ師」の行状第一期は、送り迎えを果す僕の役割で満足していたのだから、たわいないものだ。
 それでも、負けず嫌いは勉強の方にはいい影響をおよぼした。二年から六年まで首席で級長を通したものだったが、戦争がはげしくなるに従つて、都からの疎開児童が日々多くなり、小さな世界でいつも天下きどりしていたぼくの身にも、じわゝと強敵があらわれて来だした。ぼくはあわてた。
 運動会の徒競走ではいつも一番だつたぼくも、とうゝ都会の疎開生に一位をうばわれ、くやしくて泣いて帰ったものだったが、それならそれで勉強だけは、二度とこの悲しみを味わいたくないと歯ぎしりして、頑張ったものだった。

「ナンパ師のショック」


 隣り町の私立滝学園中学に、ぼくは九番の成績で入学した。しかし、新学期早々に、ナンパ師ぶりも第二期の段階に入り、とんでもない事件をもたらした。
 女学生に英語のラブレターを送ったのである。
 習い出した英語が面白くて、兄の部屋から英文法書をひっぱり出し、夜半の三時頃までかかつて作ったラブレターだった。ぼくは来る日も来る日も、返事を待っていた。
 しかし、その返事は父同伴で校長先生に大叱責されるという、屈辱と羞恥にぬられたショック事件で、帰って来たのである。女学生は、無粋にも、ぼくのふるえる歓喜と苦労の結晶を、校長先生に手渡したのだ。
 ぼくは彼女を憎んだ、殺してやりたい程だつた。校長先生の顔をみるのも怖かった。ぼくはともすると気持がふさがり、だんだん暗い性格になつていつた。勉強には手がつかず、成績はおちるばかりだった。
 もう女性と交際するのは止めようと思った。その煩悩の世界からサヨナラしようと思った。ぼくが、陸上競技に全力をかたむけるようになったのは、この事件の直後である。
 百米、四百米、千五百米の競技に、記録をとること、ただそれだけに、喜びのすべてを賭けた。この時の成果に愛知県中学校陸上で、百米を十三秒で走った大会新記録がある。中一の時のことである。
 県立尾北高校に入学してからも、もつぱら走ることに専念したが、二年の頃から高飛びを専門にやり出した。でも、大会に出場すると、必ず練習の時より成績が上らず、先輩たちから首をかしげられた。でも、ぼくは知っていた、女性の目がそこに一つもなければ、練習のときとおなじように、いい記録が出たことを。ぼくの思春期のいろけは、あれ以来、明るく発散できず、消極的になりじくゝと内部でうづいているだけなのだ。
 ただ、秘めやかに隣りに坐っていた女生徒を、唯一のガールフレンドにしていたのを除いて。
 二人のほのぼのとした友情が、世の無理解な大人たちによって、とがめられ、こわされることを恐れたし、こうした交際を「やましくない、大人たちに白い目でみられる道理はない」と自分に思いこませるために、ぼくは「一緒に勉強する」という云いわけをつくつて、彼女の家以外では交際しなかつた。
 そして事実、逢う時は勉強も机を真中においてであった。
 でも、ぼくはいつも女に教える立場に立ち、「一緒に勉強する」というわけにはいかなかつた。
 高二の秋から、大学受験に向かっ勉強しなければならない。父母は、泣いて「勉強してくれろ」と頼む。ほら参考書を買って来た、ほらラジオをつけてはいかん、と口うるさく気を配りながら。
 ぼくの勉強部屋からもれる灯は、父のいる母屋からは、丁度真正面にみえた。その灯は、深夜一時頃までついている。
 しかし、ぼくは必ずしも勉強しているわけではなかつた。裏口からこつそり友人が遊びに来て、秘そかに酒を飲みながらバカ話に花が咲いていたり、昼間の棒高飛びの疲れで、机にうつぶせになって、眠りこけていた時間のが、はるかに多かった。

「家庭教師時代」


 その天罰は、当然来るべき時に来た。教育大学の英文科を受けて、みごとおちたのである。「西日本地区の実力テストでは、三、四位の好成績だったのに....国立大学に入るには大都会の東京で、もまれなければいけないのかもしれない」
 父母たちはそう考えた。
 ぼくは上京した。東京の予備校に入り、暗いそれでいて何もかも追いたてられる、イライラした毎日の、浪人生活を送るために――。
 その一年間は、五年たつたいま思いしてもぞっとする。
 下宿した愛知県寮には、大学生たちが殆どだった。すでに大学受験の苦難を通りこした向うの、明るいのびのびとした世界に先輩たちの中に入って、もくもくと机に向うには、余りにもぼくの意志は弱かった。
 下宿の小母さんに弁当を作ってもらい、予備校にかようととはそと目だけ、じつは、新宿や浅草をほっつき歩送金してくれる父に悪いと思えば、せめて自分で小遣を稼ごうと思い、バチンコ屋通いをし、プロ並まで腕をあげた。
 そして夜、机に向えば、受験の下しらべは、すべて出来てるようで何もすることがないような、でなければ下しらべは余りにも無限すぎて、どこから手を出していいかわからないような、苛立ちばかりが先に立つて、勉強が手につかず、つい酒を飲み出すのだ。
 そしては、こんなことならもう勤人になった方がいいと考えたり・・・・あげくの果は、淋しくなってフトンに入ると泣けて来るといつた毎日だった。
 遠く離れた父母は、そんなことを知るよしもない。父は、子供にたくする希望のまゝに、かつてに受験の手続きをした。
 ぼくはそれに従った。そしてそれら国立大の受験に、すべておちた試験中で、映画をみに行ったのである。それでいて、ぼくは浪人生活を打切ることばかりを願った。そして、日大の法学部に入学したのだった。
 大学生活に入ってから父の意に添えなかった責を、少しでも埋めようと、ぼくは授業料免除の特待生試験をうけた。これは、平均九十点をとらねばならないし、法学部でも十一人しかいなかつた。卒業までその資格を維持するために、ぼくは勉強した。
 それでも、まだ父にすまなく思い、アルバイトもした。二千円の家庭教師である。
 人の運命は、思わぬところで、切りかえられるものだ。
 大学の二年の時、家庭教師をしていたその中三の生徒が、33年ミスター平凡に、ぼくを推薦してしまつた。その時は、一位の賞金の十万円をもらって、ほくほくしていたが、それが機縁となつて、ぼくは大映のニューフェイスという、今まで想像もしてなかった運が降つてわいたのだ。
 ぼくは決心した。34年無事、大学を卒業すると、ぼくは俳優の道を選んだ。そして同年六月「ああ江田島」でデビューの幸運をいただいたのである。


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