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それはマイケル・ダグラスの「オレさま映画」 作りから端を発したものだといっていい。
新企画「黒い雨」
1987年、主演作である「危険な情事」が大ヒットを記録し、さらには同年「ウォール街」で念願のオスカーを獲ったばかりのダグラスだったが、自身はもっとヒーロー的要素の強い、躍動感のあるキャラクターを演じたがっていた。
そこでプロデューサーとしても優秀な経歴を持つ彼は、数限りなく持ち込まれる企画の中から、ある脚本に目をつけていた。
それはニューヨークの刑事が偽札の原版を持ったヤクザを追って日本に飛び、現地の刑事と組んでそいつを捕まえるというバディアクション・ムービーだった。執筆したのはバディ・アクションの革命的TV刑事シリーズ「マイアミ・バイス」の主要ライターだったクレイグ・ボロティンと、「緯度0大作戦」(69年)のダイアログ・リライターとして日米合作映画に関わったウォーレン・ルイス。
物語はアクション性に富み、日本とアメリカの異文化対立を描くという点でテーマ性にも長けていた。タイトルは太平洋戦争時、米軍の日本空襲によって降り注がれた黒煙まじりの雨=それが様々な厄災となってアメリカに跳ね返るという、シニカルな暗喩を込めてこう冠されていた。
「ブラック・レイン」とー。
ダグラスはこの脚本を「危険な情事」の製作コンビであるスタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングに渡し、作品の企画はパラマウントへと持ち込まれたのである。 "雇われ”監督、リドリー・スコット
監督は当初、「ロボコップ」(87年)で鮮烈なハリウッドデビューを飾ったボールバーホーヴェンが予定されていた。だがアクション演出の手腕は良しとしても、
「アメリカと日本の異文化対立を描く物語を、はたしてオランダの監督に描 ききれるのか?」
という懸念が監督本人と製作側の双 方に強くあり、バーホーヴェンのディ レクション案は流れた。
そこでマイケル・ダグラスの強い要望により、リドリー・スコットの起用 が検討され、ジャッフェとランシングはスコットにこの映画の話を持ってい った。
独自の映像美で一部映画マニアからは熱狂的な支持を得ていたスコットだが、1979年の「エイリアン」こそ大ヒットを記録したものの、続く「プレードランナー」(82年)も「レジェンド/「光と闇の伝説」(85年)も、リドリーの監督作は興行的に賑わなかった。商業映画作家としてデビューを果たした 後、初めてトライした現代劇「誰かに見られてる」(87年)は、兼任プロデュ ーサーとして関わりながらもトータル グロスは1000万ドルに満たない結果 となり、クリエーターとしての凋落を懸念していた。
スコットとて東洋文化にそれほど詣が深くはなかったが、製作に一切の責任を負わず監督に専念できるメリットを重んじ、完全なる“雇われ仕事としてオファーを受ける。 東京→香港→大阪への道のり
脚本版「ブラック・レイン」の主な舞台は東京であり、日本でのロケーション撮影は必要不可欠なものだった。
そこで日本側ブレーンとして、岡本喜八作品の製作担当として知られるフフィルムリンクインターナショナルの水野洋介に協力が打診され、後日、同社代表の山本又一郎へパラマウントよ正式に日本側プロデューサーの要請 が入る。
ロケ地は成田空港、新宿歌舞伎町、銀座などが予定されており、そこで1988年3月1日、スタンリー・R・ジャッフェやリドリー・スコットらがロケーションハンティングのために来日し、各撮影候補地を見学してまわった。
しかし、いざ現地に赴いてみると、「どの場所も近代化されすぎ、オリエンタルなムードに欠ける」
という理由で、ビジュアルの決定打に乏しかった。それ以上に問題だったのは、ロケ撮影に際して都警の撮影許可が下りにくいという、自国アメリカと比べて信じられないほどの非協力的態勢だった。スコットは、 「撮影協力への柔軟性と街のイメージを重視するなら、いっそ舞台を香港にするべきでは?」
と主張し、一同は香港へと移動。そ こでもロケハンを行ない、さらにはジャッキー・チェンと接触し、早々と出演の申し入れをする。 だが帰国後、ロケ地に関して再び検討があり、「やはり日本で...............」という結論に達した。そしてジャッフェとスコットらは4月下旬に再度日本を訪れ、今度は大阪を中心にロケハンが行なわれた。
「ニューヨークに似た東京より、大阪は日本的だよ」
大阪の街はスコットのイメージに合 致した。4月24日から25日にかけ倍野署や中之島公会堂、大阪城や北浜などを訪問した彼は、そのレトロでオ リエンタルな風情と、未来感の入り交じった空間に目を奪われた。撮影面で の問題も、大阪では行政管轄が東京に比べ複雑でないことから許可が下りやすいと判断し、大阪府に正式な撮影協 力を願い入れたのである。
幻に終わったジャッキー、 ショーケンのキャスティング
製作準備は着々と進められ、1988 年6月から9月にかけては日本側の配役オーディションが行われた。
アメリカ側は主人公ニック・コンクリンダグラス本人が演じるほか、相体の若手刑事チャーリーをアンディ・ガルシア、事件に絡むヒロイン、ジョイスにケート・キャプショーと、主要キャストは既に定められていた。
日本側キャストに関しては、企画段階で先に触れたジャッキー・チェン、そして「ベスト・キッド』シリーズのノリユキ・バット・モリタという中国日系俳優がイメージとして挙げられていた。だが『ブラック・レイン』では「歪曲した日本観を排する」という大前提があり、あくまで現地の日本人俳優を使うことにこだわって配役が決められた。
ニックの相棒となる松本役はリドリー・スコットの熱望もあり、高倉健へのオファーが検討された。健さんは当時『海へSeeYou』の撮影を終えた直後で、長期休暇に入る予定であり、事前に渡されていたシナリオの出来がひどいことに難色を示し、話を断るつもりでいた。だがスコットの熱意にほだされ、さらには「意見に合わせて誤った描写を改良していく」という約束を製作サイドから得たことで出演を承諾する。
本作の顔となる悪役のヤクザ・佐藤には萩原健一、小林薫といった顔ぶれが候補に挙がり、オーディションが繰り返された結果、最終的に松田優作が決まった。リドリー・スコットは具体的なキャラクター像として「時代が生み出した悪魔」という『ブレードランナー」のレプリカント、ロイ・バッテイ(ルトガー・ハウアー)を強く念頭に置いており、その点で優作は申し分のないオーラを放っていた。
日本側唯一の女性キャラ、佐藤の情婦ミユキ役には藤谷美和子がキャステイングされたと一部報道にあったが、実際には小野みゆきが抜擢された。また暴力団シンジケートの大ボス・菅井 役には三船敏郎の名が挙がっていたものの、「千利休本坊遺文」(89年)の出演が重なったことから白紙となり、最終的に若山富三郎が決定した。
異例のキャスティングは内田裕也で、彼は主演作『コミック雑誌なんかいらない!」(86年)がアメリカをはじめ世界各地で高評価を受けており、いわば逆指名のような形で役を受けた。他にも神山繁、安岡力也(現力也)にガッツ石松、國村隼、そして吉本新喜劇の島木譲二や、チャンバラトリオの伊吹太郎ら、日本人キャストは広く異色の顔ぶれが揃った。
製作費は約2000万ドル(当時のレートで26億円)が当初の予定だったが、スケールを考慮し3000万ドルへと変更。リドリー・スコット監督作品としても過去最大のバジェットを用意し、「ブラックレイン」は製作開始となったのである。
困難を極めた大阪撮影
大阪府全面協力の約束のもと、「ブラック・レイン』は秋色の濃くなった1988年10月31日より、日本での撮影始まった。
最初のロケ現場は大阪府庁で、撮影は府庁舎1階の団体交渉室部分のみに限られていたが、パラマウント側はその周辺となる地下1階全体をシャット アウトし、庁内は機能マヒに陥ってし まった。さらには11月1日、府庁舎内 本3階での撮影中、植物性油を気化させ スモークを発生させた際に刺激臭が ン満庁内が騒然となった。これらに対 し大阪府はパラマウントに注意を促し たが、スモークもまけないような撮影 態勢に、アメリカ側スタッフも苛立ち を覚えずにはいられなかった。
今回の国内撮影は、クランクイン前 から問題が勃発していた。例えば大阪 府職員労働組合から「庁舎管理のため に職員が休日に駆り出されては困る」 といった抗議が人事課に持ち込まれる など、府内部でも撮影協力に関しては、 意見が相違し、府も相当ナーバスになっていたのである。
だが、最も苛立っていたのはマスコミだった。
撮影現場はパラマウントが完全に仕切り、日本の配給元であるUIPでさえタッチできず、作品のビジュアル配信など一切なかった。アメリカ映画は守秘義務も固く、製作途中でのマスコ三向け現場取材や途中報告の記者会見などという慣例がないので、これは致し方のないことだった。とはいえ連日のクレーム報道でイメージダウンを懸念したパラマウントは5日、府庁での室内撮影の模様を、わずか5分だがマスコミに披露した。
続く11月7日には新日本製鐵・堺製鐵所で初の野外撮影が行なわれ、11日の夜には北区豊崎の「ゴルフシティ」13日には道頓堀の「長沼静きもの学院心斎橋校」と「プランタンなんば」でマイケル・ダグラス単独のパート撮影 が敢行。
21日からの3日間は戎橋キリンプラザ前でのロケ撮影が、群衆の混乱を避け深夜午前3時よりスタートしたが、ここではタイトルを象徴する大雨を降らせる計画が府警から許可を得られず、また本作最大の目玉となるはずだった道頓堀に砂を張っての大がかりなカーチェイスも当然ながら却下。結局のところアクションシーンはまったくといっていいほど大阪で撮ることが叶わず、それらは年明けから3月まで行われる、アメリカ本国での撮影へと委ねられた。
多くの制限を受けて撮影が進まないことも起因し、費用は膨大にかかり、最終的にバジェットは4200万ドル(58億円)にまで跳ね上がった。パラマウントはこれ以上日本で撮影を続けるのは利を得ずと判断し、当初12月13日までの撮影予定を、6日をもって強制的に終了したのである。
功労者はヤン・デ・ボン
大阪撮影は弊害だらけだったが、決してマイナス面ばかりではなかった。『ブラックレイン』の撮影監督はロケ開始当初、ハワード・アサートンが担当していた。「危険な情事」ではエイドリアン・ラインの流麗かつサスペンスフルなヴィジョンを見事にサポートしたが、慣れないフレーミングや撮影条件からミスを誘発し、わずかなシーンだけを残して更迭されてしまう。
かわりに日本の地を踏んだのが、後に監督として『スピード』(95年)などのアクション作品を生むヤン・デ・ボンである。
前述したように、デボンも「ナイルの宝石』(85年)でマイケル・ダグラスと一緒に仕事しまた経緯から登板することになったのだが、もともとアクションと連動した緻密なライティングプランを示すことができる撮影監督で、厳しい撮影条件下でも耐性があった。屋内シーンでは感度の高いコダック5295フィルムを用いるなど、自ら『ダイ・ハー ド』(88年)で実施済みの効果的な撮影手段を用い、またクラブのセットや場の撮影などには、フレーム内に写り込む室内照明や街灯で複雑なライティング効果を出したり、後に『トゥームレイター2』(03年)の上海ネオン街でのヘリアクションに、その発展を見ることができる技巧を披露した。
またアクション撮影に関しても先鋭的でもあったデ・ボンは、監督作『スピード』でも活用した空撮用固定カメラ「ジャイロスフィアー」を用い、土台や足場の悪い場所でも安定した空撮ビジュアルを提供した。後にリドリー・スコットが「テルマ&ルイーズ』(91年)でカーアクション・シークエンスに空撮を多用したのも、ここでのデボンのアプローチに大きく影響さ れたものである。
血と暴力、頽廃の ランドスケープ大阪
ハリウッド映画の大規模な日本ロケ、そして日米ビッグスターの共演と話題に事欠かない『ブラック・レイン」だったが、映画ファンにとって最大の関心事は、やはり監督リドリー・スコットのビジュアル・アプローチにあった。
猥雑なネオンに彩られたビルの立ち 並ぶ街・大阪が撮影地に選ばれた時点 で、誰もが「ブレードランナー」うな未来都市的ビジュアルがそこに再現されるものと信じていた。だが、こ れまでのスコットの映画はセット オンリーの人工美であり、 箱庭で世界を作り込んでいた彼に、実そのような作りが可能なのかは検証に窮した。唯一テストケースとして参考になるのが『誰かに見られてる」だったが、この作品の中で切り取られマンハッタンの情景には、美しさこそ見いだせても「ブレードランナー」のような暗黒都市の頽廃美を重ねることは難しかった。
だがスコットは、日本での撮影が始まる3日前に行われた製作記者会見 で、
「現在から未来に変わる過渡期の都市情景を切り取り、そこに東洋的な世界観を盛り込みたい」
と、「ブレードランナー」で見せた“デッドテック・フューチャー”の図像を「ブラック・レイン」でも創り出すことを明らかにしていた。
そして、リドリー・スコットのもうひとつの作家的特性である“残酷描”。「ブラック・レイン』は、脚本の段階でヴァイオレンスシーンが数多く盛り込まれ、スコットはそれを忠実に再現しただけだともいえる。しかしチャーリーが地下駐車場で斬首される場面や、佐藤が菅井の手の甲をドスで刺しつらぬくシーンなどのオリジナル演出部分に関しても、彼はそれらを血生臭く演出した。最も凄惨だったのはチャーリーと佐藤が戦うクライマックスで、佐藤が折れた樹木で串刺しにな り壮絶な最期を遂げるシーンだっ たが、これは不幸、いや幸いな ことに佐藤が逮捕され署 に連行される別エン ディングに差し替 えられ、陽の目を 見ることはなかった。
これらの描写に関し スコットは、 「暴力は“死”の冷酷な であり、そこにが介入 してはいけない」 とコメントしている。本発言に依拠 するこうした残酷演出の数々は、やが 「ハンニバル」(01年)や「ブラックホーク・ダウン」(01年)へと至る。“ビジュアリスト”から“リアリスト”への昇華を微かに匂わせているといって も決して過言ではない。
評価が分裂した日米公開
完成した「ブラック・レイン」は1989年9月24日、全米1610館で公開された。オープニングの週末興行は967万ドルを稼ぎだす順調な滑り出しだったが、トータルグロスは4600万ドルと、製作費を少し上回る程度の収益に落ち着いた。
評論家のレビューはどちらかというと否に多く傾き、「物語に奥行きがな映画学校のテキストのように薄い」などと、日本での撮影条件に合わせた脚本のリライトが、明らかに物語をデコボコさせてしまったことに鋭く追及の矢が刺さった。マイケル・ダグラスの「オレ様映画」としてのもくろみは成功したとは言い難く、リドリー・スコットのフィルモグラフィのなかで、現在において顧みられる機会の少ない作品になってしまった。
だが日本では違う。
アメリカに続くこと10月7日、 「ブラック・レイン』はついに日本でロードショー公開された。
幾筋もの煙たなびく新日鐵堺の大俯瞰。 まるで 「ブレードランナー」の導入部=2019年ロサンゼルスの情景を実写で再現したような日本パートのファーストショットに、誰もが 「こ、 これは............」 と色めき立った。 そして、製作記者会見でスコットが予告したライブ版『ブレードランナー」の意趣が現実のビジュアルとなってスクリーンに展開され、観る者の息の根を完全に止めてしまったのである。 ことに大阪の観客は、自分たちの住み慣れた街が見たこともない荘厳な世界になっているのを眼前にして、「ダーティなイメー ジに描かれては困る」などという懸念 さえも完全にすっ飛んでしまった。
だが、何よりショックを受けたのが日本の映画人だった。見慣れたロケーションだと思っていた大阪の風景が、邦画にはない異質なルックスで捉えられていたからだ。 「いったい何が違うんだ!?ライティング?スモーク?それとも撮影機材なのか?」
アメリカ映画の、いや、リドリー・スコットの底力が鮮烈に刻まれた瞬間だった。
以降、我々は「エイリアン」や「ブレードランナー」を饒舌に語るのと同等に「ブラック・レイン」に言葉を費やしてやまない。 「この映画があるからこそ、スコットの巨匠への足がかりとなった「テルマ&ルイーズ」が生まれ、さらには『グラディエーター」(00年)や「ブラックホークダウン」へ繋がっていったのだ」と――。
"元気でな、カウボーイ......" 「ブラック・レイン」の公開から15年。ロケ地となった大阪の景観も大きく様変わりした。キリンプラザビル前の戎橋は現在、阪神フーリガンを警戒し、軍事境界線のように物々しいバリケードで両サイドを遮られている。チャーリーを失ったニックがうなだれていた長堀のソニープラザ前の陸橋も、地下開発のために取り壊されて既にない。緊迫した尾行シーンの舞台となった神戸元町は、阪神淡路大震災が街に深い傷跡を刻んでしまった。
同時に「ハリウッド映画における日「本の表情」も変わった。『ラストサムライ」(03年)や「ロスト・イン・トランスレーション」(03年)など、そこに描かれている日本文化や街のルックは徐々にナチュラルなものになってきた。「歪曲した日本観を排する」という前提のもとに刻まれた「ブラックレイン」の轍は、今もしっかりと踏み続けられている。
だが、それを得るために、日本映画界が払った代償はとてつもなく大きか った。
松田優作の早すぎる死
ガンを宣告され「治療に専念して延命を選ぶか、それとも命と引き替えに本作に出演するか」の苛酷な選択を迫られた彼は、スクリーンに自らの生き様を刻みつけるために後者を選んだ。そして1989年11月6日、「ブラックレイン』の日本公開中に息を引き取ったのである。
享年39歳。そのあまりにも唐突な、あまりにも不条理な運命。ハリウッドへの野望をかけた優作が、本作を助走に大きく駆け羽ばたこうとしていただけに、喪失感はとてつもなく大きかった。
今でもDVDで「ブラックレイン」を観賞し、“黒い雨”の落とし子・佐藤の不敵なまでの圧倒的存在感を目にするたびに、 「もし優作が健在なら、あれから今日までに、いったいどんな活躍を見せてくれたのだろう?」
と、心の片隅で常に思う。これだけ は、公開当時から現在に至るまで変わることはない。
この原稿を優作と、素晴らしい「ブラック・レイン」撮影密着ルポを遺し、惜しくも今年亡くなられた山口猛氏に捧げる。