撮影日誌/製作裏話/黒澤語録 企画から完成までのすべてをここに! 一昨年暮れの製作発表から今年4月26日の公開にいたるまで、これほどまでに話題を呼んだ日本映画はなかった。あの劇的な主役交代騒ぎ、G・ルーカス、Fコッポラらの海外版プロデュースなど、いずれも世界のクロサワにふさわしいスケールだった。あ あなたは、この大作をもうごらんになっただろうか?

1978年12月20日

東京・丸の内の東京会館で製作発表。主演は勝新太郎で、他の出演者は数名の腹案もあるが、オーディションによって、キャスティングを組む意向。すでに井手雅人との共同シナリオは3月に脱稿していたが、製作費の予算面で折り合いがつかず、やっと1億4千万円で製作発表することが決った。

1979年1月16日

姫路城ロケハン。馬を使ってのスペ クタクル・シーンの撮影は、北海道の 勇払原野で行うことが決ったが、その 他のロケ地は未定。1月は全国の古城や武田屋形のモデルとなる古寺巡りとなった。熊本城を皮切りに丸亀、高知などの、中国、四国、近畿の古城、古寺を4カ所以上訪れた。

1979年1月20日

配役公募広告を全国主要新聞に掲載。

この時の黒澤監督のメッセージは こうだ。「今や、日本映画は新しい人材の発掘とそれを育てることから出直さなければならない。監督、脚本、撮影、録音、美術その他映画の芸術的技術部門の新人育成はもちろん急務だが、それは相当の年月を必要とする。しか俳優の新人の育成はひとつの映画の製作過程で、十分とは言えないが、不可能ではない。私はこの作品で、俳優の新人を発掘し、その才能を育てるとともに、既成の俳優諸君にも新人のつもりで取り組んで貰い、この映画を新鮮なものにしたいのだ」

1979年4月28日

東宝 のスタジオで配役発表が行 われる。1万5千人もの応募者(100人は女性)の中から、書類選考でまず干人。その後、数回の面接などを行い主な出演者2人を始めとする30人近い出演者が決まった。プロ・アマ問わずのキャスティングとあって、7対3の割新人、素人が大半を占めていた。

1979年6月27日

2カ月間、東宝スタジオでリハーサルの後、姫路城ロケからクランク・イン。信長・家康のシーン。野田城攻略策を練る武田の侍大将たちのシーンが中心となった。姫路城の国宝・乾小天守と「ろ」の渡りなどが、初めて開放され撮影が行われた。姫路城ロケは 7月9日までの2週間。

1979年7月20日

黒澤監督と勝新太郎の間で意見が対 立勝が主役を降ろされる。東宝スタジオで7月17日からリハーサルが行われていたが、勝が演技研究のためにとビデオカメラを持ち込もうとしたこと黒澤監督の逆鱗にふれたもの。これはの演技以前の問題で、勝手な行動をとられては映画製作ができないという理由であった。

1979年7月22日

の後任として、信玄とその影武者仲代達矢が決定。出演話が来た時の感想として仲代は「これはシメタ!と思った。黒澤先生が私に白羽の矢を立ててくれたことに大変感謝している」と語った。本読み、扮装テスト、リハーサルが2週間行われ、セット撮を中心として、武田屋形内で影武者 近習たちとの対面シーン、ブロ ローグの3人の信玄がいるシーン。などが撮影された。

1979年8月20日

信玄の息子・勝頼役の萩原健一が急性肝炎とスイ臓衰弱で入院。10日間の安静のため、撮影スケジュールが変更となる。

1979年8月28日

武田屋形のオープンセットの撮影開始。富士山裾野・静岡県小山町に1500坪、1億2千万円もの費用で、4月から約5カ月がか武田屋形は再現され た。山崎努、大滝秀治、室田日出男侍大将たちが、 勝頼が単独で高天神城へ出 陣した報を聞くシーンから撮影された。

1979年9月25日

10月から7週間の北海道ロケに向かうため、黒澤監督は、今までに撮影し たフィルムの編集分(約70分間)の特別試写をスタッフ、キャストに見せた。黒澤監督が試写室にはいると、待ちかまえていたスタッフ、キャストはいっせいに「お早うございます」と大合唱。黒澤監督は「なんだか小学校の先生みたいだね」と大いにテレていた。

1979年10月6日

北海道ロケ第1日目。この日は、1カ月半ぶりに現場復帰した勝頼役の萩原が、諏訪湖にみたてた浜厚真の海岸線を馬で疾走するシーン。急報を告げに来た伝駒の姿をはるか遠くに認め、手綱をグイと引いて馬を急停止させる場面。このサラブレッドの牡馬は、3年前まで中央競馬で走っていたインモタルという1億円馬ということ。北海道ロケのヤマ場は、長篠の戦い�≠ナ、信長・家康の連合軍の馬防柵に武田騎馬軍が突撃してゆくシーン。00メートルの馬防柵が作られ、3頭の騎馬が土煙りをまき上げて突撃する。このシーンだけで2週間の撮影が行われた。

1979年11月12日

外国版プロデューサーのコッポラ、ルーカス一行が来日。北海道ロケの黒澤監督を訪れた。この日の撮影は信玄の影武者となった盗人が武田騎馬軍の兵を受け、調子に乗って落馬するシ ーン、ところが本当に影武者役の仲代が落馬、40キロ近い鎧をつけている仲代は胸を強く打って動けず、大事をとって休養することになった。

1979年11月18日

北海道ロケ地の勇払原野や苫小牧市内に大雪が降り、帰京することになる。7週間の北海道ロケで、予定されてい支笏湖で撮影の信玄の水葬”シーシや高天神城の戦い”のシーンの役者のアップ撮影などが消化できずに終わった。北海道ロケ参加人員は2万600人、馬は4千500頭も動員され、台風20号にも見舞われ、悪天候のため撮影中止すること7日間、撮影したフィルムは上映時間にして9時間におよんだ。

1979年12月9日

熊本城ロケ開始。北海道ロケから帰った黒澤監督は編集作業にはいった。1月の主なロケは、熊本城、伊賀上野城、京都ロケ。北海道ロケで行えなか城の石垣を使ってのスペクタクル・シーンの撮影が行われた。当初、このロケは6月上旬から行われる予定であったが、梅雨のためくり下げられたもの。 武者"の夢を撮影

黒澤監督の誕生日に

1980年1月8日

東宝スタジオに戻った黒澤監督は武屋形軍評定のシーンから新しい年を迎えた。家康の陽動作戦に血気に逸り、勝頼が影武者に出陣をうながすシーン。前日にリハーサルが行われ、1日本番という撮影ベースで進められた。

1980年1月21日

武田屋形のオープンセットで、信玄影武者であることが側室たちにバレるシーンを撮影。前日、リハーサルが行われ、桃井かおり、倍賞美津子、そして竹丸役の5才の油井孝太君などが参加とあって、黒澤監督は終始ニコニ顔、まだ、眉をそり落としていない桃井に、「本番の明日はそってこなく てはいけないよ」と笑いながら言っていた。

1980年2月9日

東宝スタジオで諏訪大明神奉納の 薪能"に影武者が堂々と臨むシーンを撮影、精巧な張り木の杉の木が2本、能舞台の周囲には5トン車2台分の白小砂。このセットの設営に8日間も費やされた。このみごとなセットに、再び来日したコッポラ監督は感動。黒澤演出をじっくりと見つめていた。

1980年2月26日

前日、黒澤監督は東宝・松岡功社長と会談し、東宝は公開を2週間延期し 4月26日に変更したことを発表した。これは「影武者』があまりにもスケールの大きい映画であることを物語るものであり、いかに黒澤監督が妥協を許さず、製作を行っているかという証明にもなった。

1980年3月3日

信玄の水葬"シーン撮影開始、当初、北海道の支笏湖で撮る予定が、撮影の遅れ、天候不順などから、琵琶湖の長浜で行われることになった。琵琶湖に そそぐ姉川河口の中洲が選ばれ、スモーク(発煙筒)20本を焚いて朝もやの 諏訪湖を作り出した。

1980年3月23日

黒澤監督70才の誕生日を迎えた。 影武者の夢”のシーンを4日間の準備、2日間の本番で撮り終えた黒澤監督を、スタッフ、キャストは撮影所のサロンで誕生パーティを行った。みんなの「おめでとうございます」との言葉に黒澤監督は「あと5本は映画を作りますよ」と語っていた。

1980年4月7日

9ヵ月以上の撮影が敢行され、3カ月の遅れとなってクランクアップ。撮影期間の半分は準備、リハーサルが行われ、撮影実数は1日。撮影フィルム2万フィート(約86)3時間分の撮影が行われた。のべ出演者は5万8 千人、のべ馬動員数は4千頭にもお よんだ。このため製作費は2億近くオ ーバーし、1億5千万円となった。

1980年4月18日

東洋現像所で、現像所の技術者だけ による0号試写。

1980年4月10日

夜中の1時から翌2日の午前2時にかけて、黒澤監督をはじめ関係スタッフ立ち会いによる検定試写が東京・有楽座で行われた。この結果、音の調子が部分的に良くない(ノイズが入る)という理由で、2日に予定されていたマスコミ関係者用の試写が中止とな

1980年4月23日

検定試写で不良部分の修正と、ドナルド・リチー氏監修による英語スーパ入れを終了し、夕方から東京・有楽座でワールドプレミアを開催。黒澤監督、日本人スタッフや出演者はもちろん、フランシス・コッポラ、ピータ・フォンダウィリアム・ワイラー、テレンス・ヤング、アーサー・ペン、サム・ペキンパー、ジェームズ・コバーンの有名監督やスターも出席、「世界のクロサワ」にふさわしい、日本映画史上かつてないスケールの試写会となった。 (今月号「スター・ナウ」参照)



「どですかでん』以来、黒澤監督が10年ぶりに日本映画のメガホンを取る、というので、一昨年の製作発表後、この4月26日の公開に至るまでの約1年半、日本中、いや世界中の映画ジャーナリズムが黒澤監督の動きに注目していた。日本映画史上最大のオーディション、主役交代劇、公開日の延期、ワールド・プレミアとさまざまな話題を提供した「影武者』だが、それだけにその過程で出てきた黒澤監督のコメンもなかなか興味深い。なにしろ、ひと言で主役の勝新太郎が降ろされ、仲代達矢に代わったくらいなのだから。 * * 「今や日本映画は、新しい人材の発掘とそれを育てることから出直さなければならない。(中略)私は、この作品で、俳優の新人を発掘し、その才能を育てるとともに、既成の俳優諸君にも新人のつもりで取り組んでもらい、この映画を新鮮なものにしたいのだ」『影武者』の出演者をオーディションで選考するための募集要項で、自ら応募者に呼びかけて) * 「信長と家康が難しいと思ってたけど、意外にスンナリと決まったよ。ふたりとも、ピッタリだ」 * (オーディションを終えて) * * 「キミ、モソモソ言うと何いってんだ かわからない」 (勝頼役の萩原健一のしゃべり方に) 「キミはテレビに出すぎる」 (信廉役の山崎努に) * * 「リハーサルの期間が長くなっていい (クランク・インの予定が1ヵ月近く も延期になって) * 「だれが演出するんだ!監督はふたりはいらない!」 (信玄役勝新太郎が、自分の演技研究用にビデオカメラを撮影所に持ちこんだことに怒って。結局、この事件”で勝新太郎が主役を降りてしまったことは皆さんもご存知のとおりだ) * * * 「『用心棒』や『椿三十郎』の仲代クンに対するイメージが強く、同じような色で仲代クンがしばられている感じを受けていた。新しい試練に立ち向かわせなければいけない。これまで、なかったものを協力して出してみようじゃないか、という楽しみもある。新しい 仲代クンをつかみ出してみたい」 「夏休みを返上して、ふたりでリハーサルをやろう。ツラ(かつら)は、つけているうちにだんだん似合ってくるものだから、早くつけたほうがいい」(信玄役に新しく仲代達矢を決定。その発表の記者会見の席で。これに対し仲代は「大船に乗った気持ち。名 楽の言うとおりにやれば、成功しますよ。失敗したら、責任は黒澤監督にあります」と冗談まじりで答えていた) * * * 「新人と素人がなかなかよくやってるでしょ。信長の馬は、馬場経営者の人のもので、人には絶対にムチなんか入れさせない馬なのに、隆クンがあまり熱心なものだから、使わせてくれたんだ。隆クンも、馬と別れるのがつらいといってましたよ」 「映画っていうものは、楽しみながら作っていかないと、客も楽しまないものなんです。みんなの呼吸さえあえばできるんだ。その盛り上がりが楽しいんだね。事務的だったら、こんな仕事はできないよ」製作途中の共同記者会見で) * 「撮影続行!」(信玄の子、勝頼役の萩原健一が急性肝炎で倒れ4日ぶりに撮影復帰。北海道・浜厚真の海岸を諏訪湖に見たて、勝頼が近習とともに海岸線を馬に乗って駆けぬけるシーンを撮影中に落馬、海中にザブンと放り出されてしまったときに) * * * * * 「今年、去年と、ベテランや実力のある監督が映画を作れるいい方向に向いている。こうした状況が80年1年でプツッと切れないようにしなければなら「ない」 「あと5本は撮らないと死にきれない」(公開を目前にひかえた3月、東宝の撮影所で) * * * 「(製作期間が予定より長くなったことについて)これくらいのスケールの映画なら、こんなものですよ。製作費のこと?それはよくわからない」「100パーセント(自分の作品に)満足するのは死ぬ時だ。(100パーセント満足してしまったら)次の仕事はできませんよ。常に次の目標が出てくるものです 「私は映画を作るにあたって、外国人を意識したことは今までにもないです同じ人間なんだから、わかってく れるものだと信じているから」「すべてのシーンに思い出がある。しかし、一番苦労したのは、やはり日本に訓練された馬がたくさんはいないことですね。今の日本には騎兵隊もないですしね。あれほどに馬を訓練してくれた人には本当に感謝したい」 (4月24日、前日のワールド・プレミアに出席したフランシス・コッポラ - ハリウッドの有名監督・俳優とともに こんだん 東宝主催の記者懇談会に出席して)



無名の新人隆大介が信長に

織田信長役の隆大介は、仲代達矢が主宰する「無名塾」の新人。今までに多くの映画のオーディションに何回も落ちた経験があり、「一度でも黒澤監督に顔を見てもらえればいいな」とい気楽な気持ちで受けたとのこと。何回かの審査が行われ、「君に信長をやってもらうから」というのが黒澤監督合格の言葉。「もう顔面蒼白で自分でも信じられなかった」と言うが、信玄とその影武者が、先生である仲代達矢に決まった時、「もう、もっと恐ろしくなりました」という。 信長は馬を自由にこなし、豪快な乗り方をしなくてはいけないため、乗馬経験のない隆は、さっそく乗馬クラブ通い。10時間以上も乗ったため、尻の皮が3回もむけた、姫路城ロケでも専門の先生に付きっきりで、連日4~5時間、馬に乗り続けていた。そしてみ ごとなまでにその成果がスクリーンに 描き出されている。



家康と竹丸は親子で競演

「影武者』には親子で出演している人がいる。徳川家康役の油井昌由樹さん信玄孫・竹丸役の油井孝太クン。油井さんは東京・西麻布でアウト・ドア・スポーツの輸入販売店の経営者。新聞で「影武者』の配役公募を見て、「今年はコレしかない、コレだ!」と思って応募した。その新聞広告では黒澤監督が「油井君やってみないか?」って語っているように感じたという。息子の孝太君が竹丸に決まった経緯はこうだ。油井さんがオーディションに応募した時、孝太君を肩車した写真しかなくそれを送ったのだが、竹丸役が決まらず、「あの子はどうだ」ということで、夏ごろからスタッフにマークされていた。長い間、「うちの息子なんてダメですよ」と断り続けていたが、 11月に是非連れて きてくれということで、「さあ、黒澤さんにお会いしますよ、みんなニコニコして」という感じで、遊びが 家族で黒澤監 督に会いに行くと、さっそく決 定。その時、本当に足は震え、あがっ てしまったという。 孝太君の出番は1月から2月にかけてすでに10月で出番終わっていた油井さんは、今度は”付き人”として現場通いとなった。



池辺晋一郎の意欲的音楽

音楽担当は、当初、長年黒澤監督と組んでいた佐藤勝に決定していたが体調をくずし池辺晋一郎に代わった。1943年生まれのクラシック畑の新進作曲家の池辺氏は『復讐するは我にあり』『子育てごっこ』(74)やNHK TVドラマ「黄金の日日」「未来少年 コナン」などの作曲を手がけている。この『影武者』の音楽を担当して、次のように語っている。 「黒澤明監督との初めての仕事は、極めて充実したものになった。映画を形成するあらゆるエレメントをカバーするのが監督というものだ、ということはもちろん既に周知なのであるが、その上でなお、黒澤監督の、巨視的な想像力(イマジネーション)に支えられた稀有な演出の力に圧倒される思いだった。音楽はごく一部の例外を除いて、ワンテーマでおし通されている。ラストのタイトル音楽を頂点とすバリエィション集と言ってもよい。このテーマは私が用意したいくつかの候補から監督が選んだものであり、それは私の思惑と完全に一致したのだ った」



4つの城でロケーション

「影武者』の撮影の大半はロケーションということで、9ヶ月以上もの撮影が行われたのだが、九州・熊本城から、北海道勇払原野まで23カ所のロケ地で撮影が行われた。黒澤監督は城のロケーションだけでも1ヵ所で行いたい考えであったが、どの城もいい所があり、熊本城、姫路城、安土城、伊賀上野城の4つの城で撮影が行われた。特に、姫路城ロケでは、小天守を信長の岐阜城の一室、水門は野田城の捨曲、 すて門は家康の浜松城の本丸という ようにひとつの城をフルに使っている。最後まで候補にあったのは大阪城。この空堀を使って撮影される予定であったが、これは熊本城、伊賀上野城が使われることになった。



一番苦心した馬のシーン

『影武者』の撮影で最も困難な問題は馬を使っての撮影。黒澤監督は撮影には20頭以上の馬を一同に集めての”長の戦い”の騎馬軍団の突撃シーンを再現するため、馬を購入する方法をとった。製作発表前には、海外で専門のスタントマンを使ったりして撮影するのでは、という噂もあったが、日本で馬の多くいる地域ということで、北海道各地を1978年秋にまわって、苫小牧市から車で40分程の勇払原野の丸物産牧場を借り切って、ここで馬を購入することになった。 30ヘクタールの牛用の牧場に、7人の乗馬調教スタッフが、6月20日から入植。円馬場、角馬場を作り、馬の調教作業に取りかかった。乗馬調教指導は白井牧場のオーナー、白井良平さん。フランス軍隊式の乗馬調教で、頭の馬を撮影にそなえて3カ月間訓練を行った。調教スタッフの7人もみんな二十代の若者。もちろん、配役公募で合格した人たちで、彼らは撮影時には、騎馬軍団の各チーフとなって参加した。



監督自ら3本の予告編を

「影武者』の予告編は、全部で3本作られた。特報2本に、本 予告1本。これらはすべて、黒澤監督 の編集によるものだ。 たとえば、第1特報は撮影に5日 費やされた。19年6月のリハーサルの時に、出演者に鎧兜を着けさせ、スタジオで武田軍や信長・家康連合軍の本陣のイメージ・テストを行うなど、1600メートル、1時間分のフィルムを撮影した。 第2特報は、東宝スタジオにオーブンセットを組み、影武者を中心に武田侍大将たちを並べさせ、��高天神城の戦い”のイメージショットが撮影された。スモークが50本以上焚かれ、煙のスクリーンを作り、その裏側からアーク灯で照らされた影武者"を 大きく写し出す予定であったが、これがうまくいかず、結局、燃え上がる高天神城のイメージに切り変えられた。これらの特報、予告編は、すべてNGフィルムを使い、本編のOKフィルムはいっさい使っていない。また、音楽もクラシックを使用。グリークの 「ペールギュント」、スッペの「軽騎兵序曲」で、カラヤン指揮、ベルリンフィル・ハーモニー演奏のレコードが使われた。



迫力ある��長篠の戦い”

長篠の戦い”の突撃シーンは非常に むずかしい。馬の走る位置や速さなどもさることながら、いかに迫力ある突撃をスクリーンに見せるかということだ。突撃シーンに使われた勇払郡の新開地では、15キロ四方の戦場が作られ、カメラ位置は小高い丘になってい ここに、石灰やセメントの粉が、ばら撒かれる。騎馬が走る時に白い土煙をたて迫力を出すとともに、土の色とよく似た茶色い馬の足をはっきりと見せるためだ。 また、武者である林の部隊の突撃シーンでは、3人のエキストラがロケ地があまりにも広すぎて、どこに向かって突撃していいのかわからなくなるため、いくつかのパートに分け突撃してゆく場所を決め、その位置に旗を立てて、撮影を行った。こうして整然と信長・家康連合軍の馬防柵に突撃してゆく林の部隊の死の行進が撮影されたのだ。



この記者懇談会に出席したコッポラを初めとする映画人からも「影武者」を絶賛する言葉が寄せられた。

フランシス・コッポラ監督「北海道ロケの見学をしたときから、そのスケールの大きさ、スペクタクルに感激していた。黒澤のエネルギーをひしひしと感じさせられている。私だったら、もう1年あっても完成させられなかったと思う。これからも、これ以上の作品をどんどん作ってくれるにちがいない。この「影武者』をきっかけに日本映画は大きく世界にはばたくのではな いだろうか」

アーサー・ペン監督(『俺たちに明日 はない』)「"影"としてついていきたい人、それこそ黒澤監督だ」

テレンス・ヤング監督(『007』シリーズ)「映画史上の記念すべき作品だ。これを作れるのは黒澤だけ。映画技術もすばらしいものがある。それをまとめ上げてこれだけの映画にした黒澤はまさにモンスターだ」

アービン・カーシュナー監督(『スター・ウォーズ帝国の逆襲』)「映画というのは人生に深くかかわりあっていくもの。もし、黒澤の映画を見なければ、私の人生は今のようになっていなかっただろう」

ジェームズ・コバーン「映画は食事 と同じだ。軽いものもあればごちそうもある。黒澤の映画はいつでもすばらしいごちそうだよ」

ピーター・フォンダ「僕が、もし出演するなら、竹丸の役か黒澤自身の役をやりたいね。影武者の役!!僕は、実生活でずっとすばらしい人たちの影武者をやってきたんだ(父ヘンリー・フオンダ、姉ジェーン・フォンダという大きな存在の陰にいつも入っていたというジョーク)。黒澤の映画からはいつも何かのイメージを盗んでいるよ」



ところで、『影武者』製作中で最大のドラマ主役交代劇"の主人公・勝 新太郎は、この『影武者』をどう評価したか。 「うーん。「影武者』という題ではないような気がする。黒澤さんも苦労したと思うけれど、俺が出たら変わっていたような気がする。まず、テンポがちがうね。映画人として言うなら失敗作だと思うね」 これに対して黒澤監督は、 「勝クンにとっては失敗でしょうね。途中で降ろされたんだから。仲代クンクンを比べるわけにはいかない。勝クンはやってないんだからね。僕は仲代クンの信玄と影武者で十分に満足してますよ。批評は自由ですよ。作者は批評を黙って聞くだけだよ」


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