市原交通刑務所163日間体験記長谷川和彦 (映画監督) 交通事故で6ヵ月の実刑をくらい8月18日、仮釈放、9月8日無事刑期をおえた。獄中生活がひとりの男にとってどんな意味があったのか、日々克明につけていた彼の日誌がある。それをもとにした、これは“あの時の気分”である。

3月9日(水)


 午後1時、ボストンバッグ1個持って地検に出頭。取材のカメラの前で自分の顔が異常にひきつっているのに気付く。地検の玄関で妻と握手して別れる。「元気でな、子供頼む」としか言えなかった。5階の一室で刑の執行を宣告され部屋の隅の待合所に坐って待つ。最後だと思ってやたらと煙草を吸うがまるで旨くない。1時間後、手錠をかけられるでもなくマイクロバスに乗せられ東京拘置所へ移送される。着くなり全裸になることを命じられ身体検査である。フルチンのまま体重を測りレントゲン撮影をする。尻の穴に検便のガラス棒をグイと突っこまれると、もうはっきり自分は人間なんかじゃないんだ、どう扱われたってかまうもんかと、開きなおったプタのような気分になっていく。灰色の舎房着に着替えて南二舎1階の二十房に入れられる。独房。古い建物なのでスキマ風が吹き込み、ただただ寒い。

3月10日(木)


 「ウンケンオー!!!」意味不明の大声が舎房に響き渡る。何事かと耳を澄ましていると、ガンと扉が開き3人の刑務官が立っている。「番号!」の声におもわず「884番長谷川和彦です」と答える。「デスはいらない!」と怒鳴られ「わかりました」と答える間も無くドスンと扉は閉まる。意味不明のウンケンオーは「点検用意!」であったらしいとしばらく考えた後に思いあたる。朝6時半と夕方5時に点検は行 われ、称呼番号と名前を発声するだけで1日 は終った。生まれてはじめての無口な1日ではあった。社会から完全にうち捨てられてある自分、とイジケきって寝ようとするが眠れない。まだ夕方の6時半なのだ。

3月11日(金)


 2階の理髪室(鏡もない酷いもの)に連れて行かれ、電気バリカンで頭を丸坊主に刈られる。入所前、親しい友人たちが集まって送別会のようなものをやってくれ、皆で私の長髪を五分刈りぐらいに切ってくれたのだが、そんなことで許されようはずもなかったのだ。鏡のあった跡だけついている目の前の壁を見ながら、鏡を外してあるのは髪を刈られる囚人のショックを和らげるためかな、などと甘いことを考える。独房にもどり、流しの水溜りに頭を映して眺める。坊主頭を手でゴシゴシなでると、手と頭に性的な快感が生じるのを発見す る。私は異常者なのか?あまりに頭が寒いので、布団をすっぽり被って寝ていると監視窓(15×5cmぐらいのもの、扉の上部にある)が開い首を出すようにと怒声がとんでくる。仕方なく首を出すが耐えがたく寒い。思いついて、唯一所持を許されている私物のタオルで頬かむりをして寝ていると、再び怒声がとぶ。総お見とおしの監視窓だ。まんざら一人ぽっちでうち捨てられているわけでもないんだと、妙な安心をして無理矢理眠る。 市原刑務所の全容。田園風景のかなたに源氏山ゴルフ場のクラブハウスがのぞきこまれ、近所には民家が点在している。房内にまで子供の遊ぶ声がきこえてきて、子持ちの受刑者は思わず人恋しく、涙がこぼれ落ちるそうである。

3月12日(土)


 「配当!食器1枚!」と雑役の大声。扉の下部の丁度新書版ほどの大きさの開口部から朝食 の配当を受ける。アルマイトの弁当箱にはいった麦飯(麦4米6くらいか)と1杯の味噌汁をしっかり 残さずに平ら げる。なにしろきのうの夕方4時半に夕食を食べて以来、14時 間ぶりの食事なのだ。 弁当箱に は色々な文字が刻まれている。「日帝打倒、獄中組合に結集しよう』とか『極東組××支部〇野夫』などという文字をヤケに人恋しい気持で読んだ。

3月13日(日)


 3畳ほどの広さのこの独房にもだいぶ慣れた。腰掛け便器と流し台はフタをすれば、椅子と机に早替りする。狭い部屋だが白壁で天井が高い(3m以上ある)ので圧迫感はさほどない。鉄格子つきの窓はあるのだが、下半分には目隠しがしてあるので、見えるのは50cm四方の空ばかりだ。その小さな青空をうらめしく眺めていたら、突然太ったドラ猫が出現した。鉄格子のサンの上を渡って来たらしい。思わず「猫!おい猫!」と呼んでみたが、チラリ私の顔を見るなり、そそくさと走り去っていきやがった。

3月15日(火)


 今日も独房で一人、袋張りの軽作業に精を出す。関東各地の洋品店やベーカリイの袋である。小学生の頃、祖母が内職でやっていた割箸の張りを手伝ったりしたのを思い出す。35歳にもなってこんな所で張りをしている私を、祖母はあの世でどう思っているのだろう。それにしても妻や子供たちには私がこの刑務所に居ることは伝わっているのだろうか。 こちらからの手紙の発信は2週間たたないと許可されないと告げられた。

3月16日(水)


 3日ぶりに晴れたので屋外の運動場に出さ れる。直径15mほどの半円形のグラウンドが、高さ2mぐらいのブロックの塀で扇形に区切られて、10の檻になっている。私は独居なのでひとりでその艦のひとつに入れられる。雑居房の連中は10人近くが一緒に同じ広さの艦に入るのだから運動どころではあるまい。二坪に満たぬその空間を私はグルグルとただひたすら走る。外気は冷たかったが、それでも20分の運動時間が終る頃には、うっすら汗をかくことができた。
 艦の隅っこのコンクリートの上に数百数千切られた爪が舞っている。囚人が爪を切ることを許されるのは唯一この檻のような運動場の隅っこだけらしい。

3月17日(木)


 房内に流されるラジオ放送。DJの宇崎竜童が賑やかに喋っている。彼が私の送別会に来て「元気でな」と励ましてくれたのが、遠昔の出来事のように思える。今日は酒屋の紙袋を1枚も張りあげた。一日中流れるヒット曲は『氷雨』だ。

3月19日(土)


 妻と豪(長男)と光(長女)それに父母からの手紙が同時に届いた。貪り読む。「お父さんのいない毎日はとてもたいくつです。少しでも早く帰ってきて下さい」という豪の手紙を読んでいるあたりで、ボロボロ涙が噴き出して止まらなくなった。ヒクヒク泣きながら皆の手紙を何回も何回も読んだ。阿呆な自分を許して下さい。出所したら、世界一の父、世界一の夫、世界一の孝行息子になります。

3月30日(水)


 朝食後、突然移送を言い渡される。私を含めて5人の者が手錠をかけられロープで数珠つなぎにされてマイクロバスに乗せられる。12時過ぎ、市原刑務所に到着。高い塀に囲ま れた監獄そのものの東拘とは対照的に、田園 風景の中の市原刑務所は、2m強の金網に囲まれているだけでまるでのどかである。木蓮の花の香り が強くただよう。 新人寮の独居房 に入れられる。ここでの私の番号は536番。884 (ブタ)から536(ヨツヤ)に少しだけ目が上がっわけだ。
 市原刑務所は別名、市原自動車専門刑務所と呼ばれている。交通事犯の服役者だけを専門に収容する刑務所である。昭和4年11月1日、千葉県市原市に開設された。当初は交通事禁錮受刑者の収容だけだったが、昭和5年11月から交通違反の懲役受刑者の収容も始まり現在に至っている。 市原刑務所には常時300名強の服役者が収容されている。刑期は短いもので3ヵ月、長いものでは2年半。受刑者は収監されると新人教育寮で2週間教育を受け、準開放寮へとすすみ6週間す。そして開放寮へとすすみ、出所前1週間を出所班教育の希望寮で過したのち仮釈放となる。

4月1日(金)


 朝から霧雨。針糸、ハサミを貸与され、支給された白いセーラー服の修を命じられる。海上自衛隊のお古(S4年製)のこの服がここの受刑者の正装らしい。針仕事は小学生の頃の雑巾作以来だ。何回も指を針で刺しては痛い思いをするがなんとか仕上げて着てみる。ガラス窓に映して眺める。ラッバズボンが泣かせる。足の前の日のように、なんだか胸が弾んだのは笑止であった。
 東拘ではついに許可されなかった手紙の発信が許されたので、父母と妻子宛に書く。自分はここ市原刑務所にいて、ともかく元気で生きていると、 泣きたいような気持を懸命に抑えながら 書く。妻には仕事上の伝言などもいくつか頼む。1通の制限枚数は便箋7枚なのだが、あっという間に制限枚数がいっぱいの手紙を2通書きあげてしまう。筆無精な自分としては奇跡的なことであった。

4月2日(土)


 昨日の雨がウソのように晴れあがる。私た新人受刑者1名は白い通勤服(昨日補修したもの)に着替えてグラウンドに出る。こんな広い空間に出るのは実に25日ぶりだ。整列、行進の訓練を1時間ほどやらされる。行動訓練と呼ばれていて、昔の軍隊の教練のようなものだろうか。しっかり厳しい。「オマエたちが出所していく日まで、1日も欠かさず必要なものだから、真剣に訓練するように」と担当教官のN先生に言われる。慣れないことでかなりウロタエるが、イチ、イチ、イチニ!と一生懸命にやる。だんだん歩調が合うにつれ照れくささも消えていく。運動不足解消だ と思えば、怒鳴られても腹は立たない。1時 間の訓練が終る頃には、もっと汗をかくまでやりたいと思うほどだった。
 初年兵のような私たち1名は年齢5歳から20歳まで、私は年齢順には上から3番目のオジン初年兵である。皆、長い間の独房生活で会話に飢えているので、5分間の休憩時間にも寸暇を惜しんで喋り合う。まず話題になるのが各々の刑期だ。自分より刑期の長い者を見つけると「そりゃ大変だねえ」と言いながらも、なにやらほっとしたような表情になるのは皆に共通したリアクションだ。1人の刑期は禁錮3年から懲役6ヵ月まで様々である。業務上過失致死の罪名を持つ者が、3人いる。「なんだ人殺しが3人も居るのか、おっかねえなあ」と誰かが軽口をたたくが、皆うまくは笑えない。「どうせならあっさり死んでくれた方がいいんだよ、俺なんか植物人間になっちゃって大変なんだよな。永久に面倒みなき ゃいけねえんだから、地獄だぜ」と20歳のE 君が深い溜息をついた。

4月5日(火)


 午前6時15分ハレルヤー、花が咲いてもお黛ジュンの歌声が突然大ボリュームで房内に流れる。起床のチャイムは6時半なのだが、市原ではその前15分間、毎朝違った音楽が流される。まだ起きてはいけないが、ぽつぼつ起きる準備をしなさい、という合図らしい。東のように「起床!」と怒鳴り起こされるよりは数等ましだが、ハレルヤーには驚いた。なつかしくは思ったが、やっぱり昨日のようにみなみらんぼうの朴訥な歌声などのほうが、寝覚めは良いようだ。ちなみにチャイムのメロディはなんだか庭の隅に並んで生えた、小さな葉を拡げて青空みてる、と子供の頃よく歌った童謡である。懸命に曲名を思い出そうとするのだが思い出せない。
 独房での朝食が終ると「出寮!」の号令が かかる。私たち赤バッジの新人1名は寮の表に整列し、イチ、イチ、イチニ!と行進し第4工場に入り、紙細工の軽作業を行なう。和風な柄の紙袋貼りである。「急いでたくさん作ろうとしないでいいから丁寧な仕事をしろ。それが市原刑務所が社会から信用される道なんだ」若い先生の言葉はいつも厳しく正しい。
 皆、黙々と作業する。無心にどんどん熱中してやった方が、精神衛生にも良いようだ。もっとも独房と違って常に監視の眼があるかボンヤリさぼろうとしてもさぼりようがないという現実でもある。昼食は他の先輩受刑者と一緒に大食堂に繰り込んで食べる。セル フサービスになっていて8人が一テーブルを囲むおかずは盛り切りだが、主食の麦飯だけは大きなオヒツに入れて卓の中央に置いてある。2杯目からは譲り合って自由について食べてよいということだ。私語は一切厳禁なので、とても30人もの人間が一堂に会しているとは思えない静けさだ。 黙々と怒ったように猛烈なスピードで食べる。私たち新入の卓の麦飯は残りそうなので、20歳のE君が3杯目をついで食べる。私も続いて3杯目。「よく食べるなあ、太っちうぜ、長谷川サン」と君がヒヤかす。「食えるんだよなあ、困ったもんだ」私が苦笑して答えた時、「テメエら、ペラまわしてんじゃねえぞ、新入!」と隣のテーブルの若い白バッジが凄んだ。状況から“ペラまわす"というのが無駄口をたたく"という意味のムシ言葉だということはすぐに理解できた。規則違反の新入としては沈黙する他ない。
 食堂の表に出て整列しながらE君が小声で言う。「エラそうな奴だなあ、テメエも囚人のクセしやがって、看守みてえなこと言いやがる」 「バッジの色が白いのは何なんだ?」 「開放寮に行くと白らしいすよ。準開放寮は最初の3週間は黄色でそれから緑になるらしい。双六じゃねえってんだ」
 要するに古参兵が初年兵にちょっとカマしたってわけだ。何でもいい、赤、黄、緑、白とどんどん進んで、1日も早くアガリ"といきたいもんだ。

4月7日(金)


 11時頃、紙細工の作業中「長谷川、面会だ」と突然告げられる。予想してなかったのでちよっと面喰らった。「報告します。第4工場300番長谷川和彦、面会に行ってまいります」と、 教わったばかりの報告要領で報告したが、間違えたり唸ったりで上手く言えなかった。胸に「接見」のバッジをつけ、はじめて所内を独歩する。指導課(保安課)に出頭し、同様の報告を行ない、立会いの看守に連れられ面会所に入る。別室から妻が入って来る。
 「念のために確認しますが、この人は誰ですか?」と聞かれる。「妻です」と答える。なんだか死体でも確認してるみたいで妙な気分であった。面会は原則的には六親等までの親族しか許されないのだが、たまに親族と偽って面会に来る者があるのでその防止のためらしい。妻は少しやつれて見えた。6時半に桜上水を出たのに乗りすごして木更津まで行った 五井で支線への乗り継ぎを待ったりして、5時間近くかかってやっとたどりついたらしい。
 「たった15分間の面会のために大変だったなあ、それは」などとやさしい言葉でもかけてやればいいのに、口をついて出るのは、
 「馬鹿だなあ、時刻表ぐらい調べて来いよ」
 と、冷たい台詞だ。「うん、今度はそうする............」テキパキ喋らないのでだんだん苛立つてくる。「時間ないんだからな15分しか。どんどん喋れよ」「うん...太ったね、ゴジ」微笑など浮かべてトロいことを言うのでついに逆上してしまう。ああ、太ったさ、3キロも太ったよ、食い意地が張ってるから不味いシャリ3杯も食って、運動もロクにできないから、ブクブク太るばかりなんだ。白豚みたいにブクブク太って、こんな所で俺は袋貼りやってるんだよ、この野郎!と、ほとんど駄目ガキのヒステリーのような想いが脳裏を駆けめぐる。さすがに抑えて、「そんなことはどうでも良いから、早く用件言えよ。子供のこととか、ディレクターズ・カンパニーのこ ととか、いくらでもあるだろうが、大事なことが」とやはりこれもヒステリーだ。「ともかく会いたかったから」とわざわざ仕事を休んで早起きして来てくれたというのに結局まともな会話はかわさずじまいで、妻は帰っていった。目の前に坐っている妻が、妻というより自由な外の社会の代表、あるいはメッセンジャーに見えて、その自由な社会に対してまるで無力である自分がくやしく腹立たしくて、あんなにトゲトゲと怒ったような口調になるのだろうかなどとセコイ言い訳をするな、甘ったれの最低野郎!

4月11日(月)


 先週で第4工場の軽作業は終り、今日から本格的な新入教育が始まった。50分単位のカリキュラムがびっしり組まれ、屋外での集団行動訓練も数倍ハードなものになった。担当 先生は、いかにもという感じの屈強な四 男で、叱咤の声も太くでかい。辛辣な質問もズバズバ浴びせかけてくる。 しんもつ 「長谷川、オマエさんは何やってこの刑務所に入って来たんだ?」「えー、酒酔い運転でそお、事故を起こしまして・・・・・・」「相手はどうした、死んだのか?」「いえ、全治20日ほどの軽いムチ打ち症だったんですが」「ほーお、それじゃ、自分はよっぽど運が悪くてここへ入れられてると思ってるだろう?」「はい、まあ、それは」「子供はいるのかい」「ええ息子と娘が」「もしも自分の息子が酔っ払い運転の馬鹿野郎に轢き殺されたら、オマエさんどう思う?」「.........」「慰謝料の5000万か1億も貰って、その馬鹿野郎が刑務所に入れられたら、それで気が済むかね?」「いえ......」「金なんかいらねえから子供の命を返せと思うだろう?さもなきゃ、その馬鹿野郎を叩き殺しても気は済まねえと思うだろう?」「......はじゅんぼう い」「そのオマエさんが叩き殺してもあきたらないと思う馬鹿野郎が、オマエさん自身なんだよ」「――」「仮に事故は起こしてなくても、人は怪我してなくても、ここにいるオマエさんたちは、みんな人殺しの有資格者なんだよ、一歩間違ったらそうなってもおかしくない連中ばかりなんだ、わかるかい?」 先生の言葉にはずいぶん乱暴な論理の飛躍もあるように思えるが、少なくとも私には、 「道法精神の欠如」などという取り澄ました裁判所の判決よりも数等理解納得しやすいものだった。裁判所が国家の法を説いているのに対して、先生は人の法を語っているからかも知れない。

4月14日(木)


 まるで初夏を思わせる陽気だ。集団行動訓練は一段と熾烈をきわめてきた。皆汁みどろで頑張っているが、ちょっとでもモタモタしていると先生の罵声が容赦なく飛んでくる。「長谷川!そんな腕立て伏せがあるか、腕を曲げろ腕を!そんなんなら100回でも20回でもやれるぞ、尻を上げるな!」
 私も体力にはそこそこ自信がある方なのだが、この先生にはとてもかなわない。腕立て伏せだろうが、スクワットジャンプだろうが私たちがネをあげるまで一緒に付き合っても、ケロッとして「さあ立て、次は足行進!」走り出すのだから始末が悪い。 「冗談じゃねえよこれじゃ国民学校の時の教練の方がよっぽどマシだい。死んじゃうよ「俺は」と最年長のS初年兵が泣く。白豚恐怖解消のチャンスとばかり、私はゼイゼイ息を切らせて走る。
 満期まであと4ヵ月と28日。
 ともあれ、ファイト!である。


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