栗本慎一郎 小室直樹 長谷川和彦戻る
小室 長谷川さんは現在連合赤軍の映画を作ろうとしてるとお伺いしたんですが?
栗本 それを映画にとろうとした場合に色々な妨害というか、いろんなトラブルがまだ生きてるわけですか?
長谷川 いや、それこそ『Mishima』という映画を外国人の監督が、日本人の俳優で作って上映しようとする事よりは、強い妨害はないですがね。『Mishima』を例えば上映されることを非難、批判する人、基本的に右翼というふうに規定される人の方が、美意識で物をいうんです。左翼というふうに規定される人は、あまり美意識というものが唯物史観の中にはいってこないから、美意識でもって否定はしないね。ともあれ僕なんかの世代ではあれは唯一の「戦争」なんです。自ら銃まで持ったというのは僕の世代の中ではあれしかないわけであって、そのまま実録連合赤軍という形でやる気はないんだけれども、あれをモチーフにしたものをなんとか映画にしてみたいと思いまして。映画の制作費的な問題はどんな映画にもあることなんだし、ただそれをしのぐ価値観があれば十数億円かけて「南極物語」でっちあげてしまうわけですよ。必ずしも正確に見通せないから当たった外れたりする。「南極物語」は結果四十億以上の収益だったのかな。しかこんなかなり陳腐なヒューマニズムが受けいれられて、連合赤軍にたかだか十億たらずの金を出す人間がいない。めいっぱいきりつめて作って五億、普通にやって十億ぐらいなんですよ。あの映画は僕の中で戦争映画という範ちゅうにむしろいれたいとおもっているから。どうやっても佳作の小さな映画館だけで良心作というふうにはならない。そうするとやはり物量もいるだろう、ゲリラ戦ではあっても戦争映画だと。戦争というのはドラマの大事な要素がだいたい全部あるから、僕のようにあんまり作劇術のない人間でも、そこでしつこくいじくってるときっと本物が見つかるだろう。浅間山荘事件だけだったら描くに足りないけれども、同志殺しをきっちりやってることが、ドラマとしては成立に近いし、作る人間にはヒントになる。同志殺しだけでも僕はちょっとつらかったでしょうけどね。そういう意味では非常にドラマティックな事件に、これはドラマティックだから凄いドラマになるんだからと、なぜ金を出そうという人間がいないのかということを、むしろお教えいただきたい。それはたいてい共同体が持っている嫌悪感だと思うんです、言ってしまえば、日本という国の国民性が持 っている、やっぱり「タロー、ジロー、生きててよかった」といって泣けそうなものにはできない。
帝国陸軍の内務班と選民意識
小室 同志殺しの論理の中に、日本帝国陸軍の内務班の論理がみんなでてくる。
長谷川 そう思いました。
小室 お気付きであればこれ以上、いう必要ないんだけれど。つまり軍隊の内務班の中は、天皇の命令も独裁者の命令も絶対にはいれない完全な共同体で、そこのボスの命令が最高なんです。
長谷川 真空地帯」などもそのために見たり読んだりしましたけども。連合赤軍がおもしろいのは、明治以降の近代日本が作った軍であったり国家はある長さがありますね。 一年二年で内務班がころっとできたわけじゃない。それが非常に短期間に、昨日までは自分のリーダーであった人間、おそらく肉体的なものも含めて党の中央であった人間が、 昨日までビラまいてた人間の下にたったりするわけです。最終的に山田って中央委員は銃持たされて死んでるんだが、非常に短期間に小さな国家ごっこをやってんだ。 行くぎりぎり、というよりも、一橋だったら合格する人がやむなく横浜国大に行ったわけです。
長谷川 選民意識はあるんですよ。
小室 でも、ものすごい選民意識があると共に選民の民からは疎外された。
長谷川 そうみたいだ。
小室 そこが急所だと思うんです。
長谷川 連合赤軍のメンバーの中に進藤隆三郎っていうんですが僕が一緒にマージャン打ってた人間がいるんです。これは日仏学院のボンクラ、まあ、当時でいうところのフーテン。新宿で、僕らとマージャン打ったり酒飲んだりする限りにおいては、絵のようなフーテンでした。こっちもそんなことはしゃべらないから、天下国家なんかを奴と論じたことなんかないんだけど、いつの間にかいなくなったら、ああやって殺されてるのが見つかったわけです。僕もフーテンに近いような生活してたから、これなんか解る。彼は自称アナーキストといっていたようだけれども、フーテンは自己規定する時には難しくいえばアナーキストになるらしい。
小室 本当のアナーキストは、自己規定なんかしないんです。
長谷川 だから、それは、フーテンが自称しなきゃいけない時にする。
小室 フーテンが自称しなけりゃならないというのは面白い、非常に面白 い。あなたが芸術家だからよけい面白い。
長谷川 フーテンも自称しないとしっかり生きていけない時代だったんです。彼は、僕なんかよりもしっかり生きようと思ったんだな、きっと。
小室 しっかりした生き方ができないからこそフーテンなの。そのフーテンがしっかり生きなきゃという発想が面白い。
長谷川 野暮なフーテンだったんだね奴は。フーテンのくせにしっかりしなきゃとおもってたんだ。ないしはもっと俺が好意的に見れば、マージャやってるより山岳アジトにこもって銃を撃つ方が面白いと思った。美学じゃなく、面白いとおもった方に近いと思うけど。
小室 面白いと思うことが大事だ。
否定したことに裏切られる者たち
長谷川 僕なんかも間違ってあそこに参加していれば、そのフーテンに近い気分で行ってたんだろうけれども、おそらくは殺される方にいただろうっていう、それはなんだろう。
栗本 あるいは銃をうっていたかもしれない、時と場合によっては。
長谷川 首吊って死んだ森恒夫というのも解るわけです。警察報道が正し ければ、一応、唯一首吊って死んだことになってるわけだから。
小室 今の警察っていうのはずいぶんとウソはつくけど、その種の誤報はやりません。そこは高級官僚だから条件反射的に。日本の警察っていうのは変なとこに大ウソつくくせに、本当の煙に関しては正直に発表してる。だから、多少シビアにいうんだけれど「頭かくして尻隠さず」。その手の情報ってのは信用できると思います。
長谷川 自分がリーダーとしてまっとうであり得なかったとして自死してしまう、森も解る。それで、進藤というフーテンで最終的にお前はだらしないということで殺された奴もまあ、自分でもありうると。
小室 革命のプロセスにおいて、フランス革命からロシア革命・中国革命も、だらしないという理由で人を粛清させるという発想は全然ない。
長谷川外国にはなかったけど、日本にはあったということですか。
小室 革命運動においては「だらしないから粛清する」という発想は全然ないです。「だらしないから殺す」って発想は体制派的発想。一番極端なのは、前世紀における英国海軍。日本もだいぶまねしたけれど、ヘマな水兵ってのは船長が殺せるんですから。間がぬけた、だらしがない。それは明らかに体制派的発想です。そうではないですか。体制派っていうのはある目的を達成するために組織化するわけですから。革命ってのはそれをぶち 壊すんだろ。革命に対する裏切りは絶対に許さずに粛清するけど、だらしなくてどうしようもなくなった奴ってのは無視して進む。
長谷川 クライムは相対的なものだから。国家というもののクライムに対して、革命家としてのクライムという意識はあったと思う。たいていディビアントビヘイバーの方がです。実は彼らの価値観は、国家が持ってる価値観とあまり変わらなかったということなのかな。僕らは無意識にそのことが嫌だった。学生運動もノンポリ風に石を投げてる間は楽しいけど、奴らの体制の中にはいると、「これは結構面倒くさいぞマージャン打ってる方がいいや」と。ただ、あれぐらい興味が失せない事件が、僕の中にあまりないんです。農大のワンゲル事件もレースという明瞭な勝ち負けがあれば、レースで勝ち負けになれたんです。そうじゃなくてシゴキというふうになったのは、明解な勝ち負けがないからなんだ。四十キロの荷物背負っ「お前ら一日五十キロ歩けるか」みたいな勝手な内規を作るわけだ。
小室 これも内務班的センスだ。
長谷川 そのことと、首都へ首相官邸へ打ってでるんだといいながら、山岳アジトへこもってて、出てもまだ勝てないと思いながら、とりあえず自らをきたえねばとやった、連合赤軍の結果も非常に共通してると思うんだ。ただ、それでも僕が赤軍の方に、より興味を持ってしまうのは、自分もそ こへはいりかねないというか、はいってたらどうなってただろうという想いがあるから。連合赤軍という映画を模索しながら「国家を目指す者は必ず目指した自分に裏切られるというふうに、自ら裏切ってしまう」と、漠然と思ってる。国家というものを目指す事以外に自分というものがより自由になれるやり方、しかも個でなくてそれが複数になった時どういうふうに成立するのか。個だけでいえばさっきの栗本さんの話じゃないけれど、しゃべってる間はいいけど二十日間ここで共同生活するなら、俺はルール作るぜというふうに栗本さんが思われるとすれば、俺はそのルールは死ぬまでない方がいいなと思ったりする。で、結果それでも作ると思うんだ。二人で練って、あいつはイビキがうるさいからあいつだけ別な部屋に行かせようとか、飯食う時だけこっち呼んでやろうとか。それもルールの始まりだと思うわけです。だから、「僕は国家とは関係ありません」とは僕みたいな人間にもいえないだろうと思ってるわけ、残念ながら一人で生きてないわけだから。
小室 国家を目指した人は国家に裏切られると同時に、国家を否定した人は否定したことに裏切られて国家の方に行っちゃう。
抗戦団体としての論理
栗本 ずっと聞いていましたが非常に面白いです。否定したことに裏切られる。
小室 逆に国家の方に行っちゃうでしょ。それは別に転向したんでもなくて、自分が良心的になればなるほど逆な方に行っちゃう。このテーマを描き出してくれたら、長谷川さんも最高の芸術家なんだ。
栗本 いや、重要なこといってますよ。国家を否定すると否定によって裏切られる。かっこいい。
長谷川 それは例えば、固有名詞でいうとどんな人がそうだったといえるんでしょうね。
小室 あんまりいいたくないけど、汚らわしい方からいいましょうか。香山健一
栗本 香山健一、一九五六年の全学連の委員長。
小室 あれほど汚らわしければ芸術にならない、単なる枕言葉っていうの も汚らわしい。複数のサンプルでもうちょっというと唐牛健太郎。
長谷川 唐牛の方が評価は上ですか、美的には。 彼ら自身は小さな国家ごっこだとは思っていない、それが世界の全てだから。自らを国家に擬する事の恍惚と苦悩、楽しさと苦しさ、素朴な言葉でいえば楽しくもあるから、やったと。だけど最終的には永田洋子に代表されるように、ちっぽけな個人にもどって適当に反省なんかしちゃってる。永田洋子はあの中でややダメな部分だと思うんだけれど。
小室 の内務班ていうのは、そこにはいってしまえばどんなに偉い人でも内務班の班長に絶対服従、その班長なんてったって伍長か軍曹。社会的にいえばぐっと下でしょ。大臣の息子であろうが将軍の息子であろうが、博士の息子であろうが教授であろうが、大金持ちであろうが、全部、貧農の息子と同じ境遇なんだ。内務班の中では社会観がひっくり返るわけです。内務班における社会観や規範が絶対なんだ。そこにはいる前のどんな偉い人でも全然関係ない。それは魅力でもあり暴力でもある。暴力であるっていう方から見たのが「真空地帯」でしょ。逆にものすごいエネルギーを作るわけです。日本の軍隊っていうのはベラぼうに強かったというのもそこに由来するわけです。連合赤軍なんてあれだけのエネルギーだして、わず女連れの十数人で東京占領なんて、そんなこと国家作りのエネルギーがなけりゃできない。
長谷川 同世代的に興味を持つのは、なぜその幻想が行為をできるほど高 まったか。僕は石投げて、まあ、火炎ビンぐらいもちょこっと投げてましたが、大して国家的な大義があることを自分がしているとは、体質的に思えなかった人間なわけです。
小室 思った人間もいた。
長谷川 彼らは、思えたんです。100%思えたかどうかは別にしても、どっかで思えてた。
小室 その通り。芸術的にも社会科学的にも面白い事です。もうひとつのポイントは、それほどの大変な責任と自覚を持つ人の経歴を調べてみると普通の人でしょ。特権的でもないかわりに、特に差別された人でもない。
長谷川 皆んな一番おいしいところにはいないな。一番おいしいかどうかは別にして、例えば連合赤軍の中には東大生はいないですね。横浜国大という、ま、横浜国大をもうすこし簡単な大学に行った人から見れば、ずいぶんエリートじゃないかと思うかもしれないけれども。日本のエリート体制の大蔵省は大半が東大出だというふうなことから見るとね。安田講堂だって東大生は大していなかった。
小室 上なんてもんじゃなくて、比較するだけ俺はブジョクだと思う。よとするけど、よしとしたって意味は非常に複雑。彼は最高に良心的で評価するんだけど、彼の良心が彼自身を裏切った。
長谷川 なるほど、もう例えはないですか。勉強としてもうひとつ出ればすこし解るんだけど。僕の場合はだめな学生でしたのでこの場で勉強しながらでありますから。
小室 だめなとか、そういうこと自体が体制的。(笑)文Iだからエライ、文だからダメだっていうのはすでに体制的です。
長谷川 ええ、僕文皿でした。(笑)現実認識みたいなものが、浅間山荘やってるあいだはなんとなくヒーロー視するにおいもあった。それが同志殺しという社会のタブーにふれるようなものがでてくると、一勢に全部撤退するというかツブシにかかる。それに対して例えば朝日という新聞はAといい、読売という新聞はBという、マスコミの自由な発想みたいなことがこれぐらいない国も珍しいんじゃないかな。三大紙は大体同じこという。
栗本 もっともです。その辺が小室さんの一番頭にきてることじゃないですか。
小室 連合赤軍はすでに政府を相手にして行動を起こしてるんだと、あれは交戦団体であると解釈するんです。交戦団体であればこそ、日本の国法 に服さずに反乱を起こし仲間を銃殺しても、それはよろしいと。それにもちろん交戦団体だから警官と銃撃戦やったってこれは犯罪にならない。彼らは名誉ある捕虜であるという論理が成り立たないでもない。このような論理に賛成するかどうかは別として、私がかりに弁護士だったらそういうふうにいいます。
栗本 小室さんのおっしゃるほど彼ら自身は徹底的に考えてなかった。だけど、三年ぐらい前に出た本、『十六の墓標』という本、認めてもらおう認めてもらおうっていう、私はこういうことだったんだから。
長谷川 あれはかなり悲しい本だった。
栗本 非常にみにくかったと思う。「我々の目標はもう日本政府打倒だし、徹底的にこっち側に行っちゃったんだからやるんだ」みたいなすっきりしたことがなくて、「いやこういうことだったんだ、認めてくれ解ってくれ」という。これに対して私は、あれは要するにブスだったからなんだっていうのが正しいと思う奴でして、小室さんのようにすっきりしてるんじゃない。(笑)
小室 連合赤軍の場合、「俺達が正統な日本政府だ。今の日本政府は正統性が無い」と、その論理で押し進めればこれも一つの考えである。
栗本 そういうふうにしてくれればカッコよかった。なんかまだ、市民主 義に対してもゴマをすろうと。
長谷川 市民社会の価値観にゴマをすり始めたのは、永田洋子行動過程の中で最終的に獄中で自分達がやったことの再検証をやりはじめてからでしょう。やってって彼女個人の中ではああいう論理になってくるわけだけど、後で合わせたという感じもあるな。だから連中の同志殺しがどうかということはまた一つ別の問題で、あの当時の方がむしろ確信犯だったと思う。やってる時の方が確信犯に近かった。
小室 確かに重要な問題ですが、しかしもう一歩つきつめて、確信犯というのは日本政府から彼らを見た場合でしょう。
長谷川 しかし彼ら自身の中にも市民社会をはっきり拒絶する確たる意志のようなものが存在したはずです。ともかく事実としての連合赤軍を調べれば調べるほど映画としての「連合赤軍」は見えづらくなる。
栗本 そこんとこ語って下さい。
長谷川 永田、植垣、坂口の公判法廷を僕も一年半位見てたんですが、あすこで三人を見てて永田洋子が好きになれないというのが非常にネックだったんです。いまだに、好きになれないですよ。これは単純に人間として、栗本さんが切って捨てるようにもいいづらいんだ。ブスはブスだけれども、何か少しぐらいは愛すべきとこがあるはずだと思いたいわけ。かなりその つもりで法廷ものぞいたんだけれども、古武士のように坐ってる坂口弘の方が圧倒的に美しいわけ。永田、植垣よりも、見てて人間として好きになれるわけ。何なんだろうこれはと思うわけです。同志殺しの現場に坂口はずうっといたのに、僕なんかが美を持ってると感じる奴が、何であの馬鹿な事を阻止できなかったかと。で、飛んじゃっていない坂東国男が書いた雪中行軍の文章があるんです。これは、政治的なアピールなんか一行もないんだ。雪の中を行軍したこと、尾根越えをしながらヘリコプターの音を聞きながら逃げたことが書いてあるんだけれど、これはやっぱり文章とし非常に美しい。うまいとは思わないけれども美しいわけです。この二人は僕の中ではヨシなわけ。その彼らが一番先頭に立って同士を殺してるんだ。僕はマルクスもきっちり読めたこともない劣等生でありますが、共産主義、要するに唯物史観というものに、漠たる疑念を持ってるお兄ちゃんなんです。たいてい唯物史観の中には、美とか醜という概念はない。どうも最終的に彼らが目指してた共産主義革命というものが、最大の彼らのゴビュウであったんではないかと。しかも、僕が坂口を見てヨシと思ったり坂東の雪中行軍をみて何か打たれる物を感じるというのは、唯物史観にうたれてるんじゃないんだこんなものは。唯物史観に対して直ぐに唯心という気はないけども、その視点をドラマ的にしっかりぶち込めば、これは表 現するに足る、意味のある人間のドラマにはなる。僕のポジションはあく までフィクションでいいわけですから別に実録をやろうとは思ってない。 フィクションの方が僕には真実なわけ。
小室 長谷川さんは最高の芸術家です。
長谷川 ハハッ、劣等生がほめられてる。
小室 劣等生劣等生ってよくいうってのは、長谷川さんはもう体制派なん
長谷川 いや、ま、テレてるだけで。(笑)
長谷川 僕は一度法律に触れて裁判所に行ってきたわけです。その事件は酔っぱらい運転ですから、ほとんど思想もなくてたいした被害者もいなかったわけですが、実刑くらって六カ月千葉の刑務所にいってきたのです。その裁判官と友達の弁護士が僕の友達でありまして、一年後ぐらいかな、「わしゃ最初あいつが法廷にはいってきた時有罪と決めた、実刑に決めた」と洩らした。有罪は有罪でいいわけですが、執行猶予をつけるかどうかで、こっちのうける実感は有罪か無罪かほど違うわけ。「あのサングラスでわしもう実刑に決めた」、決めるとこれは成立する。それに対してノーと言えシステムはどこにもないんだ。彼が「この野郎食えねえ野郎だ、ちょっ とおきゅうすえてやれ」といって決めれるわけだ。これは今小室さんがいわれた、まさに西部の裁判官とかシェリフっていうのは何であったかというのに関係した話をしているのですが。
小室 裏で、そういったことを勝手にやることの悪い側面。
長谷川 勝手というか、僕の裁判だけ悪かったなんて思ってないわけ。全ての裁判なんて全部そうだと思っている。主観による判定なんだ、やっぱり人間がやってるんだから。そうでないとしたらコンピューターがやればいい。判例と全データぶっ込めば、五分くらいで日本の大半の裁判なんか終わってしまう。事実を認定するかどうかということとは、もうひとつ別な問題がある。
小室 それは警察がやる。裁判官は何もできない。
長谷川 裁判官が量刑決めるわけですね。その量刑が被告にとっては最大のことなわけ。別にもう恥かいているわけだから有罪結構、執行猶予結構、しかし実刑と執行猶予は全然違うものなんだ。
小室 天地以上の差がある。六カ月の実刑だったの。
栗本 ずいぶんだ。
長谷川 いくらオマワリや裁判官にペコペコ頭下げなかったからって、た酔っぱらい運転で六カ月刑務所に行くとは思わないでしょ。囚人を六カ月やった実体験から言いますと、正しき法なんてあるわけないし正しき法の守り人というのもいるわけない。ある一面で高尚な裁判があるといわれれば、あるかもしれない。あるいは機能的な側面だけを見れば国という共同体がソツなく転がっていくためには都合のいいものかもしれない。ししき個人にとって土台そんなものはナンセンスとしかいいようがない。いい悪いではなく、ナンセンスにしかすぎないと思う。結果、私のような怠け者の個人は、立派な犯罪者をめざすわけではなく、極力そんなものに接触しないでいようという、触れないことで世間から疎んじられても、それはもうかまわないというような実感を持ち出すんだ。