長谷川和彦
唐十郎





  

長谷川 映画ってのはどうですか。今年の玄界灘が初めてではないだろうし。

唐 ぼくは最初に「銭湯夫人」っていう三分間の映画を11PMからたのまれて作ったのが最初なんですよ。これは、午後三時の風呂屋に行くと、必ず入ってくる八歳ぐらいの少女がいて、その八歳の少女が湯ぶねにたゆとうていると湯ぶねの中から昔の日本軍の兵隊が軍服姿でぞろぞろ出て来て彼女とデートするっていう話なんです。ぼくは、聖なる顔の中に逆に淫乱があるっていう図式を八歳の非常に無垢な身体を持った女の子ってためしてみたいと思ってやったんだけど。

長谷川 僕はどうもまだよく女というのが 分らんのですよ。男の側のドラマとしてつい映画も見ちゃいます。「任侠外伝・玄海灘」なんかも、根津甚八君が演られたと安藤昇さんが演られた役みたいなものに、男の側のドラマにこう入りこんでいこうとして見る方なんですよ。

唐 ああ、なるほど。

長谷川 あまり、批評的に見れなくて、できれば感情移入してヨガってみたい方なんです。

唐 ぼくも、どっちかっていうと女の情念というのは古典主義劇みたいなかたちではなかなか偏執的になれないですよ。やっぱり 老人なり少年の眼から見る女の園にしか見えないわけでして・・・・・・。長谷川さんの今度の映画「青春の殺人者」は小説のタイトルは「蛇 淫」というのでしょう。

長谷川 ええ、そうです。

唐 京都の監督で、深尾道典というのがよく 蛇のことを書くんですよね。

長谷川 そうですね。

唐 「蛇海」とか。大島渚の「絞首刑」の中でも。あれは深尾さんがシナリオの一稿を書かれたんですが、あれを読んでいきますと李珍宇 って人が、小石川高校の屋上で人を起こす前にトイレに入って便意をもよおし、手をまわすと手の平に回虫がのってて、その回虫を食べてしまうシーンがありましたね。

長谷川 ええ、ありました。

唐 蛇の前に回虫が出てくるんですよ。

長谷川 はあ、はあ。

唐 回虫の前にまた何かがあるんですよ。それがね、彼がトイレに入る前に、ある下町人が住んでる部落の自分の家でもって母親のつまり、一番下の娘がヒモをですね、こう口にくわえてドンドンドンドン飲んでいっちゃう描写があるんですよね。ヒモがあって回虫があって、蛇が出て来るんですよね。ある長い、長いものにまかれろって言うんじゃ ないですよ。帯状のものに対する人間の本然的な恐怖みたいな所から始まっているのが蛇にバリエンティションを持っていくのかなアと考えた事があるんですが。蛇をこわがるのは、人間は太古の時代に人間族と、類人猿族と蛇族が大戦争をしたことがあって、蛇族を全部虐殺してしまった大過去の記憶が今でも残っているから蛇を恐怖するのだなアという話しを聞いた事もあります。

長谷川 ぼくの映画は蛇の様な女といいますか、淫乱な女と言うのがひとつのモチーフになってたんですが、なかなか淫乱になりませんでね。女の部分が希薄になっちゃいまして・・・・・・演じた女の子が原田美枝子といいまして、オレンジ50なんちゅうんでお母さんとか言ってたり、「大地の子守唄」でがんばったりしてる娘なんだけど、十七歳なんですよ。で、まあ、やっぱり淫乱とかなんとか・・・・・・・・・演出の責任でもあるんだけど、仲々でなくって、実はぼく自身もよくわからんのですよね。だから、どうも男の子の話になっちゃったんですけどね・・・・・・。

唐 ヨーロッパの場合は少女の後に女の季節があって、そのあとに婆アさんがいてと、常に三段論法がありますよね。たとえば、オンディーヌって芝居でもそういう所がありますが、人形がすぐに干し柿みたいに変 っていくといった。しかし、日本では仲々そ うはならなくて、どんなに年をとっても永年の少女面してますねェ。

長谷川 ハア。食いモンの違いですかねエ。なんか、こう獰猛にはなっていかないですよね。

唐 やっぱり、肉でしょうね。肉っていうか、ある脂身っていうか。だから、いつも日本人がちょっとかなわないなと思う所はいつもそのへんの脂身なんですよ。時間にも、空間にもそういうものは必ず出て来るんですよ。じゃあ、日本人はと考えてみると、やはり四谷怪談のお岩とか、沼に沈む畳を背負ってあらわれるような冥府のヒロインになってしまいますね。そうですか、やっぱり、仲々淫乱な風貌っていうのは、十七歳の少女では無理でしたか。

長谷川 ウーム、難かしいですね。性的なことがどの程度わかっているのかね、わからないんですよこの娘は。だいたい普通女の子は一緒に撮影しながらつきあってると、これはだいたいこのぐらいまで色々と知っているだろうと、見当がつくんですが、非常に見当のつきにくい娘でね、ひょっとすると処女かもしらんという気がいつまでもしたりね、それから、実はもう可成り知っとるんではないかという感じもしたり、それにぼくもちょっ と照れでもあるからね、もう聞けないんですよ。どの程度だ、お前って言うぐらいしかないんですよ。美枝子のやつはケケケって謎のように笑うばかりでね。

唐 淫乱の色合いがちょっと十年前と変ってきたんじゃないですか。つまり、コマーシャルっていうのは透明でしょ、なんか色が。たとえば、テレビには後姿がないっていう人がいますけど、紙芝居には昔後姿があった。じゃあ、後姿って一体何なのかって言うと、結局、イメージのあやつり方なんですよね。紙芝居屋のオヤジがいて、そいつが自転車に乗っかって絵を持って去って行く後姿をいつも少年が見ていたという事とどこかダブる所があるんですよ。だから、イメージに後姿がほぼないって、よくテレビである男が言ったのは、うまい事言ったなと思って。だから、そはういう言い方すれば、淫乱も多分に透明になって来るんじゃないですか。

長谷川 そうですね。影のない娘なんです 見よね、原田美枝子なんかも。

唐 影のない娘ね。ウン、ウン。

長谷川 ただ非常に挑戦的な良い顔、良い か眼をした娘なんですよ。そいつがちょっと笑か そうとほとんどガキの様な顔になるという事だけにひかれて、それと、ちっこい娘なんですけど、脱ぐと非常に大きく見える娘でね、単 純にオッパイがデカイからって事もあるんだけど、そういう事と淫乱という事は全然違うみたいですね。当り前の事だけど。

唐 多分に、一見清純な顔をしてるけども、パッとカメラを向けたらフィルムに定着されたものは、非常に淫乱な何かニュアンスが浮かぶってこともあるんでしょうけど。

長谷川 ウン、山口百恵なんているでしょう。あれ割と淫乱な感じだと思うんですよ。

唐 そうでしょうね。

長谷川 淫乱って言うか、卑猥な良い感じがあるじゃないですか。それが、きっと受けて ると思うんですよ。ぼくも嫌いじゃないなあ。

唐 吉原かなんかがあると、たたき売りたいって感じがありますよね。だから、赤線とか吉原がなくなったっていう事もあるんじゃないかな。

長谷川 そこになると、ぼくはホラずっと若いから。

唐 ぼくもわかんないけど。 永井荷風の「東綺譚」なんか読みますと、あの女を思い出しますね。一度、山本富士子がやった事ありましたね。

長谷川 ありました。

唐 あの、可憐な少女が最後、奥歯に梅毒がはいってきて、奥歯が痛い痛いって言って死んでいっちゃうんです。それなんかも、非常にどんなに山本富士子がうららかにやってもね、奥歯がくさって死んでいく女っていうのはね、なんか、こうゾクッとさせるばかりの淫乱の中に持ってるって感じに見えましたね。 長谷川さんの「青春の殺人者」の蛇だという女性はどういうふうなんですか。

長谷川 うん、中上健次の小説ではね、片耳が聞こえないんですよ、その女が。それが、非常にセクシーなんですよ。でも、お芝では仲々出ないですね。文字で書くといいんだけど。実際に聞こえない仕草をしてみて も、なんかわざとらしくてね、実際原田君も一ヶ月ぐらい耳に栓をつめましてね、聞こえない事を体得しようとするんですが、所詮は無理でね。小説では一つの女の弱さというのかな欠陥人間を言わば男のチンポコで補填していくみたいな事が割と上手に書いてあるけども、それが、映画では女優がなかなか欠陥人間にならないんですよね。簡単に言えば、もっとブスな女優さんを使えば割と簡単に出たのかなとも思ったりするんだけど。それも当り前でなんだか、つまらんような気がしたし、すごくブスに見えたり、すごくキレイに見えたりする風に瞬間瞬間変っていく女優さんっていうのは、仲々いないですね。唐さんは、女優さんはずっと李さんなわけだけど、それは、やっぱり、いいのですか。

唐 いろいろと女優志望の人が入ってくるんですけど、結局、アキレス腱の強さといいますか、そういうところは李の方がテンポが速すぎて、結局触発されないっていいますか。だから、僕より李の方が気が強いところがあって、常識人ですよ。ぼくは非常識なっていうより無常識なんですね。

長谷川 でも日常と芝居というか、女優さんである時とは全然違うんでしょ。一度しかお会いしたことはないですが、日常的にはいい意味でノーマルな人ですね。

唐 ええ。冒険しなさすぎると思う位、緩慢ですよ。よく酔っぱらって喧嘩するのは僕の方でして、止めるのは彼女。長谷川さんもなんか相当あるらしいですね。若松孝二さんなんかの話を聞くと。

長谷川 若松さんとはやった事ないです

唐 いやいや、酒くらって暴れたら。

長谷川 最近喧嘩の勝率が落ちてきたので、あまり飲み屋で飲まなくなって、麻雀ばっかりやっているんですよ。芸がないという横着なんですよ。麻雀はしてるとだいたい時間が過ぎてくれるし、それから、一時ちょっと変になったんですよ。寝ててね、たとえばうちで女房と寝てるとしますか、ようする睡眠してますか。すると、夢を見ましてねなぐるんですよ。となりに寝てるやつを。なぐった瞬間気付くわけですよ。別に、全然誰なぐろうとしたか記憶にないんですがね。でも、ハッキリなぐるわけですよ。眼をつぶってるんだから、空をなぐりゃあよさそうなものを、顔をなぐるわけですよ。そういう事が、何回かある年続きまして、ほとんどなんと言うか、出て行けみたいな事を言われて・・・・・・そりゃそうでしょうね。寝てたら突然なぐられた。しかも、本気でなぐるわけだからギャーと叫ぶぐらい痛いだろうしね。やったと たん、シマッタと思うわけですが、何だかイヤになって。それは何であろうかと思っても、あまり形而上学的にはふくらませて考えなくて、単純にケンカして負けすぎるからだなんて、思ったりして、ちょっと、おとなしくする様になったんですね。たいてい気の小さいやつほど手を出しますね。ぼくは、そう自分で思ってるんですけどね。こう、不良少年を結局キッチリとやった事がないんですよね。不良少年でずっとありたかったのに。こういうの、自分で解説するのもおかしいけど、たとえば、同じ映画やってる人でも神代なんて人は、昔から割とキチッとフーテンしとるんですね。だから、もう暴れたりするのにあきたのか、照れくさいのか、非常にクールですよ、飲んでも。藤田パキさんというのは、逆にまだ不良少年をやっていたいみたいな感じですね。不良少年をやり足りなかった気分があるのかなあ。自分自身で。唐さんのケンカのし方は、話を聞きますと、ぼくなんかのはカワイイものだと思ったりしますがね。

唐 ぼくはね、癲癇性なんですよ。

長谷川 わかんなくなるんですか。

唐 いやあ。

長谷川 実はわかってるんでしょ。

唐 酒飲んで癲癇性じゃなくて、根本的に 癲癇性なんですね。それでいいと思ってますけど。三十過ぎると脳軟化症が多いといいますから。血の気がどうのこうのって言うんじゃなくて、妙なものの...昔、誰かの弟子だったって記憶がすぐ走るんですよ。癲癇症になる前に。人間が何かわからないんですよ。そこで、蛇か何かの話しでもしたかったんですけど。とてつもない。あるまぼろしの獣の弟子だったんじゃないかと思う。それにとらわれ、それに従属し、つきあってた頃のぼくの中では絶対呼び起こすことの出来ない所に自分がいたという......。

長谷川 それは、父とかなんとかいう。

唐 いや、そうじゃなくて、血のつながりっていうか、イリュージョンの血縁っていう感じで。ぼくは、大学の四年まで、就眠する時間が午後の七時半でしたよ。朝起きるのが四時半で。

長谷川 それはまたどうしてですか。

唐 父親にそういうふうに教育されたんです。

長谷川 大学まで。

唐 ええ。それで、ぼくは自慰行為なんて二十歳まで何も知らなかったんですよ。よく芝居やってて、仲間がセットの糊をといだりするんですよ。そしたら、ニヤニヤ笑ってるんですよ、冗談いいながら。それが、何だか わからなかった。

長谷川 ヘエッー。

唐 うちの親父は九州人なもんですから。 下屋万年町って言うのは、今思うとうちの親父が大分で生まれた長屋とそっくりなのを見つけて、そこにずうっと暮してたんだなあっていうのが、この間やっとわかった所ですから。だから、大まじめって言うか、バカげてる所がありまして、ともかく、内気で気が弱いと言いますか、馬賊とか何とか言いますけど、一種の誇大妄想みたいな所がありまして、気の弱い事でかざりたてる所がありまして、教育なんかも、朝四時半に起きまして、上野の山を散歩して、夜は必ず七時半に寝るという事を二十歳までしてましたよ。

長谷川 それは、させられるわけですか。

唐 いや、一種の呪縛ですね。そういうふ うに、こちらも呪縛されてるわけです。

長谷川 ここちよいですか、それは。

唐 なんか、健全な市民の気持になるんですね。たまたま大学四年の時に、友達に池袋のバーかなんかに連れて行かれまして、某君の打ち上げか何かで。池袋のひどいバーで飲んでて時計を見たら十一時半だったんですよ。もう、罪を犯した気持ちになりまして・・・

長谷川 信じられないな。

唐 腰を上げたら、友達が悪友でぼくを止 めるんですよ。そしたら、その友達がぼくは 大変悪い友達の様に思えて、怒り心頭に本当 首をしめた事がありましたよ。

長谷川 帰らねばならないと思って。

唐 ウン。

長谷川 ヒャー、それもユニークだなア。

唐 それで、池袋のホームたどりついたんですよ。そしたら、上野行きの終列車が行ったばっかりなんですよ。それで、ホームに泣きくずれてね。

長谷川 ハハ、ハ

唐 そういうね......。

長谷川 それがからんで不良になったんですか。不良じゃないだろうけど。そうですか。では、性的にも呪縛の中にあったわけですね。

唐 そうですね。

長谷川 夢精みたいな事はあるでしょう。

唐 ですから、やっぱり、それは蛇にのろ われた様なものですよ。家を出てから、それで百八十度転換した。

長谷川 家を出るのは、大分うるさかった

唐 いやあ、それはね。

長谷川 何か、お父さんも映画監督やってらしたという事ですね。

唐 教育映画みたいなものをね。

長谷川 そういう家のわりにはキビシイ方 ですね。教育映画だからかな。

唐 そうでしょ、ハッハッハ。で、うちの兄貴なんかぼくより二つ上です、今は建築会社に勤めてるんですけど。ある会社を首になるでしょ、別の会社に勤めないとダメでしょ。 そしたら、両親そろってお弁当作ってついて行きますよ。

長谷川 ほう。

唐 だから、うちの兄貴はまだ結婚できな い状態で、まだ呪縛にかかっている状態です。

長谷川 それは、また恐ろしい家だなア。そういう親を殺す話しなんですよ。ぼくが、今度撮った映画は。

唐 蛇ですね、これも。

長谷川 女よりもむしろ親の方が蛇ですね。一人の息子がいましてね。水谷豊がやるんだけど、まあ、こいつをなんとか手許に置きたがるわけですよ。そいつを、あまり計画 犯でもなく殺しちゃうんですがね。ま、作品の中味の話は自分ではなんだかしゃべりにくいから、現象的な話ばかりになるけど、水谷豊は本当によくがんばったですよ。かなり不器用な役者なんですがね、役者としてというより、24歳の一人の青年としてもね。ただ、その不器用さは、不器用にも両親を殺してしまったこの映画の主人公の不器用さと通じる部分があると思ったりしましてね。スマートに小器用な芝居をしてみせる若い俳優が多い中で、圧倒的に良い役者だと思いますねなあいつは。スナック炎上のシーンでも、がんばりすぎて本当に死にかけたりしてね。もう どんなヒドイ仕事がきてもこわくないですな んて云ってましたけどね、映画が終った時に。

唐 若者にとっての親殺しというのは、誰でも自分が大人になるために、精神的には親抹殺しているのだと思うし、決して特殊なことではないのかも知れませんね。たまたまその青年は本当に出刃包丁をかかげて殺してしまうんでしょう。僕の「任侠外伝・玄海灘」も、母親を殺した男であり、自分の父親である男を出刃包丁で殺そうとする話ですが。

長谷川 血の量の問題があるんだけど、二人殺すわけでしょ。わりと正攻法で攻めてみたんですよ。実はもっと出るんですね。交通事故の現場なんかですごい量の血が流れていて、あれは絶対死んでいるだろうと思っていたら、ケロッとして全治一週間位の傷だったりすることもありますから。頭と胸というのが凄い出るらしいから台所のシーンは血の海になるのだろうけど、あのあたりがうそではない描き方で、猟奇的ではなく哀しいシーンに撮ろうと思っていたのもあるし。 血の色に関しては、日本映画初まって以来芸術をやろうというスタッフもいたぐらいだから色々研究したわけですよ。トマトケチャップ混ぜてみたりしてね。ところが映 倫にみせるラッシュのときにあの部分モノク口にするか、真っ暗に焼きこまないと成人映指定にするというんだな。びっくりしてね。ライオンが人を喰う「グレート・ハンティング」が一般映画で、人身を切り刻む「スナッフ」はR指定どまりなのに、なんでやということですね。大喧嘩しながら最後結局R指定に治まったんだけど、R指定になった分、むこうがいうよりは明るいカラーで、こっちが思っているよりは暗くなった。暗くなったおかげで不必要な凄味が出たような気がします ね。血がタールみたいになっちゃってね。本当につらかったなあ。ただ半分言い訳だけど18歳未満の人にも絶対みて欲しかったですしね。

唐 芝居のお客さんもその若い人が多いんだな。

長谷川 すごいでしょ。不忍池なんかでも寒いのに並んで一万人近い人が。

唐 今のテント劇場の形を、今度はちょっと違えて、トタンで武装しているんです。僕が初めて見たプリミティブな風景は、戦後の どさくさの焼け跡だったんです。赤いテントはそのイメージをかぶっているんですが、今度、トタン劇場にしたのは、結局劇場はいらないってことを強調したかった。劇場がなければトタン一枚かついで歩けばいいじゃないかっていう事を言いたかったんです。

長谷川 唐さんところだけでしょ、ペイしてる芝居は。つかこうへいの所もちょっと儲ってるか。

唐 今は、演劇人口が多くなっていますから

長谷川 昔、僕が池袋へ寒い日、見に行った時なんか、なんか気狂いが芝居やってるって感じがありましたね。なにかそこには非日常が間違いなくあるって、言葉でいっちゃえば殆どみんな酒を飲んでやっとる芝居だから、寒いのでこっちにもくれないかなと思ったりして...............。「玄海灘」はだいぶ赤字になりましたか。

唐 ええ、大変な赤字です。

長谷川 うちもだいぶ赤字なんです。「玄海灘」もうちのも客はよく入ってくれてると思うんですが、うちなんかまだスタッフギャラのそれも安いのに三分の二しか払えない。僕は一種旗上げ公演みたいなところもあるか多少苦労してもいいと思っていたけど、がんばってくれたスタッフにギャラも払えない 状態ってのはやっぱりすごくつらいですね。また撮ってみようという気はおありですか。

唐 いや、ちょっと...半年かかったでしよ。舞台稽古が4回続くようなものですからね。寺山修司さんに、映画ってどうですかねって聞いたら、ええ舞台稽古に較べたら楽ですよって言われたがとんでもない。寺山さんは前から映画やってたので楽だったんでしょうけど、ぼくの場合は、どんどん過熱状態が拡張されて行っちゃう所があって、今年の半分もっていかれたので、今度は芝居をたて直そうと思って、ここ一年ないんじゃないかと思います。

長谷川 やっぱり、芝居の面白さと、やられてだいぶ違いますか。「玄海灘」をみるとウジ虫食ったりしてましたね。ああいうのを見てねェ、やっぱし好きな人なんだなと思ったんだけど。一つエラそうな事を言いますけどカンベンして下さい。あのう、唐さんの芝居だと、舞台だといわゆるグロテスクなものとかきたないものとかが、きれいごとで言えば詩的に変容していきますね。しかし、映像って言うのは、変に散文的と言うのかな、ウンコの中で走り廻っていてもそれ程きたなくうつらなかったりしますよね。そのせいかどうかよく分らないけど、唐さんの映画の中でも、徹底的にきたなくない部分だけあんまり いい力になったり、ポエティックになったりしていかなかった様な感じをちょっと受けたりしてね。例えば、お椀の中のウジ虫にしても、それから便所で何か暴れてましたね。あれは、いちおう掃除してやりましたか。

唐 いや、あれは掃除しなかった。だいたい撮影時、カメラをのぞいて思ったことはカメラに三十六度五分の体温を引き出すって事はあるでしょ。そのへんやっぱり目の小道具としてカメラがあるんじゃないかと思いました。小道具の使い方として、オブジェの使い方として、カメラを握った時にもうスタートするわけですよね、映画の場合は。芝居の場合は、小道具がガイドするという事があるようだけど、小道具も結局ネジ伏せなくっちゃいけないんですよ。そんな意味で、映画だっネジ伏せる事はあるんだろうけど、先行しはしないという感じです、芝居は。身体がモノですから。映画はカメラによるけど、それを何ヶ月後にみるお客は、カメラ握ってる監督は見えないのであって、フィルムに定着されたものしかみえない。芝居の場合は言葉が見えないんです。身体が動いてようやく言-葉が見えてくるんです。そういう意味で、身し体というブックが舞台に立っているわけです。まるで逆の方法を映画は使っているのだと思います。

長谷川 ある監督が、花瓶に花が植わっていると、ライティングもサイズも決まって秒数十秒ぐらいでいいだろうと。誰が撮って同じはずなんだけど、ヨーイ、ハイとくそでかい声をあげて、そいつを睨みつけて撮ると、そいつは絶対違うのだというわけなんです。ぼくも、違うと思うんです。念力みたいなものがあるのかというと、それはあればいいと思ったりする程度のものなんだけど、キメラが写さないと存在しないわけでして、映画の場合は。見えないものは写らなかったするし、それは物理的な限界があるでしょう。それがあるのが割と楽しいみたいですね。あんなふうに写っていたのかというのがありますよ。自分がカメラのそばにいたの

唐 その点、ぼくなんか芝居の人間ですね。カメラ覗いているでしょう。そしたら自分が見えてくるんですよね。誰かが見える様になると、自分が役者になって来ますよ。カメラを持った演出家という役者になっちゃいますよ。そうすると、ここで終りにしないとフィルムが高くかかると言っても、ズーッと廻していたいんですよ。

長谷川 ほう。

唐 そういう錯覚が起きるんですよ。それ芝居の場合は、結局は本番の舞台で役者が 動くしかないでしょ。終局には役者に演出が全部おんぶするわけですよ。だから、演出を出しても役者がかえていく事も可能だし、そういうお祭りさわぎの一発勝負があるんだけども、映画の場合は、うごく体を寸切りにしていがなくっちゃいけない。そこが、ぼくにとってはまだるっこしい感じがしないでもなかった。映画は演出家と主演俳優のもんだというふうに言われますけど、芝居の場合は脇役のもんである時もあるんですよ。そういう世界はグロッタでにぎやかなんでぼくには合ってるんでしょうね。

長谷川 ダビングやってる最中にハプニングというかな、結局材料でしょう、全部、音も絵も集まってるものは。ギリギリで仕上げる段階で思わぬ事が起こったりするんだけど、それは割と役者の肉体が起こすもんじゃなかったりするんですよ。

唐 ウン、ウン。

長谷川 なんだ、このつなぎ変えたら全然 面白いやという風な事だったりするから。

唐 だから、芝居のけいこの仕方と映画の 積み重ねのプロセスと全然違うわけですよね。

長谷川 でしょうね。

唐 芝居ってのはどんなものができるかわからないんですよ。役者だってダメだったら 別のにチェンジして別のものを作り変える事が出来るんです。だから、青写真が出きないんです。予感があるだけで。イプセンという作家は、全部構図が出来てて、プロットが出きてて書いていく。実際にイプセンの所に新人が戯曲を持って来ると、イプセンはプロットを見せろと言ったそうです。プロットを見てうなずかないと作品を読まなかった。こういうタイプの劇作家がいると同時に、たとえば、フォークナーというのは構図がなくて、たまたま窓の外を見たら、一人の少女が杏の木を登っててそのパンツがシミだらけだったというのがすごく印象的だったという、それを見ていてスーッと書き出すというワイルドなタイプのもの書きがいる。ぼくの戯曲の書き方は、どちらかというと後者なんです。

長谷川 唐さんは、役者はこの役はこいつだと思って書かれますか。

唐 そういう場合とそうじゃない場合がありますね。つまりひとつの脂肪のかたまりが連動して作り上げるイメージが肉体だと思っ役者は、枯渇します。俺はこういう味でこういう資質だと考える性格俳優もいけません。僕は未知数が止まってしまった肉体=役者のためには書かないで、デモニッシュな風貌をちらつかせる役者を、それをちょうはつする意味で書く。シェークスピアが多作であ ったと言う事は、たぶんに強制する役者がまわりにゴロゴロいたんじゃないかと思うんです。いい意味での役者と書き手の呪縛関係ってものが、ひとつの劇団ではなばなしくないと止まってしまいます。

長谷川 そうですね。唐さんはなんかみてて、変ないい方だけど感心するっていうかなあ、運動体が持続してるでしょ。唐さん所が一番長いわけだ。元祖みたいだし。僕もガキ大将好きなんですね。ただ一本映画作る期間って、割と限られるじゃないですか。長くても半年か一年ですよ。その間は目一杯イバッてガキ大将やっても終ると勝手なものでただの怠け者に戻りたいと思ったりする。あんま人と一緒にいたくないという我ままもあるわけですよ。それが、唐さんの様にやってられたら、四六時中やってなきゃいかんわけでしょう。

唐 ええ、休みないですよ。

長谷川 それ、きつくないですか。

唐 そうですね、二十代の終りの頃はその頃も座長でしたからね、三十過ぎたらどうするかってよく聞かれましたけど、二十代において倫理的な生活してるから、座長とし三十過ぎたらとんでもない不良の座長になろうと思ってましたけど、やっぱり輪をかけて倫理的ですね。

長谷川 座員にはきびしいですか。

唐 そうですね、ことに女性関係はね。女 優なんかにはきびしいですよ。女の子なんか入ってくると、恋愛をまず差し止めますから。

長谷川 ほう。それじゃあ、まるで封建的みたいじゃあないですか。

唐 そうです。だって赤いテントに恋しているのに、どうして他の男が必要なんだ。二人持つ必要ないだろうって言うんですよ。

長谷川 それぐらい言わないと、ずっとガキ大将やれないんだな。

唐 そのうち芝居をやめて、ある異邦に一座ひき連れて行った所が、劇団が解消されて土建屋になっちゃって、もっと先に行くと私設軍団になっちゃって、というふうなことまで行きたいなと思ったんです。

長谷川 航海みたいなものなんですね、何 か。だからやってられるのかなあ。

<編集部より〉この対談を企画されました東京女子医大橋本しおり様のご協力に感謝します。


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