中山一也 内田裕也戻る
中山 裕也さんと初めて出会ったのは1984年頃。当時、僕は変にハネあが っていた時期で・・・...下北沢の3畳一間のアパートに住んで、女に食わしてもらっていたんですよ。金ないしブラブラと下北のパチンコ屋の前通ったら、目つきの鋭い人とすれ違ったんです。俺は何か「気」のようなものを感じて、パッと振り返ったら、その目つきの鋭い方も振り返って・・・・・・見たら裕也さんでした(笑)。
内田 それでお前、俺に近づいてきたんだよな(笑)。
中山 俺が引き寄せられるように裕也さんにスーッと寄っていったら、裕也さんも近づいてきたんですよ。一言目に俺は「大丈夫ですか?」と言ったら、裕也さんも「大丈夫か?」と言ってくださって(笑)。実はお互い、いろいろ大変なことがあった時期だったんです...............俺はそれを知ってたし、裕也さ んも俺の境遇のことを言ってくれたと思うんですよ。初めての会話が、いきなりそこから始まったんですが、傍から見たら、裕也さんと中山が2人で「大丈夫か?」って言いあっている姿を見て、「全然、大丈夫じゃない」と思ったんじゃないかな(笑)。
内田 当時の一也君は、俺に喧嘩売ったときもあったからね(笑)。
中山 ......(苦笑)。
内田 彼は一時期、けっこう大変だったんだよ(笑)。今でもハッキリ覚えているけど最初は手紙をもらったんだ。彼はいい意味での夢と野心を持ってたから、いろんな人に手紙書いていたらしいんだけど。俺も気にしていたんだよ。中山君はルックスが凄いいいだろ。この前、BSで久々に「アンタッチャブル』を観たら、『ブラック・レイン」で共演したアンディ・ガルシ アに似ていると思ったよ。昔は「デ・ニーロに似てる」って 言われてたんだよ な?俺もその頃は『コミック雑誌なんかいらない」(86年)の準備中で、人の面倒みれるような状況じゃなかったんだよ。『コミック雑誌』は誰も脚本を書く奴がいなくて、俺が山田太ーから、いろんなシナリオライターに電話してた時期だったな。ま、倉本聡氏には連絡しなかったけどね(笑)。
■映画で勝負する内田 俺が初めて映画に主演したのが 39歳。曽根中生監督の『不連続殺人事 件』(77年)なんだよ。
中山 僕の初主演映画『連続殺人鬼 ・冷血」(84年)も曽根さんのプロデ ュース作品ですよ。
内田 おう、そうか!
中山 不思議なご縁があるんですよね...............俺は「男は潜在意識でつながっている」って思うんですよ。(編集注:ちなみに「連続殺人」というタイトルも同じである)
内田 自分が本当に「映画で勝負する」と思ったのは神代辰巳監督の「鳴呼!おんなたち/猥歌」(81年)や「水のないプール」(82年)からだな。これらの作品は全部俺のアイディアで進行したんだ。そして、「十階のモスキート」(83年)では製作から脚本、ディストリビューション、みんな苦労してやったな。監督は当時、助監だった崔洋一を抜擢して、「お互いにこれから未知の世界に踏み出そう」という思いで作った。「モスキート」は俺にとって本当の意味でのヴァージン作品だった。それも40代半ばくらいの話だ。
中山 「十階のモスキート』はラストで流れる白竜さんの「誰のためでもないではない」が鮮烈でしたね。
内田 あの歌は、一也君ね。最初から最後に流すテーマ曲だと決めてたんだよ。「国のためでもない、親のためでもない、俺は自分のために生きるんだ!」って。でもその実は家族とか国をとても愛しているという、俺にとっては反語のこもった歌だと思ったわけ。 白竜は「光州CITY』が発禁になって、その頃、崔洋一から紹介されたんけど、俺はそれまでもフォークの連中の変わり様をいろいろ見てきたから、最初は信用してなかったんだよ。だけど、崔が「本人はロックンロールがやりたいって言ってます」って言う。俺にとってロックンロールは50年代のロックンロールっていう意味じゃないよ。生き様としてのあらゆる意味のロックンロールを含有している。それを ロックンロールって言ってるんで、そ こはミスアンダースタンド(誤解)しないように。 それで崔の紹介で白竜と会ったんだよ。見たらいい男だしさ。名前がまたカッコいいじゃん。白竜なんてさ。だけど俺、最初の挨拶で「俺、悪いけどフォーク嫌いなんだよ」と言ったよ。でも彼は「ぜひロックをやりたい」と言うからね。「それよりも、君のルックスだったら映画に向いているよ」と言ったら、白竜は「映画ですかぁ・・・」と言うから、それまで役者やろうっていう気はなかったと思うよ。それで1本紹介したら出演が決まったんだ。そしたら、すぐタケちゃんマンが来たよ。
中山 「その男、凶暴につき」ですね。
内田 それで白竜は一気に次の世界へ弾けたよね。 一也君は、良い意味で遅咲きだと思うんだよ。ルックスが良いからね。だ から、変に若い頃に売れていたらトレンディドラマに出て今頃、凄い売れていたかもしれない。そのかわり『IZO』には出れなかったと思う。だけど一也君は自分の運命を自分で切り開いて『IZO」をつかんだ...ここからが本当の大勝負だと思うけどね。本当の意味でのサクセスをしてほしいと思うよ。別に、矢沢永吉君じゃないけどすげえ車に乗るってことじゃなくてね。俺たちが・・・・・・ジョー山中やクリエイション、そしてフラワーズが言動一致していた夢「絶対この国から世界に出て行くんだ!」ということをぜひ実現してほしいね。
[IZO」について 今年、2人は武知鎮典脚本・三池崇史監督作[IZO』で共演した。いま、『IZO」はベネチア映画祭をはじめ、世 界各国の映画祭で熱い反響を巻き起こしている内田 「IZO」の感想?・・・・・・俺は三池監督を陰ながら応援している1人として、そして中山一也が長年の夢であるメイン・アクトが実現したということで「IZO」を冷静にはレビューできないですけど(笑)。 時代劇は勝新太郎さんの「座頭市」(89年)以来だったね。「IZO」では、俺は三池監督の言われるままに演じたよ。よく俺は「使いにくいロックンロール・アクターだ」と言われるけど、そんなことはない。俺、わりと素直だよな?
中山 そうですね(笑)。
内田 ただ、脚本を読んで、自分のコスチュームだけは注文つけたよ。三池監督もセンスのいい人だから、俺に「靴を履いてくれ」と注文したんだよ。だったら坂本竜馬やるわけじゃないから、俺は「金髪でボイスも変えて欲しい」と言ったんだ。自分がタイム・トリップをしている感じを出したいなと思って人工声帯を付けた。あとは何も言わなかったな。 俺としては、「IZO」という映画で三池組が中山一也という男優と一緒にベネチアに行けたということがとても嬉しくてね。ああいう超アヴァンギャルドな作品をよくベネチア映画祭の方々が選んでくれたなとショックと感動を覚えました。
中山 この前、釜山映画祭にも招待されたんですよ。今度はストックホルム映画祭に行ってきます。
内田 おお、ストックホルムも決まったのか。おめでとう!ベネチアの会場で一也君がタキシードを着た写真を見せてもらったんだけど、よく似合ってた。外人と並んでも全然負けてないからばっちりだなと思ったんだよ。
『ときめきに死す』で アル・パチーノに直談判内田 中山一也というアーティストのルックスを見てわかるとおり今、彼は男として第二期のいい時期なんだよね。だから早く自分で脚本も書いてさ、そして、いい原作は自分で原作権を取りに行って、強い意思表示を映画界に示した方がいいと思うよ。
中山 そうですね。
内田 具体例で言うと俺、本気で映画の世界でやろうとしたとき、一番最初に口説いたのはアル・パチーノなのね。丸山健二さんの小説『ときめきに死す』を読んで映画化したいと思ったんだよ。テロリストが新興宗教の教祖を暗殺しようとするんだけど、結局、失敗して自殺しちゃうという哲学的な部分が気に入って。丸山さんに直談判して原作権を取ったの。そのテロリスト役をアル・パチーノに頼もうと思ってニューヨークまで口説きに行ったんだよ。俺の友人で写真家のボブ・グルーエンが「ユーヤはクレイジーだから」って一緒につきあってくれた (笑)。 そのときパチーノはオフ・ブロードウェイで「アメリカン・バッファロー」という芝居をやっていたんだ。しかも、100人も入れない小さな劇場で、控え室もなくて、パチーノがトイレで着替えるんだよ。そこに入って交渉したんだ。アメリカはスクリプトが大事なんだよ。『ブラック・レイン』のときにマイケル・ダグラスにも「スクリプトがあれば人種も国境も何も関係ない」と言われたよ。その時は、まだプロットだけだったけど「こういう話でどうか?」って交渉したんだ。そして日本に帰って、東宝の松浦会長のところへ行ったら、「アル・パチーノはんでっか?ミック・ジャガーはんやったら、うちが全額出しまっせ!」って言われて、俺ずっこけてさ(笑)。あとで、優作氏やショーケン(萩原健一)に言ったらみんなずっこけてたよ。
中山 その映画は是非とも観たかったですね。
内田 そしたら突然、沢田研二から「会いたいんですが.........・・・」って電話かかってきたんだ。珍しいんだよ。あいつは喋んない奴だから。それで会って、2人で大分飲んでから「話ってなんだ、一体?」って聞くと、「ときめきに死「す」を読んで感動しました。ぜひ、テロリストの役をやりたいんです。丸山さんから裕也さんが原作権を持ってると聞いたんで、自分に譲ってもらえませんか?」ってアイツは、それまで俺に1回も頼みごとしたことがないんだよ。そうなったら「じゃあ頑張れ「よ!」と言って、監督は森田芳光、俺が演るはずだった役を杉浦直樹で映画化(84年)されたんだよ。沢田、松田優作、萩原健一、この3人から頭下げられたら聞くよな。
中山 凄い話ですね。
■偶然などない。 すべて必然である中山 俺も裕也さんを見習って、今、クエンティン・タランティーノに直接会いに行こうと考えていて、彼の連絡先を探しているところなんですよ。
内田 おお、良いね!
中山 裕也さんが俺の歳くらいの時にやったことを、これから俺がやらなければという気持です。裕也さんと出会えた今に凄い喜びを感じています。裕也さんに本当に面倒をみてもらって、この前もニューヨーク・ドールズのデヴィッド・ヨハンセンを紹介してくれたんですよね。
内田 そう。俺が一也君に紹介したんだよな。
中山 それを『映画秘宝』の編集部に言ったら「それは凄いシチュエーションですよ!」って騒いで。
内田 ああ、そう!価値がわかる人はわかるよね。
中山 素晴らしい出会いでしたよ。俺はハッキリ言ってミュージシャンの方は、詳しくないんですが、俺は裕也さ んから「お前も来いよ」と言われたら即答ですから(笑)。
内田 お前、あんまり実感なかったろう(笑)。デヴィッド・ヨハンセンは、アンダーグラウンドの中でもちょっと孤立していたんだよ。ニューヨーク・ドールズのドラマーはロンドンで、コカイン中毒かなんかで死んだけど。ちょっと洒落た奴にとってニューヨーク・ドールズは別格なんだよね。メジャーじゃないよ。世界制覇とかそういうのはないけど、本当に心あるアーティストたちの中では彼らは別格。プロバティ・オフ・ニューヨークシティ(ニューヨークの宝)と言われてるのね。
中山 あのとき、裕也さんは日本のロックシーンを引っ張って来た人なんだと改めて実感しましたよ。
内田 ニューヨークドールズの事務所には一時期、エアロスミスもいたんだよ。昔は、エアロも売れてなくてボストンから出てきたとき、「日本でやってくれ」って頼まれて。で、日本に来てもスティーブン・タイラーとかに誰もつかねえから、俺がいつもケアしてたんだよ。六本木のロックな溜まり場に連れてってよ。湯豆腐ばっか食わしたよ。その頃、寿司食わせえる金なかったから(笑)。「湯豆腐!湯豆腐!」って美味そうに2人食ってたけどね。
中山 あったかい話ですね(笑)。
内田 そういう話は山のようにあるん だけど、誰も信じないんだよ(笑)。
中山 そんなことないですよ。
内田 たしかに嘘みたいな話だけどなあ.........よくニューヨークにいたとき、ジョン・レノンとボブ・グルーエンの3人で、オンボロのワーゲンに乗ってブッ飛んでたな。それで朝帰りしたら・・・・オノ・ヨーコさんが怒った顔で出てきたりとかさ(一同笑)。
中山 昔長屋でそういう話がありましたよね(笑)。素敵な出会いですよ。安藤昇先生に言われたんですが、「出会いと言うのは偶然ではなく必然なんだ「宇宙の塵と塵が会うが如くの出会いというのは、これは必然なんだ」と。俺も裕也さんと出会えたことを、「ご縁」として大事にしなきゃいけないと思う。俺が裕也さんのどこが素晴しいと思うかというと、打算的なところがなくてとにかく純粋なんですよ!最後は純粋なものこそが真理として残ると思うんです。裕也さんには不純な心がない。だから生き方がある意味で、反社会的なところに至ってしまったりす るんですが......すいませんね。
内田 いやあ(笑)。
中山 俺は、裕也さんに悲しい思いさ せたくないんで、やっぱり負けないように純粋に頑張っていきたいです。
■コミック雑誌なんかいらない」の栄光中山 マイケル・ムーアの「華氏911」 を観て思ったんですが、彼の作風は絶 対に「コミック雑誌なんかいらない」に 影響を受けてると思うんですよ。
内田 いや、ああいう発想は誰にでもあるんじゃない?
中山 そんなことないですよ。「コミック雑誌」は、ドキュメントでありながら、ドラマとしても成立している。そこのシナリオを裕也さんご自身が書いた。あれは裕也さんが書かなければ成立しなかった。当時、「コミック雑誌」はニューヨークのMOMA近代美術館で上映して、それをマイケル・ムーアが世代的に観ていてもおかしくはないですよ。
内田 それは、どうかな(笑)。俺は自分の映画のコンセプトをロックンロール・ムービーーロックの延長としての総合アートとして考えて取り組んでいるんだよ。だから「コミック雑誌」は、コンセプトからほとんど自分で考えてやったんだよ。 「コミック」を作った頃、日本映画の中には素晴らしいポリシーを持った作品が少なかったんだよね。そこに、「家族ゲーム」とか出てきて、日本映画もある種の過渡期になってきたと思ったんだ。そんな意味のエスプリを込めて、最後の歌(「コミック雑誌なんか要らない」from頭脳警察)の歌詞を「俺の周りはテレビのスクリーン」から「映画のスクリーン」に変えたんだよ。
「コミック雑誌なんかいらない」の劇中、主人公木滑(内田裕也)が、ピッチャーマウンドからマイクを投げるシーンが、何度も象徴的に登場する内田 俺がマイクを投げるシーンは、川崎球場を2日借りたのね。そこで1回目はマイクを投げて、原田芳雄がキャッチャーで麻生祐未がバットで打つシ ーンを撮ったんだ。その後、映画のラ 出ストも、俺がマイクを投げるシーン入 れるべきだと思って、また借りたんだ よ。泣き、入ってたけどね。
「コミック雑誌なんかいらない」 は1986年、カンヌ映画祭の「監督週 間」に出品された内田 そのとき、「コミック雑誌」の他 にスパイク・リーの処女作「シーズ・ガッタ・ハヴ・イット」(85年)、アレックス・コックスの「シド&ナンシー」 も出品されて、カンヌ始まって以来の収穫の年だっていうんで、俺と滝田洋 二郎は上映した次の日からヒーローだった。 この「ニューヨーク・タイムズ』の記事を見てくれよ。この記事をフランシス・フォード・コッポラに見せたらブッ飛んでさ、キャメラマンのヴィットリオ・ストラーロ呼んで 「おい、これ見ろよ。ファッキン・ジャップがこんなことやって...俺たちー回も褒められたことねえのによ!」って言われたよ(笑)。だいぶ後にスパイクリーと対談したときも「この記事を見せれば世界中どこでも通用する」と言われたよ。「ニューヨーク・タイムズ」は審査が厳しいんだよ。映画の広 告も内容と一致しないと、金を出して も載せないんだよ。言っておくけど、 これ合成したんじゃないよ(笑)。
中山 裕也さんは、そんなことしませんよ(笑)。
内田 だから1本の日本映画でもココまでいけるんだよ。だけど、なんで、日本では、もっと大騒ぎしてくれないのかなぁって思ったんだよ。朝日新聞だって一回も取材も来なかったよ。
中山 これは日本映画の革命ですからね。やっぱり俺は、これだけアメリカで騒がれた映画ですから、マイケル・ムーアは絶対に見てると思うな(笑)。
■外国で喧嘩できなきゃダメだ内田 昨日、ニュース番組を観ていたら、清水祟って『呪怨」を撮った若い監督がいるじゃない?彼の特集をやっているのを観たんだよ。彼がハリウッドで監督した映画(「THEJUON/呪怨」)が今、2週連続で全米1位なんだよね。これは日本の映画監督が誰も成し得なかったことだよ。しかも、「Shallweダンス?」のリメイク版(注:リチャード・ギア主演のもの)が3位。俺、感動してテレビに向かって拍手したよ。 清水って監督は英語ができないらしくて、撮影現場では通訳がついているんだけど、ジンガイのスタッフ相手に「ここで譲ったら、自分の負けだ」とちゃんと突っ張ってるんだよ。やっとここういう世代が出てきたんだな。俺もホラー映画をバカにしちゃいけねぇなと思ったよ。彼の発言で、俺が素晴らしいと思ったのは「今、ハリウッドは映画を作るネタがない」。俺が8年以上前に「これからハリウッドは絶対リメイク・ブームになる」と予感したことが、その通りになったのよ。
中山 裕也さんは、洞察力が鋭いですからね。
内田 だから当時、「餌食」(79年)のリメイク(「魚からダイオキシン」92年)と、「エロティックな関係」(78年)のリメイク(92年)を作ったんだ。今のハリウッド映画はほとんどリメイクで、あとはシリーズ物じゃん。日本映画もウカウカしてると韓国映画に負けちゃうぜ。アジアでは、まずジョン・ウーがハリウッドに行ったじじゃん。それで続々と中国からも「英雄」の監督とか出てくるんじゃない。韓国映画のアクションって結構アメリカ映画の真似してるところあるからさ、やっぱ今後は出てくるよな?
中山 今の韓国映画は熱気が凄いです もんね。実際に釜山映画祭に行って肌 で感じましたよ。
内田 俺も、10年以上前にさ、「平凡パンチ」で対談の連載「ロッピントーク」でアンと対談したんだ。岡本太郎さん、赤尾敏さん、男とばかり対談してきたコーナーだったんだよ。その頃から俺、「そろそろ韓国はヤバい」と思っていて、編集部に連当初から「最後に韓国人と対談させ 「ろ」って条件を出したんだよ。そして韓国に行ったんだ。金浦空港爆破事件 (86年)の3日後で、戒厳令でさ。そこ で、韓国の様々なジャンルの著名人たちと対談したんだよ。そのなかでアン・ソンギと会って、当時から彼は「韓国のデ・ニーロ」と呼ばれていたんだ。実際に会ったら、穏やかなんだけど芯が強い男だった。そのとき、彼と「いずれ必ず韓国から世界に出てくるね」という話をしたよ。「いずれ日本も変わるし、俺たちが変えていこう」と誓ったんだよ。そして今・・・・・・最近の韓国映画、悪いけどアクションものはヤバイよ!下手すりゃジョン・ウーにも負けてないぜ。韓国映画は国策として釜山かなんかにでっかいステージ作ってさ。コンピューターだって韓国とインドに負けちゃうじゃない。 ダメだよこの国は。ガキがラップの真似して、その辺でビール瓶だなんだのってボコボコにしてよ、そんなのヒーローでもなんでもない。ただのガキだよ。「ヘイ、メーン」って赤だの黒だのって悪いクスリ飲んでクラブで踊ってたんじゃ、あっという間に抜かれるよ。向こうは英語もCGも勉強してる。5年経ったら抜かれてるよね。そう思わない?
中山 そうですね。俺は今回の釜山映画祭で「箪笥」の監督キム・ジウンといった今の韓国映画祭を支える映画人ちたちと会いました。ウォン・カーウェイも目の前にいたんで、裕也さんよろ しく「未来の三船敏郎だ!」って挨拶 したんですよ。「IZO」と言 ったら「お しお、知ってる!」って言って。
内田 ああそう!良かった。
中山 「あんた香港の黒澤明だろ?」が、と言ったら、「そんなことはないけどな・・・・・・」みたいな感じだったけど(笑)。 「今度、一発やろうよ」って言ったら 「いいね」って言うんですよ。さらに裕 也さん流でいくなら「お前いい加減な こと言うなよ」と突っ込んだらマネー ジャーを紹介してくれましたよ。
内田 そうか。良かった(笑)。やっぱ 外国行ったときに喧嘩できない奴は絶 対ダメなんだよ。俺どこいってもこの 態度だから、ニューヨーク行こうが、 まずロンドン行こうが、パリ行こうが。流 石にソウルだけは戒厳令だったから、 あんまりな・・・・・・(笑)。
■怒りのゲリラライブ内田 かつてカンヌ映画祭は日本映画 を5年間干したんだよ。『魚からダイオ キシン」の時に、「監督間にはいつでも来い」と言われて、ほぼ決定ということでスケジュールを空けてたら、落 としやがったんだよ。それで頭に来て 監督の宇崎竜童たちと話して、「みん なでエコノミー乗って安いモーテル借 りてでもカンヌに行こうじゃないか。俺が劇場借りるから、 そこで自主上映しちゃおう」って実費 で行ったんだよ。カンヌから車で1時 間くらいかかるピンっていう所の汚ね えホテル借りて、オンボロのワゴン借 りてライブの準備したんだよ。そした ら楽器屋がカンヌにはないのよ。それでニースまで行って、アンプ2台とちっちゃなPAを借りて。しかも発電機がないから、発動機を借りたんだ。
中山 工事現場で使うやつですよね?
内田 それで、みんなで手作りステージ作って、ビラを配ってライブ上映してやったんだよ。それも文化だと思うんだけどね。で、カンヌのメイン会場のすぐそばでライブをやったら、結構ビラまいてるから、若い奴がいっぱい来たんだよ。いよいよ本番が始まって赤絨毯のすぐ左で演ったんだよ。俺がこれ発動機バーンって動かして!もロックの文化だと思ったんだよ。それで「ジョニー・B・グッド」だとか演ってたら、タキシード着た連中が5人、いきなり止めやがって。俺が「この野郎!ファック・ユー!」ってキレたら、いきなり逆手錠・・・・・・オマワリだったんだよ。しかも、あとで聞いたらカンヌの警察署長だって言うんだ。フランスの警察ってラテン系だから、見えないところを殴るんだよ。その光景たまたまヴィム・ベンダースが見ていたらしいんだよね。後日、デザイナーの山本耀司が俺にベンダースを「紹介しましょうか?」って言うから「結構です」って言ったよ。その場で助けなかった奴、信用できないよな(笑)。
■映画の宝内田 一也君に言いたいのは、今、「IZO」を持ってプロパガンダとして世界を回るのは良いけど、大事なのは「次は何をやるか?」ということだよ。プロデューサーがついてないだろ?手前ェでしかやれないなら、いい機会だからここで「俺はこんな映画を作りたい」というウェポンを携えておかないとダメだよ。企画から製作、宣伝まで自分でやってきた俺のエクスペリエンスの中じゃ、それがないと外人なめるから。要するに「俺はKAZUYANAKAYAMAだ。こんな映画やりたいんだ、どうだ!」って姿勢でいなきゃ絶対に
中山 実は俺裕也さんの監督作品に出るのが夢なんですよ。
内田 いや、俺は監督向いてないんじゃねえか?昔『映画芸術』の対談でタケちゃんマンや若松孝二、荒井晴彦とか4人くらいで座談会やってて...・・・俺が監督やったらさ、「大傑作になるか、1週間でスタッフが逃げるか、どっちかだろう」と言って大笑いしてやがんだよ。ムッとしたけどね(笑)。
中山 いやいや。今日は「映画秘宝」の対談ですが、俺は裕也さんこそが映画の宝だと思うんですよ!だからこの宝を絶対に無駄にしちゃいけない。俺も先遣大使として、世界中の映画界に行って、「日本には内田裕也という凄い人がいるんだ!」と発信しなければいけない。その中で裕也さんの監督作海外の資本であれ、日本の資本であ れ、是非やりたいんですよ!
内田 俺は昔、松田優作という男と生 前にね・・・・・・優作氏、萩原健一、俺の3人でよく飲んで、いろんな夢を語り合っていたんだよ。「あと10年たったら映画界も必ず世界へのドアが開く。だから3人で英語の学校へ行こう!」って。それが、「ブラック・レイン』の公開と共に優作氏が亡くなってしまって凄い残念だよ...生きていたら3人で、まあ途中で喧嘩もしたけど、インターナショナルな夢に向かっていたはずだから飲むといつも最後は「これからは英語だ」って話になった。アメリカが良いとかじゃなく、エスペラントとしての英語。一也君も行ったらわかるだろ?自分でコミュニケーションするためには絶対、特に演じる側は英語できなきゃ駄目だからっていう話をしたね。
中山 萩原健一さんに言われましたが、「裕也さんは、いい人だ」って。この前、京都の撮影所に裕也さんが来てくれたとき、入口の守衛さんが「内田裕也さんってどんな人なんですか?」と聞くんですよ。何かあったのかなって思ったら、裕也さんが車から降りてマネージャーの方とその守衛さんにご挨拶したと言うから、「そういう人ですよ」って。守衛さんが感激していましたよ。
内田 ま、そういうもんだと思うよ。やっぱり人間、そういうことは大事にしたいよな。別に保守派じゃないけど、ニューイヤー・ロック・フェスティバルでも小屋を借りるだけ借りて、終わったら知らん顔して後かたづけをしないで帰るなんてことはしたくないんだよ。だから俺、楽屋でみんなに「ちゃ 「んとやっとけよ」って言うのよ。そのくらいは次の世代に教えておかないとよ。
中山 裕也さんは、何十年という歴史の中で、そこを変えずに生きてこられた方だと思うんでね。ただ裕也さんは「偽善者」じゃなくて偽悪者なんですよね。
内田 俺、ヒューマンなことがわからない奴には良い作品は作れないと思うからね。もちろん俺のすべてが完璧だったら、僧侶になればいいんだけど(笑)。いつも煩悩というか心の揺れがある。だけど、大切な一点だけはスピリチュアルだぜ、という風に生きてクタばりたいな、と思っているんだけどね。まあ、俺のことより、次の世代の中山一也という男が早くこのチャンスを活かして、世界にロックンロールしてほしいな、というのが俺の最大のリクエストです。いや、心から応援して るから頑張ってね(熱い握手)。
中山 今日は有難うございました!