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ジョン・ローン 失われたアイデンティティを求めて 世界広しといえども、ジョン・ローンほど端正なマスクを持った男には、滅多にお目にかかれない。そしてまた、彼ほど、ミステリアスで、メロドラマが似合う男にも。両親の顔を知らずに育ち、10代後半で単身アメリカに渡った彼は、サクセスへのステップを、まるで彼のダンスのように優雅に登りつめてきたようにも思える。自分で自分を名付け、幸運をつかみとってきた男、ジョン・ローンが、自らのストーリーを、コーラを片手にいきいきと語ってくれた→ モア 映画『チャイナシャドー』の"ヘンリー・黄は何語で泣けばいいのか"というコピーがありましたが、あなたは何語で演じるのが一番楽ですか。
ジョン まず上海語、次に広東語、そのあと華語、英語と覚えたけれど、今はアメリカに住んでいるから、英語で演じるのがずい分楽になりましたよ。
モア 夢も英語で?それとも中国語で?
ジョン 面白いことに、夢の中の僕はしゃべらないんです。会話がないの。(笑)ただ、とにかくよく飛んでる。夢の続きもよく見るし。とても好きな夢のひとつはね、何か物体の上に乗って輝く黄金の中を進んでいくと、惑星か何かかな、巨大な球体がまわりを飛んでいくんです。現実のように物理的にそれを感じだけど怖くはなかった。飛ぶのっていいよね。 無垢で無知だったから、直観と信念だけで生きてこれたんだ
モア 今日はまず、生まれて一番最初の記憶から聞かせてください。
ジョン 京劇に入る前、孤児の僕を育ててくれた老婦人が外出すると、その小さな部屋に閉じ込め隔離されていました。小さなアパートで、ワンフロアに5、6家族がそれぞれひと部屋ずつに住んでいるような所でね。
モア そのあと京劇に入ったのですね。
ジョン あの老婦人が僕にしてくれた最良のことだな。レストランに入れて洗いを学ばせてもよかったんだもの。幼い頃の僕は何の力もなく、誰かが放り込む所で生きていかねばならなかったのだから。 でもね、京劇に入れられたのも全くの偶然じゃないんですよ。ほんの小さい頃から、ほら、大きなゴミ箱を置くコンクリートの台のようなものがあるでしょ、あの上に乗って、あんなに恥ずかしがり屋だったのに何かしたくて仕方なかった。すると、子供たちが集まってくるんです。京劇は僕の資質からスタートしたと言えます。
モア 今、恥ずかしがり屋だとおっしゃいま したね。
ジョン そう、自分の性格を考えると、こういう職業を選んだのも奇妙だよ。こんなふうにあなたと親しく話しているようでも、パーソナルにはできないもの。 少年の頃、大勢の人がいる部屋に入っていくことができなかった。文字どおり体が震えちゃうんです。自信がなかったのが大きな理由でしょうね。走って逃げられる先の母親がいなかったし、それは正しい、これは間違っていると、いつも背中を叩いてくれる人がいませんでしたから、自分が何をしているのかわかっていませんでした。そのくせ一方ではいつも目立ちたがり屋だった。大きな矛盾です よね。(笑)
モア 京劇はどんな所でしたか。
ジョン 神話の世界です。すべてが神、英雄、伝説精霊の話で。今なら理解できるんだけあの頃はそれが中国文化のエッセンスだとはわからなかった。孤児でも才能があれば、預かって教育してくれてね。京劇が僕の教育すべてだったんです。
モア 話を聞いていて、あなたはとても賢い人だと思う。そんなあなたが長い間、京劇という閉じ込められた世界にいて、よくフラストレーションを感じませんでしたね。
ジョン 僕は、言ってみれば遅咲きの人間なんだ。学問や家、それに社会的環境から長い 間影響を受けてこなかったからね。青年になっても僕は、無垢でナイーブだった。ただ、いつも知性は持っていたと思う。ちっとも賢くはなかったけれど。賢くないし、自分は異邦人だっていう思いがいつも僕に、直観と信念だけで進む方向を決めさせたんだと思います。それって、とても興味深いことだと思わない?
モア 恐ろしくはありませんでしたか。
ジョン 人をストップさせるのは恐怖です。僕たちは「習慣性」の動物だから、決まりきったことに頼っていたい。いつも同じ人と群れていたい。変化が嫌いなんです。ところが同時に、変化したいとも思い、いつでも心の中の葛藤が続いているんです。 僕の場合、赤ん坊の時から全くひとりぽっちにされていたので、大きな義務を負わされ束縛を感じたことがない。それに神話の世界だから、情報は不足しているし、世の中に対する知識が欠如してるんです。これが、僕が何事にもあまり恐怖を抱かなかった理由だな。結果がどうなるか、情報がないからわからないんですから。(笑)
『身ひとつで、アメリカへ。 さよならを言う人もいなかった』モア 18歳で京劇を出たのですよね。
ジョン 僕は、18歳って言ったことはないよ。誰か頭のいい人が逆算しただけです。(笑)
モア とにかく、18歳ということにしておきましょう。(笑)それにしても、アメリカまで渡ってしまうという、自分の人生をガラリと変えるには若すぎませんか。
ジョン 正直に言って、熟考したわけじゃありません。いつも信念だけでした。さっき言った、直観ね。 京劇では数カ月おきに舞台があり、その時 は宿舎を出てフェリーに乗り、香港島に渡っていました。そのたびに、あの香港の高層ビルやブリーフケースを持ったビジネスマンを見かけたけれど、それがどういう意味なのか全く想像がつかなかった。それほど僕たちは 無知でした。少なくとも僕はね。 でも、年を取るにつれて認識し始めたんです。ちょっと待て、ずっと京劇にはとどまれないんだぞって。4、50代の先輩を見てもまだアクロバットをやっていて、怪我をしたら行く先がない。それで、こりゃどこか間違っている。僕の知ってるのは京劇の型だけだ。世の中とは何の関係もない、とね。
モア 少しずつ、自分で学んでいったのですね。
ジョン 違います。ただ感じたんだ。自分に教えたりなんかしない。感じた。だから、ある瞬間が来た時、立ち去らなきゃと確信した。そして、文字どおり逃げ出したんです。
モア ある瞬間ということは、何か特別なきっかけがあったのですか。
ジョン ないよ。契約もなかったし。だけど、信頼関係に基づいた京劇ファミリーの一員だという気持ちがあったし、僕にしか演じられない演目もあった、僕の代わりに誰かに役を覚えさせるまで何カ月もその作品を上演できないんだなあ、なんて思って 罪悪感を覚えました。
モア アメリカへはどのような きっかけで行ったのですか。
ジョン 京劇を離れたあとは何もかもが珍しくてキョロキョロしていたので、たくさん友達ができましたよ。そんな時、あるアメリカ人ファミリーと知り合ったんです。みんないい人で、とにかく楽しくて仕方がなかった。英語がうまくなかったからあんま会話になってはいなかったけど。(笑)同情してくれてね、アメリカに遊びに来ないかと言ってくれたんです。香港をずっと離れるというつもりではなくて。
モア 招待されたのは、アメリカのどこですか。
ジョン カリフォルニアです。スーツケースひとつ持って出かけましたよ。さようならを言う人もいなかったし、少し貯めたお金があったので切符を買って。
モア 自分でですか。
ジョン もちろん。テレビに出たりしてお金は稼いでいたのだから、彼らに払ってもらう必要はないでしょ。もっとも、あのファミリーには本当によくしてもらったな。2年間、下宿させてくれたのだから。 ねえ、アメリカに着いて最初に何食べたと思う?よく覚えているよ、ハムエッグだった。本当においしかったな。(笑)それに、すべてが香港よりもゆったりとしていました。
モア 全く違う環境で、大変な苦労だったと思うのだけど。
ジョン 僕は当時、男としては若すぎ、少年というには年をとりすぎた、いわゆるとまどいの年齢だったけど、みんなが僕に興味を持ってくれました。きっと奇妙だったんだと思う。体を非常に良く訓練してあったから、僕の体はメチャメチャに柔らかい。姿勢がやけに良い。こいつはいったいどういう育ち方をしたんだって、みんな不思議に思ったんだろうね。(笑)
モア 人はあらゆる束縛から一度に解き放たれると、自由をどう扱っていいかわからず、自滅することも多いけれど、あなたがそうならなかったのはどうしてでしょう。
ジョン どうしてかな。きっといつも、自分のしたいことだけを続けてきたからかも。俳優として成功したいなんて思ってもみず、まず勉強することに心魅かれました。図書館に本を持って通うことが幸せで、自分と同じ年頃の若者たちに会えるのが幸せだった。僕はひたすら、世の中に魅了されていたんです。多くの人の助けで大学卒業が実現できたのは事実だけど、自分でも道を開いてきたつもり。成績が良かったから働く許可がもらえたし、奨学金も受けたから授業料は自分で払いました。英作文でBをもらった時、こんなに短期間でBなんてたいしたものだと、我ながら誇りに思えてね。
モア 自己を表現したいという欲求はなかったのですか。
ジョン 大学にいる間は全くね。ところが、卒業式で、学位をもらうための黒いローブを 脱いだ瞬間、自分に何かが湧き上がってくるのが感じられてね。もう、勉強したいと思わなくなっちゃった。まるで、コンセントをちょっと入れ替えたって感じでね。強力な思いだった。舞台に戻らなきゃ、演技がしたいって。ピーナッツバターやチキンを食べ続けても苦じゃなかった
ジョン 大学を出て、すぐにハリウッドに行きました。まだニューヨークは知らなくて、ハリウッドのことは誰もが話していて有名だった。南カリフォルニアにいたから近かったし。もしニューヨークの演劇界のことを知っていたら、ニューヨークに行ってたかも知れない。そのほうが僕には自然だったから。
モア そういう時、のこのこハリウッドに出かけても何ができるかと、凡人は普通、躊躇するものだけれど。
ジョン ハハハ。(笑)僕が俳優になると言ったら、みんなに、クレイジーだ、1%も可能性がない。お前の場所なんかないよ、と言われてね。でもなぜか、長い放浪の旅に出てしまった。
モア オデッセイと言うのはステキな言葉ですね。
ジョン 別にチャレンジしようなんてことじゃなく、ただただ旅に出た。ウエイターやゴミ集めのパートタイムで働いていたらそれ以上稼げないこともあって、年10から100ドルで暮らしていてね。ピーナッツバターやチキン ばかりを食べ続けても、苦にならなかった。だから、定期的な仕事はしませんでした。僕の人生で何か定期的なことがあったとしたら、大学時代だけ。授業料を払わなければならないので、定職についたんですよ。
モア ハリウッドはどんなでしたか。
ジョン 初めて自分がアジア人だと認識させられたよ、アジア人役はほとんどないし、あっても満足できないものばかりで。でも、大きな苦労を勝ち抜いてきたなんてとても言えません。何もかもがなぜか、僕にとって好ましい方向へと流れて行ってくれたと思うから。
モア いつかあなたの自伝を書く人がいたら大変でしょうね。おっしゃるとおりに自然に流れてきたというなら、章に分けることもでき ない。転期がないんですもの。
ジョン いや、あったよ。1990年。マコ岩松さ んがニューヨークに連れてってくれた時。以来、コマがまわり続けています。 舞台の評判はよくて収入も数百ドル。仲間のアジア人俳優たちがうらやましさもこめ「今君の最良の時だ」って言ってた。僕も「最良と言える瞬間が自分にもあって良かった」と思ってうれしかったけど、ひょっとしたら来年も、また何かあるかもとも思って いた。そうしたら映画『アイスマン」の話がきて、「もうこれ以上はない」と思っていたらチミノ監督(『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』)がアプローチしてきた。そうやって毎年、最良の時を経験してきた。これってただもう驚きですよね。
モア では、あなたは、ただ運命の流れに身を任せていたのですか?
ジョン 今回の「チャイナシャドー』は例外 だけど、他のプロジェクトはどれも僕と 関係なく進められていて、たまたま僕が監督のイメージにぴったりだった。そういうのってすごいことだと思う。策略をめぐらして手に入れたんでもなくて、タイミングよく僕がそこにいて、監督のイメージをコピーできたんだから。だけど僕は、皇帝やマフィアな自分と距離のある特異なキャラクターではなくもっと傷つきやすい役をぜひやってみいたいな。僕の実生活により近いシンプルな人たちの話。僕も実際には、とても傷つきやすい 人間なんだから。
モア 今、情報過多時代と言われていますが、あなたはあふれる情報の中で抗うほう、それとも身を任せるほうですか。
ジョン 幸運なことに僕はこれまで、あまり多くをあきらめずにこれた。ひとりだしアーチストだから、時間的にもとても自由だし。もちろん世の中や社会と結ばれているのはわかっているし、日常生活では、銀行に行かなきゃいけないしトイレにも行ってます。(笑) ただ、日常の中で自分がとても自由に感じられ、全体としては自分の聖域が守れる今の状況に満足ですね。十分考えたり、メディテーションしたり、自分自身をよりよく知ることができるから。 みんなも自分で自分の友達になることを学ぶべきだよ。自分で自分が居心地よくなきゃ困っちゃう。僕もずい分時間がかかったし、まだ完全じゃないけど、以前より良くなりましたよ。自分が好きになれない、自分に満足できないなんて、そりゃ辛いものだ。それを克服するためには、ひとりで十分に時を過ごす必要があると、僕は思いますね。
『一生ひとりも情けないけど。でも結局頼れるのは自分だけ』ジョン 僕は自分にラベルをはりたくないな年のことも考えたくないし、僕に関する統計的資料数字そんなものつまんない。そんなのって小さくなっちゃうでしょ。僕はこんなに(両手を広げる)大きくありたいと思っているのに。
モア でも、少なくとも名前は与えなければなりませんよね。
ジョン だから、ジョン・ローンと自分で命名したんだよ
モア いつのことですか。
ジョン アメリカに行ってから。
モア ごめんなさい。でもジョンって、ずいシンプルすぎません?
ジョン ちょっと説明させて小さい頃は「ロンロン」と呼ばれていた。ロンはドラゴンで、ロンロンと重ねると小さなドラゴンという意味です。だからローンという響きは、僕にとっては意味があったんです。それと、香港からアメリカに渡って数カ月後、みんなが僕に「ジョニー」というニックネームを付けてくれたんです。とってもアメリカ的な名で、自分にはぴったりだと思えてね。アメリカに住んでいても中国人でもあるのだからジョン・ローンが丁度いい、って。LONEと綴った1時完全にその言葉の意味を理解していなか ったけれど、今になってみると僕にぴったり。 僕はLONEだし、アーチストは僧侶のようなものです。
モア でも、いつかはファミリーを持つのでしょう? リ
ジョン そりゃあ僕だってみんなと同じ人間だから、いつかはね。でも、今は自分自身のこと忙しすぎるかもね。肉体的にも精神的にも人は分かち合えなきゃと思うし、一生ひとりているなんて情けないと思う。そういう意味では僕は、いたくノーマルですよ。(笑)ただ、結局人間が頼れるのは自分だけだと思う。
モア 誰でも、精神的チアリーダーが必要だと思っていたんですけれど。
ジョン ああ、それはもちろん。いいかな、人間は自分で自分に「あなたは価値がある」とか「あなたはこういう人です」なんて言うことはできないんですからね。みんながみんなので、お互いがお互いを通して見ている。 そりゃもう、サポートは必要ですよ。
モア あなたにもチアリーダーはいますか。
ジョン 映画会社のトップのサポートがなけりゃ、僕が成功を続けるなんてできないのだから。それに、ファン。特に日本の女性ファン。彼女たちは誰よりも情熱的で、とてもオープンで、僕とコミュニケーションすることを恐れない。プレゼントも多くて、時にはセーターを編んで送ってくれることもあるんですよ。(笑)そんなみんなの愛が、シャワーのように僕に注がれていると感じることがあってそれがとても役に立ちます。愛されないなら悲しいし、さらっと言ってしまえば、僕 もみんなから愛されたいから。
モア それでもひとりがいいと。
ジョン どんなに孤独であったり辛くても僕はまずエンターテイナーですからね。第一の仕事はあなた方を楽しませること。僕の存在があなたの気分を良くしたり、考えさせたり、 セクシーな思いを感じさせたりできる。それ が何であれ、退屈しないでいてくれるなら、僕が存在できる場所があるんです。
モア パーソナルな仲間とは、どんなふうに過ごしているのかしら。
ジョン 僕がどこにいるか、みんな知らない ことが多いんだよ。住む所をいつも変えているから。最近は、ビーチで時を過ごすこ とが多いな。海は母親のような気がして。じ っと海を見つめているのが好きなんです。
モア 西海岸ですか?それとも
ジョン アメリカで海岸と呼べるのは、西海岸しかないよ。(笑)海が母で太陽が父、空気はさわやかでとてもヘルシー。そんな時が過ごせる自分は、とても幸運だと思いますよ。海の近くにはスペースが少なく、お金はかかるから。
モア 音楽を聞きながら?
ジョン そう、必ず。音楽なしの暮らしなんで考えられないね。音楽はつまらないことをみんな振り落とす手助けをしてくれるし、聞いていると、僕、涙もろくなっちゃうんです。
モア 記者会見で「カルマ(笑)」という言葉を使っていらしたけれど
ジョン 「カルマ」がどういう意味かなんて、あなたに教えさとすことはできませんよ。(笑)感じてはいるけれど 仏教やラマ教との関わりを深めれば深めるほど、この世に偶然のことなど何もないということがわかってきたんです。どんなことでも昔に戻り、物事と物事との関係を明らかにすることができるんだってね。それに、星天候、潮の満ち引き、人間とも関連しているから、まるで化学反応のように人と人が魅かれ合うことがあると思う。それが破滅を描くことも幸運をもたらすことも。僕は、そういうことを深く信じています。
モア シンプルにお聞きします。自分の心かオーブンであるために、何を一番心がけていらっしゃいますか
ジョン (しばらく考えて決めつけないように、賢く立ち回りすぎないことかな(問) それと、いろいろなものがありすぎて、わかっているつもりでも本当に理解していないことが多い。だから、定期的に自分の抱えているものを 捨てるようにしています。手放すことを学ぶ努力をしてきたのかな。俳優としての繰り返しはしたくない。でないと、僕は今、時代のぱっと散る花火になっちゃう。
モア 当分は、仕事、仕事に追われることになりそうですか。
ジョン 僕には何もなかった。そんな時、世の中が突然目の前に家族なしでやってきたんです。だから仕事は僕の一部。仕事がなけりや、僕がこの世に存在する意味がないんだ。仕事と結婚したんだな、僕は。ねえ、今日 のインタビューで僕、確定的なことを何も言わなかったでしょ。でも、この話は別。仕事は僕の血の中に入っている。だから、二度と仕事ができなくなったら、生き続けられるか自信がない。世の中と、どう関わっていけばいいかわからなくなってしまうから。 だから、絶対に絶対離婚はしません。(笑)