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品田雄吉
ヒューストンの石油会社の若い社員が石油コンビナート用地買収の任務でスコットランドの田舎に行く。 ローカルヒーロー 夢に生きた男 は、言ってみればそれだけの話だ。しかし、この場合、ヒューストンとスコットランドは実に 様々な対立概念のシンボルとしての意味をになっている。それは、都市と田舎であるだけでなく、ビジネスと生活でもあるし 新と旧でもあれば、アメリカとイギリスでもあるのだ。極端に言えば、共通なのは、英語という言語くらいのものだ。 この映画は、その対立の生みだすギャップのおかしさによって成り立っていると言っていい。 1983年のモスクワ国際映画祭にイギリスから「女優フランシス」が正式出品された。 が、実はイギリス側が最初に出そうとしたのは、この「ローカル・ヒーロー 夢に生きた男」だったのだそうだ。 しかし、この作品は、ソ連の拒否にあい、出品をあきらめざるを得なかった、ソ連側が拒否した理由は 映画を観た人にはすぐわかるはずだが、中でちょっと登場するソ連人の描写が良くないという事だ。 その話をぼきはモスクワのイギリス大使館員から聞いたが、この映画が笑いの種にしているのは、ちょうどそのような 硬さなのではないかと思われる。映画にまつわる話が映画と同じような性格を持ってしまったことは何ともおかしい。 とにかく、スコットランドのユーモアかイングランドのユーモアか知らないが、 ビル・フォーサイズの演出には、何食わぬ顔をした男らしさがあり、お人よしのようでいて抜け目なく、 あるいはとぼけているようで鋭く、ひなびているようで都会的な、と言いたいお笑いのセンスがある。このセンスは、かなり良質のものだと言っていい。 ソ連の漁船がやってくると村の雑貨屋のおばさんが嬉々として出迎える、ソ連の男と良い仲らしい。 そしてそのソ連人は、アーカートから情報を仕込みながら、自由主義圏での利殖にちゃっかり精を出している。 あるいは、ヒューストンの本社との連絡に村でただ一つの公衆電話を使っているマッキンタイアの為に電話番を買って出る村の男。 こういった人間たちは、まさに人間的に生きている人間たちだ。この映画のコンセプトは、すでにして明瞭だ。 現代の先端で生きる人間は、本当の人間らしさを忘れてしまっているのではないか、という問いかけ。 それは、ぼくたちの日常で常に意識されている問題であるはずだが、それがこんな形で描かれると、 ぼくたちが日々失っている最も大切なものについて、改めてじっくり考えてみたくなるのだ。 結局、この映画は、現代の都会型社会のありように対するユーモラスな異議申し立てなのだ、そして、ビル・フォーサイズのセンス・オヴ・ヒューモアは、すこぶるいい。
大森さわこ
とびきりモノすごくはないけれど、胸のじんわりしみるような味のある作品を作る人。イギリスのビル・フォーサイズはそんな監督ではないだろうか。 「ローカルヒーロー」はフォーサイズの三本目の監督作品にあたる。 83年に海外では封切られているが前作「グレゴリーの女」で一躍イギリスを代表する若手のホープになったフォーサイスの評価を決定づけた佳品だ。 アメリカでの受けもよく、その年のニューヨーク・タイムズ、デイリー・ニュース、ヴィレッジ・ヴォイス、ニューズウィーク、ピープルといった 新聞・雑誌のベストテンの一本に選ばれている。 また、ニューヨーク批評家協会賞や全米批評家協会賞は最優秀脚本賞をフォーサイスに与えている。 日本では字幕もなくひっそりと「グレゴリーの女」が公開されただけの状況だったのに、海外ではすでにかなり注目される存在へと成長していたようだ。 フォーサイス映画に欠かせない大きな特徴はまず笑いである。 「グレゴリーの女」にしても「ローカル・ヒーロー」にしても、登場人物の持つどこか他人とズレた性格が、観客にクスクス笑いを起こさせる。 「ローカルヒーロー」に関していえば、舞台となるスコットランドの村人たちが全員がどこか漫画チックな不思議な感覚を持っていて、 それが一見平穏で退屈そうな村をこの上なく奇妙で魅力的なパラダイスに見せる効果を果たしている。 フォーサイスの次作「コンフォート・アンド・ジョイ」は「不思議の国のアリス」と「ガリバー旅行記」を掛け合わせたような作風と呼ばれているが、 「ローカルヒーロー」の方はさしずめ「ピーターパーン」という所だろうか。 要するにこの村はネバーネバーランド(実際には存在しない国)なのである。 「ローカルヒーロー」は現実の物語ではなく、一種の童話というワケだ。 小さな田舎をコンビナート建設のためにアメリカの大手会社が買収しようとする設定そのものは プロデューサーのロバート・パットナムが新聞で見つけたもので、やりようによっては、メッセージ色の濃い社会は映画に仕立てることも可能だったのだろうが、 あえてそれを避けて童話にしたのは脚本を書いたフォーサイスの力だろう。 彼はシナリオを描くとき、机の上のタイプをいきなり打っていくという方法はとらず、とにかくロケ地に行って人々をじっと観察する。 そして、それをメモとして残しながら、少しずつ攻勢を練っていくのだそうだ。 小さな村の住人が突然金持ちになったらどうなるんだろう?そう思いながら、シナリオをふくらませて言った。とにかく、人間描写だけを頭に置いて書いていったんだ。 彼のこんなコメディに対するアプローチは本国イギリスではイーリングコメディ(40、50年代に隆盛を誇った英国喜劇)の再来と呼ばれているようだが、 フォーサイス自身はこのレッテルをあんまり好んでいないようだ。 「イギリス人って映画がまるで分かっていないからね。アメリカ人の方がずっといい。」 では、アメリカでは何と呼ばれているのかと言うとこれが、スコットランドのウディ・アレンなのである。