アメリカの太平洋から、大西洋岸を結ぶ道を私はソウルロードと呼んでいる。 ピーター・フォンダとデニス・ホッパーが「イージーライダー」でこの道を東へ東へと走って行った時から、 私はこの道に彼らジェネレーションの魂のさすらいを見たのである。 そこにはメサがあり砂漠があり、そして夕陽が沈んでいった。あの雄大なアースは彼らに至福をもたらすはずだった。 だが、果たして、そうであったろうか。ヒッピーを嫌う何者かは理由もなく彼らに銃を向け、そして一瞬のうちに 彼ら求道者たちは地上から消え去ってしまった。「断絶」という映画は今また二台の車がこのソウルロードを走ってゆく。 一台はGTOことウォーレン・オーツが乗るボンティアック70であり、一方はジェームズ・テーラーのシボレー55年型である。

世代的に言えばウォーレン・オーツは37、8歳。テーラーの方は27、8歳。年齢的にはワン・サイクルの隔たりがある。 だが、両者共通のものは、いずれ共に、車に淫していることだ。 もっと言葉を換えて言えば、車に自分を同化してしまっているということだ。 ウォーレン・オーツは誰が見ても人生の落後者であり、自分の価値をこのボンティアックによって現すしか方法がない。 そしてジェームズ・テーラーの方も、エンジンふかしに自己閉塞する以外、なにもなくなっている。 彼らはまたストリート・ドライバーと呼ぶべき種族であって、町から町へお互いの車を競争させては、 百ドル二百ドルとかけて、その収入によって生活している新しい種族である。 だから、ジェームズ・テーラーはお互いに賭けて勝ったとしてもそんなに嬉しそうな顔をしない。 勝ったところで、そんなに至福に繋がらないことを知っていると同時に、それがプレイでなく生活の一部に組み入れられてしまっているからである。 そして、ここではロック歌手としてのジェームズ・テーラーの鋼鉄板のような疑人類的パフォマンスが効果を出している。 こうして、二つの世代がワシントンを目指し、ドライブレースに出発するのだが、ここに、もう一人、ズタ袋を担いだ フーテン娘が乗り込んでくる。年の頃は17、8歳。名前を言うわけでなく、おしっこの時だけ大声を出すフーテン娘である。 つまりジェームズ・テーラーよりさらに10歳も下の世代なのだ。

この映画の題になっている「断絶」というのは甚だこの映画の内容にそぐはないものだが、 この3つの年代がこの旅の中で各々なにを求めようとしているかが、重要な面白さなのだ。 ストリート・ドライブのレースと言っても途中、色々なヒッチハイカーを乗せてゆく。 ホモが乗ってきてお礼のホモチックな愛情表現をすると突然、ウォーレン・オーツは怒り出す。 そうかと思うと、乗ってきたヒッピーに対し「この車はベガスで稼いだ」とか 自分の人生のありもしない話をべらべら嘆舌り出すと、今度はヒッピーの方が、うんざりして車を降りてしまうところなど全く面白い。 ほんとに、ウォーレン・オーツのおっさんの話というのは一回一回が違うのであり 当人がいくらお金を持っているのかすらこちらには分からない。ただむやみに人懐っこく競争相手に対しても、 自分の車のトランクを開けてはとっておきのウイスキーをふるまうような愛情表現を見せるのである。

街道筋にはフォードの30年型を見せびらかしている中年男が出てくる。 コレクションマニアにとってはよだれの出そうな車であるが、年を喰えば喰うほど、 彼らは精神的に逆行し、大人から子供へ幼児性患者になっているところが、よく出ている。 その点シボレー55年柄は手作りの権化であり、一件、カッコが全く悪い車が、いったん、びょうを外すと、 鋼鉄の部分が、一気に持ち上がって、何とも言えない男丈夫の感じを作り出す。

その鋼鉄車の周りを、もう一人の同乗者のメカニックがうろつくとき、初めて見物者の方も、この車の価値観を見直し、改めてエキサイトしてくるのだ。 旅に女は禁物というが、ウォーレン・オーツはしきりにそのフーテン娘に、このレースが終わったらフロリダへ行って日光浴を一緒にしようとコナをかける。 彼が頭に浮かぶこれからの人生というのは、まさにそれだけの事であって、結局、彼が人生の落後者になってしまったのは、 働くことより先にかっこいい自動車があり、フロリダで日光浴をして、肌をこんがり焼くという事だけしか イメージになくて、それを生み出すための生活の方は、まったくもって脱離していたからに他ならない。 だが、このフーテン娘にぬかるのは、ウォーレン・オーツの方よりもむしろジェームズ・テーラーの方なのだ。 フーテン娘に「オハイオのコロンバスへ行けば、機材がすごく安く帰るんだ、俺と一緒に行かないか」と誘いをかける。 これは一種のプロポーズに近いものだ。

彼は車だけにのめって自分の青春を費やしてきた。 しかし、あのエンジンのエキサイトは、それ以上に自分の人生に対して、何にも答えてくれなかった。 彼とて、このまま行けばウォーレン・オーツのようなオモシロおじさんになってしまう恐れが多分であるからだ。

しかし、このフーテン娘は追っかけてきたジェームズ・テーラーをも全く無視して、 同じレストランで食事をしていたオートバイ乗りに同乗してバイバイしてしまうのだ。 ここでは、カメラが窓越しにひいているのだが、彼女はズタ袋をもってはオートバイに乗れないと分かると、平気で、そこにズタ袋を置き去りにしていく。 彼女がそんな最後の私有財産すら捨て去ってゆくところが、何とも立派だ。 したがって、オハイオで自動車工場の修理工の女房になろうなどという気はさらさらないことは、最初から分かっている自明の事柄なのだ。 そして恰度、トイレから帰ってきたウォーレンオーツは彼が振られたこの光景を見ると一種、何とも言えない表情をする。 彼は嬉しいのだ、俺の同僚が一人で来たという具合に。

つまり、ウォーレン・オーツはフーテン娘を口説いている時でも、 せいぜいフロリダの砂浜で寝そべっている光景だけを思い浮かべて、彼女と一緒に生活してうまくゆくなどは、何にも考えていない。 だから、同じ、降られたとしても全然、傷つかぬようにできているのだ。 それよりもはるかな年下にもう一人、振られた奴がいるという事の方がよほど、嬉しいのだ。

映画は最後、ストリート・ドライブのレースをするところで終わっている。 フィルムがスローモーションになったかと思うと、突然ぼっとこれが焼ける。 彼らの人生は、もはや、エンドレス的な同じことの繰り返しでありそれにピリオドを作る意味でこれを使ったのであろうか。

ウォーレン・オーツとジェームズ・テーラーはこれからはおそらく連れションの珍道中なのだ。

いや、たとえ一緒に旅をしないにしても、もはや、彼らの間には世代の格差などはありはしないのだ。 ジェームズ・テーラーもここに至っては車の存在だけが自分を表示する唯一の方法になってしまったのだ。

この映画は、だからかつてはソウルロードであったはずの道をソウルの喪失者たちが無目的に巡礼しているという事を言いたいのだろう。 ヒッピーは結局世界に散らばったがどこにも至福を見出すことが出来なかった。 それと同様に、この広いアメリカをむやみやたらに突っ走る彼らもまた魂の喪失者としてあてどのない旅を続けるしかなくなっている。 アイロニーの深い近来稀に見る傑作だと思う。

佐藤重臣


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