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「ジェームズ・テイラー 1995年 インタビュー」 71年アメリカでの公開前、米版エスクァイアが表紙記事としてシナリオを全文掲載した。 持参したその号を見せるとテイラーは「ああ、この号は覚えているよ」と目を細めた。 J「ジェイクブラックマンがやった記事だろ」
――ジェイクって誰ですか?ライター?J「うーん。当時はエスクァイアの編集者だったと思うよ。 彼と脚本のルディー・ワーリッツァーはとても親しかったんだ。 で、脚本を読んで素晴らしいと思ったんじゃないかな。 映画はまだ公開されてなかったんだから、ぼく自身もこの映画を観たことがないんだ。」
――見たことがない?なぜですか?J「さあ、自分を守るためかな。見たいと思ったことが一度もないんだ。 家にビデオがあるはずだから、そのうち見るかもしれない。もうずいぶん昔のことになったし。 23〜24年前?もう見ても安全かな。僕は(この頃とは)別人だし、もう充分、時がたった。 人間は6年経てば全身(の細胞が入れ替わって)新しくなるそうだから、その4倍もたったんだから、すっかり別人だよ。」
――なぜ、この映画に出ることになったんですかJ「僕のマネージャーでプロデューサーのピーター・アッシャーが製作のマイケル・ロフマンと知り合いだった。 彼や監督のモンテ・ヘルマンはこの映画にプロでない役者を探していたんだ。 ローリー・バードもデニス・ウィルソンもみんな基本的にプロの俳優じゃない。 これはモンテがそう望んだんだと思う。モンテはこの映画を一種のドキュメンタリーに近いものにしたかったんだろう。 例えば彼は僕たちにスクリプト全体は渡さず、いつも1ページ、その時々に撮る分しかくれなかった。 それで初めて自分のセリフを知るわけだ。 モンテは基本的に僕らにこの世界が創造できるとは信じてなくて、ある環境に僕らを置いてその反応をキャメラに撮ろうとしたんだと思う。 だから、それぞれのシーンにたくさんのテイクを撮った。何度も何度も、繰り返しね。僕らは1日15時間、ほとんど車の中で過ごした。 この映画が描くドライブ・アクロス・ザ・カントリーをそのまま実践したんだ。 当時の僕のこの映画に対する印象はとてもフラットという事だ。いわゆるローエフェクトというやつで、非感情的で動きが少なくて。 モンテの奥さんが当時繊細さに目覚める訓練みたいなものを受けていて、映画作りにもそれを応用していた。 撮影前にいつも平坦でいるためのセッションを行うんだ。彼がフィルムに収めたい状態に持っていけるよう、ぼくらに時間を与えるんだね。」
――撮影はどれくらいかかったんですか?J「7、8週間くらいかな。あの頃はすばらしかった…。この映画の出演者はほとんど死んでしまった。 ローリーは自殺で、ウォーレン・オーツは心臓発作で、デニス・ウィルソンはボートの事故で。 みんなとはその後、会うこともなかったな。 これは映画の撮影には典型的なことだろうけど、撮影中はすごく密接な関係で結ばれて運命を共にし、終われば離ればなれになって、二度と会うことはない。 だから撮影中はそれぞれがかかわっている世界を濃密に共有し、それぞれが自分をさらけ出す。一種の秘密の生活だね。 ウォーレンは現場にキャンピングカーで来ていて、ぼくはその頃ジョニ・ミッチェルと一緒だったから、ぼくらはその車でよくライヴを演ったものだよ。 町から町へ、ロケ現場から現場へ。マスカリンをたくさんやったり、インディアン保留地に行ったり・・・楽しかったよ。」
――断絶はLAからワシントンDCを目指す映画です。実際の撮影もこれと同じコースをたどったんですか?J「そう。撮影中の体験はスクリプトの内容にとても近いんだよ。この映画の撮影自体が一種のロード・ムーヴィーと言える。 モンテ・ヘルマンが望んだのは演技ではなくそこに起こったことを撮ることだった。彼は決して僕らと共同作業はしなかった。 彼がしていることを共有させなかったんだ。どういう人だったか?ほかの監督はよく知らないけど、彼は完全に憑りつかれているように見えた。 映画を作るプロセスに突き動かされている感じだった。監督というのは映画作りのプロセスに全責任を負っていて。 たくさんの人がサポートしようとするけれど最終的には監督の責任になるから、常に仕事に没頭しているよね。」
――あなたもデニス・ウィルソンもミュージシャンですが、この映画ではプレイすることもなく物足りなくありませんでしたか?J「すごいフラストレーションだったよ、撮影の合間にデニスがドラムをたたき出し、ぼくが歌いだすこともあった。 でも撮影中、ホテルに戻っていくつか曲を書いたんだ、ハイウェイソングとか。でも映画に触発されたわけじゃない。 断絶は路上の生活を描いているけど、ぼく自身ロードで長い時間を過ごして路上の生活をしてきたからその必要はなかったんだ。 人は一度、路上で生きることを学ぶと人生の生き方も覚える。そして何でもできるって感覚を身につけるんだ。」
――この映画が作られた70年代、あなたはどういう青年だったんでしょう? つまり当時はベトナム戦争中だったわけですが・・・。J「うん。ベトナム戦争が終わったのは74年。僕は兵役検査でAをとったけど戦争にはいかなかった。精神病院に入っていたからねえ。 え、患者のふりをしてたのかって?(笑)いやいや、本当に頭がおかしかったんだ。あの頃の僕は何一つまともにできなくてね。 兵役検査の後、面接に行かなかったら担当官が病院まで追いかけてきたけど 「だめだ、こいつは傷つきやすくクレイジー過ぎる」って帰って行った。助かったよ。 戦争に行ったところでぼくはテリブルな兵士だったろうから。 僕の世代の多くが戦争から帰還してもいまだに人生を再構築できないでいる。 アメリカにとっては辛い時代だったね。しかし反面、エキサイティングでもあった。 アメリカはまだ約束された土地だったしね、ぼく自身あの時代の産物だと思うよ。 2年くらいアメリカ中をヒッチハイクして最終的にロンドンに渡ってビートルズにスカウトされたんだから。 運命の旅?まさにそうだね。
――最後に「断絶」の再公開にあたって何かコメントいただけますか?J「OK。この映画の撮影はとても面白いものでした。でも僕はこの映画を観たことがありません。 出演者の大半は死にました。見ない限り僕は死なないでしょう(笑)。まあ、もう見てもいい頃だね。