『キネマ旬報 1983年5月下旬号』佐藤忠男
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合作でよかったことはお互いに言葉が通じないという事を意識しているため、
互いに理解しあおうと努め、それがたくまずして作品のテーマと一致したことだと大島渚は言う。
日本人と西洋人の共同作業が、息の合った緊密なやり方で進められたと監督が満足しているこの作品は
日本人と西洋人の悲惨な衝突を主題にしている。戦場と捕虜収容所で出会った両者は
ただ相手と敵対するだけでなく、互いに相手を理解し難い連中だと思っている。
しかし、その血みどろのぶつかり合いの末に、彼らはたがいに、相手を理解しあえるかもしれない所にまで進み出る。
しかし、彼らが本当に相手の心に触れたとき彼らは死によって引き離されるのである。
理解しあえるかどうかという事がサスペンスであり、それは製作過程のサスペンスでもあったかもしれない。
この映画は第二次大戦中の日本占領下のジャワの日本軍の捕虜収容所を舞台にしている。
そこにはイギリス軍やオランダ軍の捕虜が収容されており、日本の軍人たちによる残酷な捕虜虐待が行われている。
日本軍の下には、徴用で連れられてきた朝鮮人の軍属がいて、捕虜の監視に当たっているが
日本軍は彼らをも虐待する。
収容所長のヨノイ大尉は潔癖な精神主義者であり、実質的に収容所を切り回しているハラ軍曹も、
性格は対照的に粗野だがやはり軍人精神の権化のような男である。
彼らは白人の捕虜に男色行為を仕掛けた朝鮮人軍属を軍人精神に反しているという理由で切腹させる。
そして、この処刑に立ち会わされることに耐えられずに、男色の相手にされた捕虜が自殺し捕虜の将校たちがこれに抗議すると
ヨノイは捕虜全員がたるんでいると怒って二日間の断食を命令する。
ヨノイとハラは、捕虜たちも軍人である以上、自分たちと同じように武士道を持つべきだと考える。
彼らが捕虜を虐待するのは少なくとも口実としては、武士にあるまじき不名誉に甘んじている捕虜たちを鍛えて武士道に導いてやるためなのである。
日本の軍人が一般にこうだったとは言えないが、1つの極端な形としてはあり得た性格である。
ところがヨノイは捕虜の一人のイギリス軍中佐セリアズに、自分以上の理想的な武士を見出す。
彼はこの上なく勇敢な戦士であり、また素晴らしい美貌である。
ヨノイはセリアズに異常なほど魅せられ、それが同性愛の欲求になる。
他方ハラは通訳として絶えず接触するイギリス軍の捕虜ロレンス中佐に暴力をふるいながら、
しかし彼の人間的な風格の大きさに引き付けられていく。
ヨノイもハラも軍国主義時代の典型的な帝国軍人として日本精神の西洋に対する優越を固く信じているが
しかし、彼らのその確信の底には否定しがたい西洋への関心が秘められているのだ、
ハラが語るマレーネ・ディートリッヒを犯したいという夢にそのあこがれは端的に示されている。
日本人は開国以来、西洋にあこがれ続けてきたが、しばしば西洋から
手ひどく拒絶された。するとあこがれは憎悪に転化した。この憎悪は国粋主義によって聖化され、
西洋帝国主義列強の植民地からアジアを解放するというイデオロギーによって合理化された。
ヨノイとハラはセリアズとロレンスに出会うことによって自分を支えていた信念の底に秘められていた、
西洋への強い関心に気づくのである。
ヨノイが純粋な精神主義者でありたいと願っている男であるように、セリアズもまた、極めて精神的な男である。
彼は少年時代にせ虫の弟に立場上ちょっと酷な態度を取らざるを得なかったことがあったのを
捕虜収容所の地獄のような状況の中にあっても悔いている。そんな純粋な男だから、彼にはヨノイの純粋さが理解できる。
ヨノイがセリアズに対する同性愛で錯乱して、病人まで含めた捕虜全員を集合させて意地になって無茶な
命令を乱発し始めたとき、セリアズはヨノイのところに行って彼の頬にキッスをする。
このクライマックスは男色という生臭い動機の上に成り立ちながら見事に精神的でありこの上なく清潔である。
それは純粋な男にだけわかる純粋な、あまりの錯乱に対する憐れみをくっきりと示しているからである。
凶暴なハラが一度だけ、クリスマスの夜にどういう風の吹き回しか無実の罪状で死刑にすることに決めていたロレンスを自分の一存で釈放する。
ハラはその時、自分の寛大さを大いに愉しんでいたのだろう。
しかしビートたけし嬉々として演じているこの夜のハラには全く邪気がなく、彼が根はごく全力な人間であることを示している。
ロレンスは戦前に東京の大使館に勤務しており日本語ができ日本人に対する理解を持っている人物である。
彼はハラの凶暴さと裏腹になっている善良さを分かっている。だから終戦後、今度は逆に戦犯死刑囚となった獄中のハラから
明朝処刑されるから一目会いたいという連絡を受けると、とるものもとりあえずかけつけて、深夜の独房で面会する。
そしてこの映画の最も感動的な幕切れが演じられる。慰めようもなく、ただ深い同情だけを示すロレンスに
ハラは「メリークリスマス・ミスター・ローレンス」と呼び掛けてにっこり笑うのである。
この微笑は死に直面している人間が、その恐怖を少なくとも自分が信頼している人間には見せまいとする、
その人間としての最後のギリギリの場における善良さの表明として心を打つ。
そして、その意表を突かれた感銘の跡で、さらにさまざまなことを考えさせられる。
ハラは自分があれほど虐待を加えたロレンスを、実は最後の別れを告げる人物として選ぶほど深く信頼していたのである。
それはいったいどういうことなのか。
第二次大戦をあれほど熱狂的に戦った日本人は敗戦と同時に完全に抵抗を止め、占領軍に対しては親愛の情を示しさえしてきわめて協力的であった。
これは当時軍国主義的な教育を受けて育った少年だった私には大きな謎であった。
戦場のメリークリスマスのラストシーンのハラ軍曹の微笑は私には36年前のこの疑問に対する回答を含んでいるようにも見える。
われわれは敗けたとき、それを悲しんだが同時に何か憑きものが落ちたような安心も心のどこかに感じたのだ。
そして、鬼畜米兵と呼んで憎んでいたはずの敵を実は心から憎んでもいなかったことを悟ったのである。
しかし、ただそれだけのことを悟るために、ハラは憎んでもいない相手を徹底的に虐待死、それを自分の死で償わなければならなかったのである。
自分を知るために、人間は自他をかくも傷つける。
大島渚の映画はその主人公が犯罪を通じて自分自身の本当の姿を発見するに至るドラマである。
という事は、彼の作品で、人間は自分自身の本当の姿を発見した時にはしばしば破滅しなければならないという事である。
人間にとって、自分自身を知るという事はそれほど困難なことであるが、ある種の人間は破滅をかけてそれをやってのける。
デヴィッド・ボウイは・・・あの異様なほどの美貌がセリアズという人物の並外れた純粋さを際立たせ、
いつも虚空の一点を見据えているあの思わせぶりな目も、ここではそれがひたすら己の内面を見つめている誠実さとして
感じられるものになっている。そして彼は、俳優としてじつにうまい。
銃殺を覚悟して最後の髭剃りと食事をパントマイムで演じるあたり、かなり年季の入った演技である。
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