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1994年 『トカレフ』
キャラクターというのは極端であればあるほどわかりやすいし、演じやすいんです。 そういう意味では松村は、最初の台本では精神安定剤を常用したりと言うように、もっと異常なキャラクターでした。 しかし僕はなるべく極端な行為をしないで、細かい動作の中で松村という男を説明したいと思っていました。 説明を少なくして、心の中に内在する負の何かがオンになるかならないか、 人間だれしもが心に持っている暗いエネルギーを実際の行動として実行するかどうかをギリギリの危うさの中で表現したかったんです。
映画は日常から非日常の世界へ入っていく二人に「トカレフ」というきっかけを与えたが、ぼくはそんなきっかけすらいらないと持っていました。
人が行動を起こすということは、凄く無表情なことだと思うんです。 例えば「ナイフで刺す」「拳銃で撃つ」という行為を映画のテーマのように撮ったり演じたりする人がいますが、それは付録みたいなもので、 あくまで目的はナイフや拳銃を手にすることではないでしょうか。それをどう使うかということは、むしろ付け足しだと思います。 人の行動に伴う感情を細かく識別・分析できるとしたら、意識できるのは「石を持った」「拳銃を握った」という所までで、 重要な意味を持つのが、行為に至るまでのプロセスだと思っていました。
もう一つには松村の目的が西海ではなかったということがあります。勿論女性にも救いを求めてはいませんでした。 彼は人生というものを考えに考え抜いた結果、死んだ先にあるのは、ただの闇だと悟ってしまった男なんです。 彼にとっては、まともに死と対峙する瞬間だけが救いだったのではないかとぼくは理解しました。
映画を観る人は、松村は西海の奥さんを欲しかったんだととる人もいるでしょうが、ぼくの中には違うロジックがあったんです。 それをぼくの演技から理解する人は99.9%いないと思います。 逆説的ですがその0.1%の中に自分が存在していることが、唯一、演技者であるという自覚を持てる瞬間なんです。
僕は作り手と言うのは確信犯であってはならないと思っています。 悩まずに物を作るということほど観客に失礼なことはありませんとね。 でも、ベテランの方は往々にして、確信犯と言うか、自分の方法論は間違っていないんだという撮り方をしています。
阪本さんのこれまでの作品からも感じていたんですが、今回、 この映画を阪本監督が悩みながらとっている姿を目の当たりにして「ああ、この人とは一緒にモノを作れる!」と実感しました。 たとえその思いが錯覚であったとしても、いっしょに仕事をしていくうえでは大事なことなんじゃないかと思うんです。
しかも僕の役は、セリフが少ない分だけ微妙な演技が要求されたわけですが、 監督の指示するカメラのポジションとレンズを観れば、今どんな絵になっているか大体想像できるし、彼が抑えたいのはここなんだなとすぐにわかるんです。 求めているものが理解できていましたから、そういう意味で、「あ、うん」に近い呼吸で仕事できたと思っています。
僕にとって、芝居を作っていくということは、あらかじめ自分が作り上げたキャラクターの枠組みの中で動くことで、 本質的に役を理解していれば、なにをやっても突飛な演技にはならないはずです。 だから、松村という枠の範疇でやることは、例えば、よく物を落としたりとか、 ヘルメットに触れる動作、セリフの言い回しまで、何気ない行為すべてに意味を持たせたつもりです。 阪本監督とは、その意味付けの部分をうまくコミュニケートできたし、表現をより昇華させるための方法など。一つ上の次元で話が出来ました。
今回、一番感じたことは、阪本監督は監督の部分と演出の部分を連動させることが出来る人だということなんです。
例えば、刑事が松村に面会に来るシーンで、阪本監督は「直線的に刑事の方へ行くのではなく、外側を遠回りして行ってくれ」と言ってきました。 それでそのシーンはハイスピードで撮ってスローにコマ落としするという方法で撮影したのです。 ハイスピードで撮ってスローにコマ落としするというのは撮り終えた後の監督としての仕事ですが、 わざわざ「遠回りして」というのは、その一瞬に松村の感情を表現しようとする演出なんです。 そういう演出があればこそ、ぼくは「遠回りする」理由を考え、役者として表現することが出来るわけです。
そうした気持ちのやり取りと言うか、重なりがとてもスムーズでしたね。 阪本さんと一緒に仕事ができるなって思うのは、そういう瞬間です。彼とはこれからも半端に付き合うことはないと思っています。
この映画の中で、監督とぼくの考えが大きくずれることはありませんでした。 もしあったとすれば、ラストのセリフだけです。言った方がいいのか言わない方がいいのか。二人で非常に迷いました。 あれは聖書からの引用なんですが、撮影の当日まで阪本さんも僕も悩みに悩んだ部分でした。 ある種の決着をつけやすい台詞なので、あそこで映画全体が分かりやすくなってしまっていいのかどうかと。
でも、僕は彼が望む映画、彼が望む演技に挑戦しようとし、ベストの状態で出来たと思っています。
この映画は、好きか嫌いか見た人が二つに分かれるのは確実だと思っていました。万人受けする映画じゃないから。 僕は演技者ですから無責任に言えるのかもしれませんが、予想した通りの映画になったと思います。
でも、話の展開上で必要な偶然性の問題とか、スタッフが懸念してた所に関しては見事なくらい自然にクリアできていました。 ときどき、いくら映画でも許せない展開ってありますよね、あらかじめ作りものだっていう前提があるからこそ許せないっていう部分が。
しかし作りものだという前提する意識させないのがこの「トカレフ」だと僕は思いました。 そう考えれば、大和さんの撃つ弾が全部僕にあたって、ぼくが撃つ弾が全部外れようが、そんなことは問題じゃないんです。
今の日本のマーケティングから言って、映画を取り巻く状況が貧しいのは仕方ないことだともいます。 問題は、その中でいかに精神的に高揚するかということじゃないですか。坂本さんや僕の中には映画をやるんだと言う純然たる意識の高揚があります。 この気持ちはいわゆるナショナリズムという言葉に置き換えてもいいものです。我々は「映画ナショナリスト」なんです。
だからこそ、映画を否定することは自己否定することであって、安易には撮れません。安易であってはいけないんです。 もし安易なカットが一か所でもあれば、映画全体が成立しなくなります。映画の中には必要なものしかいりません。
そういう意味では、一本の作品の感性のためには、最終的に僕が出たカットが切られても構わないとさえ思っている。 逆に言えば監督に対して、絶対に切ることが出来ないように演じ切るということなんです。
これまでに僕が出た映画を考えて見ると、ある種の屈折感やストレスとか、その瞬間の自分自身が映像に出てしまっていました。 でもこれからは本当の演技で魅せていかなければならないと思っています。
自分なりの演技を模索したりスタイリングしたりと言う時期を経て、役者として自信がついてきたのはここ数年です。 こんなことを自分から言う役者はいないかもしれませんが、今の僕は役者として力があると思います。自信があるんです。 でも僕は、ある一つのイメージを作り上げてそれをずっとキープしていこうとは思ってません。 いわゆる世間って、イメージが固定された物しか受け入れようとしないでしょう?だからこそあえて自分を固めずにいたいんです。
僕が阪本さんを信頼できるのは、常に自分のスタイリングを変えようと努力しているという点です。 スタイルを固定しようとしている映像作家が多い中で、常に違うものを探している。 その中で阪本イズムと言うか、あちこちに阪本さん自身が見え隠れするのは正直だし、素晴らしいと感じているんです。