キネマ旬報 1979年 12月上旬号 映画批評
 結論から先に書こう。これは華麗なる失敗作と言わねばならないだろう。 降旗康男の悪い面が出た。多分に感傷的で、非論理的で、小粒な仕上がりになってしまった。タイトルの割にはスケールを感じさせない。 こうした面はB級ムードアクション的作品になると全て良い方向に転換され、 思わぬ傑作が生まれる要因となるのだが、監督交代劇の不都合を逆手に取る娯楽大作になりえなかったのは残念だ。 この原因は素人目にも脚本にあることはわかるのだが、さらにその原点を推察するに、初期監督の予定だった大島渚にある、と敢えて言いたい。 というのも、雑誌國文學11月号の松田政男との対談の中で、この映画の監督交代劇の顛末を語っている部分で、 この作品のテーマや人間関係の骨子が、当初大島渚の考えに沿って作られたもので、監督が変わった後もさほど変わっていないという事が分かったからだ。 もちろん、大島渚自身がこの作品を降りた理由の第一に、 高田宏治の脚本が気に入らなかったからという事も十分承知したうえであえて独断と偏見を恐れずに決めつけているのだが。 気に入らないと言いながら、高田宏治は大島渚の注文するままにこの脚本を何度も書き直している。 テーマも人物設定も大島渚のアイデアが活かされている。あとは好みと技術の問題である。
 つまり、このドラマで大島渚は黒幕の家庭とテロリストの少年を描くことに力点を置いたと言っている。 その為の人物配置は、大島渚の思惑はともかくとしてとりあえず彼の考えた通りになっている。 しかし、私はその人物一人一人の捉え方がどうあれ、 黒幕を描くのにその過程と異常な人物関係をドラマのポイントに置くという方法論そのものが間違っているように思える。
 我々は黒幕の家庭など実はどうでもいい。テロリストの一人や二人、誰に心酔しようと構やしない。 第一、腹違いの兄妹の愛とかテロリストの純粋少年とか、20年がとこ古い。 我々が知りたいは、電話一本で一国の総理の座を左右できるその黒幕の政治的メカニズムそのものなのだ。
 なぜ、たかだか一介の実業家的思想家にそのようなことが出来るのか。 当然、そこに黒幕を描く意味があり、その部分にメスを入れず他の事を描くというのは、これはもう卑怯というしかない。 このドラマではその点はほとんど描かれていない。だから、主人公の黒幕が電話で時の総理を脅し、相手がどんなに縮み上がっても、我々はその恐怖を少しも感じることが出来ない。 ただ、台本のセリフをしゃべり、それに反応しているだけとしか取れないのだ。
 戦中から戦後へと、黒幕が黒幕として育っていたその歴史的必然と政治上のトリックを解き明かすこそが、このドラマの最大のテーマではなかったか。 なぜ政治は黒幕を必要し、黒幕はどのような方法をもって、そこのところが問題なのだ。腹違いの娘と息子の相反などテレビのホームドラマにでも任せておけばいい。 かつて、書くまで政治的な作品を作っていた大島渚が、テレビの人生相談よろしく、黒幕の複雑な家庭環境にそのドラマの中心を置こうとしたこと自体、私には不可解でならない。 もっとも大島渚自身も、前記の対談の中で、そうした方法論そのものが甘かったのではなかったかと自戒している。
 つまり、出来上がった作品は大島渚を離れてからもその中心的設定はほとんど変わらず 「華麗なる一族」のヤクザ版と言ったスタイルで、ついに佐分利信なる黒幕の正体はつかめず、 やたら神がかり的人物(ただしカリスマ的大人物というのではなく、単に前近代的な宗教人といった程度)になっていて、その政治理念、あるいは 実業家的政治観と言ったものもうかがい知ることはできなかった。すべては闇の中とでもいうのだろうか。 ついでに言えばカリスマ的大人物を演じるのに東宝なら丹波哲郎、東映なら佐分利信というのも何とかならない者か、皮肉な見方をすれば、 これは一種の演出的手抜き、パターンに頼った安易さではないか。そんなところにも一寸したアイデアが活かされていれば、まだその新鮮さがうかがえたものを。 例えば撮影所の守衛さんを呼んでくるとかして。
 もう歴史や政治上のベールをベールとして描く時代は終わったはずだ。 作家の理念や情念をひたすら個的に勝手気ままに表現してみるというのも、観客側から言えばどうでもいい。 ましてことは政治的ドラマなのだ。ムードや情念に流されるのはもうごめんだ。我々は事実を知りたい。新聞の公式的事実でもなく、週刊誌の暴露的事実でもない。 映画の映像の持つ巨視的事実を。日本の娯楽映画もそろそろそういう時期に入ってもいいのではないか。


戻る
inserted by FC2 system