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山根貞男
映画「金環蝕」も政財界の窗蝕を構造的に描 たというのが宣伝 文句であったが、保守政治のドロドロした体質を図式的、絵はがき的になぞってみせたにとどまった。 高田宏治シナリオは山崎豊子原作によった「金環蝕」のシナリオと、全く異質な構造をもったものであることは言うまでもない。高田は腐蝕性をあぶり出すのにヤクザや少年テロリストなど新しいファクターを投入し、そこが「日本の黒幕」の特徴となっている。
例によってタイトルの始まる前に「すべてフィクションである」の東映特有のことわり書きがつく。このことわり書きにも関わらず、「誰がみても想像できる人物をモデル」としていることが、逆に鮮やかに読みとれ、いつものことながら、白々しいことわり書きではある。その白々しさは作品の意図を、結果として誰がみても増幅させるしくみになっている。 ・・・ヤクザ集団は血筋意識が強いヒエラルキーが、一家や一門の秩序のために欠くことのできない排他的な社会だけに、純潔が要求されるのである。 家系を重んじれば必然的に閉鎖された性を生みだす。
山岡=今泉=北見の師弟関係には、親子の精神の通い合いの名分のもとにホモセクシャルな雰囲気すらある。生死の誓約をした男集団だけに、それが微妙な形でシナリオににじみでている。とりわけテロリスト北見一光は唇に朱をはけば、稚児のにおいすらしそうな典型的なホモチック美少年に仕立てあげられている。シナリオはそんな異形の潜在させながら北見を描きだす。 異形のは男女の仲にもあった。側近NO1の今泉と娘の雅子が異母姉弟でありながら、山岡は性関係を黙認していた。姉弟相姦であれば確実な血の後継者ができる。
「日本の首領」シリーズ以来のような排他的なファミリーを描いてきた高田シナリオは、どの作品にもホームドラマチックな情愛シーンを挿入する。 その場合、家長の娘に注ぐ愛という形をとっているのがパターンである。「日本の首領」の娘たちも、「日本の黒幕」の娘も最終的には父親に抜く悲観的な宿命を負わされるが、戦うファミリーの父性シナリオで砂漠のオアシスに似た休息をもたらすのが父と娘の情愛である。
戦うファミリーに死はつきもの。「日本の首領」でも、首領や、幾人かの側近たちの死を見てきたが、「日本の黒幕」も例外ではな
東映ヤクザ映画は銃弾や刃物による死の潔さとカッコ悪さがつきものだ。「日本の首領」以来の高田も、共同体の下部においては虫けらのように死に戦うヤクザたちの死を描き、同時に戦わずして死のおとし穴が待っている謀略的な死をも描く。
ヤクザに斬られの美学などあるはずがないと言ったのは深作欣二 だったが、しかし「日本の黒幕」には死の美が描かれる。少年北見 確実に殺せた山岡に、とどめの刃をつきたてられなかったその時の心象はシナリオでは明らかではない。少年の心によぎったものが 黒幕を殺せず、総理大臣を殺し、さらにそれがこれにはねかえって無名の群衆になぶり殺されるものとなったのであるが、このように 死と対面する美少年の心象は形をなさないだけに、美と言えるものではないか。
今泉の死は刺客から家長を救った。信仰的な楯の思想を、この側近は本能的にもっていた。
そして娘は父に抜き、愛人の今泉にさえ抜いて、少年を抱いたあとエロチックな死をとげる。
「純白の衣裳に一糸の乱れもなく、胸で合掌した手のまわりが、真紅の鮮血にそまっている」。
自刃であった。
高揚する集団の中であとから来たチンバの少年は団体の統制から離れて、常に自分ひとりの世界をもっていた。
その孤独な思想の解明のカギとなると思われる刺せなかった黒幕 刺せた総理の、この凶刃の意味を分明にしないまま死んでいっ た。
三つの死に美学を回復してしまった「日本の黒幕」は、東映ヤクザ映画を実録路線以前の、いってみれば“悲壮美”の死に回帰させ さえある。
義侠の死よりも政治の死を描いた「日本の黒幕」ではあるが、この"死"たちは生臭い政治を越えて美であった。 山根貞男 1979年9月15日