伊藤雄 4位

「新・仁義なき戦い。」あの名作に臆することなく、新たな仁義なき戦いを作り上げ、映像の熱さに唸った。惜しむらくは脚本。 残念ながら笠原和夫の面白さ、すごさにはかなわなかったがメジャー当確、大いに阪本を使うべし。笠松則通のカメラも見ごたえ十分。


 小山晃一 5位

「新・仁義なき戦い」を深作版と単純に比較するのはいかがなものでしょうか。 全国制覇の野望に燃える構想の怒涛の力学を、いわば幾何学的に描いたのが深作版だとすれば、阪本版は、バブル崩壊後のせこいヤクザとその人間模様を描こうとしたのですから。 最後のシーンで豊川悦司が親分の岸部一徳につぶやくセリフ「アンタ、だれや」は、「あんた、なんぼのもんや」と同義ですから。 親分も地に堕ちたもの。言うまでもなく、この地に堕ちた親分と子分の関係は、現代政治サラリーマン社会の暗示たり得ている。


 高橋洋

「新・仁義なき戦い。」はヤクザ映画の芝居をしている人たちしか映ってくれないという厄介な現象が予告編で既に見えてしまっていた。 かかる現象を乗り越える方策を、ただ作家性に預けるのではなく、企画の段階で問い詰めるべきなのだが。


 筒井武文

「新・仁義なき戦い。」でもわかるように、阪本順治の映画的文体は、一対一の闘いには異常な強度を発揮するが、三人以上の人物が登場するシーンに対する戦略が欠如していることが明奈になったような気がする。


 寺脇研

「新・仁義なき戦い。」は狙いが空回りしたように思う


 平沢剛 7位

「新・仁義なき戦い。」は阪本にとっての原爆ドームを真摯に追求した結実店として


 福間健二

「新・仁義なき戦い。」は話がつまらなさすぎる。ヤクザやってるのが苦しいだけみたいになった。


 松田政男

監督本人の酒場での要望に応えて何故「新・仁義なき戦い。」を私が福田和也ともども左右両翼から狭撃するのかをコメントするならば、 一言で言って劇そのものの時制があいまいだからである。ヤクザ同士の抗争劇が一体いついかなる時点に設置されているのかが一故意に不明明のまま、 とすると二人の主人公の国籍を超えた友情と決別の劇もまたしかりであって、「顔」には明確に刻印されていた阪神大震災の痕跡も定かならず廃墟願望一般 へと昇天する以上は、いっそ時代劇で撮るべきだったのだ。


 山根貞男 3位

阪本順治の「顔」「新・仁義なき戦い。」はどちらも落とせないと思ったからである。わたしの判断では、2000年の日本映画群の中で、これら日本と黒沢清の「カリスマ」が 図抜けて突出している。世紀末とか何とかを口にすることなどはどうでもよくなる次元と郷土において、映画の現在がそこに凝縮されていると思われるのである。 例えばそれは、これら3作品が果たして成功作なのか失敗作なのか判然としないことに見られよう。より正確に言えば、見終わった後、感銘を受けたのかどうかもわからぬまま、 正体不明の胸のざわめきを抱えていることだけを認知して、思わず、これは成功作なのか失敗作なのかと問うてみたくなるところに、三作品の強度が現れている。 もっと単純に、こちらの映画館を根底から揺さぶるよう内容の面白さがあるといってもいい。


 渡辺武信

「新・仁義なき戦い。」は組織の締め付けと個人の欲望の葛藤が今一つ明確でないため、絵柄の派手さにのみ追われた感があり、ひたすら深作欣二の原シリーズの面白さを思い出させる結果となった。




 荒井晴彦

「新・仁義なき戦い。」をなんじゃこれ、どこが仁義じゃ、何が別もんじゃ、なら仁義なき戦いっていうタイトルにしなきゃいいじゃないの。みんなタイトルに惹かれて身に来るんじゃと怒り狂っている 「SPA!」の福田和也はシロウト臭い。旧シリーズの熱狂的ファン、というよりもほとんどバイブルとして接してきた。福田のいう旧シリーズとは 笠原和夫脚本による四部作のことだろう。だとしたらそのあとの仁義なき戦いシリーズは見ていないのだろうか。 見ていれば今更阪本順治版「新・仁義なき戦い。」を別もんと言って怒るはずがないと思う。

いま、なぜ、阪本順治 の「新・仁義なき戦い。」が別もんであるために失望、怒り、不評を買っているのかわからない。 「新・仁義なき戦い。」の阪本順治 は肩の力が抜けていると思った。 俺は「顔」に自由の中の不自由を想い、「新・仁義なき戦い。」に不自由の中の自由を観た。 かつてのプログラムピクチャーの監督たちはこの不自由の中の自由を探して仕事してきたのではないだろうか。 みんなタイトルに引かれて見にくるとは笠原「仁義なき戦い」を観たみんなのことか。笠原和夫が描いた脚本じゃないのに、なぜ、笠原和夫の世界を期待するのか。 脚本家も違う、監督も違う、役者も違う、それなのになぜ同じもんを期待するのか。・・・ 「新・仁義なき戦い。」は「非・仁義なき戦い」ではなく、ヤクザ組織の親と子という虚に対して本当の親と子という実を置いた「反・仁義なき戦い」なのではないか。 「竜二」がヤクザを描いてヤクザ映画じゃなかったように「新・仁義なき戦い」もヤクザ映画じゃない。在日韓国人以外はみんな暴力団の構成員じゃないかというなら、 ヤクザが嫌いなヤクザ映画とでもいおうか。

仁義なき戦い4部作の新しさは詰めた指を鶏が突っつくようにヤクザの格好良さの否定であり、建前・仁義と本音・金の間を右往左往する人間悲喜劇を任侠じゃなく実録として提出したことだった。 仁義なき戦い4部作もヤクザが嫌いなヤクザ映画だったのではないか。だとすると「新・仁義なき戦い。」というタイトルも詐欺ではない。





 スガ秀美

映画は暴力であり、すなわち享楽に他ならないとすれば、日本映画はここ20年ばかりの間、映画に相応しい映画的素材に恵まれてこなかった。 仁義を頂点とする実録物の命運が尽きたとき、日本映画は、それに代わる享楽的=暴力的対象を見出すことができないできたのである。 仁義の監督であった深作欣二が「新・仁義なき戦い。」ではなく、バトルロワイヤルを撮ったということは、深作が享楽に憑かれた映画作家であることを、あらためて確認させた。 阪本の「新・仁義なき戦い。」が良くも悪くもそうだったように、もはや仁義なき戦いーーこの言葉は、それ自体で享楽を含意しているーーと冠したとて、その映画は享楽からは遠いものとならざるを得ないのだ。 そのことは、監督の阪本自身が知悉していたところでもあろう。





 西部萬

名作との誉高い旧作を荷物として背負うことにより、その重荷に抗する中で、阪本氏の筆致の本質とでもいうべきものが浮き彫りにされたのである。 その意味で、この「新・仁義なき戦い。」は阪本氏の作品系列の中で 私は三作しか見ていないもののーー傑出している、と評価したい。
 旧作の与えてくれたエンターテイメントとしての興奮を忘れがたい観客は、あるいは、この阪本作品に期待外れの冠を覚えるのかもしれない。 しかしエンターテイメントにも様々な種類があるのであって、義理人情の念に駆られて殺したり殺されたりするばかりがヤクザのふるまいではない。少なくとも私という観客は、 そこに人間の人生と社会の時代の本質が、せめて因果として描かれているのでなければ、映画に興趣を覚えない。そういう観客にとっては、これはずいぶんと刺激的な作品である 。いずれにせよ本作の魅力を甘受するには、仁義から見放されていることに悲しみを感じるがゆえに仁義の存在を信じざるを得ない、というまっすぐな心が必要であるようだ。
 現代におけるカネの裏地は産業廃棄物であり、阪本氏は、まるで理論家にでもなったかのように、粟野組と中平組の闘いが勃発する場面を、産廃処理の利権争いとして設定する。 それは、ヤクザの現状を描写するためというよりも、現代日本の生態が産業の営業でしかないのなら、その裏地は産廃の営業になるほかないという必然を語るものであろう。
 そういえば、映画の冒頭近くで、田舎で行われた佐橋組長の葬儀に向かう何台もの黒塗りの車が、田舎道でエンコした工トラクターによってさえぎられる。 そこで、親分集や幹部レンガ田舎道に立てにずらりと並ぶわけだが、それも産業システムの故障に取り組むのを業もしくは業とするようになった現代ヤクザの存在の仕方を表現しているのではないか。 阪本氏は、ヤクザの由緒正しい葬儀作法を描いてヤクザを美化するようなことはしたくないと考えただけでなく、 またヤクザの心証は結局のところ悪い意味での田舎者のそれだと揶揄したかったのみならず、 荒廃せる’都会の裏側には哀微せる田園があり、それらの廃墟の中にヤクザが這いずり回ると比喩したかったのではないか。 つまりこの映画には、ヤクザ批判を超えた文明批判の伴奏音が聞こえているということである。  


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