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「1957年1月下旬号 外国映画批評:ジャイアンツ」 井沢淳 3時間18分の長さは一般観客には少し長すぎるかもしれない。しかし、この作品には西部劇の背景となっているものが 歴史的にうまく展開されており、それを見ている分には、非常に興味ふかい内容を盛り込んでいる。 それは一口に言えば、農業ないしは牧畜業から工業に移行していった西部というものである。 西部開拓は駅馬車とカウボーイで始まる。そこが、鉄道がとってかわり始めると牧畜と農産物生産の二本立てになるのだが、 この映画は祖先の開拓精神の恩恵で59万エーカーという巨大な土地を所有しているベネディクト家を中心としている。 この広大な土地は、一つの王国である。それはもはや微動だにもしない。だからベネディクト氏は、ワシントンの社交界から花嫁をもらっても、少しも不自然ではない。 彼は、自分が、祖先の土地を守りさえすれば、一家は幸福でありうると確信している。しかし、彼はその中に安住はしていない。 先祖のフロンティア精神を受け継いで、59万エーカーの管理に精力を注ぎこむ。 だが、彼は三代目だから、生まれながらにして主君である。徳川家光のように、自分と部下との区別をはっきりつける。彼の先祖は牧童たちと友達として働いていた。 だが、彼は違う。彼にとっては、牧童は使用人である。 ジェームズ・ディーンの演ずる牧童は、彼に忠実でなければならないのに、どこか昔の西部魂を持っているだけに、ベネディクト氏にとっては気に食わぬ存在である。 だから、ベネディクト氏は彼の姉が死んで牧童に遺産として土地を与えるというと、あまりいい気持がしない。この土地を二倍の千二百ドルで買ってやろうという。 たかが牧童だ、千二百ドルと聞けば目を回すだろう彼はこう考える。その彼の思惑に反して、牧童が土地をくれというところは、ディーンの好演が終わった後も我々の眼に残る。 どこか不敵で、そのくせ純情な青年の心理をディーンはうまく見せる。これほどの演技者はそうざらにいるものではない。彼の死が痛切に惜しまれる画面だ。 時代は西部においても、牧畜業から工業に移行しつつある。それに気づかぬベネディクト氏ではない。だが、彼には巨大すぎる土地を揺るがす力というものが、地球上にあるとは思えない。 細心にして、計画的な土地管理さえ行われれば、彼は絶対の力を持っているのだ。だが、その時、牧童は石油を掘り当てる。そうして誇らかに、ベネディクト家へ乗り込んでいく。 我々は、このシーンでチェーホフの桜の園を思い出す。この桜の園を買った新興市民ロパーヒンが酔ったように自分の幸福を謳う姿を思い出す。 牧童はロパーヒンより粗野だから、彼の主人だったベネディクト氏に痛快な一撃を加えるだけが違うところだ。 西武が石油ブームに乗ってもベネディクト氏は自分の信念を支えない。 だが、息子や娘たちが、それぞれ自分の意志通りにならないことを知るに及んで、彼自身が時代の動きというものを感ずるようになる。 その気持ちが、終わりでは、息子の妻がメキシコ人であるために迫害されることに対して彼が激しい怒りを燃やすまでになる。 ここで、彼は南部的なものを揚棄して、北部精神になる。それこそ、今のアメリカ人にとって大切なことだと彼は言う。 人種差別の問題を深刻に悩むアメリカの断面が、この作品で印象的に浮き彫りされているのは注目すべきことだ。 実は、この巨人は、最後には平凡な庶民に還るのだが、その事こそ、本当の意味における巨人だと、この映画は言っているようでもある。 そうして、ジェームズ・ディーンの石油王も、最後に悲劇的に倒れるのだが、これも人間としての巨人の一つの型だといっているようだ。 これはアメリカ版の幸福なる種族の物語である。イギリスのそれと比べて、ここには伝統の深さはない。そのうえ、砲火の洗礼も受けてはいない。 しかし、その代わりにフロンティア精神は、永くその尾を引いている。それなればこそ、この人々は巨人たり得たのであろう。 ジョージ・スティーヴンスの演出はまったく手堅い。その中で、適当に笑いと涙を味付けしている。 そのうまさは、ちょっと類のないもので、演出家自身が西部に没入しているといったほうがいいかも知れぬ。 彼らアメリカ人の祖先に対する追憶と畏敬が西部劇を生み出したとすれば、この作品などまさに模範的なものと言わねばなるまい。 ディーンの人気は今なお衰えない。彼のヴァリウだけでも、興行的には万全だが、テイラー、ハドソンそしてスティーヴンス監督とそろえば洋画ファンには絶対である。