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「1957年1月上旬新年特別号 新春封切の洋画大作と世界の話題:ジャイアンツ 外国映画紹介:ジャイアンツ」 南博 テキサス州は広大な草原の孤独で知られている。風光明媚ではないが、荒涼の美、とでもいうべき風景が、ひとの心を打つ。 そうしてメキシコ流の牧牛と、石油とで、アメリカ全土で指折りの豊かな州である。 この地方を背景に、大牧場主ジョーダンベネディクト夫妻の年代を描いたエドナフィーバーのジャイアントが原作である。 日本の上映でこれをジャイアンツとして出したのはこのほうが野球チームの名で通りがいいという事だろうか? スタンダードのアメリカ文学史は、エドナ・フィーバーを大衆作家扱いにしているが、この七十歳の女流作家は、一九二四年に、ソー・ビッグで ほぼ日本の芥川賞に当たるピュリッツァー文学賞を得ているしまた、ジョージ・カウフマンとショー・ボート自作小説や晩餐八時などの戯曲を書いている。 大衆的な傾向と共に適度の社会風刺、社会批判を忘れていない作家なのである。このジャイアンツでも、フィーバーが、初期の作品から好んで描いた、 新旧の世代、男性と女性、白人と有色人の対立が、三つの楯の糸となって貫かれている。 ファーバーは、物分かりの良いおばさんとして、古い世代にとって代わる新しい世代、男性の支配する社会に進出する女性、白人優越の絶対観念を打破する、人類平等の観念を支持する。 そうして、新しい時代の押し寄せる姿を、第一次大戦後の好況に乗った20年代初期のアメリカから、第二次大戦を経た後のアメリカまで、横に展開しているのである。 この原作ベストセラーは、初め、アメリカ第一の婦人雑誌レディース・ホーム・ジャーナルに連載され、女性の人気を博したものである。 もっとも、アメリカでは、女性が読者層の大きなパーセンテージを占めるから、女性読者がつかなくてはベスト・セラーにならない。 この作品でも、主役は牧場主の妻でヴァージニア州の名医の娘レスリー・ジョーダンである ヴァージニア州は、南部地方で、大西洋南岸地域の北にあり、首府リッチモンドは、南北戦争のときには南部の首都だったぐらいで、レスリーも南部の娘である。 しかし、南部の若いインテリには、周囲の政治的な保守主義や人種差別に対して、かえって反発的に自由主義者、人種平等論者になる人も多い。 リズもそういった娘として生長してきたという事を念頭に置く必要がある。つまり、東部の自由主義者として南部を批判するのではなく、 同じ南部の人間でありながら、自分の環境と周囲の人たちの持っている古さに対する抗議の精神を忘れない女性なのである。 この作品を見るとき、レスリーを、テキサスの南部に対するよそ者としてみたのでは、解釈が違ってくるのである。 レスリーは夫に従ってテキサスの牧場に来るが、そこでメキシコ人である使用人たちが、白人によって、無残な差別待遇を受けているのを見る。 南部の膨大な低賃金労働者の群は、牧畜に携わるメキシコ人と綿花の畑に働く黒人が大部分を占めている。その人たちの惨苦の労働によって、 テキサス州はアメリカの巨人となり、牧場主や綿花業者はテキサスでの巨人となる。 しかし、新しい巨人がメキシコに加わってくる。それは石油業者だ。ここで牧畜業と石油業という、経済活動の上の新旧世代があらわれてくる。 ビック・ベネディクトとジェット・リンクの対立がそれを象徴する。しかし、ジョーダンとリンクは、一つの共通な土台に立っている。 それは、メキシコ人を含む、すべての有色人種に対する抜きがたい偏見である。この人種的偏見が引き起こす事例は、作品いたるところに出てくる。 アメリカの白人が持つこの不幸で醜悪な偏見と、それに対して敢然と戦うレスリーや息子のジョーダンベネディクト3世の智恵と勇気はこの人たちこそ本当の巨人、 精神的巨人であることを、しみじみと教えるのである。 これだけの情熱をこめて人種平等の観念を披露した製作者、監督ジョージ・スティーヴンスの知恵と勇気も、また讃えられるべきであろう。 画面は、メラ―の撮影監督で、テキサスの大自然をくすんだ、物寂しい緑色を基調にした天然色で、まざまざと描き出している。 その茫々とした風景の中に、孤影悄然と浮かび上がる牧童時代のジェット・リンクの姿は、ジェームズ・ディーンの孤独な魂をそのまま表現する見事なものである。 この作品は、宣伝上、もっぱらジェームズ・ディーンを強く押し出しているが、やはりレスリー役のエリザベス・テイラーが、かなりの新境地を示していることと、 ロック・ハドソンが、年齢に応じて重厚さを加える演技を見せていることに注意したい。 3時間余りの長編でありながら、誰ることなく引っ張っていくのは、演出の巧みさもあるが、この二人の表現力が、演出力に負けないで、場を持たせているからである。 むしろ難を言えば、ジェームズ・ディーンが青年の役で、楽々とやっているのに対し、中年になると、演技上、年齢の変化を内面的に表す工夫が足りないように見える。 少し、中年であることを意識しすぎたきらいが、身のこなしやせりふに見られるのである。 しかし、優為多望の青年が、この一作を最後として、芸術の花を散らしてしまったのは、まことに惜しい。 それにしても、スティヴンスがややもすると通俗小説に陥りやすいファーバーのテキサス年代記に、じっくりと社会的な目を向けて、この大作を作りおおせたことは、 アメリカ映画にとって最近の会心事であった。