デスノート
               

デスノート

丁度小学生のころやってたんだよ、いわゆる深夜アニメ黄金期ね。 VHS録画してみてたよ。ちょうどらきすたとか地獄少女とかのだめとか やってた時期じゃなかったかな。それらも見てたんだよ。 で、全然趣向違う作品ばかりだから、今考えるとバラエティ富んでバランスよかったのよ。 デスノと地獄少女はともかく暗い。怖い。で、らきすたってのがともかくバカバカしいぐらいに明るい。 子供ながらにらきすたには助けられたよ。ハルヒもちょっとフィーリング的には大人びて見えていたし。 ともかくデスノートは面白かったね。確かおもしろフラッシュかなんかに初期の話が投稿されて それで興味持ってみたのかな、だから途中からなんだ見たのは。もうLは出てた。捜査本部を設置するか どうかってところからだよな。楽しんでみてたよ。一番印象的だったのはライトとLが喧嘩するところな。 殴って蹴ってという。子供ながらにシュールな面白さを感じた。ミサも入ってきてケーキ踏んだりとか。 そして、後になって総集編がゴールデンタイムでやりますっていうんで、なんかすごく違和感覚えたよな。 深夜アニメなんか流しちゃだめだろうみたいなさ。前半は別に・・・って感じなのよ。 でも後半のニアとかメロとか、三上もだけど、いかにも深夜アニメというか、ゴールデンには似つかわしくないタイプなのよ。 だから大丈夫なのかってさ、変に心配したりしたんだけども。 デスノートってのは、臭いことを言うようだけど、人間を描こうとした最後のアニメなんじゃないかって気がする。 今見ると、クソほどうまいというか、エヴァほどではないけども、比喩とか、それこそ宗教のように 後付けで理由を付加したりできる場面、設定が余りにも多いんだよ。 漫画はブラックジョークだろうが、アニメのデスノートは完全にヒューマニズムであり、道徳であり、立派な青春アニメだった。   そもそも死神が落としたノートで人間が右往左往するってところ、はまず素敵として 何よりもその死神と人間の距離、断絶間がうまく描かれているのがすごいんだよ。 そうでしょ、死神の気まぐれで落としたノートのせいで人間は喧騒しあい、社会図は変わり、 ノートを使った人間は天国にも地獄にも行けない。 その中で人間たちはこの期、この瞬間に命を燃やし尽くそうと生きるワケだよ。 でも人間たちが死神に対して怒ることはない。死神もなんら深い感傷を持たない。 そもそもリュークはコメディリリーフで、ここだよな。死神でも神でも 所詮彼らにとって人間なんてどうでもいい存在なんだってのが、うまく表現されてんだよ。 人間と神との関係性ってのがうまい。それこそ知恵の実を投げて人間が変わる、気まぐれすね。そういう関係性だ。 ライトもリュークにリンゴを渡すし。この作品ってのは現代の知恵の実なんだな。 だから人間に潜んでいる暴力性に留まらない何かを噴出させ、そこから学ばせる・・・とはいかないけど その中でまだ見えてこない境地とか、自省とか、あるんじゃないか、それはデスノの世界も我々現実でもそうだと。   その中で選ばれたのがライトだった。日本一の優等生。だからこその二面性、独善、自己陶酔。 極端なまでのスペックと心を活かして、リュークのデスノートを最初に使用。 彼がデスノートに惹かれたのはなぜか。スペックも環境もある。しかし何よりも若さだった。 若いからこそ独善的だし、行動的だし、思い込みも激しい。だからこそ偽Lの挑発にのり殺したし 危ない橋も渡ったし、自己愛も強いし、最後、勝利宣言なんて間抜けなことをした。 負けず嫌いだった。そこから始まったと思う。これこそが人間再考の道だ。 今、様々な思想があって、それを通そうと、自分たちや自分たちが救わなければならない対象を美化し それに逆らう人間は差別主義者だとかクズだとか、そういう論調がずっと続いていると思う。 そこからわかるのは、そこまでもって極端に叫ぶ人間ってのは、そもそもがプライドが高く 極端ごとでしか納得できず、なによりも負けず嫌いだってことだよ。 ネットなり井戸端会議的にぐちぐち言うのでなく、真正面で顔名前さらしてメディアに出て また直接行動に出る・・・その前提には自分が絶対に正しいという欺瞞があるワケだ。 そしてそれを通す中で、敵を倒し、また見方を粛正し、という流れがどこでもあると思う。 そうなると最後には、目的完遂や理想はどこかにいき、ともかく自己保身と敵の抹殺、さらに気に入らない人間の粛清だけを 考えるようになる。敵を「殺しきれば」目的完遂だから。でもそんなことあり得ない。 しかしデスノートならば可能だったかもしれない。この漫画的な、人間の奥底の 潜在意識や能力を引っ張り出し、行動の過程の中で、人間社会の成長を促す、それがデスノートだった。社会派か。 結果世界の犯罪は7割減少したが、仲間を殺し、味方を欺き、やはり最後に残ったのは 人間普遍の独裁者の姿であり、最後は普遍的な良心によって滅ぼされた。 やっぱデスノートってのは笑うせえるすまん的に、絶対にあがなえない悪の魅力に憑りつかれた人間の それはだれにでもあり得たことで、結果ライトが人一倍欲の強い人間だったってのもあるけども 自分の嫌いな対象をすべて消すことができても、やっぱりそれは極端で、人間不在の考え方なんですよと。絶対に破綻するんだと。 辛いことだけど、いろんな人間がいることを肯定しろとは言わないが、認めて、刻苦し続けて、極端に染まらずに 生きて行けというね。自分の嫌いな人間すべて消しても、人間だからまた嫌いな対象が出てくるのよ。 それが徐々に広がっていって、最後に何が残るかと。 だからライトがあそこで敵全部消せても、ハッピーなオチにはならなかったろうな。 ジェバンニの一晩で細工したってのも、漫画ではノートに行動を書き加えたからとか納得できたけども 結果的にジェバンニが独力でマジに成功させてても、つまり漫画的な設定のデスノートに、つまりデスノートそのものが人間否定の産物であって だからこそヒューマニズムが勝ったんだという、デスノの世界観、テーマ的にはおかしくないのよ。 訓話とか気づきとかね、そういう道徳じみた作品になりうるわけね。 俺たちがデスノートに感じるのは人間のはかなさだったりするんだろうけど、その要素を 集中させるのが、つまりデスノートを使った人間は天国にも地獄にも行けないという設定だ。 漫画とアニメの最大の違いがここだと思う。漫画は最後、デスノート関係なく人間の死んだら無になるという設定だったが アニメ版はデスノートを使った人間のみが天国にも地獄にも行けないという設定。 神でも死神でもないものが、神や死神的な能力を使うのだから、その代償ということか。 神でも死神でも、人間でもないと。だからどこにも行けない。 これにより、デスノートに取りつかれた人間、または使ってしまった人間の悲惨さ哀れさ、そしてそこに特別関心を抱かない死神たち・・・と 神と人間それぞれの残酷なテーマそのものを具現化することに成功している。 人間にとって神は気まぐれな残忍者以上のなにものでもなく、神にとって人間は観察対象以外の何物でもない。 神の気まぐれによって無へと突き進む人間たち、まったく哀れで悲惨で だからこそ今に命を燃やす輝きが生まれる。     ライトはもちろん、利用されたミサ、高田、特に哀れなレイペンバー。自由意志の三上。 刹那的だからこそ美しい。 前半部、つまり25話までは一部の隙もない大名作とされ、後半は穴が多いとかつまらないとかで賛否両論に。 その前半部を支えたのがLであり、そして後半を輝かせたのが魅上照という存在だ。   これにより後半部は生き返り、デスノートという話に、つまり頭脳ゲームやライトとL、 それに悪は抹殺するしかないのか、神を妄信するとどうなるか、というコクのある二つを加えることに成功している。 そう、新世紀の聖書・デスノートは知的ゲームのライトとL、そして人間道徳の魅上の3人で成立している。 魅上は悪にやられていた側の人間だった。元は正義漢満載の少年で、虐められている子がいれば率先して助けに行った。         助けた子が喜んでくれることが支えだった。しかしいつまでも勝利は続かず、最後には目を付けられいじめられっ子に。   母にももう目立つようなことはやめろと言われていた。しかし、母といじめっ子たちがまとめて交通事故で死んだ翌日、教室は明るかった。   これにより「悪を抹殺しなければ正義は来ない」と確信し、検事の道へ。そしてキラ事件が発生。   キラの行動、理想に惹かれ、積極的崇拝、普及活動に勤しみキラ信者の中でも特に目立つ存在となり、 最終的にライトによってキラの代理者として選ばれ、デスノートを手にすることに。   しかしねじ曲がった正義感により 犯罪者はもちろん社会貢献を怠るものまで殺害、魅上風に言うなら削除していく。   アニメ版オリジナルの演出として、それはライトもそうだったが、デスノートを使用する際 ペンを剣のように振るい、赤や青の閃光までが出てくる始末で、しかしそれは当事者の恍惚感の具現であり 周囲からしたらただ文字を書いてるだけ。で、魅上のそれはライトを凌駕し アニメスタッフも盛り上がったのだろうが、超スタイリッシュに、情熱熱情込めた必殺技のような場面に。   スペシャル版では削除シーンがもう一つ増え、そこでもスタイリッシュに閃光を生んでいた。   魅上の削除シーンは、何度もいうように、命の輝きとも呼べる閃光である。この一瞬にすべてをかける、そういう死へのエネルギーだ。   殺すごとに削除と口走ることも、几帳面に毎日一ページ書き込む事も、偏執的なイメージを際立たせている。 それに加え、神への忠誠心。みかみには家族は母しかいなかったが、もしかすると、みかみは父親を求めていたのかもしれない。 考えれば、自分の存在を確認するためにいじめっ子を助け、それがアイデンティティとなっていた・・・ つまり碇シンジじゃないけども、元々悩みの多い青春時代だったんじゃないかと思わせる。 何にせよ神と時には連携プレーをとり、神の言葉には背かず几帳面な日々を送っていたが ライトの利用した高田がらみでイレギュラーが起こり、そこでみかみがノートを取り出し ルーティーンと異なっていると尾行者が気づき、それが最後の大どんでん返しにつながるなど ライトの傲慢さと魅上の神を思う忠誠心により二人は破滅していくことになる。 魅上のそれを機転が利くとも言うが、それが命取りになるってのは、それこそ魅上とライトが 初めて電話越しで接触した時の成功例を考えると皮肉としか言いようがない。 てか、そんな危ない橋渡しのような方法でしか勝負できないライトの弱みがここで噴出してしまったわけだ。   最終決戦の段の演出はこれを待っていたとも言うべきもので、ピークはライトの姿を確認し神と確信するところ。 そして8人を削除するのに何十回も削除削除とつぶやき、すべて書き終わった際には完全エクスタシーに達していた。     それは正義が勝ったということと、神を助けたということと、神との対面ということで、最高の一瞬だったはず。 しかしキラに会えるということでか、すでに精神面は興奮状態から不安定にあり、結果8人が死ななかったことで 完全取り乱し、それまでになかった卑小な醜さを出す羽目に。 印象的なのは警察に取り押さえられ、ノートを失う場面。ジムで鍛えているというシーン、わりにいいガタイ、正義として戦う日々   などがすべて卑劣な犯罪者像に上書きされ、そのあまりの非力さは、これが魅上の本当の姿だったのかもしれないと思わせる。 そう、ライトも魅上も、あくまで限定された条件での「神」だった。常に攻勢していた。 だからこそ、攻められ、ノートを失えばすぐに崩壊するしかない。 たかがノートに命以上のすべて、アイデンティティすら託したのだから当然か。 まさに痩せ犬か。拳銃を持てば強くなれると思うヤツとか、俺たちみたいにネットなら威勢のいいこと書き込めるとか。 そしてライトが潔白を証明するために「こんな奴知らない」と言えば、精神が狂いだし、奇声をあげるしかない。 自分が人生――死後の世界すらも捨てて神を助けたのに、心のありどころだったのに、自分のアイデンティティの正しさを証明するものだったのに それを否定される・・・。しばらくみかみは沈黙する。 ここまで来て気になるのは、ライトも魅上も、死後無になることは提示されているのに、そこまでしてデスノートを書き込むかという 究極の疑問なのである。俺たちは基本この世は一時的な場所であり、死んだ後の世界こそが永遠だと思っている。 なのに、永遠を切って捨て、この一時的な場所にすべてを燃やすってのは、普通じゃ考えられない。 マトモな神経してたら「いや、さすがにそれは」ってなるだろう。 ノート使って死後無になるならば、ノートに書き込まれて死んだ方がましなんだよね。 でも彼らはノートを使った。もしかすると死後が無だと自覚するからライトも無茶苦茶をやりまくったのか。 しかしそれ以前の問題なんだよな。もしかすると、ノートを使うことすら、神に定められていたのか? 俺が上に書いたように、キラ事件によりその世界の人間は何かを考え、何かを変えるだろうと。 デスノートという作品からも、俺たちは少しは学べるテーマがあるだろう・・・と。 つまりパペットプレイ、生まれた人間がすべて役割をもって生まれてくるとなれば、ライトも魅上も そうなるべくして定められ、誕生し、育って、ノートと出会った。疑問なぞ考えられない。無理かな。 それかその場の感情だけで、死後のこととかあまり興味なかったとか。 じゃあキラが勝っていても、死に近づくにつれ恐怖するんだろうな。なんにせよ救いはない。     その後ライトはずたずたに撃ち抜かれ、そこらを這いつくばり、魅上、高田、ミサに助けを求める。 しかし利用してノートを使わせた高田は死に、利用して寿命も奪ったミサは記憶をなくし ノートを使わせ寿命を奪った魅上はまったくの無力。 考えたらライトと松田のやりとりの「あんなまっすぐな人間が損をするんだ、こんな世の中でいいのか?」 っていうライトの言葉はそのまま魅上にも繋がる気がするな。まあ親父を殺したのはライトだけど。   魅上の顔が、いわゆる顔芸レベルにまで歪む。これは神への失望ではなく、 自身の正義の敗北と、アイデンティティの喪失、人生の無意味、そして   自らのアイデンティティそのもの、神をズタボロにしたのは自分のミスという気づき。 完全に狂った魅上はペンを心臓に突き刺し、派手な血しぶきと絶叫でもってその生を終えた。   ペンで自決する場面に、ジムで鍛えていた肉体の、人間のナマの潜在力が象徴される。     魅上から読み取れる教訓?としては、やはり人間の弱さ、残酷さね。 それは自分の嫌いな人間を、排除という方法でしか生きていけない弱さ。その結果ただの大量殺人鬼になり果ててしまった。 加えて残酷さ。みかみというか人間そのものね。つまり幸の薄い人間はそれ以外の存在にはなれない。 常に2番手。ライトには身長も学歴も負けている。もちろんどちらも超A級だけど、どこか華がない。 神に信頼されていると思っても、それはただ利用されていただけだということにも気づけない哀れさ。そしてその最期。 少年時代や哲学、それはたった6話間でしか描写されなかったが、 その壮絶な最期をもってデスノートを人間ドラマの金字塔というところまで高めた。 ただ京大とか、小学生の時分からの異常な「罰したい欲」、偏執的、決まったルーティンなど 発達障害的な部分もあったりして、わりと癖のある人間が極端に染まったという風にも見える。 だからそういうヤツに妄信される存在だったというね、キラは。逆説的に卑小な存在だったという風にも見れる。 魅上の死の隙に、ライトはその場から逃走。走り逃げる際、彼はノートを手にする前の自分と出会う。 アニメ版のみの演出、秀逸だ。やはりこの作品はライトも魅上も含め若さの作品、青春の作品だった。 少年ジャンプだから当然だが、ライバルの存在、ヒロイン、共闘、ド派手なバトル・・・ そしてリュークに名前を書き込まれる「これは最初にノートを拾った人間と死神との契約だ。 ここで死ね。結構長い間、お互いの暇つぶしにはなったじゃないか。・・・色々楽しかったぜ」 ライトから得る教訓は、上に書いたことはもちろん、世のなかの混沌をひとまとめに、極端に偏らせることは 全人類が進んで取り組まない限り、不可能であるということ。やはり人間は刻苦が必要だ。 苦しいことだが、それこそが人間として生まれた業として受け止めるしかない。常に極端によらず、刻苦することだ。 よく人間がこの世界にいるのは魂の修行と言われるが、デスノートを使えば死後どこにも行けないというのは その修行から逃げたからという風にも理解できる。 ミサは自殺し、魅上の亡骸は放置され、薄れゆく意識の中、ライトは死んだはずのLの姿を見る。 Lはライトを笑っているのか悲しんでいるのか。ライトとL、それぞれの唯一の友達だった。 Lの亡霊を観つつ、しかし自分はどこにも行けないと知りつつ・・・静かに死んでいく。 Lの亡霊が、死後の世界を想像させ、現世から解放されたLと、そこに行けない彼らとの対比が、たまらなく 人間と神の、散々書いてきたけど無常を感じさせて、終わっていく。 そうだな、ミサもその哀れを象徴してるよな。リュークでも書いたけど、前半の彼らの超朗らかで のほほんとしたコメディリリーフと、その後の殺伐な運命がイコールになってないのよ。不条理と言っていい。 神に翻弄された・・・もういいか、ともかく殺伐だよ。彼女は死神にも愛されて、それはジェラスとかレムとかね。 それでもああいう形で死んでいくんだから。この世に神も仏もねえなっていう。 デスノートってL編までは情があったのよ。でも以降はただ破滅に突き進むだけで、暗いのよ。ずっと暗い。 これはシリアスへの転調っていうもんじゃない、モラトリアムの終わりなんだ。神の力を手にいれ それに酔いしれるのが前半、後半はその代償を支払う段。ミサもこの時代に生まれてなければ、いや 10年でも5年でもズレてれば、違う場所に住んでいれば?家庭環境が良ければ、こうはならずに ただの面白い魅力的な、皆から好かれる、人懐っこい女性になって、長生きしてたろう。 本編見て思うのは、あの有名な「邯鄲の夢」だよ。この世でいくら立身出世しても、人生なんてあっけなく終わるのよ。 だから本作の、ライトやミサ、魅上、L・・・その一瞬に魂を燃やし尽くした人たちに人間の何たるかの一部を見たよ。 神に翻弄された人間たちの、刹那的な哀のドラマである。 ライトの本意ってのは新世界の神とかでなくてゲームに勝つことが至上だったんじゃないか。 最初の殺しも勢いだけで、後から新世界の神になるんだって理屈をつけてみたとか。 一応お題目としてはおかしくないし。で、自身の望むゲーム性と神としてとか、何にせよ幅の広い人間だったのは間違いない。 優等生だったが欲、業の塊だった。リュークに見初められたのもわかる話だ。   死神が接触すると人間は不幸になるという設定すらある。過去に何度も来ていたと。 それを考えると、やはりメタ的なのか世界観的にもそうなのか、死神と人間の関係はまったくの無意味でなく なんか社会的に成長する起因になったりするんじゃないかな。
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