昭和のプレイボーイ出崎は熱血描写の中で負けた人間を散らせていくわけ。 俺らみたいな自己憐憫しかない現代のへなちょこは、負けた連中をことさら悲しい中で散らせていくしかない。 しかし火垂るの墓にあるような社会批評も冷徹な貫徹もなく、ただセンチ&センチでしかない。 縮小再生産の中で、クラナドは最後の泣ける作品となった。この先はないの。 だって泣かせるための描写なんて限界あるもの。

火垂るの墓を作った高畑勲が試写で言った言葉「センチな作品にはならなかった」 あんな泣けるセンチな作品なのに、なぜか。 それはつまり、あの作品は男の自己憐憫の気持ちよさの傑作であることを分かってしまって だからこそ、それに自省しているわけなんだ。 清田が批判されているのは働かないからなんだが、それはな、清田が大人っぽく描かれすぎているからなんだ。 本当に中学生らしく描いていれば非難はされなかったろう。トトロの寛太みたいに。しかし高校生以上な大人っぽく描いた。 そうするとだな、ボンボンの労働意欲0の大人=高畑勲そのものであって、清田の気持ちと自分の気持ちをリンクし 自分の勝手で妹を死なせ、そのあとを追って死ぬという自己憐憫の最高潮−−そんな男による男のための男の映画だっていう答えを反省しての言葉なんだ。 もち、それだけの映画ではないだろうが、しかしその要素を無視はできない。 key作品にそんな自省の姿勢があるか?やはりどこを見ても甘ちゃん、客観視がなく、単純な自己憐憫から突破できない。 逆に言えば甘ちゃんで主観的で単純な自己憐憫の決定版がkey作品であり、本作クラナドの世界なんだね。だからその先はないと。

話が飛んだ。ともかく同個性と思われる火垂るの墓でもそこまでクールなのに対し、 クラナドは現代的感覚のひ弱さしかない。そこで、日本アニメ界一位二位を誇るストロングな個性・出崎との比較が楽しいわけ。 なぜ出崎ではクラナドの持つセンチなフィーリングを解せず、表現できなかったのか。 そう、大人な非オタク系のストロング出崎統には、俺ら現代っ子の自己中心的なひ弱さはまったく理解できず、 そこから出てくる自己憐憫なぞ唾棄すべき対象にすぎない。

だから、本作はうまくいってない作品だとか言われ放題なんだけど、もしかすると出崎的には 俺にはお前らみたいな気持ち悪い作品はできないよ、だから、俺のクラナドは気持ち悪くないだろう という開き直りだったのかもしれない。クラナドのあの号泣必死のフィーリングは世界には自分だけだっていう自己憐憫の究極から生み出たものであって それをできないってのは恥ずかしいどころか、いいことなのかもしれないね。ちゃんと大人だって。 だからクラナドの悲しみを理解できるまま、またはそれを表現できてしまうのは子供なのかもしれないな。

出崎も繊細なムードを持ち合わせているが、それはキザな都会的センスのそれであって、 ベッドで寝てる女を追い払ってタバコを吸うっていう繊細さだから、今でいう繊細さとは違う。


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