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世紀末の猥雑な無垢なイメージ
カードキャプターさくら
1998年 浅香守生
カードキャプターさくら
90年代後半はアニメにしろ映画にしろ、どこか儚い雰囲気の極致が表現できる時代だったので その中でも深刻ぶらないハートウォーミングでセンチな少女漫画が舞台ならば シンプルに爽やかな雰囲気の徹底が可能というもの。 エヴァンゲリオンがシリアスの極致、ポケモンが涅槃の極致、じゃあさくらは中間にいて それはもうすごいぜ、特に音楽。絵柄もね。ここ10数年国民から奪い取った視聴料を ゴミに変えてるNHKがまだ一応の金の使い方を分かっている頃だったのか全70話作画も背景も外れなし。 いわばOVAクオリティをTVで毎週やってるということ。まあ金かかってんだからそのくらいやってもらわにゃね。 90年代後半は奇跡の時代なんだよな。個人の努力とかでなくて、音楽性なり映像性なり指向性なりが 奇跡の合致を見て雰囲気の極致だと・・・これは日本だけなのか他もそうなのか。ともかく世紀末だっていう意識かな。 ノストラダムスだとか経済の落ち込みで殺伐だとか、激動の時代20世紀からデジタル21世紀へとか 変革の期待も合わさってどえらいことになっているという印象だ。 俺音楽の深いところとかわかんねえから、まー濃厚だなとかそういう感じでしか言えないんだけど 濃厚なんだよね。深い重いとかでなく、音の完成形だっていうことでね。アニメ音楽の。 80年代までのぶっ飛び感とかファンシーなイメージはないし、00年代以降の奇天烈な運びもないしで 全体きちっとしてるんだよね。こうあるべきところにいったというのか、いわば振り子の中間を指してんだね。 90年代後半のイメージって一つしかないと思う。そういうわかりやすい方向性に全力投球ってのもよかったのかもね。 儚い雰囲気と書いたけど、俺のよくいう涅槃なんだと。こことあの世の中間が見えていたというのか それは安らぎでもあるんだろうが、絶妙に不安も入っていて、その分裂した機微を表現できたってのがすごいんだ。 そういう表現ができる連中が登場した時期ということなのか、やはり時代が上手くはまったということなのか。 まあ後者だろうね、そういう音楽作った連中、もう同じ輝き取り戻せてないものな、時代なんだ。時代がすべて偉いっ・・・ も一つ言えば単純にアニメ音楽に金かけるようになったってのもあるわな。濃厚と言ったが、贅沢さがそれを可能にしている。 アニメの音楽集や声優の歌なんかがオリコンに入ったりで注目されたりで、従来からの要請がついに身を結んだというか。 うん、昔から音楽に金かけたいとか言われてたんだよな。それも含めいい時期だったんじゃないすかね。NHKってのもあるんだろーが。
到達した時代
で90年代後半は、日本のアニメーションの一つの到達点であることは間違いなく、日本はもちろん 世界でも日本産アニメブームが起こったのも当然なんだけど それはつまり日本のアニメに求められるものを芸術的に昇華できてるからじゃないか。 60年代70年代のアニメを見ていた人たちがこぞって業界に参入してきたのが80年代で、 彼らが子供の時分に見てきたロボットもの、魔法少女もの、冒険もの・・・またうる星やつら等新しい路線の登場など、 それら路線の各要素をより日本的に高めようというのを80年代でやったワケ。 いわば要素の中で拡大されるものもあれば縮小、消えていくものもあったりと、取捨選択すね。 そういう感じで80年代に日本のアニメーションは確立されたんだな。 それをさらに洗練させて芸術的なムードにまで高めたのが90年代。 エヴァに見るロボットものには、まずロボットのド派手な戦いはもちろん、ロボアニメ特有の超絶作画、ガンダム路線な繊細主人公 複雑な人間関係、知的な組織、でかい野望、かわいいヒロイン、そこに精神とか哲学とか、プラスして時代のムードを持ち込んで終劇。 ポケモンに見る冒険ものには、まずスケールのデカさ…いわば海空大地とバラエティに富んだ冒険に、 キャラクターの成長を人間でなくポケモンに託すことでたくさんのキャラクターを短いタームで成長させられ、別れもあり、 もちろん仲間との成長もあり、冒険もあり、あげく時間制限も、絶対にかなえなければならない目標もなく自由。 高所から落ちても死ななかったり、敵も悪ではあるんだがユニークで、都合の良さを徹底している。
そして本作にみる魔法少女もの。 従来にあった少女漫画な特別感が徹底されており、まず主人公は中の上もしくは上の下ぐらいの生活水準で 土地は一等地、知的水準はトップクラス、父が大学講師で兄がトップ進学校在学中、主人公はエリートな私立小学校に通う制服少女と まず対象層のお友達とはかけ離れたレベル。従来のフツーの女の子が特別になる、でなく特別な女の子がさらに特別になるという次第で こんな辛気臭い住まいすら嫌なんだという女の子たちの心の叫びに呼応したのかもしれないね。 だからか日本的な辛気臭い場所はほぼ登場せず、洋風な街並みや家が全開で、北欧とかヨーロッパとかの都合のいい場所を総どりしたような背景。 少女物=キラキラ、夢、お洒落、何よりも洋風なんで、徹底してる。 さらに同性愛に代表される異色恋愛ムードも濃く、あくまで少女漫画ライズに軽く、また重く美形な登場人物たちが色んな恋をする。 主人公ですら中国の少年と恋仲になるのだからバラエティに富んでいる。男同士、女同士、教師と生徒(小学生)、妻を亡くした男とその妻の親友の女・・・ それも毎話恋のエッセンスが入ってんだから少女漫画の鑑。 全体的傾向として作画も安定してきた頃なんだな。80年代初期のよーにお前誰だよってほど荒れてないし、75点ぐらいなら安定して出せるという。 反面、どうしても細身のキャラやかっこいいロボットにしか新規アニメーターの意識が集中しないので、かつての朴訥さとか骨っぽさとかは失われたが。 それまた要素の取捨選択。そうそう、キャラもシャープになって、70年代の濃さ、80年代のデラックスから色も装飾も減って目も小さくなって洗練された。 でキャラも含め、背景や街並みに無国籍風を感じる時代なんだけど、 なんというか日本的なものを本来の辛気臭い匂いから、無臭・・・消毒液と陽光の匂いへと芸術的に洗練させた ってイメージなんだ。そういう意味じゃ本来の匂いはないワケ。 60年代から80年代、90年代も前半は日本的なさび臭さとか排気ガスとか伝わってきたけど そうだな日本という路線の中でそこもまたオミットされたんだなと。日本のアニメに求めるものとしては生活感のある匂いは必要ないんだと。 アナログからデジタルへということなのか、日本が身も心も西洋化してきたという姿勢なのか。 昔も無国籍風だったけど匂いはあったし、いくら飾っても服装が日本的だったし、ドンくさかったりとザ・日本があったけど 平成以降はスタイリッシュに日本人離れしすぎたって気がする。まあアニメは精神の躍動ですから見た目に拘らないのは大事だろうが。
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すごいけどあざとい
雰囲気にしろ何にしろ魔法少女ものとしても90年代後半のアニメとしても抜群の仕上がりで ハートウォーミング&センチも映像文化史上に残るもんだと思うけど、しかし久々に見るとあれだな、さくらがあざといな。 まずは声。以前気にならなかったかわいい声ってのが耳障りになってきて、あざといなと。 大人の考えるかわいさってのがそのまま伝わってきて、宮崎駿の声優批判が多少なりともわかる。 声優の丹下桜自体あざとい部分があるし・・・でも、キャパ広く視聴すれば、聞くに堪えないほどじゃない。 細かい部分で抑制効いてるところもあるんで、心広く持てばちゃんと聞けるっちゃ聞ける。 次は顔ね。さくらには素朴な顔と、クオリティ高い顔と二つあるワケだけど、クオリティ高い顔ってのも これまた大人の考える少女漫画の気合入った表情ってなもんで、あざとかったりくどかったり。 アニメじゃシリアスや心情的なシーンは絵をこってりとするのが一番イージーなんだろうが、少女漫画のそういうシーンってのは 逆にさらっと描いてる気がするんだよな。スーッと空気が通るような。後半部そういうくどさが出てくる。 いけないのが封印されたカード。クオリティ高い作品だけど、さくらが常時発情期みたいなとろーんとした表情で 素朴さはない。挙句丹下桜のTV版にあった抑制がなく、あざとい声が目白押しで繰り返しの視聴はしんどい。 大きいお友達向けか?
昔のプロの仕事ってのはエンタメ(鑑賞者の目)を意識して半分は冷めてるってのが大事なんだろうが 本作の丹下桜は自分が入りすぎているのかちょっと聞くのがしんどいボイスすね、終盤とか。 大人の作為なんだ、ラストの告白も。それが見えすぎちゃってんだよね。 丹下は忍たまとかドラえもん映画のゲストとかデュエマとかの勝気なタイプのがあざとさがなくていいんだけど。 声の芝居で言えば宮崎駿も人のこと言えないけどな。ナウシカのあざというふふふふとか、ラピュタの鳥に囲まれたシータのあざというふふふ 魔女の宅急便のおとーさんとかだめえとか、あざといからな。あれは無垢とかでなくて大人の考える可愛さなんだ。まあ駿もオタクだからなー。 ただ完全漫画に振り切ってるさくらの方がマシなんだよ。アニメ演技とそれほど乖離してないから。ジブリは真面目な絵とアニメ演技がちょっと・・・。 序盤の朴訥さ、いわば子供向けという姿勢が、スタッフが調子にのったのか どんどんとさくらの可愛さが素朴さから、あざとさへと転換していってしまったんだな。 EDのHONEYとを見ればわかる。大きなお友達が見えちゃってんだ画面に。やりすぎなんだよ。 このやり過ぎ感はエヴァンゲリオンを思わせる。オタクカルチャーという意味じゃこの二作とナディアが突出して濃いね。 ガイナックスとCLAMPはロボット物、魔法少女物その他諸々を日本ライズして90年代に昇華させた貢献者なんだな。 まーオタクなんだよ、彼らの純度100の開き直りの結果こうなったという・・・いい意味でも悪い意味でも。
序盤のこういう顔がよかったワケでね。![]()
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どんなアニメも慣れてくると書き込み足したり絵柄が成熟したりするんだろうが やっぱり初期にしかないどこか軽い、ラフな絵柄の方が作為を感じなかったりするワケでね。
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で本作の色んな愛のカタチってのはやっぱ少女漫画的なもんなんだよな。 男同士でも中性的とか、あくまで女性のお眼鏡に叶うような世界ね。 ただ同性同士の愛っていう、いわば精神が大事だっていうことだろうから、見た目じゃないのかもな。 まあ精神的にも女性目線だろうけど。雪兎とか。 何はともあれ精神なんだよな、この作品は。 だから俺が言いたいのは、寺田先生と里香との愛の話なんだ。
大人と子供の愛は成立するのか?
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先生と生徒。大人と子供。里香は小学4年生。25歳と10歳。 今、この二人に関しては犯罪だとか、寺田はロリコンだとか、気持ち悪いだとか 海外じゃ絶対に許されないんだと断罪されるほどの扱いになっている。 漫画では婚約指輪を渡す相思相愛だが、アニメでは当時からして扱いに苦慮したのか あくまで理科の片思いだが、寺田も好意を受け取り、なんとなくドギマギしたり一緒にいたりと怪しい仲は変わらず。 で、この二人の仲を何故批判するのかという問題がある。大人は子供を守るものだとか 子供は判断能力がないとか、大人の欲望だとか、ロリコンだとか、社会規範に合わないとか、色々ある。 しかしそもそも論だが、批判というのはある一つの価値観に自分を預けてないとできない行為なワケだ。 相対化してでしか、批判も肯定もないんだから。 俺の言いたいこと。つまり預けるべき価値観ってのが、今の時代ないんだってこと。 この激動の時代、国のため、から自分のため、という180度違う価値観が氾濫し、価値観も揺れに揺れている。
大人が子供を守るのは何のため?国を守るためかもしれない。 何故学校があるのだろうか?人間を従順なロボットにするためかもしれない 何故教師がいるのか?従順なロボットを見張るためかもしれない 何故年齢による区別があるのだろうか?それは国の規律を守るためかもしれない と従来の国を守るための価値観が今、 「国を守るために窮屈な思いするのなら自分らしく生きていくぜ」という価値観に変わる中で 果たして大人と子供の関係を縛る楔というのは、従来のまま変わらないのだろうか?答えはノーだ。 そう、実は人間の法だろうが道徳だろうが、それらすべて時代の価値観によって操作され、確立されているというだけで 常に揺れているワケだ。俺たちが当たり前と思っていることは当たり前じゃないのだ。世の中に絶対はない。あるとすれば生まれて死ぬことだけ。 生まれて死ぬ、その中間に人生というやつがあるんだろうが、その人生ってのに実のところ本質的な縛りはないんだな。 だからこそ今の時代、価値観が変わっていく中で、大人がこうしなきゃいけない、子供はこうしなきゃってのはないのではないか。 まず言っておきたいのは、国だろうが世界だろうが、こういう風に人間は生きていきますという一つの価値観を示してくれなければ 議論はありえないということ、つまるところ肯定も否定もできないんだということ。 でも無理なんだよ。あまりにも現代は混沌とし過ぎていて、俺たちが安心して背中を預けることのできる価値観がないんだ。 昨日今日で価値観が急変する時代なんだから。今正しいとされてるものが明日間違っているという時代なんだから。
究極的に言えば子供を守るってのは、子供を守らないと国が保たないからというそれだけの理由に過ぎない。 愛とか本能だとかも理屈なんだろうが、絶対に守らないといけないというところまで重視されてしまったのは 国を保つため、という意識から飛躍したということなんだろう。子供を過保護にしすぎてもいきすぎ、で今は行き過ぎている時代なんだ。 すわりはいいからね、子供を守ろうってのは。でも何のために子供を後生大事に抱えるかと言えばマジに 国を保つため以外ないからな。学校行かせるのも勉強させるのも他色々・・・優秀な労働者にするためだからね。 結局エゴなんだ。大人の、親のね。まあここまで来たら変な話になりそうだから切り上げるけど、今は人権を大事にする時代だろ。 そうなると必然的に人間の究極である生と死が重視されるようになる。 つまり人権を大事にするってのは嫌なことを減らしていくってことだから、死という嫌な営みに対して安楽死が叫ばれたり なによりこの世というやはりしんどい世界に大人、親、国の都合で勝手に産み落とすのはどうなんだということも議論されるんだろう。 人権=反出生的な勢いが来るやもしれない。 俺が言いたいのは、大人と子供の恋愛がエゴなら、子供に大人と恋愛させないのもエゴなんだと。 子供を自由にさせない、子供の好きに生きていけない。なぜか。建前としては子供を守るため、本当は国のため、というエゴなんだな。 子供がやりたいようにやれないって時点でエゴですから。 もうそういう時代になってる。 大人になったときのために、国のために、今の自分を我慢する またはさせられるのは間違っている、という理屈が来ている。
俺の予想だけど、今人間ってのはすごい岐路に立ってて、つまり従来の国のために生きるっていう意識から 自分らしく生きるという真反対の意識へ変化している(各メディアの煽り含め)ワケだけど、そうなると必然的に 国のためにやっていた事柄が一挙に崩壊してしまうんじゃないかと。最近ホームスクーリングとかが流行ったりで、また少子化で 学校がなくなるかもしれん。労働しないやつが増えて労働体系が変わるかもしれん、大人はこうあるべき子供はこうあるべきがなくなるかもしれん 様々な規制や道徳が変化、消滅していくんじゃないかと。いわば今は崩壊の道を突き進んでるんだ人類は、先進国は。 国のために生きるってのは言い換えれば、国家の発展のために生きるということ、その発展が様々な技術なんかを生み出してきたワケだけど もう発展はいいよっていうことなのかもしれない。もう疲れた、だから自分らしく生きると。で、その先は?もちろん後先考えない生き方だから 国が消滅しようが道徳が廃れようが少子化、経済、どうでもいいんだと・・・なるね、間違いなくなる。 その時は、おそらく先生と生徒の恋だって、どうでもよくなってるかもしらん。まあ、そう考えられるぐらいに今は人類の岐路なんだ。激動期なんだな。
だから寺田先生とりかちゃんは誤った時代に生まれてきた可哀そうなやつらなんだ。 もうちょい昔とか、もうちょい未来ならば、別に恋愛していてもいいんじゃないかと。 まあ現実で大人と子供の恋愛見たら気持ち悪いけどね、物理的な見た目としてはやっぱり。 それは俺が今の社会に馴染んでいるからか、純と邪の境がわからないということなのか。 ただ本作で描かれる愛ってのは精神なんだよな。そもそも少女漫画、漫画、アニメだから、精神を描いているのは間違いない。 精神を見ているワケだから。だから実際見ればキモイんだろうが、精神性は守りましょうと。 異性愛だろうが同性愛だろうが異国愛だろうが年齢差だろうが、それらの止められない愛情という精神を力強く描いている。 そう、だから座りが悪いとか価値観がおかしいとか間違っているとかキモイとか言って批判する連中は 同性愛者はおかしいとかキモイとか批判している連中と何ら変わらないワケ。 だからお前ら、まだ原始時代で生きてるぞって言いたくなるね。
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性欲(肉欲)じゃないんだ
少女漫画の特性として、男たちに性欲を感じないことね。![]()
これはどんな作品もそう。うる星やつらですらそうかもしれない。 肉欲ってのがわからないんだろうが、漫画のあたるは精神的なつながりを求める寂しい男みたいになってる。 もしかすると女の想像する男の肉欲ってのは、そういうスキンシップだとイコールしてるのかもしれないな。 つまるところ女が好きなのは精神なんだな。つながったと。それが少女漫画。 で、そういう舞台に寺田先生とりかちゃんがいるんじゃないかと。だから彼らの愛も精神オンリーだという風に見ないと。 何故に彼らの愛だけが批判されるのか。そこには肉欲だとか、精神すら許されないという古い地球人たちの意見があるワケだろ。 しかしレオンとかシベールの日曜日とかあるけど、あれは一応精神的に許されてるワケだろ。 じゃあ寺田が許されないのはなぜかと、それは管理社会の徹底、教師に求められる役割、潔癖な社会・・・上に書いた通りだな。 ある固定概念・・・大人が肉欲抜きで子供を好きにはならない・・・という固定概念も込みで。 もち、肉欲に至るならば気持ち悪い。しかし寺田がやったことなんてエンゲージリング渡すなんてかわいいじゃないすか。 あくまで精神なんだよ。漫画、アニメだから。少女漫画だから。精神は許されるべきなんだ。 だから寺田はロリ・・・肉欲で好きなんじゃなくて里香という人格が好きだという風に見てやりたいんだ。 もちろん人格発達途中の頃の里香だからやっぱロリコンと言われるかもしれないが、人格ってのは正しい育ち方があるんですかね。 それはつまり、人間ってのは出会いの生き物だということなんだよ。でいい出会いも悪い出会いも、それは結果論であって 人間の出会いってのは常にイレギュラーなんだ。出会おうと思って出会うことなんてない。つまり運であって、それが普通なんで なんかこう、一つの狭い枠に当てはめちゃいけないよな。それは人間の人生をバカにしてるんじゃないかと。 変に重く言ってるんじゃなくて、恵まれた恵まれないを誰がジャッジするのかと、マウントの取り合いになるんじゃないかということで 無意味なんだよね。エースをねらえという少女漫画あったけど、これもコーチと生徒の恋愛があって、大人から見るとやれロリコンだの 海外でも批判されているんだが、この出会いと成長ってのも他人がとやかく言うことじゃないんだよ。 自分は正しい人と出会って正しい成長をした、っていう自負があるから他人にどうこう言うんだろうが それは謎のジャッジであっておせっかいであって無神経であってね。大体は自分の選択だったりをこんなもんかぐらいで納得するんじゃないすかね。 正規の出会いと成長なんてないもの・・・。まー、自分の人生をポジティブに、またはネガティブに捉えているかで受け入れ方も違うだろうが。 ネガティブ思考のやつはどういう出会いをしても間違ってたとなるだろうし、ポジティブ思考のやつはこんなもんかぐらいで納得するだろうと。
だから寺田は里香にとっていい育ちになる出会いだという風に、何故見られないんだろうと思うね。 何故、悪い方悪い方に考えてしまうのか。少女漫画という世界で。彼らは間違っていると。 それは今の社会の価値観に全身浸かっている人間の戯言に過ぎなくって、そういうヤツに限って 昔は同性愛を非難してたワケだ、で時代がコロッと変わると順応しちゃうという。それが普通なんだろうが・・・。 ただ、どんな愛も、どんな優しさも許される時代ってのは、それは終末を前にした一瞬の黄昏にしかありえないということは言っておく。原始時代に戻るのでなければ。 寺田先生とりかちゃんの愛は、大人はこうあるべきだとか子供はこうあるべきだとか、年齢だとか性別だとか、あらゆる制限が撤廃された時初めて認められるだろうが 制限の撤廃=社会を保たない、という必然なワケであって、それはもう人類がこの世界の発展に意義を感じなくなったときにしかあり得ないということなんだ。 そして、その時はもう来ているんじゃないかとは、書いた通りだ。
yurusarerurorikon
無垢の終わり
小学4年生ってのは精神的には差はあるだろうけど肉体的にはほとんど幼児みたいなもんで つまり人間じゃないんだよな(笑)。馬鹿にしてるんじゃなくて、子供という枠ってのは意識としての人間ではないんだよ 「子供の動物」に近いんだな。 なのでいくらか邪はあるんだろうが、基本的に無垢。特に育ちのいい学校とかの生徒はそれなりに無垢。 で少女漫画の世界は大体無垢。当然さくらも相当に無垢だ。本作は無垢な連中しかいなくて もちろん邪な意識を持つ連中もいるが、かわいいもんで、犯罪に手を染めるやつはいない。 さくらも母も父も無垢だからこそ皮肉な態度で家族を守らないといけない桃矢の気持もわかるというもの。 雪兎も無垢だし。みんな無垢なんで・・・アニオリのメイリン以外は。 現実の殺伐とした世界でこんな無垢は許されないんで、少女漫画らしく理想の世界を描いているんだろうが・・・
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でさくらが小6になった封印されたカードではもう無垢じゃないんだよな。人間になってる。 ただし人間としての表されようが、上に書いたように発情期のそれだから・・・。 人間ってのは「大人の動物」ってとこからスタートするんだろうが、そのスタートラインを描いているからこそ妙に生々しい。 終始発情期ってのは、やっぱやりすぎなんだな。ずっと照れてるし。TV版でも照れてたけど、朴訥な表情だったからまだね。 映画では成熟したような顔で発情だから、これはもう無垢じゃないんだよ。知世ちゃんの陰謀も大人っぽくなってたし。
失敗した続編。
俺はカードキャプターさくらの成功は、さくらの朴訥なところにあったと思う。 しかし書いたようにスタッフが暴走したのかさくら=朴訥から さくら=超美少女、艶めかしく、アニメアイコン、みたいなイメージを作っちゃったのか 後半以降、さくらはあざとくなってしまった。映画にある発情期もそう。 でクリアカード編は絵の個性のなさ、締まりのなさ、雰囲気のなさからもう終わってたんだが 何よりもさくらのイメージが暴走の残りかすに終始していたのが一番の問題。 つまりクリアカードのさくらってのはオープニングもそうだし本編もそうだが、朴訥じゃないワケなの。 あざといんだよ。しかもそのあざとさを表現に昇華する技術も熱気もないんだよ、だから残りかすだと。 他にも芸術的なオシャレ感とかね。プラチナの評価で気負ったか?さくら=元気でいいんだよな。 変に気負ってさくら=美少女アイコンだとか思ったんすかね?もっと朴訥な線でいけばまだ何とかなったと思う。 みんな勘違いしちゃったんだな。さくらがウケたのは爽やかだったから。あざといのはくさいだけでね。 もちろん90年代後半のムードと金と技術もあったワケだけど。うん、クリアカードは雰囲気ないし、熱もないし でもあざといしで、表現以前の部分で軽いのが問題だな。吹けば飛ぶような軽さ。 恋愛ものは付き合うまでが面白いってのもあるだろうけどね。
音楽
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音楽では、爽やかハートウォーミングな幸せの桜並木、爽やかな朝、安らぎの日と センチメンタルな憧れ、切ない気持ちと 90年代後半にしかあり得ない涅槃的フィーリングで作品を包容している。 ポケモン、エヴァ、コナンと、俺はこういう匂いを全身に浴びて成長したんだなと
オタク的記号
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本作はLGBT的に後世にいい影響を与えたとかいう風潮があって 確かに子供の刷り込みとして同性愛=甘美、という感じで少なくともNGではないという意識はいいことなんだろうが CLAMPもファンも、それを誇って私たちはLGBTに理解があるとか思っちゃいかんのだ。 だって女の考える同性愛だから。つまり同性愛と違ったボーイズラブという界隈の設定なんだよ。 同性愛とボーイズラブは違うんでね。でそこには同性愛者的な男同士のノリはなく いわば腐女子の考える男同士、どこか男と女っていう関係性で、リアルではないってことでね。 長髪が基本だし、特にユエなんてのは完全女の考える設定だからな。 そこに髭を生やしたり、しなを作ったりとかのザ・カマっぽさは当然ないんだ。 本場の連中的にはやっぱ短髪とか、髭とか、熊系とかもあるけど、髪伸ばすなら髭も生やすとかが多いらしくて でも腐女子的には受け入れられないんで・・・つまり自分たちの都合のいいボーイズラブっていうノリを 同性愛とイコールして、あまつさえ誇ってるってのはな・・・精神が合えばいいんでしょうか。でも精神もリアルじゃないっぽいし・・・。 なんかちょっと引っかかるよな。 雪兎とユエは女に大人気なんだが、それは女にとって都合のいいキャラだからなんだな。 あれ見れば女の考える同性愛の姿勢がわかる。 男同士の愛を、そのままリアルでは受け止められないからボーイズラブという枠の中で 雄と雌という風に分けて、女特有の支配欲とか被虐欲とかで楽しむと。 結局男同士のリアルな愛ってのを、彼女たちは受け入れられないと思うよ。 もっとカマっぽいとか、ワイルドだとか、うんこクサかったりとか・・・まあ生々しいんだな。 やっぱ倒錯愛とか甘美とか、許されざるっていうのに興奮するんだろうと。うん、誇れはしないわな。 蛇足で言えば、全体オタク的記号をちりばめただけとも言える。 そういう意味じゃ、LGBTだとかもCLAMP的な・・・拡大した女的な、何でも恋愛に結び付けたいという意識ゆえなのかもしれない。 慈愛とか優しさ、思考でなくって、ある種の性豪なんだよな笑 性癖ですよ性癖。 だから何度も書くけど自分たちはLGBTを分かってるってのはね、違うね。全部ずれてるからね、実情というかリアルとは。 全部がオタク的記号なんだから。
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開き直れたから強い
ただカードキャプターさくらが少女漫画の要素を無神経にも全開放したってのはあるわな。 エヴァもそうだけど。つまり世代としての開き直りなんだよな。 自分たちにはこれしかないっていう開き直り、からのグロテスクにも要素を全放出すると。 実際本作とエヴァはそれぞれのジャンルの完成形&最終形ともいえる露出ぶりだ。 ある種オタク的に無神経だからできたってのもあるだろうし、ここまで来たらこれしかないという 世代的開きなおりがあったのかもしれない。ダウンタウンの笑いとかもそうなんだ。 もう悪趣味な笑いしかないってことで、世代的な開き直り込みでやったんだと。 どの世代も開き直って色々やるんだろうが、それでもオタク第一世代な本作とエヴァの開き直りは大きい。 時代が無茶苦茶を許したってことで・・・コナンも推理物・恋愛ものとして全開放してるし、 ポケモンも冒険もの・フランチャイズものとして全開放と、90年代後半は開き直ってやりたい放題な時代だった。 しかし本作とエヴァの欠点、いわば中身のなさ。本作はただの癒しとかで終始してるし エヴァも対人恐怖と自己肯定とか・・・セラピー作品かな、どちらも。 オタク世代らしくやりたいことはテーマがどうとかでなく、またリアルに興味がなく 今まで受け取ってきたジャンルを自分たち流に全開放することだけだったからか かつてあった人間味あふれるテーマと引き換えに、凄まじいビジュアルと演出を手にした。差し引きゼロってとこか? しかし時代の雰囲気や圧倒的な迫力ゆえ、テーマの薄さもなんとなく誤魔化されている。これも作品の力と言える。
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ただリアルタイムで、ある程度の年で見てたら本作もエヴァも嫌ってたろうな。それは言える。 色々と理屈つけてさ。だってどっちもくさいしね、あざといし、人間描写とかもできてないとか・・・。 全部がオタク的記号だってのはキャラクターなんか特にそうかもしれない。エヴァは抜け出そうともがいてたけど・・・。 そういう意味じゃ、何度か言ってきたように20世紀のエンタメが終わった辺りで物心ついてよかったと思うんだな。 20世紀でエンタメが一周してると思ってて、つまりやることは大体終わってるんだと。 60年代が起源、70年代が発展、80年代が抽出、90年代が昇華、00年代初期は余韻。 なので俺のエンタメへの意識って全部終わらせた時点からそれを振り返るってことだから、 さくらもエヴァも、うる星やつらとかイデオンとかと一緒なんだよな過去という意味で。 過去作として受け入れられるんだと。それら過去作にある世代の臭さとかあざとさとかオタクムードすら 全部通過したうえで意識が芽生えてるワケだから、顔をしかめても受け入れないっつーことはあんまない。 やっぱオタクくさいかどうかってのは最大のハードルだと思う。アニメの歴史を追う中ではね。それを超えられなかった人たちはたくさんいる。 でもそのハードルを無意識のうちに超えてたってのはありがたいかもね。だからフツーに見れて、なおかつ冷静に判断ができると。 まあ今の俺は2010年以降のオシャレアニメは腹立って見れないワケだけど笑 そしてオタク世代最初の作品として・・・人類総オタク時代となった今では、ある種の教科書なんだよな。 そこから抜け出せないというか、それ以上のものはできないとわかってるし あれが第一世代からこれから先へ提示された限界点ってのもわかるしね。ビジュアルは増しても中身はどんどん薄くなるし 雰囲気はないしで・・・ビジュアルすらも勝てないだろうしな。テーマは薄いが他が100点以上だっていう。テーマも0ではないしね。今なら0だろうと・・・。 ただオタク世代って一緒だと思うんだよな、それは過去の蓄積の話でなくって 存在が。つまり生まれたときからテレビがあって漫画があってアニメがあってということで。政治もないし戦争もないし。 一緒なんだ。そこにパソコンとかゲームとかがあるぐらいの違いでさ。だから俺と庵野だとかCLAMPだとか、変わんねえんだよ。 だからエヴァもさくらも自分事として、自分の世代として楽しめるし・・・うん、やっぱ20世紀ちょっとまでじゃないかなエンタメは。 ただ庵野とかCLAMP連中ってのは最初の世代だから、その背景なんかは絶対に違う。だからかエヴァもさくらもギリギリの重みがある。 それを残してくれて終わったと。威厳というか貫録はあるよ。これは時代なんだろうと。
VHSに再放送の第2話と知世ちゃんのビデオの後半が残ってて、幼少期からそれを繰り返し見てたよ。 コレクターユイ二期の総集編とか、ブーバーガー&チックンタックとか。
映像関係
よく言ってる映像のリマスター問題だけど、カードキャプターさくらは色彩とかのムードが極めて強い作品だから リマスターで特に印象変わっちゃうんだよな。 一番最初に出たDVDが1999年から2000年まで。これがリマスターされてない版。 で2005年以降リマスター版が出回り、これがスタンダードになる。
で比較。 左が初版 右がリマスター版![]()
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リマスター前の方が、白飛びとかすごいんだけど、端的に絵のムードで言えば、温かみがあって、雰囲気抜群。 このサイズではわからないけど線の輪郭がしっかりしてて、細くもなくて、背景から浮いてることもなく、厚みがある。 ちょうどいいんだよな、画質もいいし。BD以降のキレイキレイでシャープすぎることもないし。 暖色、淡い感触だ。 プラチナは最初の青空が全然違う。 リマスター前はガイナックス的な濃淡の強い青空で、世紀末な趣があったね。