「パンク日記 さよならブルーハーツ」より



今ではすっかりスキン頭で、野心も落ちついたイメージのある革命家・外山恒一の
とっても勢いがあって、とっても分別のない、自意識過剰で気持ちの悪い青春を描いた傑作が
この「パンク日記 さよならブルーハーツ」である。
こういう時代における個人の日記は歴史的にも貴重であるから採録する。

1970年7月26日 鹿児島県国分市に生まれる。福岡県大野城市に引っ越す。このころから小児ぜんそく・アレルギー性鼻炎に。  大野城市の乙金保育園に入園。鹿児島の祖父死去、火葬場で泣く。 1976年4月 福岡市のみかさ幼稚園に入園。隣のクラスのヨーコと恋に落ちる。以後14年間「両想い」はナシ。 1977年4月 大野城市立大野東小学校に入学。小学校時代を通して、毎週土曜日に耳鼻科と小児科に通院毎回注射される。 一年間少林寺拳法の道場に通う。 1978年4月 近所に新設された大野城市立大城小学校に転入学。スイミングスクールに通い始める。 1981年4月 小さな進学塾に通い始める。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズにハマる。 1983年 鹿児島の私立ラサール中学を受験不合格。福岡市の市立西南学院中学を受験、合格。 私立西南学院中学校入学。男子校だったが小学校時代の同級生Yを3年間思い続け、ときおりラブレターを出す。 このころ押し入れに父親のエロ本を発見、初めて射精体験。 登山研究同好会に入部。西南中の戦後民主主義平和教育に無意識のうちに影響される。 1984年4月 顧問の教師にあこがれて空手部に入部、二か月でやめる。このころ新しいクラスでいじめに遭う。 通学の満員電車に揺られながら、このころから自分は選ばれた特別な人間なのだという妄想を抱くようになり イヤなことがあっても自分は特別な人間でありこれは試練なのだと自分に言い聞かせる。 このころ拾ってきた犬を飼う飼わないで親と大ゲンカ、初めて登校拒否を二日間敢行。 5月 赤川次郎の三毛猫ホームズの狂詩曲を読み赤川マニアになる。 クラシック音楽に目覚め自分流にピアノの練習を始める。 遅刻が多く、罰として担任教師に坊主刈りを強要されかけるが断固として拒否、担任があきらめる。 8月 初めて小説を書く。 9月 友人と創作推理小説の見せ合いを始め新しい部活動ミステリー同好会を学校側に認めさせる。 このころ「精霊流し」を聞いてさだまさしにハマる。このころ菅原文太主演「もう高校はいらない」を熱心に視聴。 1985年 周囲が急激に高校受験体制に入っていくのを尻目に小説を書き続ける。 8月 絶対に塾には行かないという志を曲げて通い始める。それでも小説は書き続ける。 秋 Yさんに最後のラブレター。最初の失恋。 1986年 絶対安全確実と言われた福岡県立福岡中央高校一本に志望校をしぼったあげくのまさかの不合格。 福岡市の新設校私立中村学園三陽高校の二次募集を受験、合格。 4月 三陽高校に第一期生として入学、壇上の日の丸に反感を覚える。入学直後の軍隊式宿泊訓練に憤り、職員室へ単身抗議に。 記念すべき最初の自覚的な反管理教育闘争。 6月 校内不良グループに目を付けられいじめに遭う。いじめを苦に二日間の登校拒否。 8月 鹿児島県立加治木高校の編入試験を受験、合格。 9月 加治木高校に転入学、鹿児島県隼人町の祖母宅から通学。文芸部に入部。 10月 半強制的全員参加の課外授業に受験体制迎合反対を理由に出席拒否、大問題になる。 11月 文芸部の先輩への恋愛問題がこじれて部を追放される。 12月 小松左京や森村誠一を読み、小説家になるには社会問題に通じていなくては、と毎日ニュース・ステーションを録画して見始める。 売上税、防衛費のGNP1%枠突破などのニュースに怒る。 1987年1月 ホームルーム委員の立場を利用してクラスで政治演説をする。 ふとしたきっかけで共産党の事務所を訪れ民主青年同盟なる怪しげな団体への加入を勧められ、怖くなって逃げる。 4月 選抜クラスに入れられ、ガリ勉たちに疎外される。非公認の漫才研究部のポスターを掲示したことが問題になる。 生徒総会で盛んに学校を批判する。生徒間で浮き上がりいじめに遭い始める。 5月 放課後の教室で自主講座加治木高校付属大学を主宰する。 6月 イジメグループを告発するビラを職員室でまいたことが問題になる。 7月 校内反体制組織「印刷ミスの会」の結成をもくろむが、挫折。 8月 福岡県立筑紫丘高校の編入試験を受験、ぎりぎりで合格。転校間際になって加治木高校の生徒会副会長へのほのかな恋心が芽生える。 9月 筑紫丘高校に転入学。加治木高校の生徒会副会長との文通が始まる。文芸部に入部、つまらなくてじきに行かなくなる。 学校のつまらなさに絶望し、学校でほんとに自由で民主的な社会を目指す高校生の政党「ほんとの自民党」結成をたくらむ。 中学時代の友人たちを誘って党員にする。 9月中旬 クラシックギター部に入部。 9月30日 県教育委員会で委員と激論。 10月1日 前日の件で戒告処分。三重県の問題児矯正施設日生学園高校に入れられそうになる。 このころ、ブルーハーツのファーストを聴いて衝撃を受ける。さだまさしはだんだん聴かなくなる。 学校の創立記念式典の君が代斉唱を拒否し着席。 11月 週一、二日くらいずつ学校をさぼり始める。 全国数重の高校の社会研究部あてに党員募集の手紙を出す。広島の活動家高校生・浜村真也からコンタクトがある。 12月24日 ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」を流しながら、「ほんとの自民党」結成の宣伝キャンペーンとして九州一周自転車旅行に出発。 12月25日 自転車旅行を報じる記事が西日本新聞に掲載され、筑紫丘高校校長に知るところとなり、即刻中止せよとの命令が出る。 12月28日 学校に呼び出し。教師による事情聴取の内容を録音する。 1月2日 再度自転車旅行に出発、広島で浜村真也と会う。RCCラジオに浜村とともに出演。 1月8日 無期停学処分。 1月15日 鴻上尚史の「オールナイトニッポン」で尾崎豊の麻薬所持事件の特集が組まれ、初めて尾崎に興味を持つ。 2月11日 「ほんとの自民党」解散。自主退学を内心決意。 2月25日 停学処分、解除。 3月 『ぼくの高校退学宣言』執筆開始。 春休み中に『ぼくの高校退学宣言』企画を送った徳間書店から出版を引き受ける旨の返事。 4月7日 担任の退学の意志を伝える。4月22日付で退学。 5月 「処分を受けないように学校に反抗する会」を名乗って反管理教育運動を始める。 共産党系の運動団体事務所で古い印刷機をもらう。大野城市の西鉄下大利駅前で、 筑紫中央高校の下校中の生徒に森村弘なる偽名で初めてビラ約50枚を配布。(単独・以下同) 7月 予備校・水城学園大検コースの夏期講習で仲間を一人獲得。 8月 大学入学資格検定受験会場前でばらまき。 グループ名を「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」と改称。 11月 福岡でのビラ巻き活動が朝日新聞地方版で紹介される。 11月28日 記事を見て連絡を取ってきた堤と会う。 11月29日 同じく記事を見たタクローと会う。 12月21日 福岡で初めてのDPクラブ会合を市内の喫茶店トゥモローで開く。十数名集まる。 12月末 初めて東京・青生舎を訪れる。 1月7日 昭和天皇死去。日本基督協会間での反天皇制集会に行く。 1月8日 原宿ホコ天で反天皇制全国個人共闘秋の嵐のデモに参加。 1月下旬 『ぼくの高校退学宣言』の印税を前借して福岡市南区高宮に1DKのアパートを借り、DPクラブの事務所兼たまり場とする。 1月31日 『ぼくの高校退学宣言』刊行。 2月1日 フクニチ新聞社会面「共感呼ぶ『退学宣言』」。 2月5日 DPクラブスペース開き。 2月中旬 鹿児島や福岡で教職員組合主催のシンポジウムにパネラーとして出席。 市民運動家のたまり場「猫の事務所」主催の学習会に講師として呼ばれる。 そこでのちの世界夫人ことミキちゃんと会う。 紀伊国屋書店福岡店で『ぼくの高校退学宣言』ベストセラー一位に。 3月 この頃からスペースで生活するようになる。 3月14日 もう一度学内闘争をやり直すために県立筑紫中央高校受験、不合格。 3月15日 DPクラブ会報「DP倶楽部」創刊号発行。このころフォービギナーズ・シリーズ「マルクス」「毛沢東」を読んで毛沢東系マルクス主義者になる。 4月8日 同い年の高校生会議実行委員の女性fのアパートに押しかけ、数日宿泊、ファースト・キス。 真正包茎のため一線は越えられずじまい。数名の常連メンバーで駅前ビラまきなどをときおりやる。 4月下旬 スペース内の馬鹿な連中との仲違いが次第に表面化してくる。 5月7日 DPクラブ第一回学習会、失敗。 このころからスペースが露骨にサロン化し始める。 5月下旬 サロン化勢力と対決、スペース内で孤立始まる。 6月4日 天安門事件。数日後、毛沢東主義の立場から現中国共産党指導部を批判する文章を書く。 6月18日 京都で開かれた共産党系の高校生集会「春季討論会」に参加、浮く。 7月4日 県立柏陵高校の風紀検査をフェンス外からハンドマイクで妨害。 7月13日 私立筑紫女学園中学のホームルームで『ぼくの高校退学宣言』を読まないようにと教師が発言したことへの抗議のビラまき。 7月30日 DPクラブの雑記帳にサロン化傾向を批判する殴り書き。 8月14日 恋愛問題で大阪へ。 8月15日 恋愛問題で東京へ。 8月20日 市民運動のイベント「エイジアン・フェスティバル」の街頭宣伝に駆り出され、初めて路上でギターを弾いて歌う。 9月 エイジアンフェスティバルまでの共同作業の中、サロン的連帯意識を強めた常連中高生らとの対立が徐々に激化。 9月24日 このころから、鹿児島ラ・サール高校の少年が家出して二か月ほどスペースに泊まり込む。 9月27日 サロン化傾向に忍耐の限界、発狂。 10月1日 サロン化勢力が結託して外山恒一糾弾集会。完全決裂。 10月5日 サロン化勢力、キンコンカンクラブを名乗ってDPクラブ脱退。DPクラブをがっちりと組織固めし直そうと画策する。 このころから従来型の教育市民運動から逸脱が目立ち始める。 10月14日 豊前市での部落解放同盟系の同和教育研究集会に世界夫人とともに参加。世界夫人との蜜月時代。 10月28日 第一回DPクラブ徹夜討論会。 11月18日 第二回DPクラブ徹夜討論会。 12月16日 世界夫人の所属する筑豊の部落兼運動で完全に孤立。 世界夫人とも敵対関係に。このころから街頭ライブ始める。 12月23日 天皇誕生日抗議街頭ライブ。バーニング・ゼンジー事件。第三回DPクラブ徹夜討論会。 1990年1月1日 冬休みにスペースへ泊まり込んだ数名とともに綱領「DP宣言」作成。 1月7日 「反管理教育中高生グループ・DPクラブ」結成式。 1月12日 DPクラブ分裂事件が毎日新聞ふれあい迷子欄で取り上げられる。 2月 仲間募集のステッカーをバス停などに貼って回る。 2月11日 街頭ライブ、サラリーマン新党に乗っ取られる。 DPクラブ分裂時にスペースを去ったスドー&フルショー、街頭ライブの常連としてまた顔を出し始める。 このころから投げ銭で生計を立て始める。『ハイスクール「不良品」宣言』出版決まる。 3月 去年に続いて再び高校受験、久留米市立南筑高校に合格してしまう。 4月7日 南筑高校入学式出席。 4月8日 留守中に綾子ちゃんといちゃついていた浜村に暴行。南筑高校で新聞部を組織、南筑生新聞発行。 教室の壁に非合法地下新聞刑事。部落解放同盟系の管理的な新聞部顧問との対決の日々。定期券を買う金がなく、ヒッチハイクで登校を続ける。 5月 単調な生活サイクルに体が耐え切れず登校拒否気味に。 6月 週二、三ほど南筑高校に通う。すでに出席日数危うし。 6月22日 県立福岡中央高校で『ハイスクール「不良品」宣言』宣伝兼DPクラブ仲間募集ビラまき。 『ハイスクール「不良品」宣言』刊行。 7月6日 兵庫県立神戸高塚高校校門圧死事件。 7月16日 高塚高校で浜村らと「次はオマエの番だ!」と題した生徒攻撃ビラまき。 生徒の帰れコール浴びる。 7月20日 砂浜生き埋め体罰事件の福岡市立壱岐高校で「体罰キョーシを生き埋めにしろ」と題したビラまき。 7月30日 包茎手術敢行。 7月31日 「子どもの権利条約の批准を求める10代の会」の福岡集会開催をひきうけ自ら粉砕。 9月3日 セックスするまで学校行かない「革命的童貞同盟・同盟休校」宣言。 9月30日 東京ARC主催「子どもサミット・日本」粉砕未遂。 会場で子どもの権利条約批判のビラまき。”秋の嵐”周辺グループ「アナルコミクス」と知り合う。 10月8日 東京からのヒッチハイク車内で性的凌辱を受ける。 10月10日 現在の第一夫人と初結合。童貞喪失。 10月12日 「同盟休校」終了、久々に登校。 11月1日 DPクラブ東京進出を狙い”秋の嵐”メンバーらと都立新宿高校ビラまき。 11月3日 北九州市の「子どもティーチ・イン」完全粉砕。敵の中に世界夫人。 同じ日原宿で”秋の嵐”暴動。浜村ら逮捕。 12月15日 福岡で部落解放同盟系の高校生集会を完全粉砕。世界夫人は幹部として壇上に。 このころ「プロ教師の会」『反動的!』に衝撃を受け宝島社担当編集者とコンタクトをとる。 1991年1月 別冊宝島129『ザ・中学教師子供が変だ!』のために校門圧死事件以後の活動の総括文章 「子ども自身による反『管理教育運動』なるものはほとんどゲロゲロである」を執筆。 1月17日 水戸浜村と最北端・北海道谷岬から最南端鹿児島県佐多岬まで日本縦断ヒッチハイク〜22日。 3月13日 筑紫丘高校入学試験当日「ぼくはこの高校を半年でやめました」と題したビラを受験生に配布。 3月19日 福岡市立高宮中学で校門の内側に入ってビラまき。警察に通報され危うく逮捕されかける。」 『子どもが変だ!』収録論文を中森明夫氏に評価され東京・太田出版よりコンタクトあり。 5月 河合塾福岡校小論文科の添削バイト始める。DPクラブ解散。ポストモダン思想に本格的にハマり始める。 6月 旭川医科大学学園祭によばれる。スタッフの一人との間に甘い恋が芽生える。第二夫人との超長距離恋愛の始まり。 日本共産党が『赤旗』『文化評論』『青年運動』などでDPクラブ・外山恒一名指し批判。 7月 第二夫人と革命的結合、外山恒一版「春の歩み」二人目。二股生活の始まり。 DPクラブ活動の総決算「注目すべき人物」構想湧く。 8月 『注目すべき人物』執筆開始。スペースに初めてきた女子高生を強姦未遂。 このころからフェミニズムを性暴力で粉砕することを考え始める。 9月 スペースを「現場」と改称し反教育学習を企画、市内ポスター張り。 9月23日 『注目すべき人物』草稿完成。 10月 上京し『注目すべき人物』をたずさえ出版社回り。 11月10日 「九〇年安保」説を思いつく。バンド活動を本格的にやろうとメンバー募集ビラ張り。 このころから街頭ライブに常連客取り巻き増え始める。 11月29日 中森明夫氏から初めて直接コンタクト。 以前は反発していた西部遭にシンパシーを感じ始める 12月7日 ゲルニカの会主催の集会「子どもの権利条約と親の教育権」粉砕未遂。 12月25日 『SPA!』特集「サブカルチャー最終戦争」(中森明夫総指揮)にサブカルの未来の主役たちとして取り上げられる。 12月末スペースでの第二夫人との同棲生活始まる。 1992年1月 週一回の九州大学のフェミニズム自主ゼミに参加し始め、回を追うごとにけむたがられる。 2月 第二夫人ショートカット強制代執行事件。 2月下旬 『注目すべき人物』出版元決まらず、自主印刷決意。二股問題で高校生会議以来の同志森田と決裂、同志ゼロ状態に。 3月15日 『注目すべき人物・インディーズ版』発行。上京して『注目すべき人物・インディーズ版』たずさえ出版社回り。 4月 第二夫人と別れる。 4月25日 街頭ライブ用ミニコミ『見えない銃』創刊号発行。 尾崎豊急死に大ショック。

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