手塚治虫   功名心がそのまま漫画・アニメ界の発展に寄与した代表例。 幼少からのらくろやディズニーに感動し、漫画に勤しみ、軍医養成校在学中に漫画家デビューし 1947年「新宝島」で一躍戦後漫画家の代表格に躍り出る。当時本作を読んだほとんどの人間を唸らせ 「漫画で映画を作れる」と漫画家や作家の道に進ませる契機となった、手塚神話第一号がこれである。 その後は日本最初のストーリー漫画家として、SFからヒューマニズムから時代劇、医療、哲学・・・等 幅広いジャンルを漫画に落とし込み、戦後漫画家ほとんどの意識を目覚めさせ、デビューさせる。 漫画は単行本、雑誌まとめて日本の大衆文化にまで上り詰める。 そして1963年に自社の虫プロから日本最初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」がスタート。 これによりテレビアニメという概念が一般化し、キャラクター商品も出回り、 予算がないことによるリミテッドアニメが日本の主なアニメ手法となった。 その後、虫プロだけでなく様々な会社がテレビアニメをこぞって製作し始め その中で数多くの人材が登場、日本は一躍アニメ大国として君臨する。 ということで手塚治虫は漫画、アニメの現代日本における基盤を作った大偉人と言えるが それは作品の完成度というよりも「こういうことができるのか」という発見からくる 先駆者であって、最初から最高傑作のクオリティを伴って・・・という偉人ではなかった。 こういうジャンルもあるんだよという基礎作り、基盤づくりが手塚のやったことだったし、それしかできなかった。 それもこれも新宝島の手塚神話から始まっているんじゃないのか。 つまり手塚にとって「新宝島」はトラウマだったんだろうと。 だって作画は手塚だけど、いわゆる映画的な構図は酒井によるものだから。 つまり日本をあっと言わせたのは自分の能力ではなかったということで じゃあ今度は自分が新宝島的な新機軸を作ろう・・・となったんじゃないか。 自分のやっていないことが自分の一番の発明となっているなんて悪夢以外の何物でもない。 もちろん質的にも新機軸を作ることはできようが、のちに自らが招いた多作ぶりのため どれも淡泊というか味気なかったりする場合が多い。もちろん、どの作品も新ジャンルというだけに終わらず、よく考えられて作られているが・・・ どこかで質的な才能にも見切りつけたんじゃないかと思うことも。 というかそもそも当時、漫画物語のクオリティ、つまり質については比較できるものがおらず、必然的に 新しいことをやる=新しいジャンルを発掘する、新しい演出法・・・でしかアピールできない。 なんにせよ、手塚は功名心に取りつかれた男であって 作品の質がダメなら、新ジャンルを切り開くことにより手塚健在を見せつけなければならないと。 そしていつしか手塚の生き方もそれとなく、そっちに向き始めた。 手塚アニメも。 予算の問題で結果的にリミテッドとなり、それが日本アニメのスタンダードとなったが 予算があれば手塚は憧れのディズニーにならってフルアニメーションにするつもりだったし、 リミテッド演出にしても手塚の部下が広げていった。 手塚がやったことはやはり基盤づくり以外にはない。 話的にもディズニーっぽい国民的アニメを目指したのかストーリーは薄目で、変に行儀が良かったり 妙にまとまりがなかったり、アニメ史の勉強というお題目がなければ、10年経てば見るに堪えないものも多い。 あげく、ディズニーと日本的アニメ両方に、手塚味そのものが致命的にかみ合わず、 やはりその時その時の消耗品としては役だったが、のちに残るかと言えば・・・ 手塚が本当に愛していたのはアニメだった。 漫画はアニメ制作のための資金作りだとはよく公言していた。 しかしアニメの勉強もせず、また手塚治虫の持ち味とやりたいことがアニメとは致命的に合わなかった。 手塚もバカじゃないから、それら欠点すべてをどこかのタイミングで気づいたろう。 その時の手塚の心境がとーっても気になるね。だから実験アニメに走ったんだな。商業を見切ったとか言い訳して。 で、漫画もアニメも手塚らしい決定打ができなかった。 ブラックジャックは最高にイカしているが、手塚治虫というクソデカい人間の決定打かと言えば・・・。 じゃ火の鳥はいい線いくだろう。 しかし映画版は中途半端だったり漫画もそうだったり、何かこう惜しい。 そんな火の鳥の最終回は手塚から出てくる火の鳥・・・らしい。 では手塚の生き様そのものが火の鳥、作品になった、なるんだと。 そう、結局いちばんおもしろいのが手塚そのものなんだよな。業の深さ、実績、嫉妬ジェラシー、戦争、家族、後進への影響・・・ 質の高さをあきらめ、多作ぶりでトップになろうとし、その結果精力の化け物のように。60歳まで全力疾走で走り抜けていった。 我々の思う手塚の本意は、残る作品を作るより、たくさん作って現役でやり続ける いわば「生き様として最強の漫画家になる」ということだったのではないか。で、なった。 だから漫画家の生き様としては手塚治虫の名に相応しいビッグぶりだったし 火の鳥こそ手塚治虫の最高傑作なワケだ。手塚の人生そのものだから。 そして死に際、躯から火の鳥が誕生し、人生と漫画とのリンクを果たし、巨星落つ。 人生をそのまま漫画につなげる、まさしく漫画の神だ。 宮崎駿や手塚らは手塚をちょっとバカにした感じがあるが仕方がないと思う。 だって、やっぱり手塚の作品は上に書いたように質どうこうでなくって、生き様として 粗製乱造・・・なんで、一本一本勝負していら彼らからしたら、手塚アニメも含めて クリエイターとしての姿勢が違いすぎるな。それに宮崎駿のある文章で駿が批判されているが 生前の手塚の暴言ぶりも考えれば、駿もわりかし考えて書いてたと思うんだよね。クレオパトラですら見てるし。あの駿が。 その結果「粗製乱造」とか「ディズニーに憧れたのが失敗」とか・・・わかるよな、悲しいことに。 で手塚の暴言だけど、まあまとめると「俺以外のクリエイターはクソばかり。本物は俺しかいない。」 「これからの漫画界を進化させていくのは俺以外にはいない」「一部を除く日本アニメなんてどうでもいい。俺は日本アニメ界の尖兵になる」 その結果・・・ですから、駿の言いたいのもわかる。 手塚治虫の持ち味はギャグだったと思う。大阪。言い方悪いが、ゲテモノこそ手塚の真骨頂だと思う。 だから手塚アニメの最高傑作は「クレオパトラ」。冒頭のカルトからパロディ、ギャグ、歌舞伎とかさ 変な歌とか、しょうもないエロ、グロ、ヒッピー・・・決定打じゃないすか?手塚治虫=聖人で見るとわからない闇鍋具合だ。 漫画アニメ共通して手塚の一番の欠点は古めかしいセンスにある。これは時代の限界か、特に変な獣キャラね。 どれもこれもいるだけで時代遅れというか、作品が悪い方に古臭くなる。裸も永井豪にはなれない。 特にアニメは80年代以降、常に時代錯誤だった・・・キメラなんですよ手塚アニメは。ディズニー的なもの、日本的なものの中間にいた。 だから必然的にワンクッション挟まる試行錯誤の部分に生涯をささげたのだった。 手塚治虫は漫画の神様だった。つまり漫画でしか表現できないことをやってきたから。 だからアニメはダメだった。その中でもイカしてるのはクレオパトラだ。 ・・・ 大阪大学医学部在学中の46年一月、毎日新聞の少年万国国民新聞にまあちゃんの日記帳を連載してデビュー。 翌年発表の長編漫画「新宝島」の大ヒットを手始めに、雄大なスケールを持つ劇的なストーリー漫画の作者として鉄腕アトムジャングル大帝 火の鳥以下多数の傑作を生みだし、日本の漫画そのものに大きな影響を与えつつ今日に至る、戦後最大の漫画家。 45年、終戦近くに焼き残りの映画館で瀬尾光代の長編動画「桃太郎の海の新兵」を見て強い感銘を受け、いつの日か漫画映画を作る決心をする。 62年12月株式会社虫プロダクションを設立。一年がかりで作った詩情豊かな中編「ある街角の物語」は第一回の大藤賞を獲得する。 63年一月世界最初の30分ものアニメ番組シリーズ鉄腕アトムをスタート、テレビ漫画のブームを呼び起こす。 アトムを皮切りに虫プロはテレビ用のシリーズを次々と発表した者も競って追随、アニメイションが即テレビアニメをさす大濫作時代を到来させ、 虫プロそのものも最盛期には約400人の従業員を擁し年間売り上げ7億円以上の成績を誇る。 短期間に日本のアニメ界に一つの流れを作り、大きな足跡は残したものの理想的な日本のディズニーにはなれりきれなかった。 製作した作品群も、特に念願の長編に関しては漫画家手塚治虫の作品とは質的に違和感のあることは否めず、すべてが成功作とはいいがたい。 しかしアニメへの意欲は衰えず、公正と展開にアニメ様式史を織り込んだ野心作ある森の伝説を企画中ということで、その成果が期待される。 (キネマ旬報) 高畑勲   東大出のインテリヤクザ。 東大出のアニメ家という完璧主義を煮詰めた男だからこその繊細な表現、破綻のなさ 社会、環境、都市。人間ともども正確さを求める高畑ファッキングサイコ勲。そういう 最強の理屈理論家ながら、アニメーションに進むことを決めたのが、理論が破綻した結果エモーションとなった「やぶにらみの暴君」を見てから。 そういう意味で、高畑の作品にはただの教科書に終わらず、エモーションも大いに盛り込むことに成功している。 ただし駿が理論と感情のせめぎあいで感情が最後に押すなら、高畑は理論が最後を決める。 ということで「狸合戦ぽんぽこ」から何とも説教臭さが増していき、以降もあまり変わらない。 最強の理論と並以上の感性を用いてTVアニメ界の限界を広げ、それまでの、虚構なら舞台も適当でいいやというノリでなく よりリアルな舞台を設置し、人物もそれとなくそこに合わせるという構成を生む。リアルロボットはもちろん その後すべての作品――こういう舞台、土地ならそこに住む人々はこういうことをするだろうという 地に足ついた表現を前提とするつくりが一般となったりした。 「ゴーシュ」「じゃりんこチエ」までは味わい深い上手い作家という位置づけだったが 88年「火垂るの墓」で日本一のアニメ監督の称号はもちろん、世界トップクラスのアニメ監督の地位を確保し 以降高畑の名は急速に広まる。「火垂るの墓」は、それまでのうまい作品というだけに終わらず、 何が起こったか関わった全員(国内トップクラスの才能)がその実力以上のものを出し、高畑も例外でなく 高畑の理論とエモーションが、どちらも超高密度ながら奇跡的なバランスで拮抗し、アニメを超えた感覚で仕上がってしまった。 普通アニメはアニメ以上のものにはなれないが、「火垂るの墓」はそれを超えてしまった杞憂稀な作品である。 高畑映画の中ではこの作品だけが異質。そして、この映画にあった「感覚」は「おもひでぽろぽろ」までで 以降の「ぽんぽこ」では理論が大きく、終盤の展開にしても我々と映像との距離が見え、知的ゲームに終わってしまっていた。 ラストのセリフは言わずもがな。おそらく「火垂るの墓」で日本を代表する監督になったこともあって気負ったのだろうと思う。 寅さん的な顔、パンチの利いた髪型、学歴、からくる言動には、すべて圧がある。 優しそうなのは遠目から見たイメージだけで、インタビューやら見ていたら目の怖さはもちろん 発言すべてに圧がかって、これは現場の緊張感がすごそう。鈴木によると何人も潰されたらしい。 駿と高畑を虜にした名スタッフ近藤ですら「おもひでぽろぽろ」の作画作業で「高畑さんは俺を殺すつもりだった」と 何時間も号泣。他人の気持ちを読み取れないのか、読み取ったうえでの所業なのか、なんにせよサイコだ。 同窓の山田洋二とそこらへんはよく似ている。コメディを得意とするのは共通で、そしてコメディをちゃんと描くには 人間をよく知らなければできない、そして作品は人間が良く描けている。のに、二人とも人間味に欠けている。 仕事以外で下に合わせてらんねえよということか、最初から分かっておらず、システムにしか興味ないのか。 それはさておき、高畑を人間に近づけたのが情熱の男宮崎駿であり、優しさの男近藤義文であり 現実の営みというサイコとぶつかることにより高畑の本質的な純情が浮き彫りとなった、高畑の人間性再考を施した「火垂るの墓」だと思う。 そう、実は「火垂るの墓」も「やぶにらみの暴君」と同様、製作意図からは乖離した結果なのだ。高畑はセンチな作品でないと言ったが 声にしろ音楽にしろ心中にしろ演出にしろ、世界一位のセンチメンタル以外の何物でもないのだ。 ・・・ 学生時代、フランス映画「藪にらみの暴君」を見て感激、アニメを志す。59年東映動画株式会社に入社。 63年9月監督に昇進、64年「オオカミ少年ケン」24話でデビュー。テレビのギャグ物を得意としたが、劇場用長編「太陽の王子ホルスの大冒険」では 従来の東映調を脱し、人間生活を正面切って描いた。 71年Aプロダクション入社。劇場用中作「パンダ子パンダ」は子供観客にとって等身大の日常から出発した夢を描き、 底抜けに明るく行動力溢れるヒロインの新鮮な魅力は冒険活劇モノ、あるいはナンセンス物などのアニメにならされていた観客を驚かせた。 このキャラクター性格が真に大成したのは73年ズイヨー映像入社後のアルプスの少女ハイジである。 愛らしくも土臭い山だしの女の子は意地の天真爛漫な行動、仕事や遊び、食事、あるいは天候 の変化など日常生活のありふれた絵現象の中のドラマは自然回帰の哲学でもあり、子供から大人までに圧倒的な共感を呼び、 丁寧な作画、撮影と相まってテレビアニメ史上の最高傑作となった。 東映動画を総前後して退社した同僚大塚・小田部、宮崎駿とコンビを組んだ作品に佳作が多い。 (キネマ旬報) 宮崎駿   アニメ界の黒澤明。青空を飛び回り、自然を描写し、メカ、バイタリティ溢れるキャラクターたち、美少女、ロマン、ノスタルジーと アニメでしかできない、またはアニメだから映える個性を才能の限りで昇華し、その作品群は日本アニメ界のスタンダードとなった。 メカ好き、美少女好き、理屈好き、ロマン好き、自然好き、というまさしくアニメを作るために生まれてきた男で 天性の才能はもちろん、エモーションの塊・やぶにらみの暴君を見てアニメ界に入ってきた理論家・高畑に技術知性ともに教え込まれ 22から30半ばまでを天才的才能をさらに磨き上げるための修行の時期とする。そして79年ルパン三世で初の監督を務めたときすでに38歳。 技術知性エネルギーともに燃えていたが実はエネルギーのピークはもうちょっと前だったりする。 そして駿43歳、84年の完全オリジナル作の「ナウシカ」で、環境、美少女、メカ、SF、青空、飛行、ロマンと すべての要素を高質に一つにまとめあげ、名実ともに日本アニメ界の黒澤明と化す。 東洋ファンタジーの申し子であり、「千と千尋」で東洋味をすべてつぎ込んで、すっからかんになって終わった。 様々な要素が高度に、しかも複雑に絡み合っているのが宮崎駿。つまり硬派な面と軟派な面、美少女愛好と社会批判、反戦とメカ好き・・・ という具合で、つまりは俗物の鏡。一芸術のトップに立つのもおかしくない人間ぶり。 なので単純に一つの要素だけで作品を構成することはなく、例えば宮崎駿と言えば美少女だけども、美少女だけに終わらず というかあくまで美少女は原動力の一部に過ぎないことが作品見ればわかる。もち、少女を美しく見過ぎだという批判もあるが 女性が少年を描くとの大差がない、やはり美のついた子供たち、&異性ってのは、純粋無垢な理想郷ってのがあるに違いない。 もち、理想ばかりでなく現実的な面もある。そのバランスがいい。俺が思うに、駿の要素がそれぞれに濃いのにかかわらず、自分からそれを発信せず いわゆるオタクシーンに自分から入らず、だからこそ周りがそれをネタに大げさに取り上げて、宮崎駿=最強のロリコンというムードが確立してしまった感があるけども 熱意と完成度が目をひくだけであって、一般的な美少女ファンと大差ない気がする。例えば耳をすませばのヒロインパンツ論争だけど 本当に駿が「パンツ見せろ!」と言ったかってのは、俺は鈴木のサービス嘘だと思うけどな。そこまでバカじゃないだろう。 なんだかんだ言って駿は安心できるんだよね。そこがいい。クリエイターは性を徹底的に描いてこそ一流とかいうヤツいるけど駿のは節度があって 逆にそれがより美少女の高根の花感を上昇させ、もろ出しよりも美しく迫ってくるワケ。そして何より少年少女との出会いが好きというのが 駿の使命であって、性はちょこっとだけ感じるけども、あとはハートウォーミングってのが最高なんだっていうさ、その節度が合うんだろうな、日本人に。 相当考えてる人だと思うけどね駿は。ちゃんと自分の置かれてる立場、自分が進んだ立場を自覚しつつ、その中でさらに節度を守って描くんだっていうさ。 だから押井がばらした「12歳と恋愛して何が悪い」ってのも、精神なんじゃないか。たぶん駿が美少女を描くとき 駿の精神は少年に戻ってるんだろう。気持ち悪いかもしれないが、だからこそ18禁にはならないワケだ。エロにはならない。 劣情はないものの、でもほんのちょっとの性は意識するし、そのあとはハートウォーミングで・・・うん、よりレベル高いけど、分かるよな。たぶんこれだよ。 駿も60になって、死を意識した言動が出てきた。近藤喜文が死んだのもあるだろうが もののけ姫で引退宣言までした。藤子Fや手塚の死を意識したような発言も。だからか 千と千尋辺りでは年齢的に超えてしまったのか、自分がロリコンであるということをもうほとんど隠さなくなった。 それまではそんなこと言わなかったのに「僕にも12歳のガールフレンドがいまして、その子のために作りたいんです」とか。 千と千尋以降メディアにも積極的に出まくり、以前の謙虚なそぶりは見せず、ありのままを見せようというサービスが出てくる。 押井からもスタッフからもばらされてるが、相当な暴言吐きだ。押井は言う「普段は優しいんだけど、仕事に入るとまるっきり変わるんだよね」 駿も認める「宮崎はうるさいって有名らしくて、それを利用させてもらったんす 腹の中じゃみんな評価してたんですけど」 これは一流の仕事、結果のみに許されることなんじゃないかと思う。つまり国を背負っていると、黒澤明とかね。 一流でもないのにやると、ただのバカだと思う。実際しごけば世界に通用するし、何十年も残るし、駿も言っているね。 「人の心動かそうという仕事するんなら、死ぬ気でやらなきゃダメだ」まあわかる話。 加えて駿も黒澤も自分たちがいじめっ子、加害者だって自覚しているのがいい。下手に自己正当化せずに。 「演出は加害者だよ。人にやれって要求するだけだから。」 そして暴言吐き等の問題を悪いことと知りつつ、それを公表することを拒まないのもいい。 誰も知らなかったスタジオジブリという本ではこんな言葉が出てくる。 「ろくな人生歩んでこなかったからこんな絵しか描けないんだ!」 テレビでも出てくる出てくる。 「これは描きたくないっていうレイアウトだよ。違いますか?喧嘩売られてるようにしか思えない。」 「何も考えずに生きてんのか。ダメなら下す、すぐやめろ。」 ロリコンの事もそうだが、わりかし自分の弱点も知ってもらいたいということか。 聖人化してほしくないという姿勢だと受け取っている。 同族嫌悪の面もあり、オタクは嫌い。そして古い男らしく、弱っちい男も嫌い。 女性には優しく、褒めるが、男ならばよほど能力が高いかしないとゴミのように扱う。 いいのか悪いのか。しかしそれは男に寄せる期待大だからかもしれない。海外のトークショーでこんな場面があった。 「ジブリは女性アニメーターが多いです。男より能力があるんで、男も頑張れと言いたい笑(大拍手) ただ、男には守らなきゃいけないことがある。約束を守ることです。男は絶対にこれをしないといけない」 オタク的な面だけでなく、古い職人気質のマッチョマンも駿の一面だ。 そして彼が追求することは一つしかない。 「確かに現代は生きづらい。 でも子供たちに、それでもこの世は捨てたもんじゃないぞって言わなきゃいけない。」 昔からこれは一貫している。これしかない。 でもあくまで子供に限った話で、それを通り過ぎたダメな大人には「ろくな人生歩んでない」とかいうことになる。 子供どうこうは仕事を抑える面でもあると思う。大人向けに作ると作品がすぐに陳腐化するってのは分かる話だ。 知性も情熱も美少女もメカも自然も空も、総括するバランス感覚も、これを超える、または並べる人間は出てこないと思う。 もう一度考えてみた 富野由悠季   アニメ新世紀宣言を謳うロマンチスト。犯罪者になったかもしれないという気質に、女装癖、劣等感と3つ併せて 70年代後半以降のロボットアニメシーンをコク深い、人間味溢れるものとした。 おもちゃが売れれば何をしてもいいという前提を逆手にとって、抑えるところは抑え 後は好き勝手な演出論でもってロボットアニメシーンをアニメ界一自由でパワフルなステージに仕立てる。 いわゆるおもちゃ屋のプリンスらしく、ロボットの格好良さ、それは単純な格好良さもあり コケの生すような格好良さも込みで、子供だけに留まらないロボットシーンを演出。 当然人間も魅力的で、上にあるような気質からか、世代論、哲学、生き様を三者三様に背負った超エネルギッシュなキャラが登場。 半犯罪者らしく殺伐とした戦場、サイコな空間造形はもちろんのこと、キレたキャラクター造形、特に若者のエネルギーに関しては世代ナンバー1に醸せる。 女装癖からか女性の描き方も多岐にわたって、特にいわゆる自立的な女性が唸るほどにうまい。媚びない。もち媚びるキャラも上手い。 そして劣等感からか負けた人間に対する愛情が強い。サブキャラの個性も際立っている。そして何より自己憐憫からかロマンチックなセリフ、シーンが素敵だ。 殺伐とした戦闘空間で、エネルギッシュなキャラクターがロマンチックなセリフ、日本人にしか伝わらない言い回しでを吐き 相手に伝わる伝わらないは問題じゃない、でも視聴者には間違いなく伝わっている、という、それに酔えれば富野作品は全部気持ちがいい。 おもちゃ屋のプリンスらしく、ロボに限らず演出もキャラもエログロも、サービス精神旺盛だ。 殺伐とした戦闘を中和させる狙いかシャワー場面等のサービスシーンはもちろんのこと、派手な爆風の中で戦死するキャラクターたち。 リアル・ロボット路線を引いたからか、つまりガンダム以降は、日本のテレビアニメ界に「戦死シーン」の特集が生まれてしまう弊害?も。 リアルっぽいだろうがなんだろうが、ガンダムの時点でここまで濃厚でエネルギッシュで生きてるキャラクター造形があったろうか今まで。 犯罪者気質はそのままエネルギーとなり、女装癖はそのまま男と女を再考させ、劣等感はそのまま繊細さにつながる。 戦争ドラマが富野にとって一番遡上効果が高いってのもわかる話だ。 その中でもイデオン発動編はエネルギーにしろ男と女にしろ繊細さにしろ、エログロもサービスも、それがそのまま気持ちよさにつながるという点では 最高傑作とされる。破滅に向かう人間たちを銀河大スケールで、徐々にボルテージを上げていき、そのリズムが人間の本能をカタルシス刺激するんだろうね。 いわば作品ってのは理屈で大半は作るもんだけど、生理的にのってくると右脳で完成できちゃうというね。それが発動編だったんだろうな。 以降のロボットアニメシーンに多くの可能性を開いたガンダムで一躍時の人となり、だからこそ製作できたイデオンが最も作家性の高い作品に。 その後はザブングル、ダンバイン、エルガイムとアニメ新世紀宣言の余熱をもって一作一作を丁寧に仕上げる。 そして85年Zガンダムがこれまた以降のロボットアニメシーンに多大な影響を及ぼす問題作に。88年逆襲のシャアで自身の分身シャアに言いたいことを言わせて 華の昭和、80年代が終わった。以降93年vガンダムで病んで、99年Aガンダムで復活。 80年代の作品は特にイデオンだったりZガンダムだったり過酷な展開が目を引く作品ばかりだが、時代ゆえか富野の年齢かわからんけど 全体謎のエネルギー、ボルテージ高いから、あまり殺伐とせず、SF作品としてストレートに楽しめる。 反面最も過酷で殺伐なのがVガンダム。富野が病んだからか時代の半端さなのか、絵柄の素朴さも相まって最も暗い作品だ。 世界名作劇場的な絵柄が、過酷な場面をさらに殺伐めかせる。血もほとんど出ないが、ともかく乾ききっている。 同じく牧歌的なターンAがそれらを癒す、集大成としての作品となった。それまでの、運命に対して一種投げやりな締めくくりでなく ターンAでは運命を静かに、そういうものだという風に受け入れている、それは淡枯と言えるのかもしれないし、悟りなのかもしれない。 イデオンのあのオチ(輪廻)だって、あくまで業からは逃れられないんだよという若いニヒルな視点であって、好んで確信でやったとは思わない。 富野の欠点と言えば、最初は所詮アニメ屋だからという謙虚さと、それでも吠えたいという劣等感とがないまぜになった屈折が素晴らしかったのに いつの間にかアニメが認められてきて富野が褒めたたえられるようになれば、謙虚さも劣等感もなくなり 勘違いしたかのように世に物申す系になっちゃって、やっぱ地位が欲しかったのかなと。 問題は富野の言動が現状に即してないことかな。アニメの地位が向上したってことは現実に興味をなくした始めた世代が出てきたってことだ。 アニメブームは本来忌憚すべきなのに肯定したうえで現実がどうこう言ってもな。俺からすれば綺麗ごと言いたいだけの爺さんという風にしか見えんのだよ。 富野をヨイショする連中なんてまさしく人間嫌いのオタクしかいないんじゃないかな。 富野ってよく過激な言動や顔芸するけど、その分かりやすさに惹かれる連中ばかりがヨイショするんじゃないか。 そういう連中にちやほやされて喜んでいる時点で知識人としては堕落してるんだよ、個人としてはいいんだろうけど。 出崎統   テレビアニメ界のプリンス。手塚治虫に影響を受け、そのまま漫画家デビュー、そして虫プロ入りしアニメ界へ。 演出能力を買われ独立して以降はあしたのジョー、エースをねらえをそれぞれ独自の都会的感覚で盛り上げる。 日本のテレビアニメ、リミテッドアニメ式をスタートさせたのが手塚治虫なら、リミテッドを活かす演出を多々開発したのが出崎。 入射光から静止絵、繰り返し、画面分割・・・と若々しい感覚でもって70年代を疾走する。 そして劇場版ジョー、エースでそれぞれの演出はピークに達し、ゴルゴ13も賛否両論ながらゴルゴの映像化作品では一番の傑作とした。 しかしエース2以降は作画と演出がくどくなり、出崎の持ち味であった「スタイリッシュ」がなくなってしまった。 泥臭い日本的な作品をスタイリッシュで活かすというのが出崎の個性だったのに、ということでその後デジタル世界へ入っても いわゆる力作はできるが傑作はついぞ誕生せず、没した。 出崎統はいわゆる深作欣二タイプだったと思う。週刊誌感覚というか、70年代のギトギトした男くささ、泥臭さ、女の情念・・・あの時代と最大限似合った男だった。 深作欣二も70年代がいわゆる全盛期で、80年代以降も力作を連発するがどこか違う。どうしても仁義のギトギトした世界が似合った。 ただしバトルロワイヤルが最後に残った。そう、深作はずっと暴力を追い続けていたが、出崎は暴力で勝負していたワケではなかった。 だから出崎には何も・・・やはり70年代とセル、泥臭い時代が、彼をスタイリッシュな都会派へと生かしたのだ。その都会的センスこそが出崎の武器だった。 そして当然、都会的センスというものは数年単位で変異するもので、彼が70年代のセンスに固執した結果、時代遅れになったのもわかる話だ。暴力は不変である。 他に出崎の残した功績といえば、やはりファッションだろう。宮崎駿をはじめ、アニメだからどんな格好してもいいだろうと 客を深いところで舐めていた連中と違って、最初からオシャレな風貌。 パーマの長髪、グラサン、スーツと漫画のキャラクターそのもの。身長も180�p近く、シティーボーイは伊達じゃない。 いや劇画風。梶原一騎の世界観ですよこれは。 人間的には結構癖のある人物で、基本的にインタビュー等でも、自分と関わりのない同業者や作品を出すことがほとんどない、と思う。 これは結構ぞくぞくするところで、嫉妬深いとかでなく、出崎のクリエイターとしての何かを規定する部分があるんだと思う。 ちなみに手塚の信仰者で、それは富野より深い。手塚を批判したことは一度もない。 押井守   アニメは漫画映画でもビニ本でもないんだ、しっかりとした作品にできるんだという 宮崎駿の叫びに呼応したのか、燃える80年代前半、知性と哲学を伴って登場したアニメガイの一人。 アニメ作家で括るならば時代的に「何かを持っていた」最後の世代であり ギリギリの学生運動経験とその中で一番面白いところに乗り遅れたという経験が、彼をテーマ作家のひとりにした。 彼のテーマは現実と虚構、そして学生運動の二つ。アニメでこそ現実と虚構の問題を論理的に扱えるとし 学生運動の問題はそのまま押井守をモラトリアムの化身とした。 つまりうる星やつらからパトレイバー2までの12年間は、まさしくモラトリアムそのものをやっていた。 テーマだけでなくて押井守自体が。押井守=モラトリアムだった。彼一人生きる道が違っていた、他のアニメ作家たちと。 駿や高畑はトップランナーとして、富野はおもちゃ屋として、庵野は青春として、そして押井はメジャーでもなければマイナーでもない 常に自由に気ままに、学生映画的な、つまり作る側も見る側も責任を問われない世界で戦っていた。 モラトリアムそのものを映画にしたうる星やつら2を皮切りに、天使の卵、迷宮物件、赤い眼鏡、パトレイバー、ご先祖様万々歳、ケルベロス・・・ 押井そのものが面白かった時代。身長160�p足らずの身体にカリスマを目いっぱい詰めて 1980年代において、世界で最も魅力的な人間だったことは間違いない。 内省すればいくらでも突き詰めることができるが、それが丁度良かった時代。 若いからか内に出す衝動、外に出す衝動、バランスが良かった。パトレイバー2も外から喧騒を眺める、テレビから事件を見る、モラトリアムの楽しさだ。 押井がパト2で終わったのもわかる話。戦争をやりたかった男がついぞ東京を破壊したのだ。 それまではうる星2のように、来るべき時をエンディング後に置いたり、いわば目的まで、 もしくは目的以降を描いた作品ばかりだった。 それが学生運動経験と、学生運動の終局としての戦争に乗り遅れた男の持っていたモラトリアムだった。 ついにそれを解消した。だからこれで終わった。後は現実と虚構しか残っていない。辛気臭い。 押井の全盛期はモラトリアムとそれがかみ合っていた。だからよかった。 宮崎駿とはいわゆる盟友関係にある。出会いは1983年オンリーユー公開後の対談で しょっぱなから押井はぼこぼこにされた。「押井さんのパロディには意味が伴ってない」 しかし押井の力量を認めていた駿はこうも言う。「押井さんの才能は悔しさにより開花するんだ」 そしてビューティフルドリーマーで押井を認める。作品自体がしっかりとした映画となっていたこと パロディがそのまま映画に地に足ついていたこと、そしておそらくカリオストロの賛否両論も重ね合わせたのだろうか なんにせよ駿の胸中はこれしかない「ここに同志を得た」と。 そこからは蜜月の日々、押井がフリーとなって以降は駿の世話になり、製作中止となったルパン映画を勧められたり これまた製作中止になった共作を進めたり。80年代の宮崎駿が作家として認めていたのは高畑と押井以外にはなかった。 天使のたまごではこうも言う「押井さんには不敵な面構えがある。今、若い作家の中で本気で何かをやろうとしているのは押井さんしかいない。 彼が頑張っていると僕も頑張りたくなる、そんな関係。」 紅い眼鏡でもこう言う。「押井さんと共作をやるのが楽しみだ。」 そしてパト2。「映像的に見て驚いた。このジャンルではとても押井さんとは勝負したくない。 作品全体に吸引力があった。とても見ごたえがあった。語り口も抜きんでていた。」 その後は喧嘩したり色々。高畑の葬式では駿にハグされる。 先輩後輩という仲でなく、共にきちんとしたアニメーションを盛り上げた同志だった。 駿に気に入られたのは力量もあるんだろうが、やはり同族嫌悪の要素がなかったからだろう。 押井が実写志向の人間だったから別の方向性で戦えたというのもあろうが、いわゆる美少女好きとかいうこともなく アニメアニメしているタイプでもない、学生運動が好きで、駿より背も低い。 さらに言えばアニメ界隈でもかなり温厚というか、マトモな人物というのも大きい。 理屈っぽいだけで、そこを離れればただのオッサンという感じ。 ちなみに国際的な市場から日本のアニメ界隈で評価されたトップランナーだったりする。 高畑も21世紀入ってからで、駿も最初に劇場公開されたのがもののけ姫、千と千尋から大衆に。 富野と出崎は公的には出回らず。川尻が控えめに、庵野も少し遅れて、そういう意味でも押井はトップランナーだった。 「旅行と映画も同じとすれば、何かある種の期待を背負って映画へ行く。 その期待を裏切られてもかまわないから、まったく自分の予想を越えた何かと出会う。 つかの間その何かと同行して、最後にまた分かれて帰ってくる、といったものだと思うんです。 そしてその予想を超えた何かが、映画が世のなかに対して与えられる唯一のものだと思う。 僕は単なる消耗品としての映画じゃなく、今言った役割を担える映画を作りたいし、それをやらなければ意味はないと思うわけです。 ルパンをを今の世の中に生き返らせるってことと、いまいったこと――時代に向けて 映画をもう一回鋭いなにかにしていくってこととは、ぼくの中ではいまひとつになっている。」 (ルパン三世に向けて) 庵野秀明   自分たち世代の共通意識にはアニメや特撮しかない、テレビボックスしかないと自覚した最初の世代。 自分の見た作品の気に入った部分を逐次作品に取り入れていくアマチュア的な感性ながら、天才的なメカ作画とスピード演出により 自分たちに何もないことを最初に意識した世代としては、ただのオリジナルのコピーに終わらない自分色を盛り込むことに成功している。 何もないから作画と演出にこだわるしかなく、中身は自分たちの人生や気持をそのままつぎ込み、その結果ナディア、特にエヴァは 唯一無二のユニークな作品として完成。そして当然ながら自分とセンスをすべてつぎ込みまくったエヴァですっからかんになり 以降もカレカノや実写映画等精力的に活動するが、かつての妙なバランス感はなく、せわしないだけか、アマチュア感がでかすぎるか、という結果に終わっている。 アニメにしかできないことにこだわる。なので押井や駿、高畑の作品を実写的なアニメだと非難。 アニメでしか不可能なテンポや演出を大切にし、またアマチュア的だからか、かつてのアニメや特撮の穴をマニアックにほじくり エログロもマニアックに、ともかく一作一作を「できるところまでやる、すべて入れ込む、隙間をなくす」という三原則でもって貫徹。 ナディアにしろエヴァにしろカレカノにしろ超高密度だ。エログロも完備。特にナディアの、これは特典だけど ナディアのエロ写真で抜いてるジャンという生臭すぎて気持ち悪いような部分なぞ、アマチュア(同人誌)の感性だから出来た。 いい意味でも悪い意味でも突き抜けたタイプであり、こういうのは一人いれば十分というタイプ。 性格的にはいわゆるメンヘラとか言われる。ただし自分の痛みには敏感だが他者には鈍感という歪なタイプでもある。 文字通り蘇えった太宰治。エヴァと太宰治。

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