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青春!愛!夢!旅立ち! 大時代的なテーマと演出が殴りつける眼前、日本人が失した雑草――命の執念と、大地に染みたぎる血潮 これは俺たちに託された究極の愛の形だ
エースをねらえ!
出崎統 1979年 作改作
エースをねらえ!
なんかね、この作品観て、ものすごい恥ずかしくなったんですよ。 今の世の中と、そこに生きている自分がね。なんなのか、いったいこの作品から失われたものは何か。 何でこんなに真っすぐでドストレートで、人間と燃焼が生きているのか。 俺は本当に恥ずかしい。日本が、世界が、この作品公開から40年以上経っている中で何を得たのか。 おそらくくだらないものだったんだろうな。そして、失った。何をか。それは人間の強さ。 権利向上だの美辞麗句だので人間が強くなったと思ったら大間違いだ。 人間の大きな幹は、なにか、それは管理、デジタル、効率性により失われ、今残っているのは小さな枝葉のみ。 だからこそ、ここ2、30年の作品の多くが、細かい部分のみに注力する。 分かっているから、現状の人間のくだらなさが。そこを見たくないから、細かな装飾だけ豪華にする。しかし、その枝葉を育てる未来も感じられない。 そして受け手送り手ともに大きな幹を前時代的だと拒否する。なぜか。エンタメの慣れもあろう、そこからくるおふざけも。 もはやエースをねらえ的な演出は、それは出崎も少女漫画風でも どちらもネタ的な部分でしか抽出されない。それは、彼らがやったことが今では不可能だからか?それを捧げる対象も捧げる能力もないからなのだろうか? かつてのエンタメ、大きな人間を大きな演出と大きな装飾でぶつける。つまり、シンプルをシンプルでやった、それだけ。なぜ素晴らしいか、それは人間が力強かったから。 昔の実写を見たまえ、あまりにシンプル過ぎる筋、しかしなぜか力強い、説得力がある。それは人間にあった。 アニメもそう。余計なゴチャゴチャした装飾もない、演出もない、真っすぐドストレートにおしてくる。 しかしその説得力、情感、詩情、人間が送り、人間が受ける。俺たちが平成の時間の中で失ったもの。昭和はクソだった、しかしだからこそ突破しようとする人間は確かに強かった。 昭和はクソだった、しかしそのクソ、は人間対人間の泥水をすすり、糞便にまみれ、それでも大地の中、前進しようとする汗と血潮を叫んだやけくそのクソっタレ、の略称のクソなのだ。 今のクソとはニュアンスが異なる。今のクソは文字通り無間地獄的なクソだ。なんにもない。なんにもない。血潮とか言ったら精神病院に連れていかれる時代だから。 そう、権利向上だの美辞麗句だので人間が強くなったと思ったら大間違いだ、と書いたが、人間はあまりに国家に頼りすぎ また権利な常識などに寄りかかりすぎ、自分の力で立って歩く、そういうものを自分から失ってしまっているのだ。 国家に権利を主張するということは、国家に寄りかかることと同種だと理解しているだろうか? 自分が勝手にやることを、自分以外に責任をとってもらおうとする――生きてるか死んでるかわからない人間が増えている――ことだと理解しているだろうか。 自分たちでそれを進めた結果 俺たちはエースをねらえ等の「自分で決めて自分で責任を取る」作品を前時代的と笑うしかないのか。 自分たちのやってきたことが間違いだったと認めたくないからか。 エンタメも変わった。俺が信じるエンタメの姿は、現実の善悪や道徳を超えたところを見たいというもの。それがエンタメだ。 だって現実の善悪や道徳なんて現実で散々味合わされているじゃないか。だからエンタメはそこを超えた説得力を見たいというのだ。 だが現在、そのエンタメの姿がまるで変ってしまっている。そう、まさにエンタメに現実の善悪や道徳を求め、自分は枠から外れていないという再確認と、枠から外れている奴を正義で やっつけるという、それこそが求められているエンタメの姿で、またエンタメを作る側もそれを求めているということ。 端的に言えば、あらゆるエンタメ芸術に「超えた」オーラがまるでなくなってしまっているのだ。それもこれも大きな人間が、力強い人間がいないからだろう受け手送り手ともに。 デカかったからこそ成立した余裕のある大きさ。今では小さい奴しかいないから、下を見ることもなく、上を見るには斜に構えて、ただ横をきょろきょろびくついているだけというのだ。 そしてここ2、30年でアニメにハマる人が増えてきたという事実。これもまた、実写の人間を見ようと思わなくなったという、強い人間不在を逆説的に証明しているのだ。 問題はアニメも同様クソしかないのにかかわらず、それでも現実より楽しいと思う人が増えてきたということ。ドラマもアニメもエンタメ慣れからかなんにもならない冗談と 無と無とただ些細な装飾だけ気合を入れて、描かれた「人間」はどこにもいないという事実。その場しのぎと絶叫か号泣のみの世界。 人間を描こうとすると「それっぽい」「リアルっぽい」にしかならないという鼻で笑えもしない惨めな滑稽さ。 本作「エースをねらえ」。作品はちょうどいいところにいたと思う。60年代以前のように気合と根性だけでなく、80年代以降ほどに作家性&芸術性ということでもない その丁度いいエンタメのバランスが両立していたと思う。つまり細かいところと大きなところのバランスが。 大きさ8、細かさ2、これが本作だと思う。
劇場版CLANNADで名を下げた男・出崎統が最初に劇場監督し名を上げ男を上げたのがこのエースをねらえ。 エースをねらえ、すでにそのタイトルは古典の域に達する――その直前期辺りの、そう、まだタイトルが自由に遊べた頃の作品。1979年。 原作からいくつかのエッセンスを抜き出しアニメーションに合わせた創作を行うのがアニメ化の本髄ならば 出崎は最高のアニメ版を作り上げたといえる。繊細さをこってり情念に。36歳という若さだから謳える愛の絶唱、若き出崎一家のスターシステム 空前のアニメブーム、79年はすさまじい、銀河鉄道999、カリオストロの城、テレビじゃドラえもんにガンダム、そして本作 そして何よりも出崎の資質、セル画でどこまでいけるかという演出法が完全開花し、本作、そしてあしたのジョー2で燃焼。 そういうわけで、何よりも初監督である出崎の若いセンスが若い仲間たちとともに若い作品そのまんますべてにマッチした快作、傑作、気持ちのいい名作、端的にスカッと、さわやかだ。
画面分割のスピードと、今じゃ死語な止絵演出、そして革命的な太陽光反射演出で古のスポーツアニメと青春を79年ライズ、いや、80年代のデラックスを予感させる高密度なセンス・スピードだ。 学園シーン、青空、太陽光、スタイリッシュかつイモ、さわやか主人公にキュートなお友達、お蝶婦人とかいう当時の海外の憧れがそのまんま出た少女漫画の決定版、格好いい先輩、 女の花園、イケてる先輩、カメラ小僧、陰のあるコーチ、外れない音楽に次ぐ主題歌と、イカした作画による華やかなラリー、スマッシュ、俺、着替えシーンに夜景、マイファンタジーは若いセンスそのままに本作を瑞々しくしている。
学園ものとしても、爽やかさにしても、女の子のかわいらしさも怖さも頑張りも、熱血も、愛も、スポーツ・アニメ映画の最高傑作と言っていいだろう。 今、土の香りが足りていないこの頃、俺たちは岡とともに精神と青春を加速させなければならない、本作は人生のいい並走者だ。
現在の高評価とは違い、当時の映画雑誌では酷評の嵐、かつ興収もだめだったとされる。キネマ旬報の興行欄では 「東宝のピーマン80とエースをねらえもアベレージ番組とはいいながら苦しい興行を強いられている。 発想そのものは面白いのだが、ポイントを押さえた宣伝が思うようにならず、その規格の面白さを生かしきることができなかったことだろう。」 「まず東方のピーマン80とエースをねらえだが、前週のホワイトラブに比べ72%と低めに終わっている。」 こういった状況。 新宿浅草銀座地区の動員は 一週目7418人 2週目7000人 3週目6000人 4週目6500という感じ。 同時期の真田幸村の謀略は一週目32000、15000、13000、10000、11000、6週目5600人・・・。 これで興収が7億円。 太陽を盗んだ男は一週目16000で4週目10000 ・・・ 3億2000 日本の黒幕は一週目11000、8300、3週目5500 ・・・ 3億8000万
おそらく「エースをねらえ」は3億いくかいかないかぐらいだったんじゃないかな。79年であたったアニメといえば銀河鉄道999が大ヒットで16億 頑張れタブチくんも大ヒット。カリオストロと本作は日本アニメーション史上に残る名作と謳われながらもこんな感じでコケた。 カリオストロも999も当時からして一般層からも好評を受けていたが、本作はちょっと違った。 結構不愉快な、つまり自意識過剰だなってのと舐めてんのかっていうキネ旬の評論はここで。 資料室にはフルで載せてるんだけど、前半の高千穂とかがいかにもなアニメマニアの評論。映画芸術のが映画ファンの評論。 いまにも通じるアニメファンの狭さが露呈する。
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この作品との出会いはここに書いてあるんだけども、この赤裸々に暴かれる事実に興味あるやつは読んでくれ。 もうね、この作品ってあれだな、宗方が主役だな。まず宗方は登場時から既に超えているんだよ。つまり死生観的に。 既に余命がある身だから。俺もよくわかったんだ、セミ余命味わったから、エセ余命というのか。だから、もう越えているんで こっちからしたらワケ分からんことをするんだ。俗に塗れている輩にはまず分からない。普通のことだけどね、分からないのは。 で、それはどこからくるのかと言えば母親なんだ。そう、世界の何十億といる男たちと同様、マザコンを自認する俺だが、宗方の気持ちはようくわかる。 親孝行したかった、直接でなく、何か母の面影に、いいことをしたかった。おいおいいい大人が?そこなんだよ結局。 昔の20代は大人だろうけど、でも親に対する精神性とかやっぱり変わらないと思うよ。宗方はまだ27歳なんだ。俺23歳。宗方は身近だ。 27歳の青年なんだ宗方は。ここが本作の大きなポイントなんだ。少女漫画ってのはやっぱり大人をスゲー大人に描くんだけど 実際の27歳ってまだまだ若者だよな。だから、イメージ的にすごい大人としてみるのか、現実的に、たっぱは大人だが中身は若々しいとみるのか、 ここで本作の宗方の横暴のすべてが決まる。宗方はもちろん大人だ、岡との電話シーンはまさしく官能チックで、渋く色っぽい。 でも最期のセリフには、やはり宗方27歳の若さが出てるね。大人な電話シーンだったが、心中では岡の電話を微笑と喜びで包んでいたのだ。 どっちが本当の宗方か、どっちも本当なのだろう、しかし砕けた最期のセリフは、なんとも若い。大学生って感じだ。 死ぬことを考えて、宗方は謙虚にいくか、自分のやりたいことをやるか、宗方はやりたいことを選んだ。 それは若いからだ。そう、彼は若いから。やりたいことをやって死にたかった、それは未練なのだ。宗方を考えると、彼があまりに若すぎて切ないな。 結果論だが、岡には才能があった。だから外されたメンバーのことも、学園テニス部としても結果的によかった。あまりにも大胆な賭けだったけど。 宗方が主役というのはそこにもある。 宗方の究極の賭けはあたった。岡ひろみという究極の素材がいたから。宗方は幸運だった。あまりに幸運だ。賭けと、岡への思いがすべて良い方向に昇華された。 強くなれ、と。それだけを残し、宗方は死んだ。横暴もまた、若き死により許されるのか。答えはイエスだ。憎まれ屋は憎まれながら長生きするが 彼は夭逝した。もとより早く死ぬことが分かっていたからこそ、ああも横暴をしたんだから、そもそも論だけどね。 映画しかまだ知らないから何とも言えないけど、やっぱ岡ひろみが辛くなるのは、宗方の死んだ年齢を超えたときなんだろうな。 ああまで大人に見えた人が、同じ27歳になったとき、どう振り返るのだろう。やはり若さだと思う。若さなんだこの映画は。宗方も岡もみんな若かったのだ。 そう、この作品が語っているのは若さ。本作劇場版で多用される「愛」のメッセージ・・・いや、ともかく愛という言葉は一方的なんだ。 一方的、つまりは若さ。宗方の愛、まさしく一方的だ。なぜか、宗方が若いからだ。 そもそもが愛とは若さなのだ。だから恋愛する人は年齢関係なく若いというのだ。 エースをねらえ、愛の作品だ。一方的なサーブだ。つまりは若さそのものだった。宗方の最後のメッセージがなぜひろみに届かない設定にしたのか。 それは劇場版が時間的制約によりさまざまを端折った結果の「一方的」・・・愛を端的に表現したものだから。 お互い分かりあったようで深いところまでは分からない。 ひろみを育てた原因も直接には言わず、すべてが一方的な流れで岡、エースをねらえ、とこうくる。 若いからだ。愛は自意識過剰だ、俺の気持ち、わかるだろ私の気持ち、わかるでしょ、 そういうお互いの愛の目線、双方の一方的が若さを、青春を貫いたのが劇場版「エースをねらえ!」。 これが青春だ、青春とは若い人間だけに許される大時代的表現だ、そして愛を謳う人間はいつでも若いのだ、だから本作を見るといつだって若くなれるのだ。 人生の並走者ってのはそういうことです。実際古びないでしょう、若い感性そのままに若い映画ですよ。なんかこう、いい夢も見れるよ。せこせこしてないデカい作品だ。