ラブ・ザ・フォーエバーとは?
新記事 公開当時の批評 やまざき監督語る
アニメ「うる星やつら」劇場版4作目のタイトルである。公開は1986年2月22日。 人気のあったTVシリーズが1ヶ月後に終了する事を受け、ある意味 青春のラストを飾りうる劇場映画になるはずだった。 タイトル通りスタッフからの「ファンの皆、アニメ終わってもラムをフォーエバー忘れるな!」 という熱い気持ちがほとばしる名作となるはずだった。 ラムが皆から忘れ去られ超能力も失っていく。 何故なら主人公達の住む友引町がちょっとしたアクシデントで 意識を持つようになり、「美しき異分子」足るラムを排除しようとしていたからだ。 しかも皆の見る夢(意識の奥)が現実となりパニックに。 ならばと。一致団結で友引町住人の意識を「元の世界に戻りたい」という状態にするには 無理やりにでも戦争を引き起こすしかなかった・・・銃を取る友引町住民!! ウーンちょっと下手糞な説明なので、他のサイトを参照して下ちい。 忘れられたラムを皆で取り返す!監督kazuo yamazakiのうる星やつらとは? うる星やつらの世界観=ラムを消し去ってしまう時、あたる達は?我々視聴者はどうするのか? 目の付け所は完璧だった。間違いなく感動の嵐を呼ぶストーリーを生み出すハズだった。 4作中1番目に上映時間が長かった本作。95分の上映時間を引っさげてうる星やつらの本質を探り 終幕を飾ろうとする本作。うる星ファンの期待は最高潮に!さてどうなる!?(←もういいの) 結果、無残にも酷評の嵐だった。
何故失敗したのか?
絵は良かった。音楽も良かった。演技も主題歌も文句なし。ケチがついたのは、脚本である。 それまでの3作品は色んなムードに争いながらも納得の出来る起承転結があった。 キャラクターたちの荒唐無稽な行動にも納得出来る理由をつけていた。 何ですか、本作はソレがなかったとでも言いたいんですか そーです。 大いに尺を取り、意味ありげに話していた鬼姫伝説・・・最後の謎の壊れた時計。 この脚本の批判には大脱走が良い例かもしれない。 大脱走は3時間の内2時間が脱走計画、準備、人物説明。 残りの1時間で脱走。それぞれの人物の命運が語られていく。 脱走からのシークエンスが尋常でなくドキドキするのは2時間の間に 綿密に語られていたキャラクターの行動、苦悩に観客は釘付けになり そういった苦境や何やらが脱走後一気に解放され、ただキャラクターに与えられし使命は 1つの目標に向かって突き進む事のみ・・・ つまり脱走後の行動よか脱走前の行動でどれだけ観客を酔わせるか、 引っ張り込めるか、魅了できるか、という部分が上手くいったからこそ 後半のドキドキは凄まじいものとなったのである。 さらに言うとその2時間に無駄なシーンが1つもないという事も関係している。 ラム・ザ・フォーエバー(以降LTF)がオチに至るまで さしたる感動を覚えないのはコレが大きいと思う。要は戦争が起こる前、起こった後とである。 戦争パートは15分、そこからEDまで8分。まあ4分の1である。 戦争パートに文句をつけれるかと言ったら、悪くないと答える。 形式的だが、皆銃を持ち思い思いに戦っていく。町は破壊しつくされ、瓦礫の山山山。 あたるは戦いを拒み、ラムと初めて会った時の様に、走る。 爆風にさらされながらも、決して足を止めないあたる、最後には倒れこむ。 面堂達も元の友引町にかえりたいと言い出す。友引町の意識はそれを受け止め 「思い出だけでも生きていける」と幼い頃のあたる達のイメージは消えていき 彼等と遊んでいたラムも無事友引町に帰ってきたのである。 ・・・文字に起こしたわけだが、そう悪くはない。ただ悪くないというだけであって最高という訳ではない。 形だけは整っているラストパートだが それまでの戦争が起こる前のパートはどうだっただろうか。 まず、閲覧している諸君が全編観た事を前提に書き進めるが 監督はこの映画を95分という尺で収める為、非常に苦心したに違いない。 大脱走は無駄がなかったが、残念ながらこの映画には無駄があった。そしてそれが多かった。 どんな部分かと言うと、まず映画撮影(鬼姫のくだり)のシーン。 結局物語の核心を突きそうな事をツラツラ並べて置いて 最終的に物語解決には役に立たなかった・・・途中で空中分解した部分である。 学生の青春パートとしては中々気持ち良い物だったが、面堂家に伝わる鬼姫伝説のパートは その後、面堂らが見た骸骨のくだりで一切終わってしまっているのだ。 そこからは一切語られない「鬼姫伝説」を冒頭に・・・つまり観客を引き込むべき場面に置いたのは その後の物語理解に支障をきたすのだ。仁太郎も映画では一瞬しか出てこないし。 え?着物を着たラムが色んな宣伝で見かけたのに、もう出てこないのか。太郎桜ってなんだよ! ・・・色んな考察サイトを見るに、確かにそうだ!こんな理由がある! と鬼姫パートに対し納得できそうな事を書いている人も多数に存在する。分かる、分かるけれども・・・ 「そこまで深読みしなければいけないのであろーか」 鬼姫伝説の表向きの内容は、村人に取り付いていた多くの悪霊を鬼姫が一気に滅ぼし、 村人は盛大な御礼の祭をするというものである。 しかし実際には、鬼姫を殺す事で悪霊を滅ぼしたという事実が、地底湖に眠る鬼姫の屍骸から暗示されている。 ラムが主役の映画の撮影という「マツリ」は、実は 鬼姫=ラムを友引町に跋扈する魑魅魍魎ごと排除する端緒であったのである。 映画に登場する村人は伝統を理由に狸の格好をしているのだが 彼等は正に、マレビトを生贄にしておきながらそれを美談へと変える、「タヌキ」なのである。 上記の鬼姫の骸骨の話は分かるが、下記のタヌキとか、ちょっと厳しい。 魑魅魍魎と書いてあるが・・・おそらくさくらさんの下に訪れたお化け達の事であろう。 しかしそこまで映画に深く関わっていると思えない出番の少なさ。 最後に復活し、ラストシーンにも出てくるがお化け達とラム(鬼姫)・・・これを 結び付けるにはハッキリ言って脚本が弱い。言われんと気づかない微妙さである。 本来ならもっとお化けの出番を用意すべきだと思うけど。 そして、普段表に出てこないお化け達にはそういったドラマパートに絡めないというか 消えても特に悲しまない小道具扱いしてしまっているのが、視聴者目線として普通ではないか。 どっちかって言えばうる星の名物マスコットであるコタツネコをメインに 校長を慌てさせたりランちゃん出したりしたら 「ええ!コタツネコも消えたのか!あっ、そうか鬼姫伝説だ!」と分かり易くなったのではないか? 必然性の問題である。 魑魅魍魎を消したところで画面は特に寂しくならない。戻ってきても何も感じないし、うれしくない。 だってラムがメインであるから。画面効果、演出、つまり短時間の間に如何に有益な情報を入れ込むかである。 映画作りとは何ぞや?監督の脳裏に何が浮かんでは消え、何が浮かんでは消えていたのか。(押井守) やはり一般の客に公開する一般映画であるから 普通に観て普通に理解させなければ監督の力量を疑うのも無理はない。 押井は難しい題材に挑戦しながらも、一級の娯楽作に仕上げた。 天性の物か、努力の賜物か? 神がかった脚本や演出、それらをただ単に、小難しく難解な表現のごり押しで行けば再現出来ると 大いに勘違いしてしまったのがyazakiの失敗だ。 観客とキャッチボールをやろうとしたyamazakiは相手を無視して遠投する事に徹したのである。 (yamazakiと唯一分かり合えたのは「面堂としのぶがピッタリである」との発言、それだけであった。) 次に、面堂の夢の下りが中々長い上にすごい遠まわしな表現であった事。 夢が具現化するというのも、あの結晶体では良く分からなかった。ホントに、スタジアムも分かりにくかったもの。 しのぶの夢も具現化されたとか、絵ズラではちょっと分かりにくかった。彼女の言を借りるなら「何が何だか・・・」。
それに面堂の夢であたるの視点が入るのは混乱する。あれは面堂の頭の中のあたるなのか? 延々面堂だけでも良かったろうが、うーんやはり、ラムのパートに時間を出来るだけ回すべきでなかったか。 面堂の夢が10分ある。つまり本編尺の10分の1である。 そんな尺を取った大事なシーンはLTFにおいて余り良い効果を持たなかった。 ・・・タイトルはLTFである。そこで主役を張るべきの(本来主役)2人。 あたるもラムも本作では出番が少ない(本作だけではないが)。 そこであたるの心情とかをもっと持ってくれば!あたるが走るシーンも更に盛り上がったろう。 あたるがラムに何か考えていたシーンは、ラムの日記を読むシーンぐらいだろうが 何と、日記をまともに読む場面は5秒とない。直前のラムを考えるメガネのシーンが1分あった。 おかしくないだろうか? 3つ目にメガネである。
この映画に関して言えば、ちょっとでしゃばり過ぎている。 BDはある意味創造者「押井守」の総結集でもあり、またメガネの総結集でもあり出番は適所適所。 多くも少なくもない完璧な仕上がりであった訳である。 友引全書の下りでメガネのキャラクターは完成した。 後半ではすっぱり出番は消えていたが、それでも大いに印象的な出番の数々。 メガネを完全に理解し、それを人気キャラに押し上げた男押井だから出来たのである。 リメンバーでは前作と比べ出番は少な目となったが yamazakiも頑張りこれも適所適所の出番。ラムが消えた事を悲しみ、すすり泣き、写真を火にくべる。 青春の体言。スタッフお気に入りのキャラ男前である。 しかしLTFでは度が過ぎている程、うるさく、クドい。 タイトル通りの事を思えば、ラム親衛隊隊長メガネを我々うる星やつら視聴者(終わって欲しくない)、 または主役であるラムを愛するファン達(さよならを言いたくない)に重ね スタッフの悪乗りとも合わせて、印象的な出番がラムとあたるよか増えてしまったのである。 いかにも男好みのキャラだが、そのせいで高橋先生の描いた原作性(るみこオリジナル観)あたる×ラムが失われ、 男側(モテぬ男性観)(メガネ×ラム)の描写が増える。 もてない妙に老けた学生が大人顔負けの屁理屈をサンサンと並べつつ、と う〜ん・・・これまでにないおもしろいキャラだっただけに、扱いの加減を知らなかったようだ。 前作の様な出番なら、つまりあたるとラムがメインで引っ張っていったら・・・。
ラムの出番も最初の脚本から大分削られ、あたるとラムの関係性が少し足りなくなっている。 最初の脚本というのは、よも有名なサングラ15のシナリオである。 ドキュメントビデオでの監督のインタビューでは、シナリオ通り作りたかったが、と言っていたが 結果カットにカットを重ね、ダイジェスト気味、駆け足気味の作品に。 時間がなかったのか?つまりは未完成であった。未完成の作品にあーだこーだ言うのはツラいが やはり、書ききれなかった場面を公開後にでも作って欲しかったと言うのが本心である。 ・・・最初の脚本にあった部分、つまり映像化されてない部分には ラムがご飯の手伝いをし、あたるに食べされるというシーンがあった。 ここはかなり気合の入っている部分であり、このシーン1つ入れるだけでラストの感動が一気に増すのだ。 さらにそれを受けて日記を書くシーンは2度3度と繰り返され ラムの「だっちゃ」が消えていき、最後には「ダーリン」から 「あたるさん」とあたるへの呼び方が変わってしまうというもの。 映画を観ると、「今日から日記をつけることにした」というラムの声が入り、しかも日記の場面は1度きり。 上記の言葉遣いが変わるシーンもなく「とりあえずこんなシーン入れましたよ」な風である。 結局1度書いたきりの日記をあたるは読み、悲しむわけであるが・・・。 まあ一度書いたきりの日記ならば、あたるが読むシーンも10秒程度で良いかもしれない。 大事な部分をカットしたお陰で、どうでも良いシーンになってしまった。 監督は押井に多大なる影響を受け、LTFはyamazakiなりのBDへのオマージュである。 と、そういった声もちらほら聞かれる。 あながち間違っていないと思う。 しかしアニメーターから入ったyamazakiには、純演出家で名を馳せた押井程の力量はなかった様である。 BDは難解な映画ではなく、普通に観れば、普通に理解できる物語となっている。 唯一難しそうなところがあるとすれば、しのぶが鈴に翻弄される部分ぐらいであろうが、 初見でも「ああ、妙な世界に彼等が翻弄されるサマを描いているんだ」と普通に解釈する事が出来る。 しかしLTFはある意味未完成作品なので、本当にこのシーンは意味があるのか?とか 力量もないのに、いやに抽象的な表現を多用したりして我々を惑わせるとか 結果カット毎の答えも明確でないなど キチンとBDについて正解を語った押井よかyamazakiには責任感を感じない。 無駄なシーンを多用したお陰で、作品理解に必要なシーンが抜けに抜け落ち、 キャラクター達が発する「確信のない台詞」によって補完される情報の何と多いこと!! ランが消えない理由は? さくら先生の「おそらく・・・」から始まる本当かどうか分からない台詞。 あたるがマラソン前に発する代理戦争の説明台詞「戦争を起こして・・・」コレは最悪であった。 最初の脚本ではこんな説明口調台詞はなく、流れで理解させる手腕であったのに・・・。 映像作品ならば映像で理解させてくれ、魅せてくれ。 本作では面堂としのぶもメインで動いているが、コッチのシーンが印象的でありすぎるため あたるとラムの話が薄まってしまった。 出番順で言えばラム、面堂、しのぶ、あたる、メガネ(同着さくら)と言った所か。 上記にも散々書いたがあたるの影が薄い。BDでは後半パート出ずっぱりで 印象的なカット、台詞も多く「あたるも主役だぜぇ」と面堂とメガネを差し置いての貫禄を見せたが LTFでは戦争勃発後になると、メガネに出番を取られすぎている印象を受ける。 もっと出番を増やしてやるとか、さあ。 大脱走の説明で前半で魅せ、後半で解放させると言ったハズだが そうだ、前半パートであたるがほんの少しでもラムの事を気にするシーンがあれば・・・ 日記のパート以外で考えると、殆どないことがお分かりだろう。 ロクすっぽ気にしないのに、戦争勃発後 息を吹き返したようにラムを想い行動する・・・ そりゃあ 勃発前からラムラムラムラム言いまくっていた面堂やメガネ達の活躍が多いのが分かる。 しかも勃発後空気になったあたるが、ED後のカットでドアップになる。ここすごく違和感。 「LTF」って何なのとなるのは間違いない。そこはラムがドアップになるハズだろう、陰謀のセオリー。 他にも、写真の話も途中で消えたのかとか。テンちゃんアレで終わりか? そんでEDに堂々と登場したあの壊れた時計とは?
作中存在しないものを、映し出す価値は果たしてあるのか
この映画とどう付き合っていくか
散々批判を繰り返したが、やはりTV放送中に公開された最後の作品である事、 また最後の作品になるべき存在だった事、 そしてキャストやスタッフの熱意がガンガン伝わってくるという事。 監督の独りよがりが過ぎたが、ただそれを差し引いてもツマラン駄作と批判出来ようか。 公開後、ソフト販売の際に再編集版とかノーカット版とか ディレクターズカット版とか言って作ってくれなかったのはただただ残念無念に尽きるが やはりこういった題材を使っての作品はLTF(95分)以外存在せず またこれ以上もコレ以下もないと、そう考えて見るべきである。 もはやシナリオ本を読みつつ、脳内で補完し静かに時代を馳せて鑑賞する。これこそが正しい見方となったのだ。 この映画一本単体で観て、傑作とか名作とか言うヤツの気は知れないが そういうやつは酔ってるのか、これまでにないカット間互換性ナシ映画を観て 頭が混乱してパニック状態になっているのだろう。 脳内処理が出来ない=難解な作品、硬派な作品と式が成り立ってしまったのである。 ・・・リアルタイムで鑑賞したファンなら賞賛していいんだろうけど。 ファンへの記念碑的な作品に「しなければならなかった」映画だったが結果は惨敗。 しかしうる星に関わった全ての人間の青春がコレに叩き込まれている事は 例えストーリーを理解できなかった人でもなんとなく心に響いてくるのではないか。 絵は歴代最高レベルであるし、音楽も良い。(特にOP) ストーリーは破綻しているが、 「ラムを忘れるな!」 監督の叫びは痛いほど伝わってくるだろう。 名作とは到底いえないものの、ファンの熱気に応えようとした心意気は買える。 よって労作、力作という評価が出来よう。 これは決して貶すのみの映画ではない。我々が感じるべき感動は 間違いなく
愛 それだけである。ホントメガネいい顔してるぞ