闘病前史というか、まあ病気なようなよくわからない状態なんだな、 糖尿っぽいけどじゃないみたいな。ともかくまた一つ越えた経験をした。 8月上旬、8月4日か、前に書いたと思うけど認知症の婆さんの家行って用事してきたんだよ まあ認知症もだいぶマシになっているけど、やっぱイカれているとこはイカれてんだよね で、外出て用事して疲れて家戻ったワケだ、そうしたら玄関で婆さんブチギレ「お前とんでもないことしてくれたな・・・」 クーラーのリモコンを俺がどこかに隠したから寒くて死にそうだと、で、コンセント引き抜いて止めたと 俺はぶちぎれたね、まずリモコンは婆さんが置いたんだよ、自分で分かりにくいところに。そこでまず俺に否はないんだ で、コンセントを引き抜いて電源切ったという点、そして何より、そのクーラーは俺たちは一二か月前にプレゼントしたものなんだよ クーラー嫌いなんだ婆さんは。だから家にクーラーはない。扇風機しかない。それでも暮らせるっちゃ暮らせるんだ。 でも昨年の状態を考えるとどーも暑い日は弱るんだよ、色々と。だからボケが加速しちゃう なのでクーラー買ったの。俺も金を出した。そこでね、熱い中用事したということもあり、いちゃもんあり金もありってなもんで リモコンぶん投げたりして久々、いや、今まであったかなかったかぐらいに切れたんだ。自分でもカッカしてるのがわかるんだ。 で、しばらくしたら落ち着いてきて、婆さんとも仲良く分かれたんだ。で、帰り道、急に喉が渇いて乾いてしかたがない。 こりゃ帰ったら炭酸ジュースや そーゆー感じでカルピスソーダ飲んだけどのどの渇きがおさまらない。お茶飲んでもまったく。 効いてないっちゅうか、水分が喉素通りしているのかってな感じでのど乾くんだよ。あれーと思ってさ。最初はストレスだと思ったんだけど。 で、晩御飯はカレーなんだ、肉入れて、そこにカルピスソーダにリンゴ酢ね。食って飲んで映画見てた。血桜三兄弟と安藤組襲撃編な、その日に着たヤツ。 8月4日って覚えているのはそのDVDの発売日だから。ね。で、食べた後散歩に行ったの。1時間ぐらいか。で、翌日、昼にラーメンかな、食べて、そうして 夕方股のどが渇くんだよ。そこらへんからさ、これは糖尿じゃねえかと思ったんだ。ネットとかで調べてな。確かに血糖値スパイク的なことは多かった。 数年前に書いた奴でおれはルードヴィッヒ2世みたいなヤツ書いたじゃないですか。大学生ながら昼間に起きて講義ぶっちして、ルードヴィヒ2世見ながら カレー食ってたら眠くなってまた寝たみたいな。血糖値スパイクだよな。で、この数日前にもラーメン食ってすぐ寝たってことがあったんだよね それと座ってたら足がしびれて、その痺れが割に長引いたり、指先がピリピリするとか・・・糖尿じゃないですか。 そういうことでね、一日糖質50g以下に落とし、毎日10キロ歩くということをやったんだよ。そうしたら足とか指のしびれはとれたんだ。のどの渇きも。 ただいつの間にか尿から甘い匂いとか出てんだ、泡も。細かいのな。これはまずいってなもんだけど、一か月たってさ、朝おしっこしたら 臭いがしないんだ。よくみたら泡もないし色も普通。色ってのは、つまり糖尿状態になったら脱水状態になるから尿の色が褐色になるんだ。 で、身体も軽くなった。9月上旬な。あ、これは治ったと思って、また食べる量増やして、でも運動量減らしたんだ。そうしたら9月半ばぐらいにまた 手足のしびれと尿の匂いが戻ってきて、あ、まただと思ってまた食事量減らして運動ですよ。ただ問題なのはリバウンドということ。 最初の状態の俺は平均体重プラス15キロぐらいのやや太り気味タイプね。で、一か月で10キロぐらい痩せたのか。 でまた食べる量増やしたんだけど、しょせん一二キロ増えたって感じなんだよ。だから、太ってる状態から痩せ、は大丈夫だけど やや痩せ状態からまたダイエットはツラいなと思ってね。で、全然尿の感じとか泡とか変わらないんだよ。手足のしびれは治ったけど。 そんで一か月たっても治らないから俺も怖くてね。病院行けばいいのに、ここまできてさ、行くのも怖いしみたいな。バカみたいな話だけどな。 でも一時治ったじゃない、そこを目指すのみだと思ってね。で、寛解したらサイトに糖尿奮闘記みたいなモン書こうとかね。 で、糖質制限と運動でしょう。体がしんどいんだ。どんどんやせてくし。視力もちょっと悪くなった感じあったし・・・。 汚い話だけど風呂にプラスチックの桶あるんだけど、そこに夜な、おしっこしたら褐色で泡がすごいの。で、そこにシャワーかけたら泡がもわーっと。ずーっとそれ。 で、二回目発症二ヶ月たたないぐらい、つまり11月はじめあたりに、俺も決心して検査紙買ったの。蛋白と尿糖分かるやつな。 で、やったらさ、どっちもでないんだよ。え、って思って。なんどやってもなんにもでないの。朝も昼も晩も一回二枚3枚使ったけどなんにも出ない。 匂いはあるし泡もあるのに何にもでない。俺はね、ちょっと笑ってね、「じゃああれは異常体質だな」ってことで終わったんだ。 そしてもしかして俺は糖尿じゃないのかなんてね。 でもそれでも気になるからネットで調べて行ったらさ、多発性骨髄腫ってのに辿り着いた。 顔が真っ青になった。どうもこの病気になると、M蛋白ってのが出て、それは検査紙では判別がつかないんだそうだ。 俺の泡、検査紙では分からない泡、M蛋白。顔真っ青になっても色々調べたよ、そうしたらどんどん俺の症状と合致していく。 俺は糖尿だと思っていただるさ、脱水、痩せ・・・そう、一か月で十キロ近く痩せるなんて普通じゃないわな。 この多発性骨髄腫って病気、治らない。血液のがんなんだ。どんどん骨がもろくなっていくという病気。現時点で最長余命は20年。 5年後生存率80%。それはステージ1の場合。つまり症状のないうちに見つかった場合。でも症状が出てからの発見は50%・・・ もうね、俺は絶対この病気だと思った。この病気は8割がたが65歳以上発症なんだ。で30代とかってのは稀なケース。で20代もごくまれにいるんだそうだ。 俺がそれだと思ったね。毎年5000人がこの病気になり、毎年同数近くが死ぬ。20代の発症は毎年10人いるか、いや、もしかすると1人いるかどうかも分からない そんな可能性ながら俺は確信していた。だっておしっこ変なのに糖尿じゃないんだぜ?泡出てるのに検査紙にひっかからないんだぜ? その時思ったのは大文字山頂で割腹未遂なんてやる奴がこの極めて稀な病気にかかること、その必然性の話。 毎年一人いるか二人いるかという20代での発症、昨年の俺の冒険を交えると、あながち俺じゃないと言えないということ。選ばれし者がまた選ばれたということ。 高齢だから死ぬのか、若いヤツの癌はやばいのか、色々かんがえた。ブログを読みまくった。アメブロ。金がかかる。入院一か月二ヶ月。抗がん剤。 いちばん人気の人はいま19年選手。その人でも骨の事を考えてあまり歩かないらしい。30代の女性タレントもかかった。子供のいる人もいる。 女装する男性もいる・・・俺もそこに入るのか。最初はつらかった。でもその辛さ、俺個人の辛さはどうでもよかった、問題は家族。 何よりも母、俺は全人類、特に男はマザコンだと思うけど、やっぱ俺はマザコンやなと思ったね。泣けて泣けてしようがなかった。 俺は湿っぽいの嫌だから俺個人はどうでもいいんだ。でも親はね・・・。11月11日に病院行くまでの一週間、俺から食欲は消えうせ、表情もない。 俺は自殺未遂前の感覚を思い出したよ。一緒に過ごすこと、その時何にも考えられないというかね、色々とぼーっとしちゃうんだ。 でも離人症、つまり悟りの状態にはいかなかった。俺は思うに、あれだね、やっぱり自殺は楽なんだよ。自分の事だけ考えればいいから。 で、死んだら終わりって考え方だしね。死んだらどこいくんだろうと、そういうファンタジーなんだ。 でも余命宣告はそうじゃない。生きながらにして死ぬんだから、もっとつらい。現実逃避はできない。だから離人症にならなかった。 だから家族との接触はどこか物悲しかったね。問題はいつこの病気の事を言うかってコト。匂わせた方がダメージは少ないのかとかね。 日本のいちばん長い日で阿南が生きることは死ぬことよりもっと辛いといった意味が分かったよ。 11日、病院に行った。腎臓内科。尿検査。俺はどこか、あの検査紙が全部イカれている可能性を信じた。糖尿ですと言われた方がマシだった。当然。というか糖尿って言われたかった。 もっと言えば透析でもいいとも。アレよりかは・・・ってこと。で、結果、何にも出なかった。俺は絶望した。あ、糖尿では絶対ないんだ。 絶対骨髄腫だ。先生にM蛋白を調べてくださいと新劇俳優みたいな暗い感じで言った。結果、一週間後に結果が出るという。血液検査もした。 この日の検査で糖尿じゃなかったのは俺にとって死刑宣告みたいなもんだった。帰り道は寒かったが太陽が雲を照らし、黄泉の国が見えたよ。お迎えだな、と思った。 ただおかしかったのはね、その病院年寄りばっかり来てんだよ。平日午前だから当然かな。還暦越えばかりのヤツ。俺はお前らまだ長生きしたいのか みたいなこと思ったね。だって多分俺20代で死ぬぜ、みたいな。受付でキレまくってる年寄り見たときはすごい滑稽に思ったよ、人生そのものが。 で、私事だけど確執から何年も会ってない親父の家に行ったんだよ、その日に。俺に何かあったら家族を頼む・・・みたいな感じだな。 でも会ったら極めて、明るくてね、そんなお願い事もせずすぐ帰ったけど、ま、久々に会えてよかったって感じだな。 地元の人とも久々に会ってね。ただ次俺の事を知るのは一週間後、俺が癌だということを告知されてからだろうなと考えたらまた悲しくなった。 その家で確執ゆえ死に目を見れなかったお祖父さんとお婆さんのお姉さんの遺影に手を合わせたんだ。昨年の12月にお祖父さん、今年の6月にお婆さん。 どちらも90歳ぐらい。俺はその年まで生きられないんだろなと・・・ただ遺影を見たら泣けて泣けて仕方がなかった。最後に会った日の事を覚えてなかったのがまた悲しい。 この一週間が勝負だと思った。俺の気持ちを落ち着けるのを。俺は決めた。まず、病気告知されたらyoutuberになると。チャンネル名は骨髄王。 20代の珍しい病気ということで、そして極めて辛気臭い湿っぽい病気、かつ癌ということで、ガン仲間を元気づけようと俺は一肌脱いで3日に一回色んなことを話まくるという奴だ。 これは生きる証を家族に残したいというのもあり、湿っぽいのが嫌いということもあり、何にせよラフに自虐的にしゃべりまくろうということだ。 ブログもやろうと、アメブロな。ただこのサイトはもうかけないだろうと。やっぱりね、バカなこと描けるってのは余裕があるから。 ただ余命宣告受けたらもうね、半分はあっちにいっているんだから、書けませんよ。俗世の俗っぽい感情は。 そして・・・あと4日位って時にはね、もう開き直ったんだ。この開き直りは俺の人生にとって有意義なものだった。 つまり俺の最大の問題ごとは俺じゃなく、俺の家族。家族がどうするか。それだけだった。でもそれがどうでもよくなった。 信頼するというのか、つまり、向こうの事は向こうにすべてお任せするということ。なんで俺がこんなに俺でないことで 悩んで辛くなるんだ、そういう開き直り。もうね、だから病気を匂わせるのもやめた。向こうの感情は向こうでどうとでもしてくれってこと。 この開き直りは俺にとって強かった。だからその時には緊張とストレスでのドキドキも辛さもなくなっていた。 11月18日。気負いはなかった。既に病気でも病気でなくてもどうでもよかった。病気になってからの事は散々考えまくったしやることもあるんで、辛いけどなんとかなるということ。 で、内科。まず最初、先生、女の先生な、「前に言われた骨髄腫の病気ですが、確かにM蛋白とかが出るんです」 それを聞いて、あ、そうか、終わったな、と思った。でも「検査の結果、出てなかった」血液検査も問題なし 俺はため息を何度も出して、先生の話を最後まで聞き終わる前に、右手を出して、握手を求めた、握手をした。俺は涙目で先生をみた。 それがすべてだ。この3か月の。会計を30分待ったが、検査結果だけだったから無料だった。本当かどうかは知らない。 朝、曇っていた。帰るころ、カンカン照り。俺は誤診でもいいと思った。本当のことを告知されるまでの時間を大事にすることだ。 俺は食うようになった。すると体のだるさもなくなり、視力も戻り、脱水もなくなった。俺はやっぱ炭水化物は抜けないね。 すごいスピードで痩せまくったからこうなったのか。極端から極端に走るからこうなったのか。実際中性脂肪とコレステロールは基準からかなり低かった。そら体調悪いわ。 俺の予想だが、やはりもともと血糖値が高いというのもあったが 婆さんとの決闘で血圧が急激にグンと上がったのだ。一時的に。だからこその喉の渇き。しかし糖尿ではなかったんじゃないか。 糖尿でないのに極端な糖質制限に運動、色々なことがあって尿の異変ということだ。未だに尿に泡は出るが、俺はもう気にしていない。 続く 追記(でももしかしたら膀胱炎とかそれっぽいんだよね。また病院行きますわ)
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